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2016-05-22

セクシュアル・マイノリティの視点でみる「他人の趣味に土足で踏み込むマジョリティの無神経さ」 ――「わたしはロランス」

セクシュアル・マイノリティを描いた映画。マイノリティであることを変に持ち上げたり、ヒロイックな気分に浸るための手段として利用したりせず、ただただ淡々と、息苦しいシーンが続く。印象に残ったシーンは3つある。

1つは、肉体的に男性の主人公が、自分のジェンダーは女性だとカミングアウトし、大学教師としてクラスに登壇するシーン。昨日までは長身イケメンの教師がいきなり化粧して女装してくるわけではある。クラスの空気は真冬の釧路湿原みたいに凍る。このときの、居た堪れなさはすごい。

2つ目は、主人公が教授会から圧力をかけられて辞職せざるを得なくなった日に、やさぐれながらバーに入って酒をあおろうとしていた時に、見ず知らずの男が興味本位で声をかけてきた時、主人公がぶちぎれるシーン。この個人の趣味の問題に、他人が土足でずかずか足を踏み入れてきた感じが、半端ではなく、ついかっとなって殴った主人公の気持ちが大変よくわかる。たしかに、殴りたくなるほどうざい。特に悪気があるわけではないマジョリティの、異質なものに対する「それってちょっと変じゃないですか」というツッコミが、いかに無神経で、腹立たしく、そして寛容さに欠けるものであるかを鮮烈に描いている。

3つ目は、主人公が元恋人(女性)と何年かぶりに出会って、よりを戻すのかと思いきや、なんか会話が上滑りして、以前みたいな親密な感じでなく、結局ほとんど会話を交わすことなく立ち去ってしまうシーン。かなり不思議なシーンで、状況だけみると、とても悲しい出来事ではあるのだけど、なぜか解放感のあるような演出になっている。自分のジェンダーをカミングアウトした結果、職を失い、恋人(ヘテロ)にもふられ、息詰まる思いを抱えながら放浪した主人公が、恋人を失うことが決定的になったシーンなのである。もうこれで失うものは何もない(あとの人生にはアップサイドしか残っていない)という、開き直りなのだろうか。よくわからない。

2016-04-16

「伊藤計劃トリビュート」読書会の模様

国産SF界の期待の新星・伊藤計劃が若くして亡くなった後に刊行されたトリビュート短編集。

追悼のような辛気臭い短編は一つもなく、伊藤計劃が残した「テクノロジーによって変容する人間と社会」という問題意識を共有したうえで、伊藤計劃なんて超えてやるぜ的な野心にあふれた傑作ぞろいです。以下は、各短編の僕の採点(10点満点)、参加者の平均点、そして議論の過程で出てきた主な意見の紹介となります。なお、最高得点は平均8.2点を獲得した長谷敏司「怠惰の大罪」。これでもまだ長編の序盤だというから恐ろしい。早く完成版が読みたい。

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2016-01-01

上田岳弘 / 私の恋人

何を書いても地球規模、少なくとも文明の栄枯盛衰は書くし、なんだったら人類も軽く絶滅させる……という作風で一部の界隈で人気を博している上田岳弘が、これまたすっごいパーソナルでテーマで勝負してきたなあ、と思って読んだ。内容は、理想の恋人を妄想する男が、その理想を満たす女性に実際に出会うことなく死に、なぜか転生し、また死に、三度目の正直とばかりに今生の生でなんとか「私の恋人」に辿りつくという話だった。全然パーソナルじゃなかった。というか、人生を三度繰り返してやっと辿りつくって、恋人に求めるハードル高すぎるんじゃないですかねえ。まあ、この辺は一周回ってもはやギャグとして面白いのでよいです。

本題としては、その三回の生と対応する形で、人類の歴史も振り返っているところですね。人間は三度の大きな運動を経験するとのことです。一つ目は、全ての大陸に人間が伝播していった過程。二つ目は、その全ての大陸の人間同士がいかなる価値観によって統べられるか、というイデオロギーの闘い。ちなみに、これは自由主義・資本主義が勝ったことになっています。そして三つ目は、人工知能と人間の闘い。まあ、このあたりの話は小林「AIの衝撃」にも書きましたが、かなり面白い仮説を立てています。ただのハチャメチャな小説ではなく、ハッとさせられるところもありました。

