2008-04-16 「非モテ論議」と語りえぬ欲望

前回・前々回の記事に関してあれこれ考えている間に、大野氏のところをはじめ色んなところで取り上げられて話題が広がっているようです。ここで一旦、ここまでの反省も含めて話を整理してみたいと思います。
まずは、大野氏の記事を受けてのshinpants氏の記事から。
shinpants氏(及び大野氏)の指摘は、前々回での私の「問いかけ」そのものが暴力的ではないか、というものでした。確かにこの指摘は妥当だと思いますし、私の「問い」は軽率だったと言わざるを得ません。最も問題となる部分はここでしょう。
shinpants氏の指摘にもあるとおり、この書き方ではどう読んでも「規範に囚われているお前が悪い」という非難の含みを持ってしまいます。
大野氏がこちらの記事で「ミソジニー」に関して言っておられるように、「反省的に考え直せ」ば逃れられるというほど「規範」の話は簡単ではありません。しかし、前々回の私の言い回しは、「反省的に考え直すことで規範から脱せよ」と読まれかねないものでした。
この「含み」はナツ氏のコメント
shinpants氏は「モテたいと思うこと」を「『恋愛』という形での『世界』へのこだわり」として言い換えています。
shinpants氏が整理しておられるように、「自分自身に迫ってくる『欲望』や『現実』」は、その時点ではいわば感覚的なものであり、概念として言葉で説明できるものではありません。私達はそれを「語り直す」ことによって概念の体系を作っていきます。例えば「恋愛感情」であれば、私達は最初からそれを「恋愛」という枠組みで認識するわけではなく、事後的に「これは恋愛感情なんだ」と語り直す(再確認する)、といったようなことです。
「恋愛へのこだわり」というものも、基本的にはこのような「自分自身に迫ってくる何か」であり、それに対する自身による語り直しはあくまで事後的なものです。従って、「なぜこだわりを持つのか」「なぜそれにこだわるのか」ということの正確な答えは本人にも、他人にも分かりません。「推測」ならできますが、それはあくまで私達が蓄積している「概念の体系」をあてはめることによって、です。
ここで、「どうすればモテますか?」という質問について考えてみます。
この質問の「意味するところが曖昧である」ということは既に述べましたが、なぜ曖昧になってしまうのか、ということですね。「モテたいという欲望」も先に述べたのと同様、事後的に語らざるを得ない「自分自身に迫ってくる何か」です。一方、「恋愛」とは私達が持っている「概念」です。これらを連結するものが、shinpants氏の言葉で言えば「美的な感覚」なんですが、これは各人の経験によって形成されます。
ここで比較のために「食欲」という欲求を考えてみましょう。私達が空腹感を覚え、食物を欲するとき、私達には既にこれまでの「食べるという行為によって空腹感が解消される」という経験の蓄積があります。「食欲」と「食べるという行為」はダイレクトに結び付けられ、そこに疑問を差し挟む余地は(ほとんど)ありません。
では「恋愛したいという欲望」はどうでしょうか? 恋愛経験のない人であれば、「恋愛したい」と思ったとき、その欲望の対象を「恋愛」という概念と直結させることは出来ません。なぜなら、その人にとって「恋愛」それ自体は「概念」ではあっても「現実として感じられるもの」ではないからです。そこにこそ「美的な感覚」に基づく「こだわり」が介在する余地があるんですね。
これは実は、恋愛経験のある人でも基本的には変わりません。なぜなら、「Aさんとの恋愛」と「Bさんとの恋愛」という経験はそれぞれ別の関係性に基づいたものであって、それらを同じ「恋愛」という概念で括っているのはやはり「美的な感覚」に他ならないからです。「恋愛という概念」が明確に定義できない以上、「恋愛したいという欲望」を明確化することはできないんですね。
このことを別の角度から見てみましょう。「食欲」は「満たされた状態」がほぼ自明ですが、「恋愛したいという欲望」はそうではありません。どのような「恋愛」であれば「満たされた状態」になるのか、誰にも分からないわけです。「恋愛」に限らず、およそ「欲望」という名で呼ばれるものは全てそうです。(というか、「欲望」という言葉はそのようにして「欲求」から区別されます。)
それでも「モテたい」とか「恋愛したい」と思うのは、「恋愛すれば良いことがある(幸せになれる)はずだ」という「こだわり」が介在しているからです。「モテたい」あるいは「恋愛したい」という欲望は(というか、どのような欲望も)、突き詰めると「幸せになりたい」という欲望に帰結します。「どうすればモテますか?」という問いは、すなわち「どうすれば幸せになれますか?」という問いに他なりません。
従って、「どうすればモテますか?」という問いは、そのままでは問い自体が不適切(「どうすれば幸せになれますか」という問いに簡単に答えられる人は居ないでしょう)であるため、問いの内容を限定しなければ有効に機能しません。迂闊に答えようとすれば、それは回答者自身の「恋愛への美的感覚に基づくこだわり」を相手に押し付けてしまうことになります。
上で挙げたコメントでナツ氏が言っておられることをここでの文脈に沿って解釈するならば、「自身の欲望を明確に語り直すことによって、問いを再設定せよ」ということになるかと思います。しかし既に述べた通り、「欲望を明確に語り直す」ことは誰にとっても困難なことであり、それを他者に強要することは暴力的たり得ます。
