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2010-12-08

[]コヴェントリー・ジレンマから考えるTRPGの遊戯としての可能性 17:51 コヴェントリー・ジレンマから考えるTRPGの遊戯としての可能性を含むブックマーク

序文

岡和田晃氏が主催するAGSというゲーム批評blogにおいて公開された「傷だらけの偉大な負け組に捧ぐ:「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?」というエントリについて、主に倫理的問題から対論を展開してみたい。

このエントリにおいては、ある種の英雄像――すなわちある事態において、事態に関わる全員が救われるように行動し、それに成功する者と対置して、ある事態において限定的なリソースしか持たないがゆえ、常に誰かを犠牲にすることでしか他の誰かを救えないという無力さを抱えつつも、なお最善を尽くし犠牲者の死を背負ってゆく者の姿を指し示し、それを称揚しているように、ぼくには思える。それは基本的に了解可能な概念であり、多くの人達がそのような人物像に学び得るだろう。特に、有限のリソースしか持たずにゲームに向かうプレイヤーたちが、目的達成のため「何を切り捨て、何を取るべきか」という決断をする際に、ロールモデルとして有効に働くと思える。

しかしながら、そこにおけるロールモデルの有効性は、実のところTRPGというゲーム分野におけるひとつのアスペクトに過ぎない。そこにおいて指し示された倫理的な問題とそれへの回答は、あくまでひとつの回答に過ぎない。オルタナティブなロールプレイ、オルタナティブ倫理的回答は常に存在している。それゆえ、本稿においては、視点を変えることにより、これらオルタナティブな側面や回答について触れ、TRPG倫理ロールモデルに関する概念にいささかのバリエーションを加えていきたいと思う。

本文

コヴェントリー・ジレンマに潜む罠

まずは、上述エントリーにおいて「宿題」として提示された「コヴェントリー・ジレンマ」について、倫理的な検討を加えていくこととしよう。このジレンマは上述エントリーの問題意識を現前化させたものであり、その限界をも指し示すものであるからだ。

では、コヴェントリー・ジレンマとは何か。ここで上述エントリーからの引用で説明に変えさせてもらう。

第二次世界大戦に関してこんな話がある。それは「コベントリー・ジレンマ(Coventry Dilemma)」と呼ばれる(じつは架空の話だが戦略学や軍事史での模範問題となっている)エピソードだ。かいつまんで言うと、大戦中のイギリス首相ウィンストン・チャーチルドイツ軍暗号を解読した情報部から、イギリスの都市コベントリー(戦略上の価値は低いが、数万人の市民が住む町)がドイツ空軍に爆撃される予定にあると知らされた。ここからあるジレンマが生まれる。

チャーチルには二つの選択肢があった。

それぞれの選択のメリット、デメリットはこうだ。A)を採用すればコベントリーは防衛できようが、ドイツ軍は自分の暗号が解読されたと察知して暗号を変えるかもしれない。そうなればチャーチルは敵を打ち破る上で必要な情報を得られなくなり、結果として戦いは長引き数十数百万のイギリス国民が死傷する。しかしB)を選択すればコベントリーは爆撃されて数万人の市民が死傷する。最終的にドイツを打倒しても、コベントリーを見捨てたという事実はぬぐえない。

いずれの選択を取ろうが、チャーチルが後世にこう非難されるのは免れない。「裏切り者め、国民を敵に売りわたした悪党め」と。ちなみに他の選択肢は(国内外の事情から)不可とする。

さあ、今からあなたはチャーチルだ。ドイツ爆撃機は刻一刻と迫ってくる。大勢の部下があなたの命令を今か今かと待っている。決断をするのはあなたの、あなただけの義務であり裁量だ。イギリス市民の安全はあなたの指示一つに懸かっている。さあ、平和と未来のためにどちらの選択肢を選ぼうか。

この問題にはふたつの罠がある。まずそれを説明していこう。

まず、この問題を提示されたものの多くはBの選択肢を選ぶ。何故なら、Bの選択肢のほうが最終的に犠牲者を少なくするものであり、それは最大多数の最大幸福という功利主義の原則に適っているからである。ぼくも功利主義者であるので、どちらかを否応もなく選択させられるとするならばBの選択肢を選ぶだろう――選ばざるを得ない。