2015-11-23

人間を超えるAIは可能だとして、その時を見越して、人間は何ができるか――小林雅一「AIの衝撃」

人間と同じように物や概念を認識し、自律的に思考する人工知能が、もうすぐできるのではないか、という話。僕にとってこの話が衝撃だったのは、人間の脳の分子レベルのリバースエンジニアリングにまだ手つかずの状況なのに、それでも人工知能はすでに飛躍的に進化している、という点だった。この分野で著名な発明家(現グーグルの人工知能研究のトップ)レイ・カーツワイルは、こんなことを言っている。

まずバイオテクノロジーがある程度進歩して脳の構造がだいたいわかってきて、その次にナノテクノロジーで非侵襲的なナノボットで脳の活動を内側からリアルタイムでモニタリングし、脳の物理的なプロセスを完璧にシミュレーションする、そしてそれをハードウェア上で実現するのがAIということで、だいたいこの地点に技術レベルが到達するのが2045年

しかし、この2015年の段階でも脳科学で得られた知見と、高速化したコンピュータの恩恵によって、自動運転車が実現間近なくらいにはAIはものになっている、というのだ。素晴らしい。いいぞ、もっとやれ。本書は、最近の動きを簡単に把握するには便利な一冊だった。

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2015-11-17

フェイスブックに浸食された村社会でお互いに「いいね」を送りあう気持ち悪さに耐えかねて自殺、とみせかけて社会を丸ごと殺しにかかる――ハーモニー(劇場版)

会話が多すぎてやばい、画面が動かなすぎてやばい、と評判を聞いて観る前は不安でいっぱいだったんですが、想定以上によかったです。絵は奇麗ですし、やはり原作の設定の良さがいきていますね。プライバシーが消失した近未来の管理社会が舞台で、誰もが自分の評判を気にして生きており、他人から「いいね」をもらうためにやさしく振舞おうと努力せざるをえない。フェイスブックを開かなくても拡張現実によって、リアルでその人を認識した瞬間に、その人の評判がわかるようになっており、もう本当にうっとうしいし、うんざりするような社会なのです。

そうした息苦しさから逃れるために、自分の身体は公共のためのリソースなんかじゃない、社会に飼いならされた豚をやめて自分の身体は自分のものだと宣言しよう、などと主張するテロリストがでてくるのも自然です。まあ、そのテロリストの真意は全く別のところにあるわけですが……。とにかく、中盤まではかなり引き込まれました。終盤のラスボスのスピーチも心にぐさっと刺さってきてよい。「屍者の帝国」を超える面白さです。

以下ネタバレ

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2015-10-12

フランケンシュタイン博士の怪物の婚活のせいで人類存亡の危機――屍者の帝国(劇場版)

観てきました。なかなか面白かったです。とにかく19世紀のロンドンの風景が素晴らしく、ターナーの絵画のような背景が動いているのを見るだけでも感動があります。話としては、ゾンビ工業製品と普及している19世紀が舞台で、産業革命が蒸気の力だけじゃなくてゾンビの労働力によっても達成されている世界です。そんな中、爆弾内蔵ゾンビの自爆テロが起きたり、人間に近い動きをするゾンビが出てきたり、ゾンビだけで構成される独立国家が現れたり、なんかいろいろきな臭いことが起きるんですが、そういう序盤のワクワク感を豪快に吹き飛ばしながら、後半にわりかし深淵なテーマに移行していきます。

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2015-09-26

政治に巻き込まれる科学、それでも抵抗する科学者――上橋菜穂子「獣の奏者」

面白かった。一応ファンタジーのくくりにはなると思うんですが、ご都合主義的な魔法とかは出てこない。舞台は中世の技術レベルで、謎の巨大生物(闘蛇・王獣)を軍事利用している王国になります。主人公はこの動物の世話をする職業に就くのですが、その立ち位置は牧場の厩務員というよりも、むしろ原爆を開発した物理学者に近く、政治的な思惑にものすごく翻弄されます。正直、政治とかどうでもいいし、むしろ自分の気の赴くままに研究し、謎を解き明かしたいだけなのに、否応なく戦争や内戦の駆け引きの駒となってしまうあたり、大変よかった。

また、主人公の有能さが、魔法や血筋みたいな、天から降ってくるものではない、というのもポイントですね。事実をよく観察し、仮説を立て、それを検証する。うまくいかなかったから、うまくいくまで延々とこのサイクルをまわす。これはまさに科学の方法そのものなんですよ。そして、そのプロセスを経て、今までの常識を覆し、見事獣の生態を理解していくシーンとかは、獣のかわいい描写もあって、ぐっとくるものがあります。

