2012-02-20 第百七十二回
■きれいな家
こんにちは、と玄関に入った途端、
「いらっしゃい」と明るく出迎えてくれるような家もあれば
ツンとすまして、相手にしてくれない家もあります。
リビングに入ると、なぜか眠たくなるような家、
空間が身体にまとわりついてくるような家、
生活のきれいな部分だけが強調されている家もあれば
きたない部分だけが目に入ってくる家もあります。
家はほんとうに、さまざまです。
眠たくなるような家は、おおよそ
そこに住む家族もどこかおっとりとしていて、
嫌味のない人が住んでいることが多いものです。
訪問者にも、ゆっくりと呼吸をさせてくれる家です。
ツンとすましている家は、めったにあるものではありませんが
デザインはきれいでも、そこに人の気配のない家が少なくありません。
いわば、展示場のような家です。
生活のきれいな部分が強調されている家とは、
ありとあらゆる生活の細かな場面が
清潔に整えられた家で、きれいな装飾があるというわけではありません。
キッチンに並べられた食器や鍋などを眺めるだけでも
そんな家は意外と少なくないのです。
余計なものが排除され、それでいて
棚の上に野の花が一輪、さりげなく飾られていたりして、
家族の「うち」への思いやりが感じられる家でもあります。
そうした家ではきっと、一つひとつの場面を
丁寧に生活しているのだろうと想像してしまいます。
あるお宅の取材で奥様に
「いちばん、お気に入りはどこですか」と尋ねると
「食器棚の取っ手です」
という答えが返ってきて驚いたことがあります。
取っ手とは、ひきだしを引き出す、あのポッチの部分です。
取っ手に手をかけるとき
手の甲を下に向けて、人差し指と中指の2本でそれを引き出す人と
手の甲を上向きにして
親指を含む3本の指で引き出す人など、さまざまです。
奥様は3本の指を使うのがクセだそうで
取っ手というよりポッチのほうが使いやすく、
自分の手の形状や大きさ、使い具合に合わせたものを選ぶのに
ほんとうに苦労をしたのだといいます。
いわれてみるまで気づくことはありませんでしたが
確かに、食器棚も洗面の収納も、作り付けの収納はほとんど全て
奥様の選んだポッチに統一され、
それを意識して眺めるととてもきれいに見えます。
男性中心のビルダーさんではなかなか気づかない部分ですが
そのポッチ探しに尽力したビルダーさんもエライなあと感心したものでした。
掃除機をかけるだけでも、それを収納から取り出し、
グィーンと掃除を始める。
新居での生活が始まり、この一連の作業をするだけでも
はっと気づくことは少なくありません。
収納の広さ、コンセントの位置、表の動線、裏の動線、掃除のしやすい部分、
掃除機の届きにくい部分、音の響き、窓を開ける動作、二階への移動…などなど。
家事を含めると、
生活は数百数千もの動作の積み重ねであることがわかります。
取っ手のデザイン一つとっても
それが自分にフィットするかどうかで、一日の気分が変わることもあるでしょう。
生活の場面を細かく見据え、それをないがしろにすることなく
細かく問題をクリアし、きれいさを突き詰めていくと、
なぜか空間そのものがきれいに見えてくるから不思議です。
「いらっしゃい」と、訪問者を心地よく出迎えてくれる家もそんな家です。
どんなに高級な家具や照明、装飾品がそこに存在しても
生活する人の細やかな配慮が小さなところに息づいていない家は
どんなときでも、おおざっぱにしか人に接してくれません。
小さなところにまで愛情をかけた家は
落ち込んでいるときなどもきっと、
家のなかのものたちが束になって「大丈夫だよ」と
人を慰めてくれるのだと思います。
家はビルダーさんがつくるのでしょうが
「うち」は人がつくるのです。
2012-01-31 第百七十一回
■暖房の考え方
日本人は長い間、「採暖」と「部分暖房」、そして「間欠暖房」で暮らしてきました。
採暖とは、囲炉裏やストーブで文字通り暖を採ることで
部分暖房とは暖かさが必要な場所のみを暖めること、
間欠暖房とは必要なときにだけ暖房する、という手法のことです。
節約は美徳であり、屋内の全部を暖めることなどもったいないという意識ですが
断熱・気密といった建物の性能が向上したいまでも
こうした暖房手法は根強く残っており、
ヒートショック予防やエネルギー消費の面で多くの問題を
抱えたままとなっています。
採暖も部分暖房も、暖房設備のある場所だけを暖める手法です。
いくら寒い部屋と仕切りをしても
冷気は暖かい部屋へと移動し、その温度差は寒い部屋で結露を起こします。
間欠暖房は一見、省エネルギーに思えますが
夜間などに暖房を止めた途端に温度が下がり始め、
せっかく蓄えた輻射熱も下げてしまいます。
翌朝、起きたときに暖房を再開すると、冷え切った空間そのものが
大きな負荷となります。
空間の空気のみならず、目に見えるもの全てに熱を配ろうとして
かえってエネルギーが必要となるのです。
体感温度は(おおざっぱな計算ですが)
(表面輻射温度+室温)÷2 で計算できますが
仮に冷え切った室内の壁や床などの温度を10度として
暖房器の温度設定を24度とすると
(10+24)÷2=17 で身体に感じる温度は17度にしかなりません。
屋内の表面輻射温度は一定とし
壁や床などの温度を仮に18度、暖房器の温度設定を20度とすると
(18+20)÷2=19 となって
20度の温度設定でわずか1度差の19度の体感温度となります。
24度の熱をつくる暖房器の温度設定と20度のそれとでは
エネルギー消費は格段に違ってきますし、
何より、24時間、同じ温度のなかで過ごせることは
結露の防止、カビ・ダニの発生防止、アレルギーの軽減などで
数え切れないほどのメリットがあるのです。
実際、次世代省エネルギー基準の北海道仕様レベルの住宅では
間欠暖房よりも連続暖房のほうが
エネルギー消費は変わりがないか、むしろ軽減されます。
そこでさらに節約をするのであれば
夜間や留守中には、暖房をストップするのではなく
弱い熱で連続運転するようにすれば、さらなる省エネルギーになるわけです。
私の家は、もう四半世紀も前に建てた中断熱・中気密程度ですが
自宅に併設した事務所ではエアコンを使用していますが、これも同じです。
日中の温度設定がやや高いのは、
暖房器一台で30坪の全館に熱を配るという旧式の暖房手法のためで
こうした方法でも、ご近所の部分暖房、間欠暖房のお宅より
暖房費はずっと安くあがっています。
その暖房感は、暖かいというよりは「寒くない」程度のものであり
屋内全体に大きな温度ムラもありません。
昨今、急増している「Q1」(Q値1.0)レベルの性能だと
20度前後の弱い熱でも、全館を「寒くない」空間にすることも可能でしょう。
浴室内で「溺死」する人の数は、わかっているだけで
年間14000人にものぼります。
その多くは脳卒中や心疾患などヒートショックによるものといわれます。
