ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

魂と重力

みなさま、お盆休みはゆっくり休養されたでしょうか。蒸し暑い日が続くので、体には負担が大きい季節ですね。
ブログまでお休みになってしまって、本当に申し訳ありません。


それほど時間が経っていないつもりなのに、あっという間に時間が経っていた。時間が数珠繋ぎに流れている感じだ。家庭でいやなことが続いていて、もっか戦闘中。
そんなときにたまたまシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』を読んだ。重力というのは、魂が上へ行ったり下へいったりする動きのことで、なぜか不可避的に魂というのは下がりがち、つまり悪い方に行きがちなのだそうだ。たしかに、私の魂も、放っておくと、嫌なことやくだらないことでいっぱいになってしまう。
ヴェイユは戦時中の、配給の卵一個貰うのに10時間も行列する例を挙げて、こう言う。

食料確保の行列。おなじ行動であっても、原動力(モビル)が低劣なときのほうが高邁なときよりも、たやすく実践できる。〔…〕


普通なら、10時間の行列は「生きるための努力であり忍耐である」と美化されるところだろう。だが消費カロリーのプラスマイナスを考えたら無駄な行為で、実は「卵」とか「食べ物」という卑近な動機に従属しているにすぎない。こういう思考停止が無言の戦争への合意につながる。
魂の動きを重力やエネルギーでとらえるヴェイユの直感的な発想は面白い。そういえば彼女の兄は天才数学者のアンドレ・ヴェイユであった。

あることを実行せねばならない。だが、どこからエネルギーを汲みとるのか。高邁な行動も、ひとしく高邁な次元で利用しうるエネルギーを欠くなら、行動する者を低めうる。〔…〕行動の目的と、その行動に供されるエネルギーの次元とは、別物である。


たとえば、正義のための立派な戦争であったとしても(そんなものないのだが)、目先の戦う動機が「上官に叱られたくない」「同期を見返したい」というような低い次元のエネルギーを用いている場合は、それ自体、よろしくない。
高邁な目的のためには高邁なエネルギーでもって臨まなければならない。
なるほど。ちょうど今の自分に当てはまる。そういえば、時間が無駄に流れるのも、エネルギーの使い方が間違っていたからかもしれない。
正義のための、将来のための、子供のための、立派な行為であったとしても、目先の動機が、悔しさとか、意地とか、むしゃくしゃしていたからとか、そのようなエネルギーを使っている場合、それは心にも体にも良くない。
この発想は、体の使い方と似ていると思った。何も考えず、手羽割鶏みたいに、腕先だけを適当にいつもの関節でぶんぶん振り回しても、それは絶対に美しくないし、体にも良くもない。美しい動きをしようと思ったら、体のアラインメントを整え、明確なイメージをもちながら内側から動かさないといけない。
エネルギーの質と、目的は連動する。
肝に銘じよう。


重力と恩寵 (岩波文庫)