あと、物語の後半は親子の物語としても面白かったですね。しかも、知識を発見し、それを次世代に残すという、科学の在り方が、親から子への継承というストーリーともよく符号しています。今やっている小さな仮説の検証のそのひとつひとつが、次の世代へとつながる知の大河の一滴であり、そしてその意味では自分もやはり大河の一部として、この重くて壮大な歴史に連なっているのだという感覚。

ホーガン「星を継ぐもの」みたいな、理解することそのものの楽しさと、科学の成果を戦争の道具にされる科学者の苦悩と、動物の癒し要素と、中世の権謀術数、それらすべてが調和している優れたサイエンス・フィクションでした。小川一水「天冥の標」シリーズが好きだったら楽しめると思います。

2015-08-23

記憶破断者 / 小林泰三

面白かった。他人の記憶を自由に操れる超能力者と、記憶が数十分しか持たない一般人が戦うというもので、どう足掻いても勝ち目がないがゆえに、この状況をどうひっくり返すかに非常にワクワクさせられた。JOJOのスタンド使いしかり、普通こういうバトルものだと、こちら側もある程度特殊能力を持っているわけなんですが、そういうのは全くない。むしろ記憶障害で、自分の記憶を残すために常にノートに起こった出来事を書き続けないといけないというハンデを背負っている。まあ、設定だけですでに面白い状態ですな。エピローグは賛否両論あると思いますが、作品全体として、主人公の障害の強みと弱みの双方を書ききっていると考えると、納得できるのでは。関連作としては「忌憶」「モザイク事件帳」があります。

2015-08-22

月世界小説 / 牧野修

すべてが言葉によって語られる世界で、言葉を消し去ろうとしてくる敵と、言葉を武器にして戦う勢力の言語戦。言葉を武器にするというのはメタファーではなく、そのままの意味で、たとえば、意味を破壊する爆弾がでてきて、その爆発にふれると、人でも建物でも意味を失ってしまい、結果として(作中世界では)物理的にも無効化される。ほかにも、勝手に世界を書き換えるパターンもあって、意味不明の脚注を勝手に付けられて死ぬ、みたいなこともあり、面白い。ただ、作中世界はすべて誰かの妄想という設定なので、基本的に何でもありの世界になっており、バトルものなんだけどルールが曖昧すぎて勝敗の決め手がよく分からなくなってしまっている。むしろ、次から次へと様々な物語が生まれ、そしてその物語自体が、一つの戦闘にもなっており、また彩り豊かな小ネタにもなっている、その有様が本書の特徴だろうか。

個人的には、古事記も英語で書かれていて、ニホン人全員英語を喋っている世界があるんだけど、そこで、ニホンに固有の言語があったことなんて一度もなかったというふうにみんながめいめい言って、失われた謎の言語ニホン語を調べようとすると周りで不審な事件が起きる、みたいなエピソードはけっこうツボだった。

ただ、全体的にちょっとやりすぎな感じがある。同じ作者なら「楽園の知恵」のほうが面白いかな。

2015-08-16

マインドフルネス認知療法―うつを予防する新しいアプローチ / Z・V・シーガル等

マインドフルネスとは、「意図的に、今この瞬間に、価値判断をすることなしに注意を向けること」と定義されており、精神医療の技法のひとつで最近盛り上がっているものらしい。何やら、うつに効果的であり、名だたる企業の研修にも採用されているというものらしいが、どうにも胡散臭い。非常に懐疑的な姿勢で、とりあえずこの本を読んでみたので、その解釈に誤りがあってもご容赦いただきたい。



目標未達という病

人間、誰しも、こうでありたいという理想像を持っている。そうした理想の状態にどれだけ近づくことができるかが、その人の人生の価値を定めているとっても過言でないほどだ。しかし、その目標に届いていればいいのだが、我々はみな凡人なので、なかなか難しい。また、簡単に手に届くような目標を設定すること自体、意識の低い、怠惰で、非生産的な行為だとみなされる可能性が高い。なので、目標は常にチャレンジングなものとなってしまう。

さて、目標未達の状態は、当然に是正されるべき「良くない」状態である。自分がそこにとどまっているのは恥じるべき状態であり、目標に向けた速やかな行動が求められる。ここでは、「どうすれば目標が達成できるか」に意識は集中しており、そのために「自己を常に監視・評価する」必要がある。そしてこの自意識の息苦しさこそ、うつの原因となっている、らしい。本書では、この状態を「すること」モードと呼んでいる。