交通事故死よりはるかに多い数字です。
脳卒中を起こすと、最初の半年を生き延びて、ほぼ完全によくなる人は2割、
これを含めてのちに自立できるレベルにまで回復する人は6割にすぎません。
寝たきりの約4割は、脳卒中の後遺症によるもので
要介護となる原因の第1位でもあります。
その国民医療費は年間約2兆円にものぼります。
屋内の温度差を解消することで
ヒートショックの予防効果が格段に向上することは周知のとおりです。
現に、断熱・気密が徹底された北海道における
脳卒中の死亡率は全国47都道府県のなかでも常に30位以下となっています。
年間医療費2兆円の10%でも2000億円。
温熱環境を整備するだけで、これだけの国費が削減できるのに
こうした情報がいまだ流通していないのは、とても不思議なことです。
欧米では「建物」を暖め、日本ではいまだ「空気」を暖める。
ここが最大の違いです。
せっかく建物の性能が向上してきたのですから
空気だけを暖めるのをやめ、
弱い熱でも連続して建物全体のあらゆるものを暖めるのです。
それは真冬でも軽装で贅沢に過ごすのが目的ではなく
家族の健康、建物の健康、環境負荷にまで配慮した、むしろ謙虚で、
慎ましやかな暖房手法といえるのだと思います。
2012-01-17 第百七十回
■掃除
日頃、少しずつ掃除を重ねているので、
大げさにすることもなくなったというのが、
しなくなった理由です。
かといってすごくきれい好きというのではありませんが
掃除をするのが目的なのではなく、自分の気分をすっきりとさせたいからです。
髪を整えたり、お化粧をしたり、
着ているものに気を遣ったりするのと同じように
部屋の状態はその時々の気持ちを表し、
日常の行動の総体ともいえます。
要するに、その人がそのままそれらに投影されているのです。
お化けを見るより怖いでしょうし
いつもは清潔なはずなのに、何日も汚れた服を着回ししているとしたら
あ、どうしたのかなと思います。
それと同じように、取材などでいくら新築でも汚れ放題のお宅におじゃますると、
ついつい、そこのご家族の気持ちの状態を想像してしまう自分がいます。
掃除は掃除をするのが目的ではなく
自分の気持ちをすっきりさせるためにするというふうに考えると
ここのご家族は、きっと
気持ちがすっきりしないまま生活しているんだなあとさえ
考えてしまうのです。
先日、ある取材でお会いしたお医者さんと掃除の話になり
そんなことをお話ししていましたら
掃除をしたり、片づけをしたり、あるものをピカピカに磨いたりすることで
脳内のセロトニンを増やし、
気持ちを落ち着かせる効果があるということを教わりました。
セロトニンという物質がどんなものかは知りませんが
きっと、気持ちをよくする物質なのだと思います。
何かをピカピカに磨いてきれいにすることは
人間が持つ「誘目性」という性質を刺激して、
これもまた気持ちをよくしてくれるのだそうです。
ただでさえ、きれいなものや
ピカピカしたものに目がいく「誘目性」を備えているのだから
それを満足させてあげるといいというわけです。
「だから気分がモヤモヤしているときには、掃除がおすすめなんですよ」
という先生の話は、ガッテンなのでした。
掃除はつくづく不思議なものです。
絶対に目に触れることのない裏側をきれいにするだけでも
デスクそのものがきれいに見えてきます。
箪笥もそうです。
ひきだしのなかの衣類をきちんとたたんで整理するだけで
箪笥そのものがキリリと清潔に見えてきます。
トイレも同様で
表の部分だけきれいにしても、どこかすっきりしませんし
第一、臭いは消えません。
便器の陰の汚れまでブラシを使ってゴシゴシする。
それでも汚れがとれない場合は、自分の爪でカリカリして汚れを取る。
こうしてきれいにしたトイレは
使うのももったいないくらいに気持ち良く清潔になります。
家の外観にも同じようなことがいえます。
道を歩いていて、素敵な家だなあと思わせる家は
それが新しいか古いかは問題でなく、
そこに住む人が家に対して手をかけているからなのだと思います。
家のなかにいる人の
そのまたなかにある、何かをきれいにしようとする気持ちが
映し出されているのでしょう。
どんなに新しく、洗練されたデザインの外観でも
さびしく、みすぼらしく見える家はけっして少なくないのですから
きれいにしようと思うその気持ちだけで
何かが変わってくるのかもしれません。
モノでも家でも部屋でも、そして人でも、手をかける、できれば声をかける。
そうしたことで、相手はきれいに磨かれ、
自分もまた磨かれていくのです。
2011-12-27 第百六十九回
■備えあれば
2011.3.11の震災では津波による被害が圧倒的多数を占めましたが
地震による建物への損害も少なくありませんでした。
1980年以前に建てられた家(旧耐震基準)の倒壊や大破が多くを占め、
それ以降に建てられた家(新耐震基準)では
日本の住宅総数は約4700万戸といわれていますが
そのうち木造戸建て住宅は2450万戸で、
1980年までに建てられた住宅は約1154万戸(47.1%)を占めています。
半数近くの住宅が、
いま、こうしている間も
危険と隣り合わせの状態に置かれていることがわかります。
これから住宅を建てようとする人が耐震性能を判断する際には、
住宅性能表示制度が一つの指針になります。
「品確法」(住宅の品質確保の促進等に関する法律)」の柱のひとつで、
新築住宅をご購入した人の利益保護を目的に制定されたものです。
評価項目では、住宅の外見や簡単な間取図からでは判断しにくい性能を
10分野32項目にわたって評価しますが、
そのなかに「構造の安定性」という項目があります。
地震などが起きた時の倒壊のしにくさや
損傷の受けにくさを評価するものですが
等級が高いほど地震などに対して強いことを意味します。
等級1は建築基準法を満たす住宅で、
等級2は建築基準法の1.25倍の耐震性能、
等級3は同1.5倍の耐震性能とされます。
ちなみに、ここでの等級1は
「数百年に一度(震度6強から7程度)の地震に対して倒壊、崩壊しない住宅」
が目安とされています。
建築基準法に即した目安でもありますが
だったら、耐震性能の確保に余計なコストをかけることなく
しかし、「倒壊・崩壊は免れる」かもしれませんが、「損傷は受けない」とは
建築基準法がもっとも強力な規定なら、
わざわざ品確法で耐震等級3という建築基準法の1.5倍もの高い耐震性を
設ける必要はないわけです。
つまり、建築基準法を満たすこと=等級1は
安心のレベルではなく、最低限の耐震性に過ぎないと認識すべきでしょう。
品確法で、新築した住宅の修理、
補修等が10年間保証されるということですが、
地震で壊れた住宅に関しては保証されません。
品確法では10年間にわたって、
建築工事によって生じた「瑕疵(修理を要するような欠陥やキズ)」を
