批評の手帖

浜崎洋介のブログです。ご連絡は、yosuke.khaki@gmail.comまで。

岩井克人『会社はこれからどうなるか』書評

会社はこれからどうなるのか (平凡社ライブラリー)

会社はこれからどうなるのか (平凡社ライブラリー)

 気が付けば、岩井克人の本は、高校で読んだ『ヴェニスの商人資本論』、学部で読んだ『貨幣論』、大学院で読んだ『21世紀の資本主義』に続き4冊目。ただ、それらは全て「資本主義」の原理論をお勉強するために読んだといった側面が強い。が、この『会社はこれからどうなるか』は違う。小林秀雄賞をとったあたりから気になり出してはいたが、題名からして何かビジネス書っぽい響きがあるので、平凡社ライブラリーに入ってからもしばらくは放っておいた。しかし先日、江古田を散歩して偶々入ったブック・オフで見つけ、古本ならいいだろうということで購入したとういう次第・・・・・。
 で、読んでみてビックリ。おそらく岩井克人の本の中でベストだろう。かつ、岩井自身が「もっとも多くの読者を獲得した本」と言うように、その語り口の易しさ、噛んで含めた丁寧な論の運び、状況論と原理論との密な連絡、そのどれをとっても間然とするところがない。「会社」から限りなく遠い生活をしている自分なども、しかし本書を読み終わった頃には「会社」の歴史的・社会的使命を納得し、その可能性を信じてみようかという気になっていた。

 まず岩井は、会社の歴史的起源、そしてそこから立ち上がってきた会社法に基づいて、株式会社が持つ二面性を指摘する。一つは株主によって所有され、売り買いされる「モノ」としての側面(法人名目説)。もう一つは資産を管理所有して社会活動を行う「ヒト」としての側面(法人実在説)である。そして、この株式会社を純粋な「モノ」の側に還元しようとしたのがアメリカ型株主主権論(利益は株主のために!)であり、純粋な「ヒト」の側に還元しようとしたのが、グループ内で株を持ち合う日本型会社共同体論(利益は社員のために!)である。もちろん、その二つの会社形態は、それぞれの困難を孕んでいる。が、岩井によれば、より原理的な困難は実はアメリカ型株主主権論にこそあるとされる。読書ノートの意味も含めてまとめておこう。
 
(1)アメリカ型株式主権論の破綻 
 アメリカでは既に1932年において、法律家のアドルフ・バーリと経済学者のガーディナー・ミーンズによって「所有と経営の分離」(『近代株式会社と私有財産』1932)の問題が指摘されていた。つまり本来は株主のモノである会社が、しかし経営者の自己実現のための道具(モノ)と化してしまうという問題だ。自身の名声や権力のために無闇に冒険的な投資に走ったり、保守的な経営に終始したり、会社の財産を盗んだりしてしまう経営者から、いかに株主の主権を守ることができるのかというのが課題である。
 そして1970年代後半から1980年代にかけて、アメリカ型コーポレート・ガバナンス論は一つの解答を得ることになる。すなわち株式オプション制という方式である。つまり、「所有と経営の分離」が問題なら、その分離を再び結合してしまえということだ。経営者に自社の株式を所有させ、経営者の自己利益を高めることが即株主の自己利益を高めることとイコールとすれば問題は解消するはずだというのである。
 が、岩井はそこには原理的な落とし穴があるという。というのも、社会的「信任」で結ばれている会社と経営者の倫理的関係を(だから背任罪という刑法が有効)、自己利益の合意の下に交わされる契約関係(だから当事者間の契約違反は民法に属する)に還元することはできないからである。にもかかわらず株式オプション制は、「法人(会社所有者=株主)としての私」が「経営者としての私」と契約するという自己契約を可能にしようとする。しかし、この自己言及的な自己契約において、もし経営者が自己利益の追求のみを考えているのならば、いくらでも都合のよい契約書を仕立て上げることが出来てしまうという落とし穴が待ち受けているのだ。その結果が、年々異様なまでの膨れ上がりを見せるアメリカ型株式会社の経営者(CEO)の自己報酬であり、会社利益を粉飾決算し株価をつり上げ巨額ボーナスを受けとりながら不正が発覚しそうになると自社株を売り抜け、果てには自社を破綻させたというエンロンワールドコムの一件であった。
 株主主権論の延長線上に展開された自己契約の試み(アメリカ型コーポレート・ガバナンス論)は、契約(自己利益)によって信任(倫理)を規定することが不可能だという一点において、本質的な矛盾をきたさざるをえない。

