https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

お知らせ

結婚は、やはり恋愛とは少し違っていて…

人と人の出会いの不思議さ、奇跡を思うにつけ


穏やかに、誠実に向き合い、育みたいなぁと感じます…

今でも、道を歩いていて


「あ、宝塚の子だ。」


と気付くのは、髪の色でも服装でも無く、綺麗な姿勢としっかりとした歩き方からだなぁと。

最先端の経営学は、理論と実践をどう捉えるのか? 目的と手段が、JALの再生に果たした役割を考える。 ――対談:野中郁次郎×紺野登(後編)|利益や売上げばかり考える人は、なぜ失敗してしまうのか――目的工学[入門編]|ダイヤモンド・オンライン

野中 紺野さんとの出会いは1990年頃、その後その成果をもとに1995年、日本経済新聞社から『知力経営』という本を出しました。あれはたしか、その翌年、フィナンシャルタイムズから賞もいただきましたね。


紺野 あの頃、私はまだ博報堂におりまして、デザインマネジメントを研究していました。当時から広告代理店というものは単にメディアを売るビジネスではなく、企業に対する知のアウトソーシングも含めてできるような組織になるべきだという議論があり、そのための方法論を模索していた時に野中先生の理論に触れ、門を叩かせていただいた。当時はまだ「知識創造」という言葉を使われていなくて、「情報創造」という言葉を使われていたかと思います。


野中 そうでした。それで、一緒に「デザインとは何ぞや」ということを調べていって、情報創造から知識創造へ、さらには、それを実践するには体系だった「場」も必要だろう、ということが見えてきた。場の論文に関しては、紺野さんと一緒に英語で書いたカリフォルニア・マネジメントレビューに載ったものが最初でした。


紺野 そう、あれは1998年です。そこから、だんだんと場を運営していくためのリーダーシップも必要であるという話になり、2007年に共著で出させていただいた『美徳の経営』(NTT出版)へとつながっていきます。


野中 リーダーシップという問題を深く追求していくと、結局、「何がグッド」かという価値判断にかかわるテーマを扱わざるをえなくなる。実際のマネジメントというのは、そうした主観に基づく価値判断を個別具体例から紡いでいって普遍的にしていくところにおもしろさがある訳ですから、主観を完全に排除したサイエンスとしての経営学というのは、本来、あり得ない話です。


紺野 同感です。もちろん、我々はサイエンスを否定している訳ではないのですが、その一方で「アート」も非常に重要だと考えている。


野中 そう、バランスを取れ、ということです。近代経営学で語られていることの多くは、言わば演繹法の世界なんです。トップが掲げる証明すべき命題(ビジョン)があって、それを論理的に説明できたらそれで良し、としてしまう。


 要するに、「すべての人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」「ゆえにソクラテスは死ぬ」という単なる三段論法に過ぎない。しかし、これだけだと「だから何だ」ということになって、経営そのものに意味がなくなってしまう。


 トップの意思決定がなにがしかの意味を持つためには文脈が必要であり、その文脈というのは個別具体的な事象を積み上げて行くことからしか生まれてこないのです。経営のおもしろさというのはこの意味を発見していくプロセスにこそある訳ですが、この部分はむしろ帰納法的なんです。


紺野 ただし、それは単なる現場主義に終わってしまうことも多いですね。


野中 そうです。どちらも、一長一短ある。そこで、アリストテレスの実践的三段論法が出てくる。


紺野 わかりやすく言い換えると、こういうことだと思います。現場の人たちが必死になって現実と向き合っていても、主観的な軸が明確でないと単にバタバタするだけで終わってしまう。


 一方で、客観的ビジョンに基づき「ああしろ」「こうしろ」と命令されて動いていればバタバタしなくて済むんですが、そればかりを続けていると、今度は著しく人間性が阻害される。


 ですから、現場にある「手段」からスタートすることはとても大事なんですが、ポイント、ポイントで「今していることの本当の意味はなにか?」と立ち返り、大目的を更新していく必要がある。その上で再び手段へと戻って行くのが一番強い。


野中 演繹法は命題から出発し、それを論理的に分解していって個別具体へと到達する。紺野さんが本の中で使っている言葉で言うと、「目的」と「手段」は常に目的が手段を支配する関係にあって、その逆はあり得ない訳です。


 しかし、実践的三段論法ならば、目的が手段と合わない場合には手段の方からも問い直しが起こる。小目的から大目的へのフィードバックがある、というのが非常に重要な点だと思います。


