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小笠原諸島・西之島近くに新たな陸地が出現 : J-CASTニュース

日本気象協会は2013年11月20日、同日の10時20分頃に小笠原諸島西之島(東京都小笠原村)周辺で噴煙が確認され、島の南東500メートル付近に直径約200メートルの新たな陸上部が確認されたと発表した。西之島では、1973年から74年にかけて周辺海域で噴火が発生し、新島が形成されたことがある。西之島は東京都心から約1000キロ南に位置する南北約650メートル、幅約200メートルの無人島。

近代科学と聖俗革命〈新版〉

近代科学の父たちと私たちの距離は、もしかすると中世のスコラ哲学者とガリ レオやニュートンらとの距離よりも大きいかもしれません。中世と近代との境 界を画した「科学革命」を強調するあまり、私たちは、近代を二分する大きな 断層――真理の聖俗革命――の意味をまだあまり知りません。啓蒙期科学思想 を母とする科学的人間観・生命観に現代科学の危機の根源を透視した本書は、 科学史を現代の視点から目的論的に視るのではなく「逆遠近法」的に視ること を提唱してきた著者の思想的出発点となる著作。

聖俗革命の超克: lifestream community

村上氏によると、近代科学は当初、神が創造した自然の秩序を発見するという目的を持っていたが、その後、その知識体系から創造主なる神を追い出し、神抜きですべてを説明しようとする立場に変化したとのこと。この変化を、同氏は「聖俗革命」と呼んでいます。

啓蒙主義と聖俗革命は、その後、倫理観が崩壊し、人間の尊厳が否定され、人生の意味を喪失した現代社会を形成するに至ります。

#2069 廣松渉の「科学の危機と認識論」を読む | ニューロンとワイヤの狭間から

人間の認識では必ず一定のパースペクティヴが構図を画するし、精密測定といっても誤差を免れない。現実にはそうなんだが、こういう現実体から“主観的”な混入物や偏差を除去していけるという了解の上に立って、そこに抽離される純粋な対象的事実、これが客観的実在性だということになるのだろうね。


比喩的にいえば、それは神様の目に映ずるがままの世界とでもいった了解の構えになってはいないだろうか? つまり、客観的実在の世界とは、いうなれば“神様の目に映ずるがままの世界”というわけだ。

神的な視座ともいうべき、近代科学が暗黙の視座として立てているところのものは、じっさいには私念された共同主観的な視座にほかならないというわけだな?

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『ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く』

 子供のころ、私は頭を使う遊びが好きだった。数学の問題を解くのも楽しかったし、『不思議の国のアリス』のような本にも夢中になった。ただ、読書は大好きだったのだが、科学の本にはあまり心をひかれなかった。どうも自分に合わないというか、とにかく夢中になって取り組む気にはなれなかった。科学者をやたらと褒めちぎって、読者を見下しているような感じがしたし、そうでなければ、ただ退屈だった。著者は答えをぼかし、その答えを見つけた人を称えるばかりで、科学そのものや、科学者がどうやってその答えにたどりついたかを書くのは二の次にしているように思えた。私が知りたいのはそちらの部分だったのに。
 でも科学を学んでいくうちに、やがて大好きになった。当時はよくわかっていなかったけれど、実際に自分が物理学者になってみて、いまはこんなふうに思うのだ――私が子供のころに接したものは結局のところ科学ではなかったのだと。未知のものに取り組むのは、ぞくぞくするほどおもしろい。一見まったく関係なさそうな現象のあいだに意外なつながりを見つけたり、問題を解いて、この世界の驚くべき特徴を予言したりするのは、とても刺激的なことだった。そして物理学者になったいま、私はあらためて思う。科学はまさに生き物で、つねに発展しつづけているのだと。科学の魅力は、答えだけではない。そこのいたるまでのゲームやなぞなぞに参加すること自体も楽しいのだ。

 いま、私たちのまえには、無視できない新しい世界観が現れている。余剰次元によって、物理学者はこの宇宙に関する考え方を変えさせられた。そして余剰次元をこの世界に結びつけようとすると、必然的に、すでに確立されているさまざまな物理学の考えが関わってくる。だから余剰次元というのは、興味をそそられる新しい見方を通じて、すでに正しいと証明されている旧来の宇宙についての事実を見直させるものでもあるのだ。

第一二章 顕幽一致 〔一二〕 - 霊界物語ネット

 すべて宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如にして、絶対の善もなければ、絶対の悪もない。従つてまた、絶対の極楽もなければ、絶対の苦艱もないといつて良いくらゐだ。歓楽の内に艱苦があり、艱苦の内に歓楽のあるものだ。

悲観を離れた楽観はなく、罪悪と別立したる真善美もない。

かくの如く本質においては全然同一のものでありながら、何ゆゑに神俗、浄穢、正邪、善悪が分るるのであらうか。

 善悪といふものは決して一定不変のものではなく、時と処と位置とによつて、善も悪となり、悪も善となることがある。

大楽観と大悲観とは結局同一に帰するものであつて、神は大楽観者であると同時に、大悲観者である。
 凡俗は小なる悲観者であり、また小なる楽観者である。

人の身魂そのものは本来は神である。ゆゑに宇宙大に活動し得べき、天賦的本能を具備してをる。それでこの天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、実現するのが人生の本分である。

 いづれにしても、この分段生死の肉身、有漏雑染の識心を捨てず、また苦穢濁悪不公平なる現社会に離れずして、ことごとくこれを美化し、楽化し、天国浄土を眼前に実現せしむるのが、吾人の成神観であつて、また一大眼目とするところである。

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