このページをアンテナに追加

2006/12/19 (Tue)

[][]近くにいれば(PHS更新) 08:02 近くにいれば(PHS更新)を含むブックマーク 近くにいれば(PHS更新)のブックマークコメント

手をにぎるだけでいいのに。頭をなでてあげられるのに。

わたしの言葉じゃ何も届かない。

ごめんね、いつも言葉をくれるのに。

[]本を読む少女たち −ジョー、アン、メアリーの世界 シャーリー・フォスター&ジュディ・シモンズ(著) 川端有子(訳) 柏書房 22:32 本を読む少女たち −ジョー、アン、メアリーの世界 シャーリー・フォスター&ジュディ・シモンズ(著) 川端有子(訳) 柏書房を含むブックマーク 本を読む少女たち −ジョー、アン、メアリーの世界 シャーリー・フォスター&ジュディ・シモンズ(著) 川端有子(訳) 柏書房のブックマークコメント

本を読む少女たち―ジョー、アン、メアリーの世界 (子どもと本)

少女小説から世界が見える ペリーヌはなぜ英語が話せたか』(感想はid:dadako:20061204:1165222183)の、ある意味、元本となった本格的な研究書。フェミニズム的な視点からの少女小説のテキスト及びその歴史の読みほどきという感じ。

扱われてる主要は本は『広い広い世界』『ひなぎくの首飾り』『若草物語』『ケティー物語(ケティ物語)』『鉄道の子どもたち(若草の祈り)』『赤毛のアン』『秘密の花園』『学校のおてんば娘』。完訳なんだけど前記の本に邦訳がないものも含まれるので、原書になかった「作品・作者・登場人物紹介」や小見出しが追加されている。タイトル索引・著者名索引・年表なども充実してる。

……問題はこっちの知識不足・勉強不足ってところですね。なにせフェミニズム関連の言葉をわたしがあまりきちんと知らない(^^;)。

その乏しい知識でおもしろかったところ。

女の子は少女小説も少年小説も読むけれど、男の子で少女小説も読んでるってのはあまり居ないってこと。

確かにそうで、そうとう本を読んでる男性でも『若草物語』や『赤毛のアン』読んでるってのはあまり聞かない。じゃあ実際にまったく読まれてきていないのかというとそうではなく、両親も含め家族中で愛読してたという家庭もあったのだそう。実際、少女小説と少年小説がはっきりと分化される前、単なる「児童文学」で有った時にはヘンリー・ジェイムスなどからきちんとした書評を受けたりもしている。もっともその後ヘンリー・ジェイムスは宗旨替えしている。

 われわれの時代において、小説は富み栄えたが、その繁栄はもうひとつの「時代の刻印」と直結した形で進んできた。つまり、小説一般に道徳的腐敗、大衆化が見受けられるのである。そしてこの小説というメディアがどんどん身近なものになるにつれ、そこにはいわゆる女こどもの存在が、非常に強く感じられるようになってきている。それはつまり、いいかえれば、思考力も批判能力もない読者である。 (p.246)

ビジョルドが『戦士志願』をジュブナイルと評価されて腹を立てたというのを読んだことがあって、その時「ジュブナイルの何が悪いのか」と思ったのだけど、……ジュブナイルってブンガク筋では評価が低いらしいわ!あらまあ。しかも女流作家で少女小説となるとさらに地位が低かったそうで。実際に少女小説で名を残してる作家はみな「大人向けの文学作品」を書いて正当な評価を受けることを求めていたのだけれど、いったん少女小説で名をなしてしまうと、家族の生活のためにそれを続けざるを得なかったことがほとんどだったらしい。モンゴメリもオルコットも続編を書くことにうんざりしていたとの日記が残っている。

重要なのは当時、女性の職業選択がほとんどなかったこと。思うんだけど女流作家=「職業を持たざるを得ない女性」であるというだけで地位が低く見られたってこともあったんじゃないんだろうか?

