旧東海道の旅2日目

6月11日 12:24。前回まで来た砂子から神奈川宿に向かって2日目を開始。前回、いきなり頑張りすぎて後悔したので今日は短めの距離にしよう。先は長いし。砂子通りから小土呂橋を経由して関札跡まで数分で到着。ここは川崎宿の京都側入り口のようだ。川崎宿京入口の立て札が立っている。まだ、このあたりは江戸見附と上方見附とは言わないようだ。



八丁畷
さらに歩くと京急線八丁畷駅の手前あたりに「芭蕉の句碑」がある。松尾芭蕉が郷里(伊賀)に帰るとき、門弟たちとの惜別の思いを込めて区を作ったそうである。その先、八丁畷駅の踏切を渡って左方向の道を進む。すると、駅に沿って無縁仏の墓がある。この辺りは江戸時代から多くお人骨が発見されたそうで、川崎宿の震災や大火・洪水で亡くなった身元不明の人々をこの辺りにまとめて埋葬したのではと言われているそうだ。



市場・鶴見
八丁堀を越えてしばらく行くと市場一里塚につく。一里塚とは、里程の目標と人馬の休憩のための目安として一里ごとに街道の両側に塚を築造し榎を植えたものだ。ここは日本橋から5つめの塚なので、日本橋から20kmくらいの距離になる。一里塚からさらに先に進み、鶴見川の大きな橋を渡ると鶴見の町にでる。鶴見とこの先の生麦は、川崎宿神奈川宿の間「間の宿」として賑わい、「よねまんじゅう」を商う店や茶屋が繁盛したそうだ。今は、店もあるが図書館やらマンションやらの住宅街になっている。JR鶴見駅京急鶴見駅のあたりで旧東海道がどの道になるのか分かりにくいので注意が必要だ。京急鶴見駅の高架をくぐって東口の通りを行くルートが旧街道になる。



生麦
鶴見駅からしばらく歩いて、鶴見線国道駅を過ぎると、いよいよ生麦に入る。生麦事件があったところで有名な地名である。この事件が元で薩英戦争が勃発した。生麦事件の発生現場には石碑か何かあるのかと予想していたが、写真にあるようにただ説明板がかかっているだけだった。しかも普通の民家の塀に取り付けてあるだけ。ただ、生麦事件碑というのは、ここから少し先のキリン工場の真前にある。ちなみに、キリン工場はものすごく敷地が広い工場なのでびっくりした。



子安
キリン工場を過ぎると第1京浜に出て、そこから宮前商店街までは延々とこの道沿いを歩く。1日目の蒲田あたりもそうだったが、こういった大通りを歩くのが一番体力を消耗する。アスファルトばかりで景色がほとんど変わらないせいだろうか。途中に日本橋から26km地点を示す印があった。日本橋から大分歩いたという実感が湧いてくる。それからしばらく歩くとようやく写真の宮前商店街に到着。この中が旧街道になり、神奈川宿はこの辺りから始まっている。



神奈川宿
商店街は夏祭りの真最中で出店と人ごみがすごいことになっている。ビールを飲みたい要求をがまんしつつ人ごみを抜けていく。商店街を抜けると右手に京急神奈川駅、真正面に青木橋を望む。旧街道は、青木橋を渡って左折してすぐに右手の細い道になる。通りに入ると右手に金比羅神社が見える。昔はこの前に一里塚があったそうだ。15:19。本日はここで終了。横浜駅からJRで帰ろう。



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