ergo sum

2017-09-19

[]「ぶっちゃけ・・・」


無事出張が終わって帰国した。まだ時差ぼけで、夜眠れないので、ブログを書くことにした。


さて。8月末のことを書き忘れていた。

一言で言うと、ものすごく「奇妙な」一日だった。

その日は肺の方の5年目の検診だった。節目の年なのでCTとMRIを両方やりましょうという主治医の提案があり、私も初めてのMRIに備えていろいろとイメージトレーニングをしていた。これさえクリアできれば、ほぼ無罪放免、すごく気が楽になる。がんばろう!

で、当日病院に行ってまずCTを受けた。その後のMRIを受けようと思って書類を見たら・・・なんとMRIだけはその前日に設定されていた。

うわーー!しまった!家庭のことに呆けていて、日付確認を忘れた。主治医と病院にたいへんな迷惑をかけてしまう。反省した。

MRIの日程を取り直すには主治医の診察を受けないといけない。その日たまたま診察日だったので、予約なしで待ち、2時間後に主治医に対面した。

「申し訳ありません、私の不注意で、MRIの日付を間違えてしまい、たいへんなご迷惑をおかけしました・・・」と平身低頭に謝った。

すると主治医は、忙しすぎて怒ることも忘れていたのか、機械的に出来上がったばかりの私のCT画像をシュルシュルとスクロールさせて病変をチェック。

「これが今回、これが前回。はい、変化ありません」

「MRIの件では本当に申し訳ありません、そちらの予約も・・・」

「ああ、そーかー。このCTは今日のだったのね。どうりで病理のレポートが上がってないと思ったよ。あ、MRI? もうやらなくていいですよ」

「はい?」

「変化ないんだからやる必要ないでしょ、それより・・・」

といいながら、過去の何枚かのCT画像を出して見比べている。「うーん、うーん、あれえ?」

なんか変な声を発しているので、不安になる。新しい陰影でも見つけたのか?

「こっちが手術直前なんだけど。うーん。どこだったんだろう?」

「? どこって、気管支寄りのその辺ですが」

「それはそうなんだけど・・・これ・・・よくわからないなあ」

「実は手術直後のCTを撮り忘れていたので、術前の1、2回と術後半年くらいのCTしかないのです。それで術後半年のいくつかの陰影が、再発なのか手術痕なのか、よくわからない状態で・・・当時の執刀医の先生も、他へご栄転されたにもかかわらず、心配してこちらにお伺いのメールをくださいました」

「いや、心配があったとすればね、ほら、ここは動脈に近いので手術しづらい場所ではあるんです」

「断端が十分であったかとか、ステープラーがどうとか、心配されていたのですよね」

「まあそうなんだけど。本当にそうだった?」

「? えーと、先生によれば野口分類はBで、再発は100%ない、とおっしゃりつつも、その後のメールでは5年や10年は大丈夫というあいまいな言い方をされていましたが・・・」

「それはまあ。病理でがんが確認されたし、摘出した写真もあるわけだし」

「マーカーもいつも高いです」

「ただねえ・・・言っていいのかな・・・内緒ですよ」

と、先生は小声で私の耳元に囁いた

「ぶっちゃけ・・・これ、手術しなくてよかったかもしれない」


なんと。これはびっくりした。

だがいろいろな状況が腑に落ちた。

もちろん結果的にがんがあったのは確かだ。ただ小さなGGO(ガラス状陰影)については、現在のガイドラインでは経過観察が一般的だ。それなのに執刀医は手術した。なぜならば、彼はG研からこの病院にやってきたばかりであり、私を対象にして、この病院で初めて肺がんの胸腔鏡下手術を行い、業績を作る必要があった。そして結果として2年後には別の県の著名な某がんセンターにご栄転されている。こういう理解が可能だ。

初診のときのCTと比べて3ヵ月後にはGGOが充実化している、つまりこのまま放置しておけばもっと大きくなる恐れがある、と言われたから私も手術に同意したのだが、その判断が適切であったかどうか、勇み足ではなかったか、という疑いが残る。彼はとにかく切りたかったのではないか。

