2008-08-05 「恋愛放棄」にまつわる個人的な話

お久しぶりです。
最近更新が滞りがちなのはネタがないのではなくて、書こう書こうと思いつつ、うまくまとまらないままネタばかりが溜まっていっているという状況なんですが、書けるものからぼちぼち消化していきたいと思います。
今回はその、これまで何度も書こうと思いつつ何となく書いてなかった記事の一つ、私自身の「恋愛放棄」についての話です。基本的に自分語りなので、大して面白い話でもないですが、少しばかりお付き合いください。
「恋愛放棄」という言葉は割と非モテ界隈特有の用語かなぁと思っていたんですが、実際にGoogleで検索してみるとそういうわけでもないみたいです。とはいえ、二番目にシロクマ氏のページ、三番目に喪男道と、非モテ関係のページが上位にヒットすることは確かです。
この二つのページを改めて読んでみて印象的だったのは、立場こそ違えどどちらも「恋愛すること」のメリット・デメリットについて語っているということでした。まぁ、「恋愛放棄」という言葉を使う以上、そうなるのは自然だとは思います(私自身も、喪男道に書き込んでいた際には「恋愛放棄」をメリットの問題として語っています)。が、私が最初に「恋愛放棄」を考えたときには、それは単純なメリットやデメリットの問題ではありませんでした。
以前こちらの記事などでちょっと書いたことがありますが、私の小学生時代は一貫して友人関係が極端に乏しく、クラスの中で誰かと話すことすらも滅多にないくらいで、休憩時間は基本的に図書室に入り浸りでした。それほど極端な状況になると、自分がクラス内での「異端」であることが当たり前になってきます。「スクールカースト」という言葉で表されるようなクラス内の人間関係や権力構造にも鈍感になります(考えても意味がないので)。当時のクラスメイトの名前は覚えていても、誰が人気者だったとかいうのは全く分かりません。覚えていないんじゃなくて、もともと意識していなかったし、意識のしようもなかったんですね。
今だからこそこのように整理して語れるわけですが、当時は私は「自分のこと」を語ることができませんでした。コミュニケーションから断絶されているということは、楽しかったとか辛かったとか、そういう感情すら語れないということでもあるのです。当然ながら作文は極端に苦手で、放課後何時間も残されても一行も書けなかったりしたことがよくありました。
唯一自己表現らしいことが出来ていたのは、三歳下の弟との「遊び」においてだけでした。弟と二人で、おもちゃを様々なキャラクターに見立て、手にとって台詞を語らせ、交互にロールプレイをしながら空想物語を作っていくというもので、テレビゲームやアニメ、時には小説などから題材を取っていました。今でも、その空想の世界でのいくつかの固有名詞や設定、出来事などのいくつかを詳細に思い出すことができます。ただ、弟との「遊び」の中での語りでは、私は現実の自分自身を語ることはできませんでした。「遊び」の世界において、私は私でなかったからこそ語れたのでしょう。
ともあれ、コミュニケーションから断絶されていた私にとって、「自分を語れない」ということは他のどんなことよりも決定的でした。自分を語れないということは、確固たるアイデンティティを何も持てないということであり、それは「自分には価値がない」ということと同義でした。もちろん「今から考えれば」そうだったということであり、当時にしてみれば「自分に価値がない」ということは空気のごとく自明のことだったので、特に意識していたわけではなかったのですが。
そんな状態にあって、恋愛するとかしないとかを現実的に考えられるはずもなく、ただ漠然と自分からは遠いものと考えていただけでした。自分にとっての「恋愛」を初めて意識的に考えたのは、中学に上がってしばらく経った頃で、その頃読んでいた一冊の本が原因でした。
中学に上がってから、幸運にも友人と呼べるような同級生に出会い、その友人が社交的な性格だったおかげで、学校でのコミュニケーション断絶状態は小学校に比べると改善されてきていました。相変わらず自分の感情や気持ちを表現することは苦手で、図書室にも入り浸ってはいたものの、それはそれでそういうキャラクターとして認知されつつありました。ただ、「自分を語れない」ということに端を発する「自分には価値がない」という感覚は、まだまだ強く残っていたと思います。