だが、そこで前提される「正義」としての「功利主義」を厳密に適応するならば、実のところこれは「いずれも誤答――すなわち正義にかなっていない」といえる。いずれもマイナスの結果を発生させる選択を強要されている時点でチャーチル=わたしの善性に対する背信は明らかであり、ここで行えるのは「せめて損害を最小限に抑えることで邪悪の増大を防ぐ」ことでしかない。これがひとつめの罠である。

さらに、この設問には「どちらかが正答――すなわち正義である」というニュアンスが含まれている。結果としてAは誤答、Bは正答として認識されがちである――実際はいずれも正義に適っていないにも関わらず。そしてそのような認識が、ごく自然に「小の虫を殺して大の虫を生かす」ことを無批判に是認するロールモデルへと繋がっていく危険性というものを孕んでいる。「世界に対して有限のリソースしか持たないわれわれは、その有限の範囲内でしか行動できない」という現実が「所詮人間は有限な存在なんだから、何かを行う際に犠牲を払うのは「当然」だ」という認識へとすり替わる。それがコヴェントリー・ジレンマに潜むふたつめの罠であり、功利主義者が容易に人間普遍の権利や倫理を踏みにじることを許容するロジックである。*1

これらの罠を食い破り、自らの正義を貫徹するためにはいかにすべきか。それは前提条件自体を疑い、問いを脱構築することによってのみしか行えない。では、具体的にはどうなのか、次項以降の文章においてそれを説明することとしよう。

罠をいかにして食い破るか(1)――マネジメントによる限定性の縮減

コヴェントリー・ジレンマの冷たい罠を食い破り、本来の正義に立ち返るにはどうすればいいだろうか。ぼくは概ね3つの方法を考えているが、まず「マネジメント」という方面から考えてみたい。

ここでいうマネジメントとは、プレイヤーの所有するリソースを効率的に管理するとともに増大させることを指す。これにより、プレイヤーの限定性は縮減され、より多くの選択肢が現前し、コヴェントリー・ジレンマのような「自らの限定性により、いずれも偽である回答を要求される」事態を回避しうる確率が増大する。コヴェントリー・ジレンマを例に取るならば、プレイヤーの事前のアクションにより「防衛網の効率化と航空機生産能力の強化により、コヴェントリー方面に追加の飛行隊をあらかじめ保有していることで、秘密情報に頼らない迎撃体制を構築している」「暗号解読の進歩により、ドイツの従来型暗号が変更されても対応可能であるが故に、コヴェントリー迎撃機を出しても国家的損失にはならない」などというような状態を創りだすことがそれに当たる。

しかし、この手段ではコヴェントリー・ジレンマのような情況を事前に回避することは可能でも、すでに現前しているジレンマに対しては対応が不可能である。そこで、第2の手段――正義の相対性・可換性を用いたロールモデルの変更が立ち現れるのだ。

罠をいかにして食い破るか(2)――正義の相対性・可換性

そもそも、コヴェントリー・ジレンマにおいて我々が選択しがちな「功利主義」という価値基準は、普遍的な正義の審級の一部分に過ぎない。むしろ、我々の正義の審級の大部分を占めるのは、ヨーロッパ的普遍主義価値観に基づく人文主義であり、功利主義とはその前提のもとで用いられるものだといえよう。コヴェントリー・ジレンマとは、そのような通常時の正義が立ちいかなくなったときに現れる「例外状態」で、むき出しの功利主義的判断が前景化したときに行われる「決断」であり、それゆえに「どちらも悪であるがゆえに選びがたい」ジレンマとして成立し、またそれが「例外状態」での「決断」であることから、通常状態で過度にそうした基準を濫用することが悪とされるのだ。

しかし――正義とは相対的であり、可換性が存在する。ヨーロッパ的普遍主義における普遍法と人文主義の伝統はたしかにひとつの正義として成熟し、半ば自明のものとして受け止められているが、それが例外状態を包含すること自体が、すでにしてその正義の絶対性を否定している。

であるならば――なにも判断基準としての功利主義人文主義に固執する必要はない。例えばコヴェントリー・ジレンマにおいて、あなた=チャーチルナチス信奉者なら、即刻ドイツに降伏することこそが正義になるだろう。コヴェントリーの爆撃を阻止するか看過するかなどは、いずれも全く重要な問題ではなくなる。また、あなたが史実のチャーチルのようなロールモデルを取るならば、自由主義英国の最終的勝利のためにコヴェントリー爆撃を看過するのは自明の理となり、人文主義的な悩みなど一切気にせずに済む。貫徹すべき正義――この曖昧なものを都合のいいように交換することにより、我々はずいぶんと自由になり、多くの選択肢を手に入れ得るのだ。