無償で修理するよう建築工事業者に義務づけるもので、
手抜き工事をなくすことが本来の目的なのです。
地震などの被害は、この法律の対象にはなっていませんので
地震の被害による建て直しや修理を保証する制度は、
それぞれが任意で加入する「地震保険」しかありません。
ちなみに、阪神淡路大震災前、
1994年度末における兵庫県の地震保険加入率は4.8%に過ぎませんでした。
全壊した家のローンを払い続けながら、
新たに建て替えのローンを組まなければならない悲惨なケースが
たくさん発生してしまったのです。
宮城県32.5% 、福島県14.1% 、岩手県12.1%と、
今回の震災での被災地でも加入率は宮城県を除いて、
全国平均よりもかなり低いことが露呈される結果となっています。
地震保険では「地震等を原因とする火災・損壊・埋没、
津波などによる流失によって建物または家財が損害を受けた場合」
に保険金が支払われるため、
加入の有無が復興の明暗を分ける結果となった事例も
少なくなかったことと思われます。
建物が大丈夫でも、
買ったばかりのテレビが倒れて壊れてしまった場合などでも
間もなく今年も終わろうとしていますが
3.11以降に揃えたカップ麺や
カロリーメイトなどの食品類はすでに賞味期限切れとなっており
古い電池も買い替えることにしました。
賞味期限切れとなったカップ麺やレトルト食品は、
ここ数日、毎日、昼食やおやつとして食べさせられています。
私がおなかを壊さないのを確認して
家族がたまに食べます。
飲料タンクやペットボトルに入れておいた飲料水も全部取り替えました。
これも私の仕事でした。
災害のないことを祈るばかりですが
いざというときのための準備は、もしものときに大きな助けとなります。
備えあれば憂いなしとまではいかないまでも
憂いを最小限にとどめる努力をし
少しでも安心を蓄えた新年にしたいと思っています。
おとうさんも、おかあさんも、がんばりましょう(^^;)
2011-12-16 第百六十八回
■段差
バリアフリーというと、段差解消と手すりの設置が定番です。
確かに、日本の家は段差が多く、
ちょっと考えてみるだけでも玄関前の階段、玄関のドア下の段差、
玄関框、建具の敷居などたくさんの段差あります。
国や専門家は、段差の解消に特化したバリアフリーを熱心に説き続け、
施主も何がなんでも段差だけはなくしてくださいとビルダーに依頼します。
しかし、段差と狭さを同時に解消しない限り
ほんとうのバリアは解消されません。
狭さはそのままで、段差だけを処理しようとする考え方が問題なのです。
段差がないと、確かに移動はスムースなのですが
車椅子のまま入ることのできない狭いトイレや浴室では意味がありません。
車椅子が移動したり、回転できる十分な広さが確保されていないと
狭さというバリアはそのまま残ってしまうわけです。
狭い廊下、狭い階段、狭いトイレや浴室に
手すりを付けると、その出っ張りでさらに狭さが助長されます。
とても単純なことなのですが、
部屋を細かく仕切る発想をそのまま放置しておきながら
段差解消や手すりの設置だけでバリアフリーとする考え方が
いまも家づくりのバリアになっているのです。
障がいを持ったときのことや高齢になったときのことを
考えて家づくりをするなんて夢がない、と話す方も少なくありません。
しかし、狭さというバリアを解消して広さを確保することは
健常な人にとってもおおらかな空間となります。
誰が考えても、狭い廊下や狭いトイレ、浴室などより
広いスペースがとられた空間の方が贅沢に思えるでしょう。
高断熱・高気密にすることで、
大空間の間取りでも温度差はなく、屋内どこでも温度分布は一定になります、
温度のバリアを解消することで、快適な大空間も可能になるのです。
どこも、そんなに広くしたら予算も膨らんでしまう…という不安もあります。
では、最初から廊下のない空間を考えます。
それだけで、各所の空間が広くとれるようになります。
使いもしないモノを隠しておく収納も半分にします。
玄関、廊下、収納など
生活をしない部分の面積の無駄を、徹底して引き算するのです。
その分、部屋やトイレの面積を広くし、ドアや廊下の幅を広げ、
壁に可変性を持たせます。
可変性とは、必要なときに閉じたり、開けたりするできる機能をいいます。
こうして考えていくと
何も延床面積を広げることなく、空間全体がおおらなとなり
おのずとバリアは解消され、
障がいの有無にかかわらず、バリアのないゆたかな空間が生まれてきます。
もう一つ。
そうした家を実現しても、入居した当日から
スリッパやマット類などです。
大きな段差につまずく人はあまり多くはないのですが
スリッパでの移動時、マット類の端っこでのつまずきなどによるケガは
実はとても多いのです。
日本の家からスリッパやマットのたぐいがなくならないのは
足元が寒いからです。
断熱の低さや窓からの冷輻射などが原因となり、
無意識のうちに足を温めようとします。
足元が冷たいと、全身が温まることはありません。
ご存じのとおり、断熱・気密性能を高めた家では
壁、床、天井などほとんどすべての部分の温度が一定になります。
床面の温度も(暖房器の温度設定にもよりますが)20℃前後に保たれます。
素足でも過ごせる快適さなのですが
それでもスリッパやマットを使ってしまうのは
長い間、寒い空間でしか暮らしたことのない
習慣のようなものかもしれません。
こうして考えると、バリアフリーといっても
とても多方面からの検証が必要なことがわかってきます。
温度もバリア、段差もバリア、狭さもバリア、スリッパもマットもバリアと
日本の家はバリアだらけなのですが
それらのバリアを一つひとつ解除することで、
万一の場合も病院や施設に頼ることなく、生涯の安心が得られることを考えれば、
それらへの投資は何も高価なものではありません。
2011-12-02 第百六十七回
■我慢強さ
日本の世帯当たりの用途別エネルギー消費量を見ると
暖房と給湯で約70%割を占めており、冷房は1-2%程度でしかありません。
圧倒的に暖房用が多いのです。
それでもイギリスやドイツ、フランスなどの暖房エネルギー消費量と比べると
日本はその5分の1くらいで、
ローマは東京の4倍近くも消費しています。
なーんだ、エコ、エコっていっているあちらの国に比べたら
日本だって、すごいエコ国家じゃないかと胸を張りたくなります。
しかし、家庭内で消費されるエネルギー全体で見ると
日本のそれはいまだ上昇の一途をたどり、国際的にも突出しています。
暖房や給湯に関わるエネルギーは、さほど増加しているわけではないのですが、
家電製品や照明などのエネルギーが一向に減少する気配を見せていません。
全館暖房で屋内全体が快適な温度に保たれた欧米と異なり、
日本ではいまも夏は家のなかでも熱中症になるような暑さ、
冬はいつヒートショックになってもおかしくない寒い不健康な家で、