そうした中、中学二年の夏休みに入る頃、母の蔵書の中からたまたま見つけて読み始めたのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの書いた「第二の性」という本です。これは戦後の女性解放運動の一つのきっかけを作った著作として知られており、フェミニズムをかじった人ならよくご存知でしょう(当時の私はそんなことは知りませんでしたが)。フェミニズムにあまり詳しくない人でも、冒頭の「人は女に生まれない。女になるのだ」という一節はご存知かもしれません。
この本は、「女性の生涯において、女性が置かれている社会状況や抑圧」について中心的に述べています。当時中学生男子であった私がそれのどこに共感したのかといえば、やはり「語れなさ」でした。
女性は一般的に受身で依存的で主体性を欠くと考えられがちだが、そのように見えるのは女性に固有の特性によるのではなく、女性の置かれた「状況」に依るのだ、とボーヴォワールは言います。その「状況」を形作る重要な要素のひとつとして指摘されているのが、「自分の尊厳を他者(男性中心社会)に委ねざるを得ないということ」だったんですね。男性に認められなければ自身の価値=アイデンティティを自分で定められないということ、それはすなわち「自分を語れない」ということと同義です。それはあくまで「女性」について書かれたものではあったものの、自分自身の過去から現在までの「状況」と呼応するものでした。もちろん、最初に読んだ時はそこまで意識していたわけではないのですが、とにかく私は、この本を「自分に対して言われているかのように」読み、そして、本を読んで初めて「自分は何をすればいいのだろう」という掻き立てられるような思いを持ったのでした。
「第二の性」でボーヴォワールは、男女間の恋愛について数多くの事例を扱っていますが、その中にはデートレイプに類するような事例が少なからず出て来ます。「第二の性」に入れ込んでいた当時の私は、それらを女性の側に感情移入して読んでいました。性愛が暴力を伴うことがあることや、女性にとっての異性愛が常に妊娠などの恐怖とともにあることを、肌身に感じるように受け取った私は、本を閉じて「男性」としての立場に立ち戻ったとき、自分がどうしたらいいかを考え、こう結論しました。「これから一切、誰とも性的関係を持たないようにしよう」と。その考えから「恋愛放棄」という考えに至るのは、当時の私には必然のように思われました。
そういうわけで、13歳のとき、私は「恋愛放棄」を一人で心に誓ったわけです。とはいえ、当時の私は、それは特に難しいことでもなんでもないと考えていました。告白などの具体的なリアクションさえ取らなければ、誰かを「好きになる」ことがあったとしてもそれだけに留めておけば、「恋愛関係」を避けて通るのは簡単だと思っていたんですね。
ただ、簡単なことだとは思っていても、それには「自分で自分を規定し直す」という意味があったのではないか、と今では思っています。自分を語れなかった私にとって、それは重要なことだったのでしょう。
その後、中学三年の夏休みに私は「第二の性」をもう一度読み直し、学校の課題だった読書感想文をそれで書きました。それまで作文の類が全く書けなかったのに、その時はすらすらと筆が進んで自分でも驚いたことをよく覚えています。
ずっと後になって、ある女性に自分の恋愛観についてすこし語ったとき、その人から「自分の責任ばかりで、相手の責任を考慮に入れてないんじゃないか」と言われたことがあります。同様の感想を持った方もいらっしゃるかもしれません。13歳当時から私の「恋愛」をめぐる考え方もかなり変わりました。そのことはまた、次の機会に話すことにしたいと思っています。
最近更新が滞りがちなのはネタがないのではなくて、書こう書こうと思いつつ、うまくまとまらないままネタばかりが溜まっていっているという状況なんですが、書けるものからぼちぼち消化していきたいと思います。
