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2010-12-12

[]自己の限定性との対峙――あるいは「罪」と「赦し」について 05:30 自己の限定性との対峙――あるいは「罪」と「赦し」についてを含むブックマーク

序文

このエントリーは、主にTRPGというジャンルにおける意思決定と倫理について先にupしたコヴェントリー・ジレンマから考えるTRPGの遊戯としての可能性の続編であり、AGS「傷だらけの偉大な負け組に捧ぐ:「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?」及び、「戦略の迷走:『空の境界』と『キラーエンジェルズ』の場合」への補論として書かれたものである。

このエントリーにおいては、主にTRPGにおけるプレイヤーの意思決定について語っているが、その方向性は人間一般の意思決定に関わる倫理にもある程度敷衍しうることを織り込んでいる。TRPGというジャンルについてご存じない方も、ある種の意思決定に対しての倫理性を語ったエントリとして読んでいただければ幸甚である。

本文

意思決定の時間性、あるいは限定性の回避について

まずは、人間の意思決定というものがどのような時間性に縛られているかについて、自分なりの見解を述べてみよう。

先のエントリーで、コヴェントリー・ジレンマについてのいくつかの脱構築案を提案したのだが、そのすべてが設問の情況の外側に脱構築の視点を持つものであった。これには明確な理由がある。というのも、ある意思決定はその前段階の準備という意思決定によって限定されるからだ。そして前段階の意思決定も、さらに前段階の意思決定によって限定されている。我々は常に「以前の意思決定」によって限定された状況下でしか現在の意思決定を行うことができない。*1

つまり、ある意思決定段階における多くのジレンマや詰みという情況は、まさにそれ以前の意思決定によって生じた限定性故に、その局面において十分なリソース函数を用意出来ていない故に生じる、ということだ。

例えば、ナチスドイツソ連侵攻「バルバロッサ作戦」においてドイツが勝利し得なかったのは、それ以前の意思決定――対ソ戦に向けた軍需生産拡大の不足や兵站計画の杜撰さなどに多くを依拠している。あるいは、ゲティスバーグでの南軍の敗北は、会戦3日目の北軍中央部への無謀な突撃にあるとされるが、その無謀な突撃を招いたのは、1日目でユーウェル軍団が北軍右翼を突破可能であるにもかかわらず躊躇し、北軍にゲティスバーグでの防御を可能ならしめたこと、それによって生じた会戦2日目において、北軍左翼を攻撃するというリーの意思決定に対し、南軍右翼を指揮するロングストリートが反対し、半ばサボタージュめいた戦闘準備の遅延を引き起こしたため、結果として北軍左翼を突破し得なかったことなどの意思決定上の失敗が積み重なり、勝利のためには半ば無謀な中央突撃しか選択肢が残されていない状態になったからである、といえる。3日目のリーとロングストリートの激論は史実において有名だが、すでにこの時、1日目と2日目の失敗によって勝利の目はほぼ完全に消えていたのだ。

このような限定性が、中長期的な見通しによる段階戦略を必要とすることの根拠となる。つまり、最終目的を達成するための意思決定の際に、必要なリソース函数をそろえておくため、そこから逆算して可能なかぎりの準備を行い、正しくかつ有効な意思決定を行うことが必要であるといえるのだ。

先の例で云えば、ドイツ軍バルバロッサ作戦の目的であるソビエトの撃滅のため、その最終決戦ラインとなるアルハンゲリスクアストラハン線まで到達するために必要なリソース函数を、1940年の段階から蓄積/用意しておくべきであったし、その後の作戦段階においても、常にそのリソースが最適に用いられるよう兵站計画と運用を徹底すべきであった、ということになる。また、ゲティスバーグにおいては、1日目の攻撃失敗の原因になったユーウェルへの行動制限をもっと柔軟なものにしておく、あるいは2日目においてロングストリートの独断癖が生み出したサボタージュを阻止するための何らかの手を、それ以前に打っておく必要があった、ということになるだろう。*2

ちなみに、これを時間的連続性から時間的並列性に開くと累積戦略となるが、いずれにせよ最終目的達成のために、それに先んずる意思決定によって最終目的達成のための意思決定可能性を担保するという構造には変わりはない。