(2)日本型会社共同体論の歴史
 一方、日本では、日本型会社共同体論(法人実在説)の延長線上で、歴史的・伝統的に「所有と経営との分離」が健全な形で実現されきたことが指摘される。経営学で言う「所有」と「経営」との関係は、江戸時代の商家でいえば「家」と「当主」の関係であり、戦前の財閥で言えば「財閥一族」と「大元方」との関係であり、戦後の会社グループで言えば、「株式持合いグループ」と「グループ内企業」の関係ということになる。それらは、自社株をできるだけ公開しないことで、他所の資本による会社の乗っ取り(ホールド・アップ問題)から会社を守り、そのことで終身雇用・年功序列制を規範とした組織特殊的な人材育成を可能とし、会社の長期的成長を果たしてきた。特に産業資本主義を基盤として復興を果たしていった戦後は、株式の持ち合いによって「会社」はモノである側面を消去し、あたかも純粋なヒトであるかのように組織それ自体の存続と生長を自己目的としてきたのだった。そして、株主利益に直結する会社の利益率よりも従業員の福利厚生に主眼を置き、本来、会社との外的契約関係によって結ばれているはずの労働者を「会社」の内部に「社員」として囲い込むことで絶大な成功を収めてきたのである。
 だが、その日本型資本主義システムも、70年代以降の産業資本主義社会からポスト産業資本主義社会(金融革命・IT革命・グローバル化)への歴史的の変化に際して新たな困難に直面することになる。では、その産業資本主義からポスト産業資本主義への移行とはどのような事態なのか。

(3)産業資本主義とポスト産業資本主義 
 まず産業資本主義の定義からはじめよう。産業資本主義とは、「お金の支配」が強く作用するシステムのことである。というのも、産業予備軍である安い人材(農村の次男・三男)が確保されている間は、設備投資(資本投入)によって工場の生産性を向上させればさせるほど製品価格と生産コストとの間の差異によって利潤は自動的に発生し安定的な経済成長が見込めるからである。つまり産業革命によってもたらされた技術革新によって、資本さえあれば機械制工場が作れ、機械制工場さえあれば自動的に利潤が出るというシステム(産業資本主義)が作り上げられていったのである。
 だが、産業予備軍として重宝された農村の過剰人口は次第に底をつく。そのとき、ただ製品を作って売れば儲けが出るといった産業資本主義は終を迎え、新製品の開発、市場の新規開拓、組織の改変、自社の製品を他社の製品から区別するイメージ戦略など、意識的に差異性を創りだし、その差異性から利潤を得ていくポスト産業資本主義の時代が始まることになるのである。
 だからポスト産業資本主義における「会社」は必然的に「差異=情報の商品化」という戦略をとらざるを得ない。そしてそこから、「情報(差異)」技術の爆発的発展としてのIT革命や、枯渇した労働力を国外に求めるグローバリズムや、製品それ自体ではなくお金それ自体(お金を必要とする時空間的差異を媒介した貸し借り)から利潤を得る金融革命が導かれることになる。その際、ポスト産業資本主義社会に適応した「会社」は、ローカルな市場の差異を食い尽くし世界を平準化しながら巨大化するか(デル、アマゾンなどの多国籍企業)、或いは巨大会社が巨大であるが故に見逃してしまう市場の隙間(ニッチ)に目を付けてできるだけ身軽に動き回ろうとして小さくなるかのどちらかだろう。
 むろん、そのとき求められる人材はかつての産業資本主義時代に必要とされた人材とは違う。つまり、ただ真面目に長時間働くだけの仕事人間よりは、アイデアや知識の差異を他者に説得できる創造的人間の方が必要とされるということだ。が、それでも、一見個々人が自律的に活動しているかに見えるアメリカ型「会社」ではなく、会社共同体論的な色合いの強い日本型「会社」においてこそ、その創造性は活かせるはずだと説くところが、この本のミソ。

(4)ポスト産業資本主義における「会社」
 むろん、あまりに産業資本主義に適応しすぎた日本の会社が新たにポスト産業資本主義に適応するためには、それ相応の構造改革を必要とする。
 が、それでも岩井は、金融革命によって信用さえあれば以前より簡単に資本調達ができるようになった現在、会社に対する資本の提供者である株主の重要性は急速に低下し、会社は株主のものであるというアメリカ型「株主主権論」は疑われ始めているという。そして、経営者の企画力、技術者の開発力、従業員のノウハウなど、お金で買えるモノより、お金では買えないヒトの能力のほうが高い価値を持つポスト産業資本主義社会において、その人材をこそ「会社文化」の中で育て上げ、長期的な視野で「会社」の個性(=差異)を磨きあげていくといった日本型「会社共同体論」こそ適合的形態ではないかと結論づけるのである。

 たしかに、この最後の結論は意外ではある。ポスト産業資本主義(IT革命・グローバリズム・金融革命)を牽引し、90年代に未曾有の好景気を経験したアメリカではなく、その間、失われた十年どころか、失われた二十年を経験しつつある日本経済において、その経済的可能性を指摘するとおうのは一見アクロバティックではある。しかし、エンロン破綻やリーマンショックを経て、アメリカ型自由放任=自己愛経済(新自由主義)の限界を次第に認識しつつある現在、具体例を多く引き、ゆっくりと展開される岩井の議論はリアリティを持って響いてくる。安易なグローバリズム賛美と、安易な日本型経済へのノスタルジーとを同時に峻拒して、着実で現実的な経済学的思考を促すにはまたとない本だろう。