しかしながら、「問いの再設定」をしないことには話が通じないことは確かです。前々回の記事はそのような「問いの再設定」を念頭に置いていたものだったのですが、結局ナツ氏と同様「欲望を明確にせよ」と迫る罠に陥ってしまっていました。
それでは、有効な「問い直し」とはどのようなものでしょうか? 次回以降に考えてみたいと思います。
まずは、大野氏の記事を受けてのshinpants氏の記事から。
「恋愛できない苦しみ」を度々味わい、「それが嵩じて非・非モテから言及されることに怒りを表す非モテ」、A氏がいるとする。
このA氏に対して、「なぜモテたいのか」と問うことを烏蛇氏は提案した。
このA氏への問いかけは「暴力的ではないか」と大野氏は指摘した。
ぼくは大野氏に賛成する。確かにこれは酷な宣告だろう。
本人が、生きている世界のこだわりの対象に「恋愛」を選んでいるのだ。
感覚的にだろうが、そういう世界に生きているのだ。
そういう世界で生きている人間に向かって、「なぜそういう判断をするのか考えろ」と言うことは暴力的だし、無責任に聞こえる。
>このA氏への問いかけは「暴力的ではないか」と大野氏は指摘した。
問いかけそのものは構わないと思うのですが(その有効性は別として)、烏蛇さんは非モテについて「「恋愛することは価値があることだ」という規範意識が、自己を反省的に語り直すことを阻害する」と書かれていたので、それを前提として問うならちょっとアレだと思ったのでした。
まさしく、ぼくも問題はそこだと思います。君は規範があるから反省が足りない!というつもりで本人に向かって直接「問う」のはやっぱり暴力的でしょう。だとしたら、間接的にならいいのかというと、そうでもない、やっぱりそれは嫌味にしかならない。ぼくはこの問いかけ自体が有効ではないと思います。
shinpants氏(及び大野氏)の指摘は、前々回での私の「問いかけ」そのものが暴力的ではないか、というものでした。確かにこの指摘は妥当だと思いますし、私の「問い」は軽率だったと言わざるを得ません。最も問題となる部分はここでしょう。
では、なぜ「非モテ」は「どうしてモテたいと思うのか」を語ろうとしないのでしょうか? はっきりとは分かりませんが、その理由の一端は彼らの自己言及の拙さにある、と私は考えています。「非モテ」に限らず自己評価の低いタイプの人にはありがちなことなんですが、「恋愛することは価値があることだ」という規範意識が、自己を反省的に語り直すことを阻害するんですね。 「あなたはどうしてモテたいのですか?」という問い返しは、そのような「非モテ」に対して自己を語り直すことを促すものでもあります。それがうまくいけば、「非モテ論議」は特別不毛なものにはならないでしょう。たとえうまくいかなくても、少なくとも激しい反発を買うことはないと思います。
shinpants氏の指摘にもあるとおり、この書き方ではどう読んでも「規範に囚われているお前が悪い」という非難の含みを持ってしまいます。
大野氏がこちらの記事で「ミソジニー」に関して言っておられるように、「反省的に考え直せ」ば逃れられるというほど「規範」の話は簡単ではありません。しかし、前々回の私の言い回しは、「反省的に考え直すことで規範から脱せよ」と読まれかねないものでした。
この「含み」はナツ氏のコメント
だからわたしがそういう人に言いたいのは本当のところ、「恋愛したいのか、したくないのかどっちなんだ!」ということではなく、そういう風に自分の内面を突きつめることによって、恋愛至上主義的価値観を内面化していることに気づいて、そこから自由になったら?ということなんですけど。の主旨と重なりますが、「恋愛至上主義的価値観から自由になるべき」というのは私の本意ではありませんので、慎んで撤回させて戴きます。(このことについては、もう少し後で補足します。)
まず自分の気持ち・欲望をきちんと掘り下げて向き合ってみないことには、どこにも進めないし、闇雲に他者を攻撃することもやめられません。
shinpants氏は「モテたいと思うこと」を「『恋愛』という形での『世界』へのこだわり」として言い換えています。
では、人が「恋愛」に生きることは勝手でしかなくて、そういう「恋愛」にこだわることの偏りや副産物について指摘することはできないのだろうか。
A氏がなぜ「恋愛」をこだわりとして選ぶのか、その構造を理解することで、この問いの糸口が見えるかもしれない。
A氏をこだわりへと結び付けているのはA氏の美的な感覚である。
(中略)人間は、二段階で欲望や現実を理解する。
理屈どうこう抜きにして、「なんとかしろ」と自分自身に迫ってくる「欲望」や「現実」を、まず経験的に理解する。この理解はあくまでも、まだ実践の段階でバラバラの状態である。
そして、その実践領域での経験を、統合し、これまでの自分の理解との対応を判断することで、これまでの蓄積で体系付けられている概念の枠組みに組み込む。この段階で、今後の自分の行動に影響する形式的で体系的な「欲望」や「現実」の理解になる。
美的な感覚は、形式的な概念の体系と、経験的な実践の領域とを対応させる、各自が経験により学習してきた一定の基準を持つ感覚である。この感覚が本人の「幸せ」を決める。
