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2010-11-23

[]日々雑感101123 19:20 日々雑感101123を含むブックマーク

ここ半年ほど、まったくヤルキナッソスだったのだけど、あちこちで細々としたメモは書いていたので、お蔵出しなどしてみるテスト

[][][][]みんな大好きな戦争――世界内戦における現代ファンタジー的想像力についての備忘録 19:21 みんな大好きな戦争――世界内戦における現代ファンタジー的想像力についての備忘録を含むブックマーク

初出2010年6月ごろ。

カール・シュミットパルチザンの理論」で、現代ファンタジーのうち、特に絆と世界内戦的状況に重点をおいたものを語ってみるためのメモ。われながらこじつけが過ぎると思うが、誰かの思考の肥やしにでもなれば幸いです。

本文

現代ファンタジーあるいは現代伝奇などと云われる想像力というのは、まずその核心に「中心対周縁」の対立構造をもって現れた。それは大きな物語とそれに包摂されないものという対立関係であり、周縁から中心へと、日常を異化する「不気味なもの」の侵攻という構図をとった。だが、後期近代における社会の脱呪術化がもたらした「平坦な日常」――すなわち極限まで周縁的なるものが排除された世界観は、その「中心対周縁」という構図を無効化した。

しかしながら「平坦な日常」は、その必然として「中心」が存在したがゆえの求心力を失い、分断され、衰退しつつある。そこにおいて世界の連続性は失われ、それぞれの実存が抜身で他者と対峙する情況が発生する。そこで立ち現れるのが、日常レベルでの決断主義であり、それが生み出す個人レベルでの例外状態と政治的ロマン主義への傾倒だ。それぞれがそれぞれの中心としてあるとき、周縁は「他者」の形をとって再度復活し、それと関わりあうとき、闘争と「不気味なもの」は世界において全面化する。それこそが「世界内戦」と呼ぶべき状況だ。

そして、そのような世界内戦のパルチザン闘争を先取りする想像力の文学として、現代学園異能が存在する。

現代学園異能の主人公は、学園共同体というラウム(圏)を守るために、その外側から訪れる脅威と「全面的」な友=敵関係のもと、遊撃性・不正規性の象徴である「異能」をもって闘う。そして彼らは正規の戦闘員の特権を――法規によって保証される権利を持たず、常に自らの主体性を自らの生で贖わねばならない立場にある。これらはすべて、カール・シュミットが「パルチザンの理論」において指し示したパルチザンの特性である。

しかしながら、パルチザンとはラウムに根ざした存在である。主人公たちの、学園共同体というラウムに根ざした闘争が、スケールアップして他のシステムと結合されたとき、主人公たちはパルチザンでありながらそのラウムに依拠しない存在となる。ラウムを超越した普遍理念への実存の企投は、自己の本来拠って立つべきラウム的秩序からの逸脱と疎外をもたらすのだ。

そして、学園共同体というラウムはその場所性ではなく共同性にこそ根拠をおくものであるので、異能パルチザン戦士たちはみな共同性の発露たる「絆」を必要とする。絆がなくなれば根拠がなくなり、非主体化する――ゆえに現代学園異能の主人公は自らを主人公/主体として維持するために、絆と共になければならない。

かくして、主体を持つプレイヤーは、みなそれぞれに自らのラウムを守るためのパルチザンとなるか、より大きなものに自らの主体性を預けて本来あるべきラウムから疎外された存在となるか、それさえもなくただ自己一身をもって世界と相対する根源的な意味でのテロリストとして描かれることになる。

だが、もうひとつの可能性もある。それはラウムの性質の変化に由来するものだ。ラウム=「圏」。生活圏・生存圏・公共圏……現在のラウムは極めて強くコミュニケーションにその主体を置くが故に、シュミット的な意味でのラウムとかけ離れた――すなわち中間共同体としての土地生活圏・土地共同体ではなく、ノマド的な人々がネットを通じてリゾーム的につながるラウムが形成されつつある。パルチザン的主体にとっての世界内戦は、そのようなものたちの全面的かつ全正面的な対決の相として表れるだろう。