大量の家電製品による偏ったエネルギーを使用し続けているのです。
従来通り、少々の暑さや寒さや結露は我慢をして暮せばよいのではないかと
そんなふうに考える人も少なくないはずです。
でも、すでに4人に1人が高齢者であり、数十年にも及ぶ老後の生活や
快適な温熱環境を台無しにするなんて、そんなアホなことはないでしょう。
誤解を恐れずにいえば、
どーせ、これまでは冬は寒い、夏は暑いの家で過ごしてきたのですから
欧州のように、何も全館25℃の室温にすることはなく、
18℃だって20℃だっていい場合もあるのです。
夏場は30℃だって我慢できるかもしれません。
それでも局所的な冷暖房ではなく、全館均一な温度分布にするのです。
この数十年、日本の家は欧米の影響を受け、そのかたちは大きく変わってきました。
和と洋が混とんとし、生活のかたちも座から立、そしてその混合へと変わり
西洋の家具も当たり前のように日々の暮らしを支えるようになっています。
しかし、全館(冷)暖房という目には見えない生活のあり方を見逃してきたのです。
しかも、それをできるだけエネルギーを使わずに
使い捨てのモノや安っぽい家具、たくさんの家電製品に囲まれながら
実は、無駄な我慢ばかりで、
安心とはかけ離れた生活を選択してきたと言い換えてもよいのかもしれません。
EUでは一次エネルギーの使用量で家の性能を義務付け
Q値に換算すると0.7程度の性能を要求し始めています。
日本では次世代省エネルギー基準の北海道仕様でも1.6ですので
実に2倍以上の性能です。
日本でもようやく次世代省エネルギー基準の義務化に向けた検討が始まりましたが
この制度が実現したとしても
新築の全棟が北海道仕様になることはあり得ません。
Q値、C値を高めた家では
冬は暖かくではなく「寒くない」、夏は涼しいのではなく「暑くない」という
とても自然な温熱環境を得ることができます。
湿度は適度に調整され、建物全体の輻射熱も利用できることから
温度のやわらかさのようなものが実感できます。
しかも、従来、リビング一室で使用していた程度の冷暖房費で
それができるとしたら、こんなにオトクなことはありませんね。
そうした家で試みる「我慢」は、
昔の家のような強靱な精神力や身体能力を要するものではないのです。
できればEUレベルの住宅性能を確保し、そこで嗜み程度の「我慢」も実践する。
そうすることで、快適さを得ながら
欧州諸国の5分の1程度だった暖房費を
6分の1、7分の1にまで節減することも可能になるかもしれません。
無駄な家電製品に囲まれた電脳生活も見直しが必要です。
そうしたライフスタイルは、世界から賞賛されるほどの可能性を秘めている──
と考えるのは、私だけでしょうか。
2011-11-22 第百六十六回
■線
毎朝、NHKの「カーネーション」を観るのが楽しみの一つになっています。
物語の展開もワクワクドキドキなのですが
舞台となっている岸和田の、とある商店街の町並や
家の造りの再現がとても丁寧で、その美しさにも感心して観てしまうのです。
お客さんを迎える土間、おばあちゃんやお母さんが料理をする土間の台所、
床や建具、畳の美しさなど
そこには私たちが忘れてしまった日本ならではの建築美が
たくさん詰まっていて、どうにかして、それらをいまの家に応用できないものかと
建築士でもない私でさえ考えてしまいます。
西洋の建築ではアールなどの曲線を多用しますが
日本では水平、垂直などの直線美が外観にも内部でも応用されます。
アーチなどが可能な石に比べて
木材は直線的な加工をしやすいこともあるのでしょうが
それを縦、横に組み合わせる手法が多いことに気がつきます。
柱や梁はもちろん、障子や建具の格子などもほとんど直線で構成されます。
昔はガラスがなかったため、障子がその役割を果たしていましたが
外を見ることはできませんが、
光や影は透かして見せるという粋なはからいで
その障子にも横や縦の線を組子として使い、さまざまなデザインがあります。
横繁障子は横の組子が多く入った障子で関東で人気があります。
逆に縦の組子が多く入った縦繁障子は関西で好まれます。
障子紙を貼らず組子だけにして、ほどよく視線をさえぎりながら
通風と光を操る建具は、モダンな建築にもぴったりの建具です。
そのほかにも組子によってさまざまなデザインがあり
荒組障子、横繁障子、縦繁障子、桝組障子、吹寄障子、雪見障子など
その種類を頭のなかに入れておくだけで
空間のデザインの幅は格段にひろがっていくことと思います。
日本建築のなかの直線美にとても興味を示して
作品全体を通して水平、垂直を細かな線、太い線をなど多くの線を駆使して
デザインを試みました。
仮に格子や障子などの建具が縦のラインを強調していたとしても
それを凌駕するほどの水平ラインで、独自のデザインを生み出しているのです。
開閉自在で、閉めてもなお光は透過させる建具の曖昧な部分にも目を向け
自由に流動してやまない
日本ならではの空間構成を理解しようとしていたところにも共感を覚えます。
日本の建築は自然といったいとなった…という表現をよく目にします。
外と内とを曖昧に区切り、暑さ寒さも強力に遮断するのではなく
自然の営みを生かしつつ、といったところでは、確かにそうなのかもしれません。
しかし、自然界に存在しない線をあえて多用し
そこに美しさを見出してきたという側面から考えると
私たち日本人のなかには、案外、外と内とを明確に区分けし
内では縦横の線をあえてたくさん用いることで、内のなかに動的な非軸を創造し
気持ちをきりりと引き締めながら暮らしてきたのではないかと
考えることもあります。
現代の日本の家には、和洋といった境界などすでになく
線でいえば、曲線も直線も混在した空間のなかに、私たちは住んでいます。
合理性や機能性では西洋のそれに学ぶことは少なくありませんが
くつろぎや美意識の側面では
日本建築が大切に育んできた縦横の「線」からそれを得ることも少なくありません。
格子や障子、畳、床の間など
直線から得られる安堵感は、私たちが受け継ぐDNAともいえそうです。
洋のなかにも、それらを応用してみることで、
空間はもっともっと美しくなるのではないかと思っています。
2011-10-31 第百六十五回
■窓のこと
もう45年も前のことになります。
父が買ったミノルタのカメラを貸してもらって
蒸気機関車ばかりを撮っていました。
父は鉄道員で、私の家は駅裏の官舎でしたので
裏の庭に出るだけで、バシャバシャと写真が撮れたのでした。
私の仕事は、基本的に文章を書くことと
本の編集をすることですが
こうして半世紀近くもカメラを撮ってきましたので、ごく自然に
写真撮影もそれに含まれてしまいます。
といっても、年間の撮影枚数は5000カットくらいで
とてもプロには及びませんが
「家と人。」では基本的に全ての写真(著者提供以外)は
私とアシスタントさんが撮影しています。
