喪男とはネット用語で「モテない男」という意味で「モダン」と読むそうだ。この本はブッダ、プラトン、キリストに始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フロイトを経由し、現代哲学、脳科学、物理学までの繋がりを言及している。
何故、一見全く関係無さそうな喪男と哲学がタイトルに並んでいるか?筆者は冒頭でこう語る。
恐らく多くの人々が哲学というものを誤解しています。哲学の歴史とは「現実からの飛翔」の歴史であり、そして真の哲学者はみな「喪男」なのです。
そうです。哲学とは、「モテない苦しみ」や「自分が喪男であることの苦しみ」の謎と原因を解き明かそうとするための思索活動なのです。
すべての人間が「モテ」側に立てるのであれば、哲学は不要でした。しかし現世では、人間は「モテ」と「喪」に二分されてしまいます。なぜだなぜなんだ。そういう存在論的な疑問を抱いた喪男哲学者は、世界の意味とか人間の精神というものについて悩まなければならなくなったのです。
普通「は?」と思うだろう。そもそも自分は「喪」なる言葉は知らないし、いきなりモテとか言われてもついていけない。
しかし、読み続けると次第に何となく筆者が何を言っているか分かってくる。モテというのは、狭義ではイケメンのようにモテて格好いい男性を指す。広義的には、メジャー、強者、お金持ち、権力者、即ち何かしらの優位点を持つ人達を指す。
モテの世界とは、既に欲求を満たされているので既得権の堅持、増大を至上とする勝ち組保守層のことだ。一方、喪とはモテという属性から外れた負け犬のことだ。モテは現世利益(三次元)が全てという一元論を支持するが、そこからあぶれてしまった喪はこの世こそ地獄である。従って、その地獄にどう対するかという止むを得ない事情から哲学や宗教を生み出す。現実の否定であったり、二次元の創出であったり、相対化であったり、色々手をかえ品をかえ喪の生き様を見せ付ける。
例えば、ジーザス・キモイスト・喪男スター
のキリストのアガペーとプラトンの美のイデアの違いについてはこう説明がつけられている。
つまりイエスは、性欲と萌えを完全に分離して考えた人なのです。この思考は明らかに童貞の思考です。プラトンは当時のギリシアで大流行だったショタ萌えを三次元で実践していたかもしれません。ですが、イエスは必ずや真性童貞です。ええ、そうに違いありませんとも。二人の考えた「萌え」の違いは、この「ショタ経験の有無」にあった、と僕は勝手に睨んでいます。
宗教や哲学の知識に明るくない自分でも「うあー。何じゃこれは」と思う訳だけど、筆者は全く怯まない。立て板に水に豊かなヲタ的語彙を並べ立て、読者を圧倒する。
ニーチェが熱を上げたルー・サロメに関する記述は苛烈を極める。
その後のルーは、旦那を放置したまま、サロンに出入りしてリアルビッチと化し大勢の男とセックスしまくったのでした。一生涯処女のままだったらそれはそれで立派な人物だったと思うんですが、30歳前後からいきなりセックスデビューしまして、後はもう……。
目覚めた後のルーは詩人リルケを死の床に至るまで苦しめ、果ては精神分析学の始祖フロイトにまで擦り寄りました。「オタク食い女」ってところです。(中略)タウスクは自分のちんちんを切り取って死んだという説もあります。まさにビッチ。サークルクラッシャー。
や。本当に恐ろしいのは著者のルサンチマン、業の深さなのでは…とも思うがどうなんだろう。何となく前書きの言葉の同義反復に数限りなくつき合わされているような気もするが、それこそが哲学の歴史だと言われればそんな気もする。
もしあなたがこの本を読んでみて、理解できない*1内容だったとしても、ヴァンやレイのように「何言ってるのかわかんねーんだよ!」「バカ、バーカ!」「邪魔してやる、邪魔してやる!」とひたすら頭の悪いこと*2を言ってはいけない。言ったところでモテに成り上がれる訳でも解脱できる訳でも救済される訳でもないのだしね。
この本は、日本のように宗教面でおおらかな国でネタ本扱いでさほど知名度を得ていないから良いようなものの、信仰あつい宗教家が目を通したらただでは済まないだろう。よくて禁書扱い、悪ければ筆者ごと闇に葬り去られても何ら不思議ではない。それくらい冒涜的な書き方をしている。なんとなくその禁忌性がこの本の説得力を増しているような気がするのだが、もしそうなら尚更ヤバい。
自分に哲学に関する前提の知識が無いというのが悔しい。出来れば、この本で扱われている哲学者の思想を知ってから読み直したい。或いは個々の哲学書と並べて読んでみたい。そうしたとき、今とは違う捉え方が出来るような予感がする。
とはいえ、何から手をつけたものか?うーん。