執刀医が心配していたのは、術中にミスをしたからではなくて、不要でありながら難易度高めの手術を恐る恐る行ってしまい、なにかトラブルが起きやしないか、ということだったのか。

もちろんあくまでこれは現在の主治医の仮説にすぎないし、私も執刀医に対して怒る気持ちは全くない。不安を抱えて何年も経過観察するよりも、がんを取ってしまった方が気分はすっきりする。ただし、それが同時にリスクを抱えていた、ということは今になって理解した。不要にメスを入れて、侵襲によってがんを拡散させたら元も子もないからだ。

というわけで、今回はMRIを取ることはせず、2月に再度まとめて検査しましょうということになった。この8月で5年目検診をクリアしてすっきりさせるという当初の予定は狂ってしまい、先へ持ち越された。

狐につままれたような気持ちで私は病院を出た。

この五年間の「自分は(れっきとした)肺がんだ」という重たい気持ちと、

もし手術しなければ、「かもしれない」モードで過ごしたであろう日々を比較すると、ずいぶん違う。

色で喩えるならば、限りなく黒に近い濃灰色の気分と、限りなく白に近いグレーの気分。

どちらがよかったかは一概に言えない。

だが、もしかしたら、私は「肺がんではない人」としてこの5年を送っていたかもしれない。

多くの恐怖や不安や自己憐憫がなかったかもしれない。

だって肺がんの怖さは乳がんの比ではないもの。


だが社会としてはよくある話だ。銀行の窓口で行員が高齢者に不要な金融商品を売りつけたり、さんま一枚を買おうとしている客に魚屋が「3枚だと500円にまけとくよ!」と言って多めに買わせたり。それは犯罪ではないし、購入した側の責任になる。

問題は、私がこの経験で何を学んだか、だ。

その意味ではこの5年間は無駄ではなかったと思う。

だけど、やっぱりハードだった。もうちょっとのんびり過ごしたかった。

はああ・・・

2017-09-03

[]

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ヨーロッパに出張中です。仕事の後、突然思い立ってドイツの超田舎を回ってみました。日本人なんか誰もこないような、スイス国境のそばです。

雲のかたちが面白かったので写真を撮ってみたら、私にしては珍しく撮れていたので、アップします。

雲って好きだなあ。

2017-08-19

[] 魂と重力

みなさま、お盆休みはゆっくり休養されたでしょうか。蒸し暑い日が続くので、体には負担が大きい季節ですね。

ブログまでお休みになってしまって、本当に申し訳ありません。


それほど時間が経っていないつもりなのに、あっという間に時間が経っていた。時間が数珠繋ぎに流れている感じだ。家庭でいやなことが続いていて、もっか戦闘中。

そんなときにたまたまシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』を読んだ。重力というのは、魂が上へ行ったり下へいったりする動きのことで、なぜか不可避的に魂というのは下がりがち、つまり悪い方に行きがちなのだそうだ。たしかに、私の魂も、放っておくと、嫌なことやくだらないことでいっぱいになってしまう。

ヴェイユは戦時中の、配給の卵一個貰うのに10時間も行列する例を挙げて、こう言う。


食料確保の行列。おなじ行動であっても、原動力(モビル)が低劣なときのほうが高邁なときよりも、たやすく実践できる。〔…〕


普通なら、10時間の行列は「生きるための努力であり忍耐である」と美化されるところだろう。だが消費カロリーのプラスマイナスを考えたら無駄な行為で、実は「卵」とか「食べ物」という卑近な動機に従属しているにすぎない。こういう思考停止が無言の戦争への合意につながる。

魂の動きを重力やエネルギーでとらえるヴェイユの直感的な発想は面白い。そういえば彼女の兄は天才数学者のアンドレ・ヴェイユであった。


あることを実行せねばならない。だが、どこからエネルギーを汲みとるのか。高邁な行動も、ひとしく高邁な次元で利用しうるエネルギーを欠くなら、行動する者を低めうる。〔…〕行動の目的と、その行動に供されるエネルギーの次元とは、別物である。