絶対的な限定性との対峙(1)――罪と赦しの相補関係

しかし、それらは中長期的な意思決定の連鎖をグランドデザインできる立場の存在においては義務とすら云えるが、そのような高度な権限や手段を持たない、既に決定された事柄に基づいて現場の意思決定を行わねばならぬ存在――バルバロッサ作戦においてモスクワ攻略に失敗したドイツ軍前線指揮官たち、あるいはゲティスバーグで自らの率いる部隊を壊滅させてしまったアーミステッド准将など――や、そもそも最終目的達成のためのハードルが高すぎて、例え順次戦略の各家庭で最適の決断を選んだとしても、その過程で多くの罪過を甘んじて受けとめねばならない――南軍におけるリー将軍のような立場の人間にとってはなんの役にも立たない。彼らは往々にして、既に決定された過ちのもと、ジレンマに晒されながら、高すぎる目標に向かい、これまでの犠牲の価値を問いながら、それでもなお「意思決定」せねばならない。その結果がいずれにせよ悪であろうとも、選ばないということは不可能なのだ――いや、選ばないということすらその現状における意思決定とされてしまうような限定性に晒されてしまうのだ。

このような存在は「いずれも悪である決断を迫られ、それを否応もなく引き受けさせられる」ものであり、そこにおいて倫理的責任を問うのは過酷に過ぎる。ゆえに、そこにおいては「緊急避難」などの論理が介在し、彼らを「悪であることを押し付けられた/引き受けさせられたもの」であるがゆえに赦すという処理がなされる。彼らは望んで悪を犯したものでないが故に、その悪の責任は別の場所で既に決定されたこと/決定したものにあり、それゆえに彼ら自身は許されなければならないのだという論理がそこにある。

もしこの「赦し」がなければ、世界の限定性に翻弄される我々ひとりひとりはすべて悪であり、断罪されるべきものとなるだろう。むろんこの「赦し」は、個人レベルでの意思決定において相応の努力を行った人間のみに与えられるべきものであり、無制限ではないが、それでもなお、我々にとって大きな救いとして存在している。

故に。もしTRPGにおいてマスターが「既に決定された情況」に基づいて決定的なジレンマをプレイヤー/キャラクターに突きつけるのであれば、それに対する「赦し」をどこかにおいておかねばならない。そしてプレイヤーが苦悩の果てに選択したことに対する返礼として、その選択に見合った「赦し」を与えなければならない。それがないジレンマの提示は、単にプレイヤーに不快と無力感を与え、モチベーション的にも道義的にも退廃した態度へと容易に頽落させてしまうだろう。

あるいは。ジレンマそのものを飲み込み、悪を自らに引き受け、その罪を自覚しながらも、赦されることなく我が道を進み続ける覚悟と態度というものを、ロールモデルとしてプレイヤーが引き受けることもありうるかもしれない。しかしそれを「強制」してはならない。もし強制すれば、それはやはりプレイヤーのモチベーションと道義に悪影響をおよぼすだろうからだ。

絶対的な限定性との対峙(2)――世界精神型悪役の現前

このような前提を置いたとき/あるいはあえて悪を引き受けることをプレイヤーが望んだ時、初めて行える物語ジャンルとして「世界精神型」悪役が駆動するシナリオがある。

世界精神型悪役とは、伊藤計劃によると次のように定義される。

世界精神型の悪役とは何か。世界、とは我々の世界でもあり、また映画の説話全体でもある。そして映画を監督が支配する(ということにしておいてください)以上、世界精神型の悪役という言葉は、監督が創造した世界の代弁者もしくは映画そのものの演出家という審級を与えられることになる。映画そのものを演出する映画内キャラクター。つまりは映画内における監督のキャラクター化だ。

(中略)

世界に認識の変革を迫るヴィジョンを演出することで、ある事物の本質を抉り出すことそのものを目的とし、どんな現世利益的な欲も動機や目的にはしない、そんな悪役。世界を支配するのでもなく、政治的な目標を達成するのでもなく、金をもうけるのでもなく、ただある世界観を「われわれ」の世界観に暴力的に上書きする時間を演出する、それだけを目的とした悪役たち。それが「世界精神(ヴェルト・ガイスト)型」の悪役(というか、敵役、と言ったほうがいいのかもね)だ。

(中略)

ある物事を主人公たちに見せつけることそのものを目的とし、その見せ付ける過程が映画になってゆく、そんな悪役を「世界精神型」と呼ぶ。

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20070702#p1

「セブン」モーガン・フリーマン演じるサマセットがブラッド・ピットに言う。われわれ(刑事)は、ただ証拠品を集め、証言を集め、整理してファイルし、あるかもしれない裁判を待つだけだ、と。「セブン」はただ、ジョン・ドウが死体を使って描き出す世界像の現場を、刑事達がひとつひとつ見てゆくだけの映画だ。あの映画にアクションは無い。主人公達が物語を動かす余地はゼロだ。物語は世界精神たるジョン・ドウによってすでに用意されており、主人公達はそれを見て観客に報告する狂言回しとならざるを得ない。主人公らは単なる観察者でしかなく、「世界」に関わろうとしても世界はただ見つめることだけを強要し、見つめることで主人公達の人生はねじまげられてゆく。