罠をいかに食い破るか(3)――新たな函数の導入

とはいうものの、価値観を都合に合わせて切り替えるというのは半ば反則である。また、経験や文化的素地から構築されている強固な価値観、あるいはゲーム的にあらかじめ設定されているロールモデルなどを交換することは困難という場合もある。そこで、ジレンマ内部に新たな函数を導入することによりジレンマ自体の解消を図る、という第3の手段を提案したい。例えば「コヴェントリーのような非軍事地域に対する恐怖爆撃は国際法違反であり、このような行為は国際世論の反発と米国の早期参戦を招く」という函数を導入すれば、ドイツとしてはコヴェントリー爆撃を躊躇せざるを得なくなり、結果としてコヴェントリー・ジレンマ自体が発生しなくなる可能性がある。*2

これはこちらのジレンマを解消するとともに、場合によっては敵手にジレンマを突きつけ得るという点で、二重に有効な手段である。そしてここにおける函数は、情況そのものに潜在的に存在しており、それをプレイヤーが発掘し有効活用することで初めて導入される――先の例で云えば「非武装地帯爆撃に対しては、その暴虐を国際社会米国世論に喧伝し、ドイツ外交的に追い込むという脅迫を行う」というプレイヤーのアクションによって立ち現れるものであるがゆえに、ゲーム的な意思決定と十分に相いれるものであると云えよう。

コヴェントリー・ジレンマとその脱構築から得られるTRPG的指針

さて、このように、本来のコヴェントリー・ジレンマについてさんざんあやを付けた挙句、それを様々な方向から脱構築せんと謀ったのだが、これについては理由がある。先述のエントリーで上げられていた英雄像のロールモデルは、あくまでリソースの増大や函数の出し入れが制限されたゲーム形式におけるモデルであり、それはリソース増大や函数の出し入れが比較的容易なTRPGというジャンルにはいささかそぐわないと云えるからだ。

無論、TRPGにおいてもリソース増大が無制限に行えるわけではなく、プレイヤーはジレンマに陥ることはままあるだろう。また、ロールモデルを変更することによってジレンマを解決しようとしても、あらかじめ決められた設定とハンドアウトがそれを阻害することもあるだろう。そして、なによりもプレイヤーはマスターと対話して情況の脱構築を勝ち取っていかねばならないだろう。しかしながら、そこにある「柔軟性」は、あらかじめ条件が定められている「コヴェントリー・ジレンマ」的な硬直性とは正反対に属するものであり、創造的チャンスの広がっている遊戯空間であるということは、強調しておいても良いのではないだろうか。

そして、その創造的チャンスのもとで、プレイヤーはマスターとの対話によるゲーミングを通じて、新たな情況と秩序を構築していくことが可能である。例えば、当初予定されていたシナリオが村を脅かすゴブリン退治というミッションだったとしよう。そこに存在する函数は「村」「村を襲うゴブリン」「プレイヤーへのハンドアウト(村からの依頼)」であるが、そこにマスターとの熟議のもと、マネジメントロールモデルによるリソース増大や新しい函数を組み込むことにより「双方が共存できるリソースを提供することで、ゴブリンと村の間に平和協定を結ばせる」「「混沌」という「正義」のロールモデルを導入することで、「混沌」の信徒であるゴブリンと通謀して村を襲い混沌の領域を拡大する」「村とゴブリンの対立関係の外側にある「共通の敵」を新たな函数として組み込むことで村とゴブリンに同盟関係を結ばせる」などといった選択肢が立ち現れる。ここにおいてTRPGは単なるシナリオの目的達成型ゲームではなく、メタゲームとしての「物語生成」――すなわちプレイヤーが獲得する/マスターが与えるリソース函数によってどのような物語を創りだしていくかを競いあう/共同していくゲーミングを含む重層的なゲーム体験へと発展していくのだ。

*1:先述エントリーでは第2の罠に陥らないよう、十分な配慮がなされているように思えるが、それでもなお、読み違えるものはいるので、老婆心ながら補記した次第である。

*2:史実における近い例では、英国を締め上げるために強力に働くであろう無制限潜水艦作戦に対し、ヒトラーが同様の理由から躊躇したことが挙げられる。