今回はその、これまで何度も書こうと思いつつ何となく書いてなかった記事の一つ、私自身の「恋愛放棄」についての話です。基本的に自分語りなので、大して面白い話でもないですが、少しばかりお付き合いください。
「恋愛放棄」という言葉は割と非モテ界隈特有の用語かなぁと思っていたんですが、実際にGoogleで検索してみるとそういうわけでもないみたいです。とはいえ、二番目にシロクマ氏のページ、三番目に喪男道と、非モテ関係のページが上位にヒットすることは確かです。
この二つのページを改めて読んでみて印象的だったのは、立場こそ違えどどちらも「恋愛すること」のメリット・デメリットについて語っているということでした。まぁ、「恋愛放棄」という言葉を使う以上、そうなるのは自然だとは思います(私自身も、喪男道に書き込んでいた際には「恋愛放棄」をメリットの問題として語っています)。が、私が最初に「恋愛放棄」を考えたときには、それは単純なメリットやデメリットの問題ではありませんでした。
以前こちらの記事などでちょっと書いたことがありますが、私の小学生時代は一貫して友人関係が極端に乏しく、クラスの中で誰かと話すことすらも滅多にないくらいで、休憩時間は基本的に図書室に入り浸りでした。それほど極端な状況になると、自分がクラス内での「異端」であることが当たり前になってきます。「スクールカースト」という言葉で表されるようなクラス内の人間関係や権力構造にも鈍感になります(考えても意味がないので)。当時のクラスメイトの名前は覚えていても、誰が人気者だったとかいうのは全く分かりません。覚えていないんじゃなくて、もともと意識していなかったし、意識のしようもなかったんですね。
今だからこそこのように整理して語れるわけですが、当時は私は「自分のこと」を語ることができませんでした。コミュニケーションから断絶されているということは、楽しかったとか辛かったとか、そういう感情すら語れないということでもあるのです。当然ながら作文は極端に苦手で、放課後何時間も残されても一行も書けなかったりしたことがよくありました。
唯一自己表現らしいことが出来ていたのは、三歳下の弟との「遊び」においてだけでした。弟と二人で、おもちゃを様々なキャラクターに見立て、手にとって台詞を語らせ、交互にロールプレイをしながら空想物語を作っていくというもので、テレビゲームやアニメ、時には小説などから題材を取っていました。今でも、その空想の世界でのいくつかの固有名詞や設定、出来事などのいくつかを詳細に思い出すことができます。ただ、弟との「遊び」の中での語りでは、私は現実の自分自身を語ることはできませんでした。「遊び」の世界において、私は私でなかったからこそ語れたのでしょう。
ともあれ、コミュニケーションから断絶されていた私にとって、「自分を語れない」ということは他のどんなことよりも決定的でした。自分を語れないということは、確固たるアイデンティティを何も持てないということであり、それは「自分には価値がない」ということと同義でした。もちろん「今から考えれば」そうだったということであり、当時にしてみれば「自分に価値がない」ということは空気のごとく自明のことだったので、特に意識していたわけではなかったのですが。
そんな状態にあって、恋愛するとかしないとかを現実的に考えられるはずもなく、ただ漠然と自分からは遠いものと考えていただけでした。自分にとっての「恋愛」を初めて意識的に考えたのは、中学に上がってしばらく経った頃で、その頃読んでいた一冊の本が原因でした。
中学に上がってから、幸運にも友人と呼べるような同級生に出会い、その友人が社交的な性格だったおかげで、学校でのコミュニケーション断絶状態は小学校に比べると改善されてきていました。相変わらず自分の感情や気持ちを表現することは苦手で、図書室にも入り浸ってはいたものの、それはそれでそういうキャラクターとして認知されつつありました。ただ、「自分を語れない」ということに端を発する「自分には価値がない」という感覚は、まだまだ強く残っていたと思います。