shinpants氏が整理しておられるように、「自分自身に迫ってくる『欲望』や『現実』」は、その時点ではいわば感覚的なものであり、概念として言葉で説明できるものではありません。私達はそれを「語り直す」ことによって概念の体系を作っていきます。例えば「恋愛感情」であれば、私達は最初からそれを「恋愛」という枠組みで認識するわけではなく、事後的に「これは恋愛感情なんだ」と語り直す(再確認する)、といったようなことです。
「恋愛へのこだわり」というものも、基本的にはこのような「自分自身に迫ってくる何か」であり、それに対する自身による語り直しはあくまで事後的なものです。従って、「なぜこだわりを持つのか」「なぜそれにこだわるのか」ということの正確な答えは本人にも、他人にも分かりません。「推測」ならできますが、それはあくまで私達が蓄積している「概念の体系」をあてはめることによって、です。
ここで、「どうすればモテますか?」という質問について考えてみます。
この質問の「意味するところが曖昧である」ということは既に述べましたが、なぜ曖昧になってしまうのか、ということですね。「モテたいという欲望」も先に述べたのと同様、事後的に語らざるを得ない「自分自身に迫ってくる何か」です。一方、「恋愛」とは私達が持っている「概念」です。これらを連結するものが、shinpants氏の言葉で言えば「美的な感覚」なんですが、これは各人の経験によって形成されます。
ここで比較のために「食欲」という欲求を考えてみましょう。私達が空腹感を覚え、食物を欲するとき、私達には既にこれまでの「食べるという行為によって空腹感が解消される」という経験の蓄積があります。「食欲」と「食べるという行為」はダイレクトに結び付けられ、そこに疑問を差し挟む余地は(ほとんど)ありません。
では「恋愛したいという欲望」はどうでしょうか? 恋愛経験のない人であれば、「恋愛したい」と思ったとき、その欲望の対象を「恋愛」という概念と直結させることは出来ません。なぜなら、その人にとって「恋愛」それ自体は「概念」ではあっても「現実として感じられるもの」ではないからです。そこにこそ「美的な感覚」に基づく「こだわり」が介在する余地があるんですね。
これは実は、恋愛経験のある人でも基本的には変わりません。なぜなら、「Aさんとの恋愛」と「Bさんとの恋愛」という経験はそれぞれ別の関係性に基づいたものであって、それらを同じ「恋愛」という概念で括っているのはやはり「美的な感覚」に他ならないからです。「恋愛という概念」が明確に定義できない以上、「恋愛したいという欲望」を明確化することはできないんですね。
このことを別の角度から見てみましょう。「食欲」は「満たされた状態」がほぼ自明ですが、「恋愛したいという欲望」はそうではありません。どのような「恋愛」であれば「満たされた状態」になるのか、誰にも分からないわけです。「恋愛」に限らず、およそ「欲望」という名で呼ばれるものは全てそうです。(というか、「欲望」という言葉はそのようにして「欲求」から区別されます。)
それでも「モテたい」とか「恋愛したい」と思うのは、「恋愛すれば良いことがある(幸せになれる)はずだ」という「こだわり」が介在しているからです。「モテたい」あるいは「恋愛したい」という欲望は(というか、どのような欲望も)、突き詰めると「幸せになりたい」という欲望に帰結します。「どうすればモテますか?」という問いは、すなわち「どうすれば幸せになれますか?」という問いに他なりません。
従って、「どうすればモテますか?」という問いは、そのままでは問い自体が不適切(「どうすれば幸せになれますか」という問いに簡単に答えられる人は居ないでしょう)であるため、問いの内容を限定しなければ有効に機能しません。迂闊に答えようとすれば、それは回答者自身の「恋愛への美的感覚に基づくこだわり」を相手に押し付けてしまうことになります。
上で挙げたコメントでナツ氏が言っておられることをここでの文脈に沿って解釈するならば、「自身の欲望を明確に語り直すことによって、問いを再設定せよ」ということになるかと思います。しかし既に述べた通り、「欲望を明確に語り直す」ことは誰にとっても困難なことであり、それを他者に強要することは暴力的たり得ます。
しかしながら、「問いの再設定」をしないことには話が通じないことは確かです。前々回の記事はそのような「問いの再設定」を念頭に置いていたものだったのですが、結局ナツ氏と同様「欲望を明確にせよ」と迫る罠に陥ってしまっていました。
それでは、有効な「問い直し」とはどのようなものでしょうか? 次回以降に考えてみたいと思います。
トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/crowserpent/20080416
「非モテ」って現実は、重要ではない気がするんですよね。コンプレックスの象徴として「非モテ」って言及があるような。
うまくコミュニケーションが測れないであるとか、外見であるとか、そういったコンプレックスが複合して出来上がったのが、非モテっていうコンプレックスなのでは。
おそらく共通するのは「他人からの視線」によって規定されるものなのではないかと。視線に肯定を感じられるか? って問題になるから、自信がないと新しく何かをするってのも出来ず、非モテスパイラルに陥るのではないかなと。
んで、
モテなくて悩んでいるときに、「なんでモテたいの?」って聞くのは暴力なんかいな?