(中略)

「世界」を前に、人間はいかにも小さい。世界が悪意として立ちふさがったとき、人間の人生はいともたやすく捻じ曲げられてゆく。

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20070710#p2

このような悪役によって駆動されるシナリオは、プレイヤーの意思決定をことごとく無効化し、マスターの提示する世界観の観客という立場に固定してしまう。そして「すでにすべてが決定されており、プレイヤー/キャラクターの行動はことごとく手遅れであり、ジレンマの果てにいずれにせよ悪を背負い、その絶望を満喫させられる」というマゾヒスティックであるが極めて特異なロールプレイ体験をもたらすことだろう。

それは本来苦痛でしかなく、プレイヤーを歓待するという点においては最悪の方法論である。*3しかしながら、伊藤計劃がここで書いたような作劇手法は、ある種の「リアル」――現実に対する人間の決定的な限定性を剔抉している。TRPGというゲームジャンルがこのような作劇に不向きであることは明白であるが、全く無力で表現可能性を持たないということはないし、あってはならない。人間の総合的な体験のシミュレーションとしてTRPGは存在しうるし、その上でこのような「リアル」が描き出されることに対して挑戦することもひとつの表現としてありうる。

では。このような「リアル」を描きつつプレイヤーのモチベーションと道義をいかにして維持するべきだろうか。それこそが、先に述べた「赦し」と「覚悟」である。決定的な限定性の中で、なおもそれに全力で抗ったものへの「赦し」をマスターがプレイヤー/キャラクターサイドに何らかの形で与えること、そしてプレイヤー/キャラクターサイドが、その限定性が必然的に生み出す悪を引き受け、背負っていく「覚悟」を持つことのいずれか/双方が整ったとき、はじめて「世界精神型悪役」が駆動する、人間の絶対的な限定性を描き出すシナリオが物語体験として有意義なものになるのだ。

補論・上条当麻の場合

ここまで、意思決定においてジレンマや失敗に繋がるのはそれ以前の意思決定によって現在の意思決定が制限されているためである、という話を散々述べ、なおかつそれをいかに回避するか、あるいは回避できない場合どのようにして受け止めるかについてつらつらと書いてきたが、そこから挽回するために「まさに今」どうするか、ということについては書くのを後回しにしてきた。これについては、まだぼく自身が明確な結論を見出していないためである。

しかし、そのような方向性へのヒントとしては「とある魔術の禁書目録」における上条当麻のマニューバーが大変参考になる、とメモしておこう。彼は煮詰まった情況を一度呑み込んだあと、そこから演繹的に引き出される間違いを「破却」し、自分という新しいリソースを持ち込み、上条さん説教により関与する人物たちの価値観という函数を新たに置き換え、情況をゼロから再構築し、正しい道へと帰還しようとするのである。これにより上条さんが関わった相手の「これまでの罪」は、今現在という新たな段階から「正義」の構築へと立ち戻ることで「赦し」を得ることができるのだ。

とはいえ、じつは禁書は全然詳しくないのでとても断言はできない。これについては、より詳しい人の知見を待ちたいところである。

追記

http://d.hatena.ne.jp/koutyalemon/20101212/p1

レスポンスありがとうございます。

クラウゼヴィッツの「摩擦」概念は意思決定において大変重要な概念ですが、「他にどうしようもない」というジレンマを際立たせたところにどのような倫理的な態度と救いがあるか、ということについて書きたかったので、あえて無視したところです。その摩擦がもたらす不透明性がジレンマの代わりに別の問題――すなわち盲目の希望をもたらすことについても、何らかの形で触れなければならないでしょう。

*1:ちなみに我々は「自らの意思決定」のみに限定されるのみならず、他者の意思決定にも限定される存在であるのだが、問題の抽象化のために捨象しておく。

*2:ロングストリートは極めて優秀な指揮官であったが、それゆえに独自の意見を持ち過ぎ、リーの副将としては不的確であった側面が確かに存在している。

*3:無論、道義的マゾヒズムを味わいたいプレイヤーもいるだろうが、意思決定>目的達成というプロセスTRPGの基本的スタイルとしたとき、それはやはり異端的である。

xenothxenoth 2010/12/12 10:34 こんにちは。いつも記事を興味深く拝見しております。

前にお送りしましたトラックバックでも少し書きましたが、TRPGで「すでにすべてが決定されており、プレイヤー/キャラクターの行動はことごとく手遅れであり、ジレンマの果てにいずれにせよ悪を背負い、その絶望を満喫させられる」というシナリオをやる時の問題点は、PLとPCの立場が乖離しているため、結果、ギャグあるいはメタ的な視点のゲームになりやすいということです。