たとえば、正義のための立派な戦争であったとしても(そんなものないのだが)、目先の戦う動機が「上官に叱られたくない」「同期を見返したい」というような低い次元のエネルギーを用いている場合は、それ自体、よろしくない。

高邁な目的のためには高邁なエネルギーでもって臨まなければならない。

なるほど。ちょうど今の自分に当てはまる。そういえば、時間が無駄に流れるのも、エネルギーの使い方が間違っていたからかもしれない。

正義のための、将来のための、子供のための、立派な行為であったとしても、目先の動機が、悔しさとか、意地とか、むしゃくしゃしていたからとか、そのようなエネルギーを使っている場合、それは心にも体にも良くない。

この発想は、体の使い方と似ていると思った。何も考えず、手羽割鶏みたいに、腕先だけを適当にいつもの関節でぶんぶん振り回しても、それは絶対に美しくないし、体にも良くもない。美しい動きをしようと思ったら、体のアラインメントを整え、明確なイメージをもちながら内側から動かさないといけない。

エネルギーの質と、目的は連動する。

肝に銘じよう。


重力と恩寵 (岩波文庫)

2017-07-17

[] こんなものが・・・

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文字通りの猛暑が続きます。

みなさまお元気でしょうか。

どうぞ無理なく、休むときは休んでお過ごしください。


いろいろな業務が重なって更新ができずに申し訳ありません。


さて、こんなものを見つけた。

なんとプラシーボ用の偽薬が市販されていた。

プラシーボ効果とは、思い込みだけで病状が改善することを言い、実際に薬と偽って投与した人の約16%にはプラスの症状が現れる。

だから治験ではそれ以上の効果をあげないといけない。

この薬、中身はただのサプリメントなのだが、対象実験以外にも使い道が多いらしい。不定愁訴を訴える患者に飲ませて黙らせるなど、介護現場でも使用されているとのこと。なるほど。しかも16%に効果があるのだから、効くか効かないかわからない抗がん剤よりも、確率的には有効であるかもしれない。面白いなあ。

信念の強い人であれば、「これは**に効く薬だ」と思って毎日一錠ずつ飲めば、きっと一年後くらいには効果が出るかもしれない。やってみようかな。

2017-06-26

[] どうしてがんで死ぬのか

いつものことだが、有名人ががんで亡くなると一時的にそのがんに注目が集まる。今はちょうど乳がんや肺線がんが話題になっている。

歌舞伎俳優の妻の件については、最初の健康診断では疑わしいと出たものの、行った先の病院が「がんではない」と診断してしまったこと、その後一年くらい治療を行わなかった(あるいは民間療法か?)ことなどが取りざたされており、すぐに手術していれば助かった可能性があったことが悔やまれる。

興味のある方はこちらなど

彼女に、静かに合掌したい。立派な人だったと思う。

なお、彼女も、それからボクサーの膀胱がんの人も、初診を行ったのは「知り合い」の医者であり、だからその医者の誤診を信じてしまったというケースが比較的多いことに気がつく。医者は相手を安心させようとしてポジティブなことを言う傾向にあるし、相手もそれでは疑えない心境になるのだろう。


こんな記事もみつけた。

「人はどうしてがんで死ぬのか」

病理医の立場から言うと次のように分類されるらしい。

1.臓器を破壊する

2.せき止める(梗塞、リンパ管症など)

3.出血する

4.栄養不足(悪液質)

5.血液の異常

実際には肺炎などが多く、がんは直接の死因にはなりにくい、と聞いたことがあるが、上記の5つに入れば死亡診断書の死因は「がん」になるのだろうか。診断書はまた別の話かもしれない。