そうした中、中学二年の夏休みに入る頃、母の蔵書の中からたまたま見つけて読み始めたのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの書いた「第二の性」という本です。これは戦後の女性解放運動の一つのきっかけを作った著作として知られており、フェミニズムをかじった人ならよくご存知でしょう(当時の私はそんなことは知りませんでしたが)。フェミニズムにあまり詳しくない人でも、冒頭の「人は女に生まれない。女になるのだ」という一節はご存知かもしれません。
この本は、「女性の生涯において、女性が置かれている社会状況や抑圧」について中心的に述べています。当時中学生男子であった私がそれのどこに共感したのかといえば、やはり「語れなさ」でした。
女性は一般的に受身で依存的で主体性を欠くと考えられがちだが、そのように見えるのは女性に固有の特性によるのではなく、女性の置かれた「状況」に依るのだ、とボーヴォワールは言います。その「状況」を形作る重要な要素のひとつとして指摘されているのが、「自分の尊厳を他者(男性中心社会)に委ねざるを得ないということ」だったんですね。男性に認められなければ自身の価値=アイデンティティを自分で定められないということ、それはすなわち「自分を語れない」ということと同義です。それはあくまで「女性」について書かれたものではあったものの、自分自身の過去から現在までの「状況」と呼応するものでした。もちろん、最初に読んだ時はそこまで意識していたわけではないのですが、とにかく私は、この本を「自分に対して言われているかのように」読み、そして、本を読んで初めて「自分は何をすればいいのだろう」という掻き立てられるような思いを持ったのでした。
「第二の性」でボーヴォワールは、男女間の恋愛について数多くの事例を扱っていますが、その中にはデートレイプに類するような事例が少なからず出て来ます。「第二の性」に入れ込んでいた当時の私は、それらを女性の側に感情移入して読んでいました。性愛が暴力を伴うことがあることや、女性にとっての異性愛が常に妊娠などの恐怖とともにあることを、肌身に感じるように受け取った私は、本を閉じて「男性」としての立場に立ち戻ったとき、自分がどうしたらいいかを考え、こう結論しました。「これから一切、誰とも性的関係を持たないようにしよう」と。その考えから「恋愛放棄」という考えに至るのは、当時の私には必然のように思われました。
そういうわけで、13歳のとき、私は「恋愛放棄」を一人で心に誓ったわけです。とはいえ、当時の私は、それは特に難しいことでもなんでもないと考えていました。告白などの具体的なリアクションさえ取らなければ、誰かを「好きになる」ことがあったとしてもそれだけに留めておけば、「恋愛関係」を避けて通るのは簡単だと思っていたんですね。
ただ、簡単なことだとは思っていても、それには「自分で自分を規定し直す」という意味があったのではないか、と今では思っています。自分を語れなかった私にとって、それは重要なことだったのでしょう。
その後、中学三年の夏休みに私は「第二の性」をもう一度読み直し、学校の課題だった読書感想文をそれで書きました。それまで作文の類が全く書けなかったのに、その時はすらすらと筆が進んで自分でも驚いたことをよく覚えています。
ずっと後になって、ある女性に自分の恋愛観についてすこし語ったとき、その人から「自分の責任ばかりで、相手の責任を考慮に入れてないんじゃないか」と言われたことがあります。同様の感想を持った方もいらっしゃるかもしれません。13歳当時から私の「恋愛」をめぐる考え方もかなり変わりました。そのことはまた、次の機会に話すことにしたいと思っています。
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でも、図書室って結構人がいてうざったくありませんでしたか?
休み時間には抜け穴から脱走。コレ。
図書室は学校にも依るかもしれませんね。私の通ってた小学校の図書室は、大抵いつも閑散としてましたよ。
>私の小学生時代は一貫して友人関係が極端に乏しく、クラスの中で誰かと話すことすらも滅多にないくらいで、休憩時間は基本的に図書室に入り浸りでした。
素朴に質問なのですが、そういう状態で、イジメにあったり、先生から目をつけられたり、学校での様子を聞いた親に何か言われたりしなかったのですか?