「君、モテへんやろ」ゆうんやったら暴力や!というのは納得なんやけどなあ。
僕はいわゆる「非モテ」ではないと思います。
あと、「恋愛至上主義者」でもないと思います。
恋愛は生きる楽しみの一つだと思っていますし、もっと優先順位の高い遊びもいくつかあります。
僕がこの「非モテ」に絡んでいく理由は、人間関係に不自由している点で「非モテ」の人たちと共通していること。
僕は男友達がいなくて悩んでいます。
それを克服しようと努力していく内に、女のコとの付き合いがうまくなりました。
なので、努力したら何とかなることがあるのも知っているし、努力しても難しいことがあるのも知っている。
だから、努力しないで「全部ダメだ!」って決めるのは違うと言いたいし、反対に努力の甲斐がないときのツラさはよく分かる。
それに、他に楽しいことがあってなかなかガール・ハント(我ながら古い表現だ)に出かけられない事情もわかる。
ただ、人が人を求めるのって理屈じゃ割り切れないところがあって、何やってても寂しくて、どうやらこれは異性を求めているらしい、と思ったら、がんばって新しいことにチャレンジして欲しいと思う。
それが僕の立場。
具体的な議論としてはナツさんにほぼ賛成。
ナツさんからしたら、僕はお荷物ヤロウかもしれませんが。
おお! どうもどうも、お久しぶりです。
暴力的かどうか、という話は「何を以って暴力(的)」とするかに依るわけですが、これがなかなか線引きできない(そもそも「暴力的」という言葉自体が一種の比喩表現だったりもする)のが論争の種なんですよね。ひとつの例として、http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080614/p1を挙げておきます。
なので、「暴力的か否か」に話を収束させるんじゃなくて、「なんでモテたいの?」と「君、モテへんやろ」との違いは何か、なぜ前者が暴力的でなくて後者は暴力的なのか(後者を「事実を指摘しただけなんだから暴力じゃない」と考える人も居るでしょう)を考えていく必要があるんじゃないかと思うのですね。
で、折角また来てくださったので、まずは私も個人的な背景の話から始めた方がいいかなぁと思ってます。
うれしいなあ!
んで、{「何を以って暴力(的)」とするかに依るわけですが、これがなかなか線引きできない}についてはまったくその通り。
一人ひとりの受け取り方だもんねえ。
なので、線引き自体が一番の暴力かも。
ある事を暴力と感じるかどうかは人の自由であって、「線引き」すると、人の「物事を感じたいように感じていい」自由を侵してしまうもの。
ということで、何を暴力とするか、は実際的に「わからない」。
むしろ、僕は、「暴力(的)」だからという理由で意見や話を退けよう、とする態度の方が問題が大きいと思う。
暴論でも正しいことはあるし、正しいからこそ聞く人を不快にする意見はある。
人の快/不快みたいなアヤフヤなもので話の価値みたいなものをないがしろにしてはイカンと思ふ。
マトメると、「暴力的な話だからNG!」こそNG、ということで。
でもって、烏蛇くんの個人的背景、聞きたいので待ってますよーん
や、そりゃ覚えてますよ。(笑)
森岡正博氏も新著を出されましたし、そっちの方もぼちぼち。
>「暴力(的)」だからという理由で意見や話を退けよう、とする態度の方が問題が大きい
そうですね。言説についての「暴力的」という言葉は「暴力的だから語るな」ということではなくて、「あなたの言説が暴力的たりうることを自覚せよ」という意味に捉えるべきだと思います。
ちなみに、ここの記事で「暴力的」と言ってるのは、「語りえないことを無理に語ろう(語らせよう)とすることで、覆い隠されてしまうものがある」ということについて言おうとしています。
記事の内容ややりとり自体も興味深いのだけど、何より面白いのは、僕自身の感じ方や受け取り方の変化。
その変化を具体的に説明すると、以前は、恋愛したない、という人の話を、額面そのままに、素直に受け取らずに、恋愛したいくせにヤセ我慢しよってからに、みたく受け取っていた部分はございまして。
今は、そんな恋愛したない男子もおるわなあ、と、ふと。
好きなマンガ読んで音楽聴いて適当に好きなことやって・・・って淡々と生きてる男子。
女のコにはボツボツいてるんやけれども、男子でそんな生き方してるヤツ、会うたことないから、想定できへんかってん。
しかして、過去の記事やコメントのやりとりを読んでいると、烏蛇くんと他の人と、妙に話がかみあってないところが見受けられて、それを見てるうちに、コイツ(烏蛇くんね、コイツ呼ばわりしてスマン)、恋愛興味ないんフリやのうてマジかも、と。
というか、恋愛とか分かれへんから、分かろうとしてるんかも・・・と、そう思いまして。
