家の中の他者

レヴィナスは、主体として立ち上がることを「家にあること(chez soi)」と捉えた。普通の解釈であればこの「家」を、「個人」が主体として立ち上がる事態と捉えるのが適当と考えられるが、しかし、これを「法人」と捉える余地があるのではないか、と最近考えている。つまり、「個人」も「家庭」も、ひいては「企業」も、あるエコノミーの中で主体として機能することにおいて、等しく「法人」という意味に捉えるわけである。

そんな風に考えると、次のような本も、哲学屋があくびをせずに読めるようになる。

ビジネス・エシックス (講談社現代新書)

ビジネス・エシックス (講談社現代新書)

この本は、日経新聞の出身者が、その後大学の先生になり、「ビジネスエシックス」の入門の名のもとに、「日経クーデター」と呼ばれる造反事件をリベラリズムの立場から擁護する、そして、日本的な「ムラ社会」にどっぷり浸った企業を自律的な個人の集合へと変革していかなければならないと声高に訴える、というもので、まあ、いってみれば、今日的な理論状況を報告してくれて大変有用ではありながらも、結局のところ新聞レベルのリベラルで簡潔な主張に還元されてしまうものですが、こうしたことも、主体性と家との連関で考えると面白く読める。

つまり、「家」の中には様々な人が入っているが、その内部の個々人は必ずしも「主体」として立ち上がるわけではなく、社会的な主体として立ち上がっているのは、「家」でしかない。レヴィナスの、ジェンダーバイアスばりばりな表現に従っていえば、「女性的なもの」のうちに抱える「家」の中では、少なくとも「女性」は主体として立ち上がることがないわけで、そうした様々な人の連関によって「家」というひとつの主体が成立するということですね。これは、企業に関しても全く同じでしょう。企業と雇用者の関係は恋愛関係に近いなどということが、先頃他のブログで話題になってましたが、本質的に雇用者は、企業の社会的な主体に「自己」の主体性を預け、そこに転移することによって「家」の中に組み込まれる「女性的なもの」だということもできる。サラリーマンを積み上げて社長になったようなひとも、本質的には会社というファルスに寄り添う「女性的なもの」であるわけです。そこでは、おそらく本質的に、個々人が主体として振る舞うことはできない。この本でいみじくも指摘されているように、アメリカにおいてすら、企業内の個人は、アメリカ国民としては無条件に適用されるところの権利を制限されるというのはその点を表しているといえます(p24、65)。

で、問題は、こうした形態の企業を、「啓蒙」によって自立した個人の集合へと変革するべきなのかどうか、ということ。この本の著者は、そうした家の中におかれている個人の状態を「おぞましいもの」と捉えて、個々人の自立的な主体が、いつでも執行部の不正を告発する「ホイッスルブローイング」を行えるようにするべきだと訴えるわけです。そうした「内部告発」は、ダスカというひとがいっている(らしい)ように、企業を自立した個人の集合と見なせるのであれば、単な企業に対する「不忠」ではなく、正当な権利の行使として見なしうるものでしょう。ですが、少なくとも、そうした「リベラル」な状態が、徹底した「啓蒙」によってはじめて成立するものである以上、家の中において転移的な関係にある個々人が、「ホイッスルブローイング」に対して、それを「家」に対する「不忠」であると感じること自体は、ごくごく自然的な感情として受容しなければならないことになります。つまり、「リベラル」な状態を、ある種のプロテスタント的な予断に照らして望ましい状態と記述することはできても、ダスカのようにあたかもそれがはじめから人間の性質として盛り込まれていると考えるのは転倒していることになるわけです。家が家であるために、「ホイッスルブローイング」という不忠は断罪されるなければならない。善し悪しは別にして、それは、一端は「当然」のことと受け止められる必要があります。