アシスタントさんも大学の芸術学部で映画を専攻してきた人ですので
撮影は文章を書くことよりも得意のようです。
さて、写真を撮るときにもっとも気を遣うのはフレーミングです。
フレーミング次第で表現意図を伝えられるかどうかが決まるわけですが
その基本は、被写体の切り取り方と
アングルを決めることの二つに集約されます。
意識するのは「引き算」です。
被写体を決めたのならば、主題となるものを明確にするために
余計なものをあえて削ぎ落として撮影するのです。
ファインダーは横長の長方形ですが
これをのぞきながら、被写体に寄ったり、引いたり、アングルを変えたりしながら
シャッターを押します。
相手が動いているものですと、瞬時の判断が求められますが
室内撮影などでは三脚を立て、立ち位置を慎重に決めながらアングルを決め
引き算をしながらレリーズを押します。
室内ではどれだけ引くかが難しいのですが、人物などの場合は
どれだけ寄るかが試されます。
寄っても引いても、引き算をすることに変わりはなく、
それでもこれは使えそうだなと思うのは、毎回1割にも満たないのです。
もっとも、引き算は大切ですが、
それは被写体を発見するというより
被写体のどの部分を発見するかといったほうがいいのかもしれません。
写し方は星の数ほどあって、その人のものの見方が如実に反映されてきます。
そういう意味では、何をどう見て、どう表現するかという結論になり
このことは、以前も書きましたように
カメラに限らず、文章でも絵画でも、音楽でも
そして家の建築でも
同じことがいえそうな気がします。
家のデザインではとりわけ、窓が難しいのではないかと思います。
窓には採光、通風、断熱、気密など
たくさんの役割が課せられて気の毒なくらいなのですが
とりわけ難しいのは、眺望ではないでしょうか。
ただ窓を取り付ければいいというわけではなく、限られたフレームのなかで
何を切り取り、どんな眺望を主題とするかといった
設計者から見れば、ただの庭木に過ぎないものでも、施主にとっては
いまは亡きお父さんが、何かの記念日に植えてくれた大事な樹木かもしれません。
それが北側で採光が乏しくても
その向こうに大好きな岩手山の風景が広がっていることもあります。
窓だって、写真撮影と同じように
フレーミングと引き算が、とても重要なことがおわかりになるはずです。
こうした大事なことははなっから無視されますので
窓を通しての眺めも、おざなりにされてしまうこと多々ありなのです。
少し大げさかもしれませんが
窓の位置や大きさを決めるということは
窓という額縁、あるいはカメラのファインダーで
2011-10-16 第百六十四回
■右脳で考える
祖父は大工であり、画家でもありました。
ほんとうは絵だけで食べていきたかったのでしょうが
戦中戦後、父を含め8人の子育てをしなくてはならず、きっと
それどころではなかったのでしょう。
大工仕事の合間に油彩画を描き、
ときには自分の建てた家の屏風や襖の絵を描き、
四半世紀以上も前に70歳ちょっとの生涯を終えました。
その血をひいてか、父の弟、つまり私の伯父の一人も画家となりました。
日本海が好きで、
ひなびた漁村を訪ねては、荒くれた鉛色の海や小さな船を好んで描きました。
絵の深いところに影を含んだその絵がどうしても好きになれず
時折、父からの借金のカタに50号や100号の作品を持って来ても
父には家のなかに伯父の絵を飾らないように、泣き顔で頼んだものでした。
いつもスケッチブックを持って旅に出るその伯父に、
いつか尋ねたことがあります。
描けばいいのではないかと、そんなことでした。
伯父の答えは、カメラは確かに見た目通りには撮影できるが
人間の目は、目ではなく右脳で風景を捉えていて
自分の記憶や思いを重ねながら
無意識のうちに、特定なテーマをスケッチしているのだと、そんな答えでした。
子どもの私はふーんと、わかったようなわからないようなままでしたが
大人になってこの仕事を始めてから
なんとなく、その意味が理解できてきたような気がしています。
例えば、取材でも撮影でもいいのですが
同じ対象でも、インタビューをしたり、カメラを構えたりする人によって
引き出す内容も写真で切り取る構図もまったく異なります。
相手は同じでも、受け取る側が違いますので、当然といえば当然なのです。
取材の際、私は決してレコーダーを使いませんが
これも平面的・全体的に対象を記録するのではなく、
その瞬間で自分が感じたことのみをとっさにメモをする
自分のフィルターを信じ、それにゆだねきっているからにほかなりません。
このことは、写真ではなく、
あくまでスケッチを描いて、作品を仕上げようという画家の作業によく似ています。
伯父はきっと、このことをいっていたのだと思います。
雑誌から素敵な写真を切り抜いておき
なんて作業をすることがあります。
間取り図を描く際にも、実際のスケールはもちろん、奥行きも広がりも
頭のなかでは理解されておらず
平面的には合点がいっても、
それがつながりのある空間として認識されることはほとんどありません。
ちょっと描いてわかったつもりになっても
全体も見えておらず、物と物の関係性も見えていないのです。
雑誌に載っていた
キッチンの写真がいくら素敵だったとしても
ダイニングやリビングとのつながり、窓の位置や天井の高さなどにより
実際にそのままそこだけを具現してしまうと
途端にへんてこりんなキッチンになってしまうことも少なくありません。
写真で切り取るのと同様に
雑誌の写真そのものも、そこに写っているキッチンも
私たちは、無意識のうちに
見たいと思うものだけを部分拡大しながら、眺めていることが多いからです。
写真は全体の雰囲気や色の具合を設計者に知ってもらったり
自分があとで思い出すための参考にとどめます。
以前も書いたかもしれませんが
私は自分の希望を、いったん言葉にしてみることをお勧めしています。
雑誌の写真がいくらきれいでも
「昔の民家の土間のような雰囲気のキッチン」とか
「南フランスの古い農家のキッチンのイメージ」とか、そんな感じで十分です。
最初に感じるのは、なによりも自分の考えや夢や希望が
なんとお粗末だったことか、ということになるかと思います。
それでもめげることはありません。
わらかないことがたくさんあったことがわかるだけでも大きな収穫ですし
次には、自分にとって必要な情報ってなんなのかが
次第にとわかってきます。
自分のビジョンをしっかりと持たない限り、スケッチもインタビューも
それは、自分だけのビジョンを
まずは基本の線によって表現することの大切さを知っていたからであり
その訓練があったからこそ、あのような抽象の極致を描けたのだと思います。
もっとも、そうしてまとめあげた自分のビジョンを
きちんと翻訳し、体現してくれる設計者がどれだけいるかといえば
これも難しい問題なのですが、
