ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 母が気合で娘を育てると

引き続き中島梓さんのことを書きたい。年齢は彼女の方が一回り上だが、なんだか他人とは思えないのだ。というのも、戦後の日本で、教育ママが気合を入れて「娘」を育てるとこうなるぞ、っていう典型みたいな人だからだ。『赤毛のアン』や『ピーターラビット』やセサミストリートに囲まれて育ち、可愛いもの、おいしいもの、外国の豊かなライフスタイルに徹底的に憧れる。彼女の最後の闘病本『転移』も、記述の8割は「食べ物」と「買い物」の話だから、がっかりする人もいるだろう(まあ日記だから仕方ないのだが)。ハンバーグを食べた、といわずに、いちいち「紀伊国屋のハンバーグ」「麻布のナショナル・スーパーのまんじゅう」とブランド名が入る。パンやバターを基調とした「おしゃれな」洋食にせよ、差異化と上昇志向にせよ、乳がんになるなるべくしてなるようなライフスタイルだ。最期までこの人は、文化資本の獲得競争、つまり「可愛い&金持ち」化競争のなかに生きていた。――そういう「女の子」は私の周りにもあふれている。極端な例では、帰国子女以外は絶対友人にしない、と決めている友人とかねぇ(笑)。
そして中島さんは浪費癖(彼女は着物派で、直前まで高価な着物をたくさん買っている)、拒食症、不眠症などの問題をかなり昔からかかえていた。晩年の彼女を苦しめたのも、実は病気そのものでも、抗がん剤の副作用でもなく、持病の拒食症と不眠症だった。それが日記につらつらと書かれている。寿命を定めたのはがんかもしれないが、彼女を苦しめたのは彼女自身だったのかもしれない。
そして、なぜそんなに苦しむのかというと、母親との深甚な葛藤があったからだ。ここからは一般論だが、第一に、そういう気合の入った母親は恋愛市場における娘の市場価値にとても敏感で、必ず娘の外見についてとやかく言って、娘を傷つけている。「顔が大きすぎる」「その歩き方、みっともないわ」などと。第二には、娘を通して自分の夢を実現させようとするから、娘の性愛に関与し、管理しようとする。それで傷つかない娘はいない。これについては田嶋陽子氏の『愛という名の支配』がおすすめです、すごく実感する。
(yoccyannさんが薦めてくださった)小倉千加子『結婚の条件』に至っては、全ての「娘」は母親に傷つけられているので、異性と付き合ってちょと楽しかったり、家庭にいるよりちょっとでもましだったりすると、それだけでもう、それが「愛」であり「幸福」であると錯覚してしまう、と断言しておられる。私たちはそれくらい母に傷つけられ、抑圧されている。たしかに母親から逃れるために結婚する女性は多いんじゃないかなあ。中島さんはたしか出版社の担当者の男性と結婚したのだが、これもさっさと母親の呪縛を逃れるために、手近&支配下の男性をゲットしたのかもしれない。なおwikipediaによると、彼女は拉致被害者のめぐみさんについて、「結婚して子供もいるんだからかえって幸せじゃないの」というような発言をしたそうである。こういう発言をする女は少なくない(青学の瀬尾もそうではなかったかな)。「結婚&子供」=「外面的な幸福」=「それだけで他人に勝てる」という優劣の発想だろう。もちろん、結婚しようがしまいが、拉致されること自体は不幸なことであるし、第三者が他人の「幸福」を忖度する権利は、誰にもない。
それで、中島さん、日記のなかで、「いつか自分の母親との葛藤とそれを乗り越える話を書きたいが、もうその時間はないかもしれない」、と書かれていた。代わりにライフワークのグイン・サーガ系や恋愛小説を執筆されていたようだ。タイムリミットが近づいた今、そちらの方が大事だという判断だろう。それでも彼女は、そのロマンチックな世界を自分の手で作り続けることができたのだから、本望なのかもしれない。
なお、彼女が憧れていた森茉莉(鴎外が溺愛した娘)について、茉莉の「薔薇と硝子の部屋」が実際は「ゴミだらけの部屋」にすぎなかった、と書いている。「乙女」は虚妄の世界でしかないこともわかっていたんだなあ。だけれども「自分だけは」その虚妄の世界に逃げなければならず、そうやって他の女に勝たねばならない――そんな必死な義務感がにじみ出てくるよ。50歳過ぎてピーターラビットはおかしいよ?母親による洗脳は最後まで続いたということか。まじめな人だったんだと思う。天国はね、もう誰とも争わなくてもいいし、誰の目も気にしなくていいんだよ。・・・なんだか書いていて自分が切なくなってきた。

愛という名の支配 (講談社プラスアルファ文庫)結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)