ていうのは、子供は大人より共同幻想が強いので、みんなと違うことを嫌います。また、教師の側からみれば小学校時代の烏蛇さんのような児童は「協調性の無い子」「クラスになじめない子」とみなされがちです。
私なりに考えられるのは、そういう子(この場合、烏蛇さん)がすごく成績が良い場合ですが。クラスでもトップクラスの成績なら、クラスメイトも「あの子は特別頭が良いから」(自分達と違うから)と、一人の友達とも付き合おうともしなくても別格扱いしてくれるし、大人は言うまでも無くですね。
実際のところは、どうだったんでしょうか?
回答は「両方ともYES」です。いじめに遭ったことも何度かありますし、学校の成績(主要四教科に限って)はトップクラスでした。
担任教師がどのように考えていたのかは分かりません。おそらく、「目をつけられていた」というよりは、クラスで一人孤立していた子どもでしたから、その分気を遣ってくれては居たんじゃないかと思います。(それが却って同級生の反感を買ったという可能性もありますが、何とも言えません。)
中学校の図書室は昼休みと放課後に開放していたのですが、昼休みの時間は相変わらずで(メンバーの半数は小学校と同じだから当たり前)、放課後は閑散。
中学一年生の頃の私はなぜか図書委員になってしまい、ある日の放課後、二年生の相方と仕事をしていたところ、私とは面識がない彼女のクラスメートが図書室に現れました。
「あ、○○(クラスメートの名)ー。んと、(こいつは)めびなー君ね。 でも 変 態 だから」
人の性生活は13歳で決定するということで、美しくまとまりました。
私はこの先輩と 男 の話しか記憶がないのですが! くやしいのう
すみません、脱字してたので訂正。
私の知っている範囲で恋愛放棄者と呼べそうな人々は、どれもレベル7の変態能力者で、現実世界では性行為不可能とか願望を現実にしたら即実刑判決とか、そんな有様なのですが、このエントリーの主旨は普通の人々である烏蛇さんが恋愛放棄という「思想」に至るまで、ということだと思うので別の意味で興味があります。要するに変態として!
>Masao_hate氏(ブクマコメントより)
>『いくら衝撃的だったとはいえ、13歳のときの決意を未だに実践しているなんて!』
いや、13歳の頃と今とじゃ「恋愛放棄」の意味合いがかなり違うんで、「決意」がそのまま続いてるわけじゃないのです。詳しいことは次の記事で書きますが。
>めびなー氏
>私の知っている範囲で恋愛放棄者と呼べそうな人々は、どれもレベル7の変態能力者で
あ、そうか。変態レベル高すぎて恋愛とかできないよ!って人も確かに居ますよね。完全に失念してました。
というか、めびなーさんの体験談の方が百倍くらい面白そうなんですけど! ブログを閉じてしまわれたのが実に残念です。
このエントリを読んだ限り、自分の経験と重なる部分があるので、そうした人が「現在」なにを感じているのかには、興味があるところです。
ところでモノバイとポリバイが議論とか煽り合いをする場面に何度か遭遇したことがあるのですが(ヘテロセクシャルやホモセクシャルの人々は何故かバイセクシャルの人々ほどモノポリで議論しないような気が)、ポリガミーの人のお話を聞くと、たとえば
「順位を付けないとかえって付き合ってる相手に悪いと思うから、あえて彼(女)らに序列をつけることにしているんだ」
というような事を言っていて、ボーヴォワールとサルトルが思想とか信条でやっていたこととは相当に違うんだろうなぁと思いました。どっちがいいとかそういう話ではないですが。
あと、変態性の違いによりブログは解散しました!