アーミステッド准将にせよ、モスクワ攻略の指揮官にせよ、「すでにすべてが決定されており,何やっても手遅れであり、絶望しか存在しない」と思っていたわけではないでしょう。
「どうみても手遅れっぽいけど、でも何かできるんじゃないか。もしかしたら勝つ方法さえあるんじゃないか」そう真剣に考えたのではないでしょうか。だからこそ、その絶望も深いわけです。

PLがアーミステッド准将をやる場合、「史実で負けた」「どうせ負ける」「というかGMが負けるように設定してる」という理解の元でやるので、「よーし、今日は悲劇ロールを楽しんじゃうぜ」ということになる。

逆も言えます。太平洋戦争における日本の勝敗は、どこからならジレンマではなかったのか?
そもそも参戦した時点で負け確定という話もあれば、世界情勢で参戦は避けられなかったのではないか、という視点はある。「ジレンマでないはじまり」を追求してゆくと、幾らでも遡れてしまいます。南北戦争でもロシア侵攻でも同じことは言えるでしょう。

つまりどんな状況でも、過去から押しつけられた、ある程度の「限定性」は存在してるわけで、そこには「赦し」がなくてはいけない。

そう考えると、TRPGでジレンマ状況を追体験させたいのなら、GMが最初から「ジレンマ」として提示する必要はないと言えます。適度な難易度のゲームの中で、プレイヤーがジレンマにぶつかるのを待てばいい。
たとえば、村ABCを救ってから、魔王城Dを攻略する時間制限のあるシナリオで、A、B救出で時間をかけすぎたが故に、Cを救うかどうか悩む、というような。

A、Bの戦闘に手間取ったのはPCのミスですが、そも「PCだけでABCをいっぺんに救わないといけない」という状況は、「押しつけられた限定性」です。そこに「赦し」があればいいのではないかと。

一方で、ある種の映画を見る時のように、悲劇に終わることを知りつつも、真剣にキャラクターに感情移入できるようなTRPG、というのは、もちろんありうると思います。
ただし、それには大胆な発想の転換をした、新しいシステムが必要なのではないでしょうか。

crow_henmicrow_henmi 2010/12/12 18:42  コメントありがとうございます。
 メタ視点でのジレンマの受容はこのエントリでは捨象した部分です。あくまでゲーム内のジレンマをプレイヤーがキャラクターを通じてどのように受容し、それと向き合うかについて考えていたものですから。メタ視点を導入し、PLとPCの乖離をあらかじめ想定すると、ジレンマは意思決定上の倫理的トラップではなくなり、物語生成における演技上の問題と変化します。それはまた別の機会に語りたいと思います。
 あと、ある時点での意思決定のジレンマを設定した際、その原因はどこまで遡行されるべきか、ということですが、これは当事者の意思決定参入レベルに応じて設定されるべきだと思います。アーミステッドにとってはリーの失敗は所与の前提であり、リーにとっては南部連合国の戦略的意思決定は所与の前提である、というように。ご指摘のように、あらゆるプレイヤーはプレイヤーのレベルに応じた限定性を背負っている、といえるわけです。その上で、自己の裁量範疇内で最善策を構築していかねばならないのではないか、ということであり、そのような真摯な意思決定の果てにようやく「赦し」が与えられる資格があるのではないかなーなどと思います。
 なお、「自己の裁量範疇内での最善策」には、補論で述べたようなある種ちゃぶ台をひっくり返す的情況の放棄/再構成も入ります。すでに決められた誤謬の再生産以外に何がしかの方策が可能であれば、それにアプローチする意味はあるでしょう。これを小さなスケールでやると「抵抗」、大掛かりなスケールでやると「革命」になります。先のエントリで述べた脱構築でもある程度このような要素は入っているのですが、より根源的にアプローチする可能性については、また別の機会に詳述したいと思います。
 あとは特に異論はありません。ご指摘ありがとうございました。

xenothxenoth 2010/12/13 08:02 コメントありがとうございます。
記事の中で、メタ視点でのジレンマの受容を捨象されたことはわかるのですが、そこに関する疑問が二点ほどありまして、説明させていただければと思います。いずれも考えすぎ、杞憂の面もあるかもしれませんが、ご寛恕いただけるとありがたいです。