相手がどんな設計者でも、設計の際には、
左脳ではなく右脳から搾りとられたそれらの言葉のメモが
大きな役割を持ってくることは間違いありません。
2011-09-29 第百六十三回
■座り方の練習
私の子どものころには当たり前に使われていた言葉ですが、
いまの若い人たちに「茶の間」といっても
「?」という表情をされるのがオチかもしれません。
では、このリビングーム、もしくは居間。
家にとっても、家族にとっても中心となる場に違いありませんが
かつての茶の間とどこか変わったのかといえば、
隣にダイニングスペースが設けられ、
そこには、絵に描いたように大型テレビやソファが置かれているところといえます。
昔の茶の間は、何でもありの「間」でした。
ちゃぶ台を囲んで食事をし、食べ終えたら、ちゃぶ台を部屋の隅に片付ける。
ちまちま晩酌を続けている父は
「いつまでたっても片付かない」と母に嫌みをいわれ
片付いたあとは、いつの間にか横になってうたたね。
私などは茶の間に置かれた母親の足踏みミシンを机に勉強しましたし
妹は母の横で本を読んだりして、家族の濃密な時間を過ごす場でもありました。
しかし、戦後になって住宅公団などが先陣をきって食寝分離を推し進め、
何でもありの空間では何でもしてはいけない、
といった理屈を国民みんなが納得するようになり、
あっという間にわけのわからないLDKを有した家が全国に普及するようになったのです。
その結果、そうでなくとも広くない家が小間割されて
ますます狭くしか使えない状態になったり
かつて経験したことのないダイニング・キッチンの家事や食事では
時に、お母さんの大きなお尻を眺めながら
遅く帰って来たお父さんがそそくさと食事をするといった光景が
珍しくなくなってしまいました。
そして、なけなしのお金で買ったソファは、
落ち着くようで落ち着かない粗大家具となってリビングの中心を成し
どうしても落ち着かないときには
地べたにペタンと座ってそれを背もたれとし、
時折ソファに戻っては、そこで正座をしてみたりと
西洋人が見ると、何とも気の毒なくらいに似合わない生活スタイルが
現代のリビングで繰り広げられているといっても、いい過ぎではなさそうです。
ダイニングテーブルやソファのあるリビングは
確かに写真を撮るときには大いに絵になる構図ではありますが
それと反比例して、日本人の生活にぴったり合致しているかといえば
私にはどうにも、ちぐはぐに見えてしかたがないのです。
その理由の一つには、西洋人がソファに座っている姿と
日本人がそうしているときの姿の差です。
私などは、悪い例の典型なのですが、ソファに腰を下ろすときには
深く腰を下ろすことができず、ついつい浅い位置に座ってしまいます。
足が短いせいです。腹が出ているせいです。
深く座ると、それはそれでゆったりするのですが、下半身が落ち着きません。
ビジネスの場でもそうした例をよく見かけます。
ソファに深く腰を沈めると生意気そうに見えるので、たいていの人は
そうした座り方をせずに、浅く腰かけます。
これでは何のためのソファなのかがわからなくなってくるのですが
そこにはソファを置いてあることにこそ
意義を見つけようとする日本人のけなげさが見え隠れしてきて、
これまたなんだかウラ寂しい気持ちになってくるのです。
ミヒャエル・エンデは「ものがたりの余白」のなかで、こう語っています。
――アジア人は自分の身体のなかに、それほどしっかり座っていない。
すべてはもっと通過性がある。
もっと、さらに、そう柔らかいというよりも、もっと透き通っているのです。
(アメリカ人の)あの、脚をテーブルにのせること。
みんなどこか重さから逃れようとしていますね。
身体の重さから逃れようとしている。
日本の伝統的な座り方といえば、脚を引き込み、できれば腕も引き込むことです。
(中略)
だからこそ、わたしたちヨーロッパでは、あの大がかりな舞台の
メカニズムを開発しなければならなかったわけです。
外的な奇術のトリックを行うために。
以前も紹介したかもしれませんが
私はエンデのこの洞察が、見事と思いました。
日本の正座や柔道などは、西洋のベッドやソファ、ボクシングなどとの対比で
理解できるように、内側に内側にと集約される身体性だということが理解できます。
日本人の生活の体系が劇的に変わってしまったことは驚嘆に値します。
リビングやソファが悪者だといっているのではありません。
住宅公団が掛け声をかけて数十年たってもまだ、
私たちはなかなか、LDKの生活やソファの暮らしに慣れるのが
シンドイままではないかということです。
かといって、私を含め、
日本人のほとんどの世代が、きちんとした正座も胡坐もできません。
いっそ、太古のギリシアのように
床に横になって食事をしたらどうかと思うこともありますが、それも否でしょう。
せめて、西洋人のように
椅子に腰かけたり、ソファに座ったりするときには
きっちり絵になるような格好を、
必死に学ぶことが、いまの日本人には必要なのかもしれません。
もしくは、現代日本の生活と
日本人の身体性を計算しきった、新しい茶の間の復権か、です。
2011-09-20 第百六十二回
■せめぎ合い
リフォームであれば、直したいところがはっきりしているものですが
新築となると、ある程度希望があっても
平面図や立面図でそれを想像し、実際に図面を描けるかといえば
とても難しいものです。
ハウスメーカーでは、互いにそのへんを楽にしましょうよとばかりに
いくつかのパターンが準備され
施主とビルダー、あるいは建築家の間にせめぎ合いが存在するかどうかです。
白紙にプランを描いていくこの図式は、出版物の編集作業によく似ています。
著者の書く原稿を、そのまま印字し、印刷するのであれば
印刷会社に依頼すれば、本はできあがります。
編集者がいる印刷会社もありますが
出版社の編集者と根本的に異なるのは、印刷会社のそれは
出版社の編集者は、著者とほぼ同等の専門知識を高める努力をしながら
内容的に著者と読者の間に立って
客観的な立場で発信される情報を煮詰めていくところに大きな違いがあります。
編集者が介在することで、情報のオモムキはかなり違ってきます。
編集者は著者と読者の間に立って
文章の細部から全体までを入念に手を入れます。
エライ先生に「ここの部分、こんな書き方では読者に通じません」
なんていうことは日常茶飯事のことで
その都度、文章は解体され、転生し、読者に近寄っていきます。
読者に近づくことは即ち、著者にとっても
「この人、わかりやすい文章を書いてくれるんだ」という評価につながり
結局、両者にとってのメリットとなり
両者の間に、それまで存在していなかった新たな何かが
生みだされることを編集というのではないかと、私は考えています。
そしてそれは、せめぎ合いのなかで偶然に生まれてくることが多いようです。
ところが、住宅建築の分野では、
こうした図式がとてもアンバランスに感じることが少なくありません。
