えん‐きょくなトラックバック そのなな


 おそらくじぶんはもときじのしんいをつかみそこねているだろうから、このエントリはえんごにも、たいりつしゃをあとおしするうしろだまにもならないとおもわれる

 まず、たいだなミスが、かそうもんだいにまでつらなるのがわからない きょうじゅががくせいに「ドストエフスキーってなんですか?」ときかれ、ついにこのひがやってきたかとしみじみうけとめたというそうわがあった じつはわたしはたいようけいのわくせいもあげられないと、りかコンプレックスをこくはくするざいかいじんをしょうかいしたほししんいちのエッセイもおもいおこされる (ちゅうごくにはいぼくしたれきしどころか)にちべいがせんそうをしたかこをしらないひと、ぶんすうのからくりをおぼえないひと、かんじをおもいうかべるとゲシュタルトほうかいしてしまうひとはしせいではとくいなそんざいではなく、いちがいにあわれむ、ほごされるたいしょうにむすぶのはふかかいだった 『はくち』をしらず、さきのきょうじゅをかんじいらせたのは(にほんぶんがくコースの)とうだいせいだ 「もりみつこ」のながでてこないおおものしかいしゃをわらうさいは、けんぼうしょうかんじゃにたいするうちなるあくしんをみつめなければならぬのかとげんなりもした
 あいこくデモでかかげられたプラカードのごじをちょうしょうしたきじに、きょうあいながんかいをなげくひなんがよせられている トピックをろんじる(どうかつする)ならば「せめてしんしょいっさつはおさえろ」はゆうこうで、「じじょをひけ」ははいじょのろんりとかりにされるのであれば、ふくざつすぎてせつめいしてもらってもりかいできそうにない
「しょうしょうはちゅうじょう、400は40のタイポだからよしとして、さつがいとしょりはおもにじょうがいでおこなわれたことをふまえておくべきです」ですむだろうか 「もりつちがどうこうくっちゃべるいぜんに、きみはよってたつぶんけん、けいさんすらじまえのけんしょうをなまけていたわけだ そもそもらんぞうされるコピペでまんぞくしているからてんさいのあやまりにきづかずうんぬんかんぬん」とつづくのではなかろうか
 きゅうしょくみんちのじゅうみんにむかいげんこんのいせいしゃがしゃざいをのべる よみまちがいに「めんどうなセレモニーていどにかんがえているからだ、じぜんのせいどく、あっせいにさらされたひとびとにかたりかけることばをしたよみするせいじつさももちあわせていなかったのか」とのひはんに、「おおぎょうにたたくな やるならじゅうみんがわのたどたどしいへんとうにもつっこめ だいひょうしゃがおざなりなかんしゃのじをくちにするなといえ」はゆうこうなはんろんであるのか
 はたして「わたしたちははいがいしゅぎを(杵)さない」というプラカードのごじのみをせめたてるネットのげんせつに、ありのいっけつ、おもいダメージをこうむるうんどうがそんざいするものなのか おもいつくのは「ほら、がいこくのスパイがまぎれこんでいる」といったたわいないいんぼうろんぐらいで、リークもしんぶんしゃのこうえんもなく、イラクひとじちじけんのきょうそう、ふめいりょうなことばをきっかけとする「イッテ、イッテ」そうどうがさいげんされるきぐがあるのだろうか
 ネットをはじめて、「にほんごわかります?」といったきりかえしほど、しゅうあくなやゆはないのではというおもいをもつが(じぶんはもときじをおもしろおかしくよんだわけではない レイシストをわらいとばすさぎょうは、ヘイトをしばるほうあんのせいりつをこばむものがおこなうたいこうげんろんのひとつなのだろうとかんがえている)、ブクマのかれつなひはんコメントをみると、すくわれるあしをきりはなしているだけではないかとさえかんぐってしまう
 あるしんしから「ブッシュとか――アメリカじんというのはインディアンのしそんなのか」とたずねられたけいけんがある すぐにことばがでなかったのはあぜんとしたせいではない このひとにとってふような、ふえてなぶんや、かいわのうめくさ、ただきょうみをもてぬまますごしてきたのだろうとあれこれおもいやっていたからだ あいてへのみくだし、あわれみはわかず、さほどおどろきもしなかった たとえるなら
「そう<はてサのかくはけいざいじょうきょう、がくれきもうしぶんなく、コネもじょうじょう――そのめぐまれたネットしゅつじにいささかのおいめをかんじているめんめん>なるおてもりのていぎですませていたじぶんが、しゅっぽんしたぶよぶよさんのしんぎふめいのけいれきをよんだとき」ぐらいおどろかなかった

 もちろんとうにおきづきのごとく、とうほうはよみてのろうりょく、しきいをひくくすることをいとしない、たしゃをはねつけるかな――くぎりのないただのかんじぬき――エントリ じょうほうぶそくをこうしょうする、またケアレス・ミス、ヒューマン・エラーをかるくあしらうこういは、はれんちな、ときにきけんなふるまいとなるというかんがえにいぞんはない 「かくごがないひと」というそしりはかんじゅするが、それでも「ぶんみゃく」をあえてすっとばすのがげせないのです 「げんろんのじゆうがあるんだよ!」というちかろうのしゅうじんのさけびは、8がつ15にちにもとばくりょうちょうのシンパからはっせられたそれとは「じゆう」のしゃていがちがう けいい、はいけいをけしてことばをぬきだせば、ジンゴイズムにのっとったはいじょのどごうがむくにロンダリングされてしまう このぶせいなかなエントリのように、ありふれたあくいなんてたやすくみやぶられてしまうものだけれど 
 ラファティはへいぜいのごじ・ごようを「にせがねづかい」とかいた きょうじをもてば、がんきんのこうしもげんこうのせいどにいどむアナーキズムのいちけいたいとなろう 「ぞくじょうとのけったく」をいさぎよしとせず、きんよくてきなかくめいかのてのなかにあったならば、ふさわしいスローガンとひょうかされたかもしれない


d-ff 辞書を引く習慣のない人は少なくない。日記はネットでの拡散を企図された看板を引き合いに、運動の驕慢さ、付け焼刃加減、甘えを笑っているのだろうと。 2010/01/17