私はTRPGの論について考える時、実際のセッションではどうなるか、というのを考えて議論するよう心がけています。その際ですが、まずTRPGをプレイする際、ストレートな感情移入型を含めどのようなゲームであってもPLとPCは別物であり、故にどんなTRPGにもメタ視点が存在しています。そのため、実際のTRPGのセッションにおいてプレイヤーがどう考えるかを検討する際は、そうしたメタ視点を含めて考えないと議論ができないと思うのです。具体的にどのようなメタ視点でプレイされているか、を排除した議論はありえない。

もう一つは、TRPGのセッションには大きな可能性があり、その中には危険な可能性もあるといいうものです。TRPGのセッションにおいて、単純な気晴らし、娯楽以外の可能性を探ること自体は素晴らしいと思うのですが、一方で、その可能性の中には、誰かを不快にさせたり深刻に傷つけたり、差別や憎悪を煽ったりといったものも確実に存在します。
そして「意志決定上の倫理的トラップ」をTRPGでプレイする際、そうした可能性が噴出する可能性は高いのです。
これは冗談や机上の話ではなく、TRPGをある程度やりこんで「新しいこと」をしたくなったプレイヤーが、シリアスなテーマを取り込もうとして問題を起こす事例というのは昔からあります。crow_henmiさんも心当たりがあるのではないかと思います。

そこにおいて重要なのがメタ視点です。TRPGで「意志決定上の倫理トラップ」をやる場合、「ゲームの中の倫理」と「現実の倫理」の関係性をどう定義、把握しておくのか。別にギャグとして受け取るような視点だけでなくていいのですが、少なくとも、この二つは完全なイコールではない。
故に、PLもGMも、「ゲーム」と「現実」の関係について、きちんと合意し、把握し、その中で安全性を確保する必要がある。
そこを深く考えず、「ゲーム倫理=現実倫理」と安直に仮定してプレイする場合、GMは、「自分が頭で考えただけの正義」を、「世界の正義」としてPLに押しつけることになる。それが大変危険なのは言うまでもないでしょう。
こうした問題は、もちろん小説や映画でも起きることですが、参加型メディアであるTRPGは、より距離が取りにくいことが多いこと、また別にプロでもないGMが、誰にでもある無知や偏見のままにストーリーを作れることもあり、倫理を安易に扱うことの危険性がより高いことは言うまでもないでしょう。

※たとえば宗教や人種問題について語る際、プロであれば取材や研究をする習慣があり、またいい加減なことを書いたら編集段階でチェックを受ける機構があるわけです。普通のGMには、そうした環境は無い(もちろんプロなら常に信用できるというわけではありませんが)。

以上より、私は「TRPGで倫理的なジレンマを扱う」際には、メタ視点を考慮することが極めて重要であり、前提であるべきだと思うのです。
「ゲーム内の倫理」と「現実の倫理」の可能性、距離。GMおよびPLの自由と責任。どんなセッションでも、それを意識するのが大切です。
ゲーム内で「倫理的ジレンマ」といったものを扱うのであれば、気楽なセッションより一層深く、それらを考えて準備する必要があります。

もっと単純な話、普通の現代日本人間をいきなりリー将軍の立場に置いたら重圧で壊れそうなものですよね。TRPGでそのストレスを擬似的に体験させることで、実際に人間を深く傷つけることも可能なのです。たかがゲームの中でさえ、人間は誰かを見捨てるということに、ものすごく強いプレッシャーと不快感を感じるのを忘れてはなりません。それで誰かが傷ついた時、どう責任を取るのか。そういうことを考えた上で、「GMはPLに「倫理的ジレンマ」を押しつけていいのか」を考える必要があります。

もちろん、crow_henmiさんのお考えは、実際のセッションのプレイング指南までを意図したものではなく、TRPGの可能性を探るという発想段階のものであり、こうした指摘は不要で的外れであるとも思うのですが、ただ実際の「倫理的ジレンマセッション」が、多くの被害を出したことを考えると、さしでがましくも指摘させていただきたいと思うのです。

crow_henmicrow_henmi 2010/12/14 22:08  コメントありがとうございます。
 最初に読んだときはどのように自分の理屈の中で受け止めるのか少し悩んだのですが、過不足なく実際的な視点だと思います。
 メタ視点を利用したコントローラブルな物語生成などという連想もしましたので、その辺りについても機会があれば書きたく思います。