ビルダーのなかには
施主の希望を何でもかんでも受け容れて、
その結果、途方もないへんちくりんの家をつくってしまうことも多々あって
困ったことに、
施主は「社長さんは、何でもいうことを聞いてくれた」と満足し
ビルダーはビルダーで
「我が社は、施主の希望を100%実現する家を旨としています」と胸を張ります。
このケースは、印刷会社で本をつくる作業とよく似ていて
作品を受け取り、満足する読者も確かにいるにはいるのでしょうが
著者の自己満足に過ぎないところが少なくなく、
編集のプロから客観視すると、
判断できないケースがとても多いのです。
家に置き換えると、無駄ばかりで美しさなど欠片もなく
その何割安かの建築費で、
二倍も三倍も満足度の高い家を建てられただろうに…と
残念に思ってしまうようなことが実際、たくさんあるわけです。
だったら、そこらのビルダーではなく
建築家のセンセイに依頼しようと考えるのも早計です。
建築家の全てとはいいませんが
家ではなく「建築物」としての「作品」をつくることに
一生懸命な建築家も数多くいるのは事実で、施主の希望は無視され、
センセイの「作品」に合わせて
自分の生活をするような悲劇が起きることもあるのです。
施主の希望を100%実現しながら「売れる商品」としての家を建てるビルダー、
自分の「作品」づくりを最優先する建築家、
そのどちらも、やがては生活に支障をきたすような家になることは少なくありません。
施主は生活のプロではありますが、建築のプロではありません。
建築のシロウトの希望を100%聞き入れようとすること自体が
おかしな話であり
同時に、男性の建築家であろうが女性の建築家であろうが
料理もできない、トイレや風呂の掃除もできない、介護の経験もない人たちが
オレに任せておけといわんばかりに
家を作品として建ててしまうところに、間違いがあるように思うのです。
必要なのは、せめぎ合いであり、闘いです。
施主は、建築のシロウトであるのは当たり前なのですから
生活上の希望を遠慮なく整理し、
限られた予算のなかでいかに安く、便利で、美しく、普遍性をもった
プランにそれを編集してくれるかを期待し、
それを遠慮なく相手に突きつけます。
編集されずに、自分の描いたプランそのままに図面を描くようなビルダーは
ちょっと考えものです。
「そこは、こうするともっと便利です」とか
「そんな考えはおやめなさい」とか
ときには、「あんた何考えてるんだ、アホちゃうか」
くらいの意見を忌憚なく述べてくれるようなビルダーが理想なのです。
建築家にしても同様です。
オレに任せておけ、というのは確かに心強いのですが
相手がセンセイであろうとなかろうと、遠慮なく希望を整理して突きつけます。
自分たちの希望が
想像もしなかったプランに編集され、翻訳され、
換言されてプランになってくるような建築家はたくさんいますので
その力を確認できれば、安心してもいいでしょう。
施主の希望を「聴く」姿勢がそこにあるかどうか。
その希望をプロの目で編集し、翻訳する力があるかどうか。
自分たちの希望をハイハイと
聴いてくれるだけのビルダーも、オレのいうことを黙って聞け的な建築家も
どこか怪しいということを、アタマの隅っこで覚えておいてください。
エライ先生にも「こんな表現じゃ、読者に通じません」などなど楯突く日々。
いつ愛想を尽かされるかわかりませんが
自分には平穏な老後というものがはたして来るのであろうかと
内心は不安で一杯なのです。
編集というのは、何も出版の世界だけのものではなく
住宅建築でこそ、もっとも大切にされるべき作業ではないか、というのが結論です。
2011-08-31 第百六十一回
■縁
新築、リノベーションを含んだ
住宅関連の本ですが、専門書としてではなく、
生活者目線の本にするべく鋭意執筆中――をめざしてはいるのですが
意欲はなかなか高まらず、2件の取材を終えただけ。
あとは研究機関や大学などの取材を控えていますが、なかなか進みません。
私のところも小さな出版社ではありますが、
今回は個人の書き手として書く作品で、
東京の出版社の編集者がぴたりと寄り添ってくれます。
何しろ、向こうは全国を相手にしている一流の編集者でもあり、
地方の名もない編集者とは、同じ土壌で比べるべくもありません。
この方との仕事は4回目となりますが
私の立てたプロットや原稿は、
ビシバシと訂正され、いつも赤ペンで真っ赤になってしまいます。
ときには、こちらも少し意地を見せたりするのですが
徹底した読者目線で俯瞰されると、自分の甘さばかりが目について、
結局は折れてしまうのです。
「実は、一人暮らしの父の家を建てましてね」
先日、雑談の合間に、珍しくご自身の話をしてくれました。
病気を抱え、足の悪いお父さんのために
地元の工務店といっても、どこがどんな仕事をしているかわからないし
何から何まで任せられるから、というので、
誰もが知る大手のA社で建てることになりました。
温熱環境もバリアフリーのことも、「みんな大丈夫です」というので
最初は安心しましたが
細かな希望を洗いざらい出して図面ができ、
すぐさま建築がスタートしたものの、契約後は掌を返したように、
「それ、できません」
「やってできないことありませんが、オプションです」
「無垢の木? 火災が不安ですから、みなさん、あまり使いません」
「そうした設備もありますが、うちとは取引がありませんので」
…などなど、注文住宅を依頼したつもりが、
実はA社の規格住宅の数ある「プラン」のなかの一つだったことがわかりました。
話が違うと意見を述べてはみたものの、図面を出されても
それを読み解く力もなく、工事は着々と進行。
「あれって、住宅会社の名を借りた、ただの商社ですよ」
と怒りをあらわにしています。
「今回の本で、ハウスメーカーを徹底して叩いてもいいですよ」
とまで言ってくれたのですが
私はハウスメーカーを紛糾するだけのデータも持ち合わせてはいません。
それだけは勘弁してください、という結末に至り、
ちまちまと自分の考えを書き進めているところなのです。
こうした話は、実は、よく聞く話でもあります。
しかし、だからといって、地元の工務店で建てるのがいい――という
結論には至りません。
工務店のなかにも、ハウスメーカーとまったく同じかたちで
施工も設備も外にぶん投げ、
安く発注して仕事をする、まさに商社のような会社はたくさんあるのです。
東京や大阪に本社のある大手建材商社の商品を、
床材からドアの取っ手までまるごと使って建ててしまう工務店もあります。
コストでいえば、大手の会社より少しは安く済むかもしれませんが
安くなったコストのしわ寄せは、
大工さんや職人さんへの発注金額を安くすることにもなり、
手抜きにつながることもないとはいえません。
一流企業であっても、
地元の工務店であっても、最終的には大工さんや職人さんが建てるものなので、
