榎本秋『10大戦国大名の実力』(ソフトバンク新書)

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10大戦国大名の実力 (SB新書)

10大戦国大名の実力 (SB新書)

 生まれ育った地域柄、私にとって戦国大名はけっこう身近な存在ではありますが(たとえば、うちの隣町は徳川家康の実母の生地だったり)、とりあげられているうち大名家*1のうち佐竹家はさすがによく知りませんでした。『解体新書』の挿絵を描いた小田野直武(平賀源内に西洋画法を学び、のち司馬江漢などを指導した)のパトロンだったというくだりを読んで、ああ、そういえば……と思い出した、という程度。
 これは私観ながら、昨今の歴史ブーム、戦国武将ブームには、【1】女性ファンがリード、【2】(【1】とも関連して)幅広い層をとりこんでいる、【3】マンガ、ゲームといったサブカルからビジネスや政治経済まで切り口が豊富、【4】対象が対象だけにブームの息が長い……といった特徴があるように思います。こうしてみると、鉄道ブームとも共通点は多いかも。
 余談ながら、本書を担当された上林さんは、私の最初の本を担当してくださったほか、昨年刊行された多根清史さんの『日本を変えた10大ゲーム機』の担当編集者でもあります。私も『10大×××』でなにか新しい企画を考えようかしら。

*1:本書でとりあげられているのは、伊達、佐竹、上杉、北条、武田、織田、斎藤、毛利、長宗我部、島津の10家。

白洲次郎はそんなにかっこよかったのか?

 ドラマ『白洲次郎』最終回をワンセグでながら視聴。先々月、日経ビジネスオンラインに掲載された『吉田茂と昭和史』の書評にも書いたように、サンフランシスコ講和会議での受諾演説で吉田茂は平等を「へいとう」と読んでるんだけど、さすがにドラマではそこまで再現されていなかった(吉田役の原田芳雄は「びょうどう」と読んでいた)。
 そういえば、この吉田の受諾演説について、同じ書評で《吉田はこのとき、英語で演説するつもりだったのを、アメリカの特使・ダレスの要請で日本語で行ったという経緯があるそうだから》と書いたところ、読者からコメント欄にて以下のような指摘をいただいた。

 あれっ、記事[くだんの私の書評のこと――近藤注]冒頭の「受諾演説」のくだりについては、もともと英語で作成されていた原稿を白洲次郎の指示で急遽日本語に直したっていう有名なエピソードがあったと思いますが…(おまけに吉田茂は原稿の後半を端折って読み上げたとか)。
  http://business.nikkeibp.co.jp/fb/putfeedback.jsp?_PARTS_ID=FB01&VIEW=Y&REF=/article/life/20090730/201359/

 たしかに、北康利の『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社、2005年)にはそういう話が出てくる。また、Wikipediaの白洲次郎の項目にも、おそらく同書を参考にしたのであろう次のような記述がある。

 この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更され(以下略)

 ただ、この話、はたしてコメント主氏のいうほど「有名なエピソード」なのだろうか? という疑問は残る。
 そもそも、誰が吉田に日本語での演説を勧めたかについては、ふしぎなことに本によっていちいち記述が食い違う。たとえば、私が参照した『週刊朝日百科 日本の歴史 新訂増補 113』(2005年)には、白洲次郎ではなくダレスの要請で演説が日本語に変更されたと書かれているし、戸川猪佐武の『吉田茂と復興への選択』(『昭和の宰相』第4巻、1982年)には、当時の米国務長官で講和会議の議長を務めたアチソンが、《「ソ連もロシア語だったから、君も日本語でやったらどうか」といったので、吉田は急遽、日本語にきりかえた》とあった。
 もちろん、北の著書によって初めて、白洲次郎がくだんの一件にかかわっていたことがあかるみになった、とみることもできよう。また、白洲の「激怒」によって、日本の国際社会復帰の檜舞台における演説が英語から母国語に変更されたというのは、たしかに物語としてよくできていると思う。
 しかしいっぽうで、どうもかっこよすぎやしないか、という気がするのもたしかだ。だいたいあの檜舞台の裏でそんな重要な役割を果たしていたのなら、どうしてこれまでそういった話が直接語られるどころか漏れ伝わってすらもこなかったのだろう。それとも、誰かが意図的に隠蔽していたからなのか。
 ちなみに、前述の戸川の著作には、戦後、公職追放されていた鳩山一郎石橋湛山河野一郎といった政治家たちの解除を、首相時代の吉田茂の側近だった白洲や官房長官の岡崎勝男が故意に遅らせたというくだりが出てくる。鳩山、石橋、河野はいずれも吉田の政敵だった。
 のちに追放が解除された石橋などは、解除直後にわざわざ吉田のところへあいさつに赴き、そのときたまたま顔をあわせた白洲に向かって、「君が(引用者注――まだ追放が解けなかった鳩山らの)追放解除を遅らせとるんだろう」と言ったという。このくだりでは《外相官邸をちょろちょろしていた白洲次郎》とも書かれていて、著者はあまり白洲にいいイメージを抱いていなかったことがうかがえる。まあ、これをもって、かつての白洲次郎のイメージの代表とするのはちょっと性急だとは思うけれども。
 ひょっとすると、ちょっと前までの白洲の世間での認知のされ方やあつかわれ方というのは、「歴史上、黒幕として重要な役割を果たした人らしいのだが、その詳細はよくわからない」という点で、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書く以前の坂本龍馬のそれに近いのかもしれない。『竜馬がゆく』以降の龍馬人気といまの白洲次郎人気というのもよく似ている気がするし。

吉田茂と昭和史 (講談社現代新書)

吉田茂と昭和史 (講談社現代新書)

白洲次郎 占領を背負った男

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日本の歴史―朝日百科

日本の歴史―朝日百科