せやなかったら、「恋愛になぜ価値があるのか?」なんて質問できん気がする(恋愛へのウラミツラミのこもった同種の質問はたまに見かけるが)。
その辺の僕自身の「変節」あるので、烏蛇くんの個人的背景には興味があるなあ。
で、ふむ、「結論ありき」で相手の話聞いて、自分の想定した話をさせよう、ゆうのんは確かに気分悪いなあ。
そういう意味では、僕なんぞも、「いろいろ悪口いうてましたけども、ホンマは恋愛したいんです!」ゆわそうとしてたとこはあるわ、ジッサイ。
一つ反論すると、「語りえないことを語らせよう」という試みは、アリなこともある、思うねん。
「語りたくないことでも語らなければイケナイ」ということがあるから。
それは、ある話について、そう思うにいたった根拠だったり。
オンナなんてみんな性悪や!公言するんやったら、その根拠は求められると思う。
その根拠が、その人にとって向き合いたくない、語れない辛い出来事であったとしても、公言した以上は語らなければならないと思う。
どう思う?
ちょっと遅くなってしまいました。
>「語りたくないことでも語らなければイケナイ」ということがあるから。
はい、確かにあると思います。ただ、そういう際に「語られたこと」がもともとの場所からずれていく、ということを問題にしたいんですよ。「語りえないこと」というのは「語るのがつらいこと」という意味ではなく(そういう場合もあるでしょうが)、安易に「語って」しまうとそれがそのままに固定されてしまい、元々あったものが覆い隠されてしまう、その「覆い隠されてしまう」ことに対して「暴力的」という言葉を使っている、と言えばいいでしょうか。
「語らなければならない」という規範によって語るのは、実はさして難しくはありません。規範に沿って語ればいいだけですから。しかしその分、その「規範」の形はそのまま温存され、「規範」の枠からはみ出すものは「無かったこと」にされてしまいます。そういう場合には、「安易に語らないこと」が有効な場合もある、と思うのですよ。一概には言えない話なんですが。
性格の違いなのかな、これって。
僕が話してるのは「説明責任」について。
で、
<「語らなければならない」という規範によって語るのは、実はさして難しくはありません。規範に沿って語ればいいだけですから。しかしその分、その「規範」の形はそのまま温存され、「規範」の枠からはみ出すものは「無かったこと」にされてしまいます。そういう場合には、「安易に語らないこと」が有効な場合もある、と思うのですよ。一概には言えない話なんですが。
については、言わんとすることは分かるのだけれど、コトバの使い方がよくないと思う。
<「語らなければならない」という規範
は「規範」と言っても差し支えないと思う。たとえば、「説明責任」なんかはそう。
烏蛇くんの文章にある「規範」は上に挙げた一文以外、「規範」という単語はあてはまらない。
<規範に沿って語ればいいだけですから。
「規範」は何も与えてくれない。
赤信号では止まるけれど、赤信号が目的地や道順を指し示すワケではない。
このたとえで通じるかなあ。
「規範」は「場」や「前提」を作るためにあって、その「場」や「前提」を壊す行いについては規制するけれど、それ以外の人の振る舞いを決めるものじゃない。
烏蛇くんの言ってることはニュアンスとしては分かるんだけれど、こういう誤用はよくない。
だって、「規範」の意味が違ってくるし、価値も下がるしね。
「規範」は本来的には僕や君の立場や自由を守るためにあるハズなのに、徒に立場を侵し自由を規制する「何か」と混同されちゃう。
この辺は学校教育のせいだと思うのだけど、今回のテーマとはカンケイないねえ。
「わかる」といったのは、会話の中で、相手が、自分の話ではなく、既に別のところで話されたことのある「物語」を持ち出すことがあるなあ、と感じることがあるから。
その、「物語」によって、
<「規範」の枠からはみ出すものは「無かったこと」にされてしまいます
みたいなことは往々にしてある。
本来的な意味合いの「規範」と、テキトーに都合よく使われる「規範的な何か」、混同しないように「規範的な何か」にはよい名前があるといいんだけどなあ。
というか、もう既にあって、僕が物知らずなだけなのかも。
一つ指摘したいのは、そういう「規範的な何か」に沿う連中にとっては、「規範的な何か」は都合がいいってこと。
「規範的な何か」に気持ちよくつかっている連中をそこから引き出すのはムズカチイわねえ。
>「安易に語らないこと」が有効な場合もある、と思うのですよ。一概には言えない話なんですが。
そうなんだよねえ。
>このA氏への問いかけは「暴力的ではないか」と大野氏は指摘した。
「暴力的」ってことで、意味や価値のある意見が退けられようとしていることが、僕はイヤだったんだよ。
僕は烏蛇くんの、
<なぜ「非モテ」は「どうしてモテたいと思うのか」を語ろうとしないのでしょうか?