このような構図をまとめて取り込んでいる作品として、例えばダブルクロスTRPG)辺りを指し示すことができる。ダブルクロスにおいては、主人公の主体性と非主体性の両義的ありかた――UGNやファルスハーツといった組織の末端でありながら、同時に絆によって構成されたラウムをその存在根拠とし、それを失うと非主体化するという仕組みがシステム化されている。これは大変示唆的な事柄に思える。

余談

単純なコミュニタリアニズムが失敗する件についてすこしばかりメモ。全的共同体を求める心性は、すなわち本来「友=敵」関係の「友」であるはずの、絆によって結ばれた仲間たちにすら他者=敵性を見出させ、「不気味なもの」を現出させる原因となりうる。それは例えば赤軍派の総括のような状況を生起させる。だから、全的共同体を求めるということの困難――あえていえば不可能性を認識した上で、なおも「友」であるためには何をすればよいかということが問題として立ち上がってくる。ここをしくじると麻生俊平「ミュートスノート戦記」みたいなアレげな――自己の無謬性とコミュニケーションの透明性を特権的に担保された絵空事じみた話になってしまうので注意が必要だ。

tukinohatukinoha 2010/11/24 01:20 シュミットというか、ベネディクト・アンダーソンをどう読むか、みたいな話だと理解しました。
アンダーソンにとって「想像の共同体」はネイションの領域と一致していますが、現代では人々が帰属する「想像の共同体」はネイションをまたがる形で複数存在し、中心が存在しなくなってしまっている。だからこそ、もういちどネイションと「想像の共同体」を一致させようとする運動が出てくるのだ・・・・・という話が、たとえばアルジュン・アパドゥライ『グローバリゼーションと暴力』などに書かれています。アパドゥライにとって「想像の共同体」の脱中心化は、非ネイション的なテロリズムの温床であると同時に、非ネイション的な普遍的価値を求めるNGO運動の前提でもあり、と多義的に捉えられているのですが、これも辺見さんの議論とだいたい一致している。

現代学園異能、というのがどのような作品を指しているのかよくわからないのですが、旧来の伝奇が「中心対周縁」の構図を取っていた、というのは何となくわかります。その場合、中心はやっぱり天皇になるのでしょうか?だとすると、周縁は天皇中心の国民国家から疎外された人々、ということになるわけですが、それってまさに周縁をエッジとした国民国家の再生産、と言えなくもない。

crow_henmicrow_henmi 2010/11/24 02:05 コメントありがとうございます。
まずは、ぼくの世界内戦意識はグローバリゼーションがその限界として突き当たっている「南北格差」「文明の衝突」辺りの概念を踏まえずに、後期近代・西欧的社会秩序が、その解体にともなって現前するであろうひとつの可能性のみを極端に拡張したものであり、なおかつシュミットの理論を法・社会的な領域のみならず実存的な領域に援用するということで、かなり無理があるとは思っています。ある種の思考実験とか独自研究ですね。これについては12月に限界研の本が出るので、参照して認識の訂正を図りたいと思います。また、アンダーソンについては重点摂取目標ですし、先行で類似の議論がなされているということであれば、なんとか参照したいところではあります。
それはさておき、疑問についてですが、現代学園異能についてはhttp://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20060409#1144603639において定義した概念を基本として考えています。そして「中心と周縁」についてですが、中心とは「大きな物語」「第三者の審級」などと呼ばれるネーションレベルでの想像体装置、または前期近代社会における国民国家にあたり、そこから想像力的にも実体的にも秩序化された構造が広がって「ぼくら」という主体をそれぞれに包摂しているものであり、そして周縁とはそこから疎外されたものすべてとしてお考えください。そういうわけで、特に「天皇」や「天皇制」に限定されたものではないですが、それらと親和性のある概念であるのはいうまでもありませんね。
ですが、このように、各人が己自身を自らのセカイの中心となさねばならない情況が発生したとき、それは坂口安吾風にいうなら「己自身の天皇を発見する」ための「堕落」を必要とする――すなわち自己の本質を徹底して問い直す主体としての生き方を要求されるのではないか、などとも思います。