それからおもしろいのは、「想像」=「創造」であるということ。想像し語り名づけることによって、自分の過去、自分の周囲を自分の居心地のよいものに作り直す必要性、そういう力が女性にはどうしても必要だったということ。実際に作り直す「力」を持ってない者にとっては「想像」による作り直ししか方法がない。『学校のおてんば娘』で女学生がスラングによって「自分たちの世界」を構築するあたりがわかりやすい例。『ローズ・イン・タイドランド』の感想を追っている時に『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』と比較して「男の想像力は外に広がっていき女の想像力は中に沈み込んでいく」と書いてるのを見たことがあるのだけれど、それはこのへんが関連しそう。

それからこれもおもしろいところ。『若草物語』でジョーがベア教授と結婚したことについて。

女性としての自己を受け入れがたかったジョーの悩みは、ベア教授が父親代理となってくれたとき、小説上は解決する。成熟することに乗り気でない女性にとって、その望みが果たされるのは、父親代わりになってくれる人との結婚しかないからだ。 (p.200)

これこのまま男性と女性、父親と母親入れ替えてもあてはまると思う。山岸凉子のマンガによく出てくるパターン(ちなみに少女小説では父親不在の設定がやたら多いとの指摘もあった)。

関連して『鉄道の子供たち』。

「いつかは結婚しなくっちゃいけないんだろうな」とピーターは言った。「だけど、いつもいつも妻がそばにいるっていうのは、すごくうっとうしいな。目がさめるのは一年に一回か二回っていう、昏睡状態の女の人と結婚したいな。」 (p.261)

これはアン・シャーリーの生徒が「将来は未亡人になりたい。結婚しないと世間体が悪いけど、夫が居るのは窮屈だから」って作文書いたってのを思い出した(^^;)。

とりあえずこれくらいかな、今思いつくのは。再読したいのはやっぱり『赤毛のアン』。『鉄道の子どもたち(邦題:若草の祈り)』はretoldのRailway Children(Level 3: 1,000-Word Vocabulary (Oxford Bookworms Library))しか読んでないので、これも読み直したい。『ケティ物語』も抄訳でしか読んでないけれど、こっちに関しては『クララは歩かなくてはいけないの?―少女小説にみる死と障害と治癒』(ロイス・キース(著)藤田真利子(訳)明石書店)にも詳しいのでオススメ。「家庭の天使」「炉辺の天使」なんかの話はこっちの方がわかりやすいかもしれない。

※やっぱ日本では少女マンガとの関係が気になる……。あと、ジョーやアンがはまっていた(そして自分でも書いていた)ゴシック小説やロマンス小説と、BLとが等価みたいな気がどうしてもするなあ。

[][]初見だった……ラッキー 23:30 初見だった……ラッキーを含むブックマーク 初見だった……ラッキーのブックマークコメント

とりあえずNHKは録画してるので、マラホフを。曲を聴いて「知ってるよ、なんだっけ、なんだっけ」と思ってたんだけど、ああ!『牧神の午後』だったのね!ニジンスキー版じゃなくてジェローム・ロビンス版。こっちのバージョンはマンガでしか見たことなかった(たぶん有吉京子の)ので、かなり嬉しかった。全部見たかったけど、そりゃ無理だよねやっぱ……。確か鏡に向かって踊ってるって設定だったはず。あのマラホフの視線!あの人ってやっぱ「演技」の人だなあ……。時々過剰な気がして嫌になったりもするんだけど。

ポリーナ・セミオノワは黒鳥やってるときのはちょっとやせすぎかも……こわかった。

次のシンクロもかなりゲラゲラ笑ったけど(でも最後、あるていどやれるようになるのがすごい)、タヒチアンダンスがかなりおもしろかった。えー、想像通りかもしれませんが、練習見ながらいっしょにやってました(^^;)。背筋・腹筋より腿にきた(^^;)。あれはどのへんに重心が来るのが正しいんだろう。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/dadako/20061219
Connection: close