は意味があると思ったんだ。
この問いかけ自体は「非モテ」だけじゃない、今を生きる人たちみんなに有効だよ。
そんな面白い話が、本論とは別の、受け取り手の「感じ方」で非難されている、それがイヤだったんだ。
だから、実は大野さんという人と話したかった。
これについては、烏蛇くんとは対立できひんからねえ
んー、んー。「規範」には「〜すべきである」というものも含まれると思うし、そうした「規範」に依存する人たちってのは結構いっぱいいると思うんですが。「規範」の「場や前提を作る」という働きそのものが、「徒に立場を侵し自由を規制する」ことだって充分にありうる(というか、過去にいくらでもあった)と思うのですよ。女性に対する封建的な過去の規範体系などは、その典型ですよね。人間は全く「規範」なしに生きることは難しいですが、その危険性も同時に理解しておくことは重要ではないでしょうか。
そういうわけで、ymmt氏のおっしゃる「本来の規範」と「規範的な何か」を切り分ける明確な線を引くことは難しいと思いますし、そうした線引きは危ういとも感じます。
>>なぜ「非モテ」は「どうしてモテたいと思うのか」を語ろうとしないのでしょうか?
>は意味があると思ったんだ。
いや、実は今でも、私はこの問いかけ自体は決定的に重要だと思ってはいるんですよ。でも、実際にその問いかけに対する答えは、ymmt氏のおっしゃっているような「規範的な何か」=「既にある語り」に回収されてしまう。実際、一つ前のエントリで問いに答えてくださった「非モテだがね」氏のレスは、残念ながら「既にある語り」の粋を一歩も出ていないように私には思えました。それでは問いかけた意味がないどころか、「既にある語り」のフレームを強化することにしかなりません(「暴力的」という指摘を、私はそのように理解しています)。問いかける前に、「語り方」の別のフレームを用意しなければ、「問い」が有効に機能しないのです。その辺りが、私が逡巡している理由であり、まず自分から語らねばと考えた理由でもあります。
>「規範」には「〜すべきである」というものも含まれると思うし、
とあるんだけど、この辺が僕とカラちゃんで違うなあ、と思うのですよ。
「〜すべき」ぐらいなら、守らないこともあるじゃん、って考えちゃうワケだな。
そんなワタシは「規範」を「場や前提を作る(守る)」ためのもの、だと言ったけど、それはたとえばこういうこと。
サッカーじゃ、ゴール・キーパー以外手を使っちゃイケナイ。
これを破ると、「サッカー」という「場(あるいは前提)」が壊れちゃう。
だからゼッッッタイに!守らなきゃダメ。(「神の手」は一体どうなんだ!みたいなイヂワルな返しはヤメテね)
この場であれば、閉鎖の憂き目にあわさぬよう、ココでの口論を現実の殺人に発展さすのはやめよう、とか、ウイルスはしこまんとこう、とか、巷を騒がす殺人/テロ予告の書き込みはやめよう、とか、そういった類のことになるのではなかろーか。
それがワタクシ述べるところの「本来の規範」で、その上に「ローカル・ルール」みたく「規範的な何か」があったりなかったり。
でもって、「既にある語り」は、そういう「規範的な何か」ともちょと違うような。
僕からすると、「自分語り」するより、他人の「既にある語り」を我がことのように話すのが、いろんな意味で楽チンだからそうしとるだけのような気がする。
さて、では楽チンな「既にある語り」語りをさせないための方法は。
あるにはあるけどココじゃ言わない。
使ったときに足元見られちゃイヤだもの
もしかすると、ymmtさんは「どんな場合にでも通用する普遍的な規範があるはずだ」と考えておられるのでしょうか? それならば、それに関する話は過去にしたことがありますので、以下の記事とコメント欄を参照してみてください。
http://d.hatena.ne.jp/crowserpent/20060701
http://d.hatena.ne.jp/crowserpent/20060711
過去の記事読んだけど、僕の言ってることとはカブりません。
僕が言ってるのは、好き勝手にいろんなことを喋ってもいい環境とか場があって、それを壊しちゃイケナイよ、その環境や場を守るのが「規範」なのよ、ってことなの。
>サッカーの試合で手が使われることって割とよくあるでしょ?