5.の血球貪食症候群とか腫瘍崩壊症候群は知らなかった。血中の電解質が異常になって死につながることもあるらしい。

2017-06-16

[] 引越し

ご無沙汰ごめんなさい。

無事引越しが済んだけれど、PCの復旧に時間がかかった。

私の職場と子供の大学にかなり近くなったのでたいへん助かっている。

とはいえ、日々の仕事をこなしながらの引越しで、することが山のようにあって消耗する。

引越し前に捨てようと思ったものが捨てられず、そのまま運ばれてしまったので、再度整理しなければ。

断捨理の機会なのでがんばりたい。

今度こそ、システマチックにものを管理したいものだ・・・

2017-05-29

[] 不健康な痩せ方

運動や食事制限による健康なダイエットではなく、ストレスで不健康に痩せるパターンを過去数回経験している。

職場での大きな派閥争いに巻き込まれたとき。

がん再発の疑いがあったとき(幸いその事実はなかった)。

子供の問題があったとき。

そして今回(引越しと家庭トラブル)。

一度に3、4キロ痩せる。


努力しなくて痩せられるのだから良いではないかと思われるかもしれないが、けっこう困る。

痩せ方が違うのだ。

健康なダイエットは、全体的に脂肪が落ち、基礎代謝が上がって痩せる。

だがストレス痩せの場合は、普段使っている筋肉の周りしか痩せない。

だから、腕がガリガリになり、顔がガリガリになる。

腕の筋肉だけは日常使っているし、顔も食事する限り顎回りの筋肉は必ず使っているから痩せるのだ。

その結果、ますます貧相な姿になってしまい、みるからにやつれてしまう。

減ってほしい腹回りの脂肪などは、間違っても減らない。


先日久しぶりに恩師にお会いした。恩師はご高齢で、最近は腎臓の手術をされたとかで、皆が気遣っていた(たぶんがんだろう)。私も丁重にご挨拶したのだが、

「お痩せになりましたね。大丈夫ですか?}

と逆に心配されてしまった。

元気に振舞っていたつもりだったが、自身の死を覚悟した年配者としては、何か感じるところがあったのだろうか。

そういうかたちの労わりは、それでも、温かく、うれしかった。

だが、先生を心配させちゃいけないなあ。

もう少しふっくらとしたいなあ。

2017-05-05

[] 最近ビタミンCを飲んでいない

みなさま、連休は楽しく過ごされましたでしょうか。子供がいると、行楽地に出かけなければならず、かえって疲れるものです。この土日だけでも休みたいですねえ。


さて。最近ビタミンCを飲んでないな、と気づいた。

ほかにもいろいろなサプリを飲んでいるが、ビタミンCといえば基本中の基本。

その効き目云々の話ではなくて、私が何かにかまけるとすぐに自分の体のケアを忘れてしまう癖があり、その基準になるのが経験的にビタミンCの摂取なのだ。


そういえば乳がんが発覚したときも、その前の数ヶ月はサプリメントどころではなかったし、自分の体に触れたり、見たりすることを忘れていた。

それで、お風呂場で偶然胸に触れて、しこりにびっくりした次第だ。

しまった、という感じだったと思う。

もっと前に気づくべきだったのに。

なんでこんなに気づかなかったんだろう。

前の職場で大きな騒動に巻き込まれたときも、サプリどころか、毎日同じ服で、髪もセットせず、めちゃくちゃに気のぬけた格好で通勤してた。(そのころはまったく洋服を買わなかったので、1年間の被服費がすごく低かった)

子供が無事大学生になったのはよいものの、職場でも家庭でもなにかとトラブル続きで、最近は平常心ではなかった。

うん。

こんどはビタミンCをちゃんと飲もう。

いくら心がいらいらしたり、折れたりしても、自分の体ときちんと向き合おう。

風呂上りのボディークリームもちゃんと塗ろう。

耳マッサージもしよう(餃子みたいに折りたたむ)。

足首回しもしよう。

2017-04-18

[] ほとんど無に等しいこと


一匹の犬の死について

近親が病人に、子供が老人に、ある看病人が患者に、というふうにつくされるあの親切が私は好きだ。枕の位置を変えることは大したことではない。しかし、ほかにしてあげられることが何もない時には? 

