天使と悪魔 / ダン・ブラウン

「ダ・ヴィンチ・コード」の前に書かれた作品。主人公は同じロバート・ラングドン。すでに消滅したはずの科学者結社イルミナティがヴァチカンにテロを仕掛けるというストーリー。核爆弾よりも危険な反物質で国を吹っ飛ばすと脅迫したり、コンクラーベに参加するはずの枢機卿を連続で殺したりと、けっこうやりたい放題。一応ミステリ仕立てですが、秘密結社や宗教芸術に関する薀蓄でいっぱいで、ハリウッド版京極堂って感じです。コンクラーベにおける投票以外の教皇選出方法のエピソードなどは面白かったです。



科学とキリスト教の対立、融和という重いテーマも扱っており、なかなか社会派。キャラはどいつもこいつもステレオタイプなんですが謎解きがメインなので読みやすさに貢献していてグッジョブ。上下逆さまになっても読めるアンビグラムという小道具も良く出来ていて驚きました。ただちょっと不満もあるので言っときます。


ありえない宗教擁護

後半でキリスト教徒が宗教擁護の演説をします。これがおかしい。

科学は人間を救う、とあなたがたは言う。しかしわたくしに言わせれば、科学は人間を破滅させてきたのですよ。宗教には欠点がありますが、それは人間に欠点があるからです。もし外にいる人たちがわたくしと同じ目でこの協会を見ることができれば……厳重な壁の内側へ視線を向けさえすれば……現代の奇跡を目にすることでしょう……収拾がつかずに混乱している世の中で、ただ思いやりの心の代弁者になりたいと願っている不完全で単純な同胞たちがここに集まっているという奇跡を。 

まず、科学批判、これはもうありきたりの言説なのでスルーします。次の宗教擁護、これが問題です。キリスト教の教義には反科学的で非合理なものがたくさんあります。進化論を否定する天地創造論とか、中絶の禁止などは、どう見ても非合理ですし、歴史的に見ると宗派同士の争い、異教徒弾圧など、数々の蛮行の大義として宗教は機能してきました。そんな宗教の欠点の理由として、人間自身が欠点を持っているんだから仕方ない、というのです。しかしそれは科学の欠点をも擁護してしまう論理です。
貧しいものがいるのはなぜか?―――科学技術がまだ未発達で食料や医薬品を安価に提供できないから。
戦争が起こるのはなぜか?―――科学技術と経済システムが未発達で富と権力の一極集中が起こるから。世界中の誰もが年収1000万という社会なら、誰がわざわざ戦場に死にいくでしょうか?
人間はいまだその技術と社会システムに欠点を持っています。ですがその欠点を克服しようと努力する大勢の科学者がおり、その功績を実際に取り入れて社会を良くしようとするさらにたくさんの人間がいるのです。「神の倫理」や「祈り」でしか解決しようとしない宗教よりも、科学を基盤とする彼らの善意は確実に多くの命を救っています。
―――こんな穴だらけの論理ではいくら熱弁されてもしらけるだけだと思うのですが、この演説が世界中を魅了する魔法のような演説だと描写されているのです。ええー!それはねーよ! もしやこういう感想を持つ方がマイノリティなんでしょうか。まあ、宗教批判をする作品が多い中、あえて宗教擁護の視点も持ち出したのはえらいと思いますが……。


知識無き善意は危険

補足です。困っている人を助けようという善意は素晴らしいものです。しかし知識無き善意はかえって危険です。
児童労働が問題となったナイキを例に挙げます。一般的には、市民の声が悪徳企業に届き、幼い子どもが救われたという美談です。

JILPTの研究報告書は「NGOからの指摘がきっかけとなってサプライ・チェーンの児童労働問題の解決に取り組んだ例として1990年代のナイキのケースが有名である」と紹介している。これを対岸の火事と片付けるわけには行かない。食品、玩具、嗜好品。これらの商品がどこかで児童労働を経由している可能性を否定できないからだ。ナイキの経験から学ぶべきことは決して少なくないのである。
「検証 児童労働という現実」 独立行政法人 労働政策研究・研修機構

多くの心優しい市民が満足したことでしょう。ですが、実態はちょっと違います。

世界的なスポーツメーカー・ナイキはベトナム工場で子供たちを劣悪な環境で働かせているとして、人権活動家を中心とした世界的なボイコット運動の標的となった。その結果ナイキは、労働条件の改善と児童労働の禁止を徹底すると約束し、18歳未満の若年労働者を解雇した。この人権運動の「成果」によって、職を失った子供たちは、物乞いや売春などより劣悪な労働に従事せざるをえなくなった。 
経済学者ウォルター・ブロック「不道徳教育」

児童労働の最大の原因は貧困です。この貧困を打開するための教育などが必要なのであって、「基本的人権」の順守は後回しにすべきです。人権を軽んじるつもりは毛頭ありませんが、先進国でやるのと同じノリで人権を守っても事情が違うので効果が薄いのです。一体誰が職を失ってまでその「基本的人権」とやらを守りたいと思うでしょうか? 
誰が得するんだよこの人権運動―――企業は安価な労働力を失い、労働者は職を失い、先進国の市民でさえもナイキの価格上昇で損をします。人権活動家だけが自己満足し、得をするのです。いや〜な現実を直視したくない大衆も、リーズナブルな美談にありつけて、得をするかもしれません。
このように知識の欠けた善意は、たとえそれが汚れの無い純粋な気持ちから来たものであっても、邪悪です。正義を振りかざしている分性質が悪いと思います。
宗教は善意を強調するあまりに、正確な知識と妥当な解決策をないがしろにしがちで、どうにも好きになれません。この小説における宗教擁護の演説も「純粋な善意」とやらを強調したものだったので虫唾が走りました。

ナイキの経験から学ぶべきことは決して少なくないのである。