そのうえで、「どうすべきか」を考える必要がある。個人的には、アメリカ的なリベラリズムを普遍原理として疑わないような著者の立場はかなり問題ですね。この本の主張によれば、家の中において自立した個人が合議によってすべてを決定するというリベラルな状態がもっとも望ましい家のあり方であることになりますが、しかし、例えば、大学の教授会などで実現されている「直接民主制」は、実際どのように機能しているでしょうか。非効率極まりないやり方でひとつひとつの事柄を決定していく、という時間的なコストの問題とは別に、構造的な問題もあります。合理的な理性の集合であっても、実際の「合議」を取り付ける際には、やはり何らかの転移的な関係を前提にしているのではないかということです。各人が各人の理性において判断を下すのであれば、原理的に合意に達することは不可能でしょう。ある統一的な判断を下すためには、大文字の理性のようなものが必ず必要になります。もちろん、ここでは、各人の理性は、ある洗練を受ければ必然的に大文字の理性になりうるなどというキリスト教、とりわけプロテスタント的な前提をとることは暴力として拒否します。つまり、「自己」でありながら大文字の理性と合致するということは本質的に不可能であるという立場をとります。その限りにおいて、全く異質でありうる他者のとの間に形成される合意とは、自己が自己であることを宙づりにするような転移的な関係を必然的に経なければならないことになるわけです。つまり、何をいいたいかといえば、合理的な個人が理性的に正しいことを選択するというのはフィクションにすぎず、家の中の「おぞましい状態」を回避するための方策として実は有効ではないということですね。

それゆえ、必要なのは、これまたレヴィナスに即して、家の中での転移関係にある「女性的なもの」がそれ自身において他者であると、いうことであるように思われます。『差異のエチカ』の中で吉澤が引いていたフーコーの例が示すように、家のなかでは、家の中の個々人が互いに主体を奪い合う関係にあるともいえる。あるいは日本的な持ち合いではない株式会社の形態をとるならば、家とは、本質的に「他なるもの」のただ中から形成されているものでもある。「家」は独立的な主体として自由勝手に振る舞うわけですが、しかし、すでに他者にさらされ、他者が内部に入り込むことによってのみ「家」としてあるわけですね。で、それこそが、倫理である、とレヴィナスに即していえるわけです。

第一、「ホイッスルブローイング」なるものは、未だ主体ならざるものが主体たらんとして吹く笛なわけですから、必ずしも主体的理性としての身分を期待できるものではないでしょう。内部での抗争が、精神分析が示すような「転移」の関係にある以上、それは時に陰鬱とした情動に支配されるものでもあるわけです。家の中で発せられる「ホイッスルブローイング」が、必ずしも正義の名の下になされる保証はなく、「ブラックメール」のような追い落としの運動になりうるという塩原の指摘は、このような文脈で介さなければなりません。家の中でおきる「クーデター」は、本質的に権力の奪い合いであるといってもいいようなきがします。そうした問題を、外部から公正な基準を適用することによって測ろうとするのは、過度にアメリカ的な前提にたってはじめていえることであるように思われます。必要なのは、リベラルかムラ的共同体かという対立的な二項を立てどちらが優位であると主張することなのではなく、現象の転移的な構造を正しく理解した上で、問題を解決することではないでしょうか。それが、家とエコノミーの関係、エコノミーと倫理の関係の分析にもつながるわけです。

家の中の他者(補足)

ちなみに、上の議論の延長線上に、セクハラやアカハラの問題もあるかと。そうした事柄もまた、ある構造における転移的な構造にある以上、問題を告発するひとが無条件的に正しいともいえない。岩月氏のセクハラの例に対して、

内田さんが、正当にも転移的な構造を指摘している
が、そうした問題に際して、常に括弧付きの「弱者」の視点でのみものを語る点については、どうかと思う。確かに「おぞましい状態」ではあるが、その暴力的構造を冷静に記述することが必要なのであって、「権力者」が常に断罪されるべきとされるのは、それもまた不当なのではないのではないだろうか。もちろん、立場上の優位の問題は、考えなければいけない問題として残るけれども。