人は自然に(神に、とは私は言わない)少しずつ寿命を縮めるという労をとってもらい、その上で可能な程度、すなわちほとんど無にも等しい程度で、自然に逆らうわけである。この<<ほとんど無にも等しいこと>>が私を感動させる。それが人間性の周辺である。(グルニエ『地中海の瞑想』より)

がんの標準治療を行うことで、統計上は5年生存率が3.7%上がるとする。だがその3.7%に入らない96.3%の人にとっては、効果がなかったか、それともすでにがんが無くなっていて無用な治療だった。また3.7%に入った人も、必ずしも完治したわけではなくて死亡時期が数ヶ月遅れるだけかもしれない。このようなことに対して、多額の医療費や多大な副作用を引き受けるのだから、費用対効果はけっして高くない。というか、不条理なレベルだ。

だからがん治療は無駄だ、製薬会社が儲かるだけだ、と言うのはたやすい。

また自分だけに画期的な効果が出て、自分だけは完治できる、と信じるのは愚かしい。

だが、治す側も、治される側も、それが<<ほとんど無に等しいこと>>と知りながらもあえて自らの意思で自然に逆らうなら、それには何か意味があるかもしれない。そもそも人間に「可能な程度」は<<ほとんど無に等しい程度>>なのだから。それが人間なんだから。


それを実感するのは、マンガ『ブラックジャックによろしく』の6巻から始まるすい臓がんの女性の話だ。何の知識もない普通の主婦が最後に治験としての化学療法を自ら選択する。それは彼女自身のためだからだ。

がんは薬や手術で治るようなものではない。がん治療の本質を知るにはこのマンガが一番優れていると思う。もちろん、ちょっと古いので副作用などは誇張されているけれど。なおこの漫画は著作権の問題のため、オンラインで無料で読めるので、ぜひご覧あれ。

https://bookstore.yahoo.co.jp/free_magazine-184583/

(今日は子供が部活動なので、急いで帰宅して晩御飯を作らなくて済む。久しぶりに職場でのんびりできたのでブログをアップしてみた)

地中海の瞑想 (1971年) (AL選書)

2017-04-16

[] 『癌だましい』


今日は部屋の片付けをしていた。

以前読んで発掘された本があったので、久しぶりに読書メモを残しておこう。


「うっ、つっつう」

背を丸め、痛みに耐えて飲み込んだ食物は狭窄部で停留し、今来た道を引き返す。どれほどどろどろになろうと狭窄部は通らない。液体、それも粘度の低い、水かお茶の類でなければ通っていかない。行きも帰りも痛みを伴いながら、食材は形を変えて麻美の口から溢れ出す。それをすかさずボウルに受ける。粘度が高いため、入った分がそのまま出てくるわけではない。まだ食道のどこかにひっかかっている。(p.22)


山内令南さんの『癌だましい』だ。独り身の食道がんステージ4の女性が、これでもかと儀式のように食べ物を口に詰め込んでは吐き出す場面から始まる。すでに食道が狭窄しているので、食べ物は下へ降りていかない。だが食べることへの執着は消し去ることができない。

不安の克服とか、精神的成長とか、死の受容とかいった、作られた「がんストーリー」の対極にある壮絶なリアルだ。だから面白い。

食道がんといえば、父が罹った病気でもある。そういえば、入院中に誤嚥性肺炎予防のために絶飲食になってもなお、隠れてコンビニ弁当やサンドイッチを買って食べていたなあ。主人公の女性と同じ心理なのだろう。

「食べてはいけない」から「食べたく」なる。

この作者は絶対に食道がんの患者だろう。未経験者にこんなシーンは書けない。そう思ってあとがきを読んだら、文学界新人賞受賞の約一ヵ月後に52歳で食道がんで亡くなられたとのこと。早すぎる。もっと書いてほしかった。

彼女の遺稿になった『癌ふるい』も文庫本に収録されている。これは別の意味で面白い。食道がんのことを伝えたさまざまな知人たちからの返信のメールが、これでもかという具合に列挙されている。驚き、同情、当惑、欺瞞、気休め… どれであるにせよ、患者本人にとっては、患部の炎症が逆なでされるような不快なものであることに変わりはない。私は腹が立って仕方がなかった。それが作者の狙いだったのだろう。(それともがんの経験がないと、違う読み方になるんだろうか?)

癌だましい