目標未達解消へのアプローチ

どうすれば、目標未達を解消できるだろうか。一つの方法としては、目標を見直す、ということだろう。誰しもええ格好しいなので、ついつい高い目標を立ててしまうものであるが、そもそも、そんな高い目標は必要なのか? と問いかけること有効だ。周囲の期待、社会の空気、さまざまな要因によって作り上げられた目標は、本当に自分が心の底からやりたいことで、どうしても必要不可欠なものなのだろうか。もう少し別の目標でも、自分の心の平穏を達成するためには十分なのではないだろうか。そのような問いかけと思考によっても、目標未達は解消されうる。

ただ、こうしたアプローチは唯一ではない、と本書は主張する。言葉を操作し、目標そのものを変更するアプローチではなく、目標未達の自分という状態を極力意識せず、自意識の重さそのものを脇にどかすことを習慣づけよう、というアプローチだってありうるというのだ。これが、マインドフルネスらしい。実際に、このアプローチではうつ再発率が有意に低下する、という実証研究がある。


「すること」モードから「あること」モード

目標未達に苦しみ、その解消に躍起になっている状態を「すること」モードであるとすると、マインドフルネスな状態とは、やるべきことも、行くべき場所もない状態である。目標そっちのけで、ただ、「今ここを、直接的、即自的、親和的に体験すること」らしい。これを「あること」モードとも呼ぶ。「あること」モードでは、体験は、目標への有効性という観点から全てが一義的に評価される「すること」モードとは異なり、「瞬間瞬間にあるユニークなパターンの豊かさを味わう」ことらしい。


フロム自由からの逃走」

そういえば、似たようなこと以前に考えたことがある。フロム「自由からの逃走」書評を引用する。

フロムによれば、近代人は自由になったが孤独になった。この孤独から逃れるために近代人は「個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれること」*1  を望んだ。これが全体主義の起源であった。しかし、ここで問われている「自己」の定義がいまいちはっきりとしない。自分自身を失いたいのならさっさと首でも吊ればいいのである。そうはせずに思考停止に陥って全体主義の歯車と化したいというのだから、ここではやはりもっと正確な定義を与えるべきだろう。


僕は、「自己」は視線だと考える。それは、外部から存在としての「わたし」を眺める想像上の視線なのだ。まったく意味がわからないだろうけどもうすこし話をきいてほしい。この話はそもそも自己とか自我とか心なんていうものが、なぜ生まれたのかということにさかのぼる。はっきり言って意識・心なんてものは生きていく上で必要ない。ではなぜこんな心なんていう、生きていく上で面倒な性質を身体は獲得したのだろうか。「サイエンス・イマジネーション」収録のエッセイで、生物言語研究者岡ノ谷一夫は「自己」は適応の結果偶発的に生まれたものだという仮説を立てていた。


その適応とは、他者の行動を予測する、という能力の獲得だ。その場しのぎで場当たり的に対応するよりも、事前に「相手はこういうときにはこういうことをしそうだ」と予測することは自己の生存に有利に働く。狩りをする動物にとって獲物の行動を予めシミュレートすることは合理的だろう。人間は一人で狩りをせず、仲間と共同で生活するので、同じ人間の行動を予測することも合理的だ。そのように適応して当たり前とさえ言える。


では、この行動の予測が他者に対してではなく、自己に向けられたらどうだろう? 自分がどういう状況でどういう行動をするのか、そう考え始めたときにはじめて、その脳は「自己」とか「意識」とかを生んだのではないだろうか。自分がどういう行動をするのか・どのように感じているのか、そういったことについて意識すること・考えること・予想すること、それこそが心なのではないだろうか。


この仮説は心がどのような機能を持っているかに答えているだけで、そもそもそうした予測を行っているものは究極的に何なのかには答えていないように思える。しかし、心がどのようなあり方で「自己」を生みだしているかをはっきりさせている点で有益だ。「自己」とは世界を認識する主体として構成されているのでなく、むしろ世界の内部で這いつくばる一個の対象として(仮想の外部から)視認されている。とすれば、必然的に「自己」とは有限なものとして発見されることになる。ただ本能のまま自然に動き出す身体には、圧倒的な世界のみが見えており、自己はどこにも見出せない。しかし、ひとたび自己に対して視線が向いてしまえば、大きな世界の中を這いつくばるみじめで小さな自己を発見してしまう。え? つーかおれ死ぬの? マジかよ勘弁してくれよ。そういった死への恐怖も生まれる。永遠で広大な世界に対する、ちっぽけで儚い「自己」への視線を止めることができるのならば、「わたし」はどんな代償だって支払うだろう。

もう「わたし」とか自意識とかが重い。ただ日を生きたい。いや、ただ日が在りたい。ただ、そこにあるだけの現実を、ただ端的にそのまま在りたい。

……ということなのではないだろうか。

*1:170p