なんだけど、コレ、ナンセンスですよ。
言い換えりゃ、「日本じゃ殺人は法律違反だけど、割とよくあるでしょ?」。
「割とよくある」からなんだってーの?
「よくある」ことはやっていいの?
意識が低すぎない?
僕は「自由を尊ぶ」けれど、それだって、「自由を尊べる」世の中に生きてるからだし、そんな世の中を守る「規範」に間接的に守られてるから。
だから「規範」も尊ぶけれど、その「規範」の合理性と正当性は徹底的に問いたい。
ある「規範」の合理性を問わないで「規範だから」というだけで従っていると、他の「規範」そのもの正当性を損ねることになる。
「規範」の正当性が損なわれてしまうと、「規範」に守られてる社会や僕の大好きな「自由」も損なわれちゃう。
とはいえ、まあ、極論すると、そもそも「規範」なんてーもんは、「ない」(「普遍的な規範はない」という過去の記事の結論は正しい)。
そこを、「あえて」自発的に従う、その意味でアタシャ「規範」を大切にしちょるのよん。
過去の記事のやりとりって、啓蒙思想がダメんなってくときの議論にソックリ。
読んでてニヤニヤしたし、また、中学かそこらで勉強したのになー、とも。
そんなカンジー
>「よくある」ことはやっていいの?
>意識が低すぎない?
私は「やっていい」とも「いけない」とも一言も言ってませんよ。
>とはいえ、まあ、極論すると、そもそも「規範」なんてーもんは、「ない」(「普遍的な規範はない」という過去の記事の結論は正しい)。
何を言ってるんですか? 私は「規範なんてものはない」などという主張をした覚えはありませんよ。規範というものはどれだけ相対化してみせようと、社会システムに組み込まれて現に作動している「現実の一部」なんですから。「普遍的ではない」というのと「実体は存在しない」というのでは全然意味が違います。
>そこを、「あえて」自発的に従う、その意味でアタシャ「規範」を大切にしちょるのよん。
あなたが「意識的に自覚可能な」範囲内の「規範」においてはそうなんでしょうね、としか言えませんね。
おそらくは、自分が無自覚なうちに「規範」に縛られた思考をしているかもしれない、ということを考えたことがないんでしょう。でなければ「あえて自発的に規範に従っている」などという言葉は出てこないはずですから。
>自分が無自覚なうちに「規範」に縛られた思考をしているかもしれない、ということを考えたことがないんでしょう。
あるある(笑)。
それも過去のエラい人が研究してる。
たしか認識論という名前で、ポストモダニズムの流れの中で論じられてる。
そういう読み物を読んだこと以外でも、自分のそういうの(自覚できない縛り、偏り)と出会うことがあってね。
そういう、得体の知れない部分が自分にもある、というのは体験から学んだよ。
もし興味があるなら話すけど。
そういう、自分でもコントロールできない部分も含めて自分。
でもって、どの部分がコントロールできていて、どの部分がコントロールできてないかは、あんまりわかんない(たまーにわかるときもある)。
今やっていることが、自分のどこからきているのかはわからない、それこそ、自分じゃない、烏蛇くんの言う「規範」にやらされているのかもしれない。
そのことを不安に感じて何もやらないよりは、その「規範」に縛られている分も受け入れて、やった方がいい。
その試行錯誤の末に、自分を縛る「規範」を自覚できることもあるし、そうでなくても、自分にも想像のつかなかった「自分の世界」の広がりや豊かさをつかめてたりする。
無自覚な内に何かに縛られた思考、そういうものが自分にあるのは承知で、それを受け入れて、それに身をまかせてるのよん♪
「無自覚な内に何かに縛られた思考」があると思いつつも「受け入れて身をまかせる」ということは、自身が持っている暴力性を「知りながら」放置するということでしょう。そのこと自体を非難しても仕方ない(おそらく、ymmt氏自身のこれまでの生き方として定着しているものでしょうから)ので、私から言えることはこれ以上ありません。
お互いの実存や自意識をブツケあう、「異文化交流(異種格闘技戦でも可)」の真髄ですよ。
うまくいきゃ、お互いの固定観念を自覚しあえてラッキー♪ヘタこくとただ単に自分に自信がなくなってズタボロに!
スゴく面白いよ。
やったことある?ないならやってみない?
で。
>「規範」を合理性ですっきり仕切ることが難しいことくらい分かりそうなものですけどね。
わかるわかる(笑)。
具体的にここではまたサッカーの話だけど、「ルール」でゲームがデザインされてるよね。
「手を使っちゃいけませんよ」それ自体にはなんの合理性もない。
ただ、「サッカー」ってゲームに参加するためには、それを守らなきゃイケナイ。
なぜなら、「それがサッカーだから」。
この合理性で充分なのよ。
これはこれでスッキリしてない?
