橋本久仁彦さんと坐・フェンスの「きくみるはなす神奈川(神木坐)等覚院〜春風縁坐舞台」に参加して

劇団が紡ぐのは、そこに居合わせた参加者の声。居ずまい。あり方そのもの。

それらを修練に鍛錬を重ねた彼らの「別次元の視力と聴力」で見徹し、そこに潜む本質の部分を、舞台芸術として昇華させるというものです。

存在の本質にふれた、という手応えがあるまでは、眉一つ動かさず、静慮し、ただ坐っています。

今回はその視力・聴力の特別稽古のワークショップ。

きいたこと、みたこと、かんじたことのメモをまとめておきます。



その人がいることを成り立たせる”場所・土地””時間”を知ると存在に触れてくる感じがする。


細かく自分の来歴を説明するよりも、いつどこで生まれてどこに住んでいるのか”場所・土地””時間”、存在に関わることを聴くだけでつながっていく感じがする。


シンプルに、同じ土地の出身だったり、同い年だったりするだけで親近感が湧いて仲良くなることは実感していたけど、ただそれを伝えるだけでいい、来歴語らなくてもいいというほどまで言いきる強さ。


物語を構成する”場所・土地””時間”がそこまで人がつながるということに作用している。



ある場所・空間に4人の人がただいたいようにいてみる、移動して4つのシーンをつくる、周りの人はそこにいた人と佇まいを観る。


「さっきまでその場所にいた人たちが観える気がする」「そこにいるだけで絵になる」


時間と場所に人の存在が宿る。いるためだけにいると周りが引き立つ。
不思議と人にも場所にも愛着がわく


掃除をすることの大切さは頭ではわかっていたけれど、自分がいる場所・土地に自分の存在が宿るから、そこを綺麗に整えて保つことが大事なんだと僕は腑に落ちた。




”変える”のではなくて、”還る”


閉じているからつなげる必要があると観るのと、
最初から開かれている・つながっていると観るのとでは、
意識も行動も変わってきそう。


ダメだから変える必要があるのではなくて、
もともと素晴らしいから還るんだ。
この意識転換は別次元の感覚とかかわり合いになっていきそうだ。


人はもともと個としては生まれていない 一体だった
赤ちゃんは母親の眼差しの中で動く
眼でついていったものに人の存在が憑いていく(宿る)
観るものと観られるものがつながって一体となる


自分が観られていないと感じることで自分と他人が分かれていく
人はみな、初めから相手とつながるを知っている
赤ちゃんの時のような感覚に戻れたらいい。


参考:きくみるはなす神奈川(神木坐)等覚院〜春風縁坐舞台