紺野 そのフィードバックが幾重にも繰り返されて行くプロセスの中で新しい何かが創造されていく。これが、現実的なイノベーションの姿だと思いますね。


 我々と非常に近い考え方を持っている経営学者で理論家のヘンリー・ミンツバーグが「マネジメントはアートである」と主張し、戦略はサイエンスではなく、クラフティングであるべきだ、と指摘した。


 サイエンスは絶対知のみを追求しますが、クラフティングは実際に手を動かしながら理論と現実の間を何度も往還しないとできませんから、現実に根ざした実践知が求められる。


野中 そう。現実の経営は「暗黙知」と「形式知」、そして、リーダーの「実践知」という三位一体で臨まないと、うまくいかない。それと、実践的三段論法を繰り返して行くと、それぞれの段階でプロトタイピングしながら合意形成していかないといけませんから、そこは非常に強い説得力も必要になります。


 この説得というのは、論理性だけでできるものではありませんよね。そこで、経営者自身のフィロソフィや生き方が、問われてくる。例えば最近の事例で言うと、JAL再生などはそのフィロソフィがあったからこそうまくいった典型例だと思います。


 大幅な路線縮小や人員削減をすれば利益が出る仕組みは作れますが、それを動かしていくのは感情を持った人間です。ですから、そこには確かな納得感もなければならない。


 稲盛さんはそれを醸成するために、徹底して「JALのフィロソフィはなんだ」ということを社員に問いかけた。約1ヵ月間、幹部と車座になり、酒を酌み交わし、胸襟を開いて議論を重ねたといいます。その結果、40項目からなる「JALフィロソフィ」が作られ、それを軸にして企業の再生が動いて行った。


紺野 そこで考えなくてはならないのは、JALはたまたま伝統のある企業で、人材の層も厚かったから出来たのか、あるいは、そうではない企業でも同じことができるのか、ということだと思います。この点はどうでしょうか?


野中 そこはやはり、稲盛さんがある種の方法論を持っていた、ということが大きいと思います。フィロソフィ(哲学)とアメーバ経営(手段)という2つをバランス良く使ったと思いますね。


 じつは、フィロソフィから入って企業を再生していくのは非常に難しいんです。しかし、いったん腹に落ちると、納得性も高いので自律的に組織が動いていくという利点もある。


 稲盛さんが上手だったのは、自らが退くにあたり、元パイロットで現場を熟知していた植木義晴さんをトップに据えたことでしょう。植木さんというのは破綻直前まで地域航空子会社にいて、副社長兼機長として操縦桿を握っていた人です。パイロットは通常、とても偉いんだけれども、子会社にいた彼はいばっている訳にはいかなくて、飛行機の掃除まで手伝っていた。つまり、現場の気持ちをよく理解できる立場にあった訳です。


 稲盛さんはその植木さんに目をつけ、部門別の採算管理のトップにもした。つまり、目的に相当するフィロソフィと手段に相当するアメーバ経営の両方がうまく回るよう、人員配置と組織の仕組みを考えている。これはやはり、一種の実践知がないとできないことだと思います。


紺野 稲盛さん自身、じつは相当の苦労をされて今がある。だからこそ、「JALの再生にはパイロット魂に火をつけることが大事だ」ということが見えたと思いますね。いわば、個の思いが大目的につながっていった。


 考えてみれば、こうした現場に根ざした実践知というのは日本企業にとって目新しいものではなくて、むしろ、もともと持っていた。ですから、ほんのちょっとしたきっかけで取り戻すことも十分に可能だと思っています。そのきっかけの1つに、今回の本がなればいい。


野中 そうですね。西欧では経営者の自伝というのは非常に重要な実践知のモデル、テキストにもなっています。日本でも、歴史好きな経営者は多いですよね。講談も好きだし、偉人伝もよく読んでいる。


 ただ、そうした本で得た知識を現実の組織で応用していくためには、ある種の徒弟的世界も欠かせないんです。日本企業の再生には、その徒弟的世界をどうやって復活させ、現代的にアレンジしていくかということも、1つの大きな鍵になると思いますね。

いまのところアベノミクスは完璧に上手く行っているように見えるが…(藤沢数希) - BLOGOS(ブロゴス)

日本国債長期金利が乱高下しているなどとニュースになっていますが、0.5%が0.8%になったりとかその程度の動きで、ちょっと長いスパンで見れば、金利も地を這いつくばっていることがわかります。

さて、その裏で、日本はどんなリスクを抱え込んでいるのでしょうかね…。