「従う」のに納得できるだけの合理で十分ですのよん♪
こっからが楽しみなトコ!
>「無自覚な内に何かに縛られた思考」があると思いつつも「受け入れて身をまかせる」ということは、自身が持っている暴力性を「知りながら」放置するということでしょう。
君は傷つくのを恐れすぎているように思えるなあ。
「暴力性」と表現してしまうあたりに、なんか感じる。
僕のことを暴力をふるって人を押しのけても気にしない極悪人のように言うねえ(笑)。
人を徒らに傷つける趣味はないよ。
ただ、自分の存在そのものが人を不快にさせたり、自分のしたいことをしたら人を傷つける結果になる場合、できるだけ自分を守ろう、と思うのさ。
たとえば。
駅の待合室で見知らぬ男と二人でいる。
男はスポーツ新聞を持っていて、風俗ページを読みたいのだけど、僕がいるから恥ずかしくて読めない。
僕はそんなことに気付かずいる。
そういうことはあるなあ。
また、恋愛で、僕はもう相手のことを好きじゃないけど、相手はまだ僕が好き。僕は別れたいけど、相手にそれを告げると相手はいたく傷つくだろう。相手のことはスゴく大事で傷つけたくはない。でも、自分のしたいことをするためには仕方ない。
人は多かれ少なかれ、誰かを傷つけたりするもんさ。
それがスッッッッゴク嫌でも。
僕はそれは受け入れてんの。
だからって、人を傷つけて気にしないのとは違う。
で。
ポストモダンやら構造主義やら個人の認識の限界やらを受け入れた結果、僕にはこういう生き方しか見つけられなかった。
君は「ポストモダンやら・・」を踏まえて、どういう生き方をしてる?
僕は自分と違う知性がどういう生き方に辿り着いたのか、とても知りたいな。
波のない夏(波乗りのために、長いオフをとっているのです)は退屈でかなわない、ので、ヒマにまかせてツラツラと。
僕はなんだかんだ言って、ここでのやりとりを楽しみにしているのだけど、それは、普段考えないことを考える、いい機会になるから。
たとえば、「ポストモダン」なんて、普通に生きてたら使わない言葉だよねえ?でもここじゃ飛び出したりする。
その、「展開の読めなさ」が非常に面白い。
大好き♪
で。
僕は、マドンナやら、カルチャー・クラブやら、「アニメだいすき(知ってる?)」やら、やすきよ、あぶない刑事などなど、80年代の文物が好き。
なんだけど、この時代がもたらしたある「感性」が、その後の若者の思春期を過ごしにくくした部分はあるんじゃないかなあ、と、ふと思いました(そんなことを考えたのもキッカケは烏蛇くんとのやりとりで「ポストモダン」なんて言葉が出たせいで、自分一人では絶対に!考えつかなかっただろうから、コミュニケーションは面白い&その機会を与えてくれた烏蛇くんに感謝)。
80年代って、俗に「シラケの時代」って言われてて、マジメがダサい、楽しく遊んでるヤツがエラい、みたいな風潮があって。
それ以前の70年代ごろは、若いのがマジメに思い悩むのは当然、というよりむしろ「カッコいい」くらいの風潮があって、若い男が頭デッカチに政治について熱く語って、あるいは悩みを吐露して、それで女のコにモテる、なんちゅう、今からすると信じがたいことがあった。
それが80年代に入ると、「重たい」、「暗い」ってイヤがられるように。
そのときのキィ・ワードが「自意識過剰」で、「自意識」を出してると避けられるようになっちゃった。
それはもう、ホント細かいとこにまで及んで、ファッションとかで流行とは違う「コダワリ」を持ってたりすると、「ダサい!」の一言。
僕は90年代半ばに中学/高校生活を送っているんだけど、そんな80年代的な雰囲気は残ってた、というか、かなり学校生活において、かなり支配的だったように思う。
悩んでても人に言ったら受け入れられない、でも悩んでてツラくて、その内「悩んでること自体がワルイ」みたいに袋小路にはまっていって・・・。
それってスッゴく!シンドイことのように思う。
若いときゃ、悩んで当然だし、人によく思ってもらいたいもんだし、よく思ってもらえなくて悩むこともあるし、自分の悩み/苦しみは特別なんだと思いたい。
誰にでもあることなんだけどね!
ま、そういう、あるのが「自然」な悩みを退けられちゃかなわないよなあ。
ただ、それも80年代からのこと。
そのことを知れば、空気に流されちゃう自分の弱さと「自意識」を諦める契機にもなろうし、「社会」がワルイ!と責めるのにも「恋愛資本主義」なんちゅうことをのたまうよりは知識があるように見えると思うのだが、いかがなものか。
以上、ymmtのヒマつぶし放言でした。
付き合わせてゴメン!謝るから石とか投げないで!!