見えない怖さがあるのは、
生活者目線で考えれば、同じようなものともいえます。
「ここは削除しましょう」
「ここは、もっと書き足しましょう」
「そこんところは、カトーさんの持論を大きく、膨らませましょうよ」
寄り添うということは
何でもかんでも相手のいうことを聞くだけではなく
文句をつけるだけのことでもなく、
出版の世界でいうならば
著者も読者も報われる仕事を徹底していくことにほかなりません。
ある意味、凄みさえある、
そうした仕事を見せつけてくれる編集者だけに、
今回、実家の建築で経験されたことは、
さぞかし無念なことではなかったかと、察するにも余りあります。
「じゃあ、結局、どこで建てればいいんですか」
私のところにも、読者から、よくこんな質問が寄せられます。
自分の価値観の整理もできていないレベルで
どこもかしこもありゃしない、というのが私の心のなかでの呟きなのですが、
まずは、本を読んだり、現場を歩いたりと、勉強するほかはありません。
そうして自分を高めていったときに
あるとき不思議と「縁」というものが、向こうから歩いてきます。
それを待てない人は
出来合いの規格に自分の人生を無理やり合わせた暮らしをしていくこととなります。
もっとも、そのことが不幸なことでも過ちでも何でもなく
家の有り様などで、
人の幸福の度合いが異なるものではない、
というのが私の持論の一つではありますけれど。
2011-08-17 第百六十回
■縁側
私の家は絵に描いたような新興住宅地にあり
敷地も60坪ちょっとで隣家が境界線ぎりぎりにまで迫っています。
こんな環境ではそれは望むべくもなく
家もまた、どこの住宅地にでもあるような面白みのないものになってしまったのが
小さな後悔となっています。
しかし、生まれ育った家に縁側があったわけではなく
どうして憧れるようになったのかはわかりませんが、
ひょっとして日本人のおおよその人が持っているDNAのようなものなのかもしれません。
もともと「縁」は縁側と同じものを指していたようですが
いまは外縁(濡れ縁)を指し、縁側といえば内縁のことを指すことが多くなりました。
建具の外側にあるのが外縁で
建具の内側にある内縁ですが、これは外縁が次第に室内化したもので
家にも自然を取り込みたいという、
日本人ならではの願望の体現といってもいいでしょう。
一つは玄関や土間などから入る方法、もう一つはいったん庭に回って
縁側などから上がる方法です。
向田邦子さんの本やテレビドラマのなかには
必ずといっていいほど、小さな古い家の縁側や土間、上がり框などが登場してきます。
家族の関係に亀裂が入ったり、
その家族がまた転生していく過程で、縁側が物語の重要な装置になっているのです。
敷地に侵入を許された隣のおじさんやおばさんは
縁側に腰掛けて、家人と一緒のお茶飲み話はできても、家のなかには入れません。
家人がお茶を入れに台所に立った間、
庭を眺めるふりをして、時折家のなかをのぞき込み、
「相変わらず、うちより貧乏そうねえ」とかなんとか思ったりもするのですが
それ以上は入り込まないのがルールです。
嗜みでもあります。
家でも外でもない、縁側あるいは土間に上がり框だからこそ可能な
コミュニケーションともいえます。
一方、そこに住む家族にとっても、この曖昧な空間はとても大切な場となっています。
家のなかでは面と向かって話せない大事なことも
縁側に並んで腰かけ、
庭を見ながらだったら、不思議と話もできてしまいます。
この場合、相手の目を見ることなく
互いに同じ庭を見つめながら話すことで、庭が互いの鏡のような存在となり
家のなかではできない話も
ついつい、気を許してできてしまうような気がします。
ときには、家族個々人のなかに
潜在的に存在する危うさを映し出してしまうこともあるのですが
だからこそ、縁側での会話の場面は、
家族にとって忘れることのできないものになっていくのかもしれません。
昨今の家では、私の家のように敷地そのものが狭いことから
こうした造りもなかなか難しくなっているようですが、
濡れ縁ではなく内縁、土間に上がり框ならなんとかできそうです。
そこに腰かけて、隣人や訪問者と、
あるいは家族とふれあうことのできる家って素敵です。
顔を突き合わせることなく、互いに同じ方向を眺めながらの会話って
縁側のない人で、面倒な話がある場合は、クルマのなかでしましょう。
2011-07-31 第百五十九回
■リスク
ちょうど一年前の夏のことです。
出張で泊ったあるビジネスホテルの最上階に大浴場があり、
そこで転倒してしまうといったアクシデントがありました。
大浴場といってもさほど大きなものではなく
3、4人浸かれる程度の浴槽に同人数ほどの洗い場があるだけ。
早朝でしたので、入浴している人は誰もいませんでした。
ゆったりお湯に浸かり、身体を洗ってまた湯船に…
と少し移動したところで、ツルリと滑って転んでしまい、
その瞬間、右肩で全身を支え、大胸筋を断裂してしまったのです。
浴場に入った瞬間から
妙にヌメヌメしていやな床だなあと思っていたのですが、
あのとき、頭を打って
幸い、断裂といっても重傷ではなく、数回病院や鍼灸院で治療する程度でしたが
痛みは一年たってもまだ消えません。
年をとって身体能力が落ちたせいもあるのでしょうが
床が滑りやすい素材だったのは確かで
そのための注意事項もどこにも書いてありません。
責任の所在がどうのこうのというのではなく、
リスクというのは
どこにでもあるのだなあと実感したアクシデントでした。
これまで「ゼロ・リスク社会」といわれていた日本が
リスクだらけだったことを実感したのは、私だけではないはずです。
リスクが「ゼロ」などというのは
ほんとうは100%あり得ない話に決まっているのですが
私のケガのように、いつ、どこで、どんなリスクに囲まれているのかは
実のところ誰もわからないことで、
リスクは「ゼロ」なのではなく、見えていなかっただけだったことがわかります。
リスクの多い国の一つとなってしまいました。
再生可能エネルギーを普及しようと、政治家の方々も声高に叫んでいます。
テレビも新聞も、放射能の問題を大きく取り上げ
そのリスクについて、さまざまな分野の学者たちが
ここまではよい、ここからが問題…といった意見を述べるのですが
私にはいまだ何をどうしていいのかわかりません。
以前も述べましたように、エネルギーへの関心が高まっても
断熱など、もっとコストが安くできる手法が取りざたされないのも不思議な話。
ほんとうは、問題が起きる前、
いえ、新しい技術が世に出るのと同時に、そのリスクについても
並行して論議されていくべきなのでしょうが
リスクが問題や事故となって初めて、
そこだけを抽出して大騒ぎをするので
日本中に不安ばかりがまん延されていくように思えてならないのです。
放射能のリスクは確かに、
しかし、私たちはこの数十年もの間、
そのリスクがあたかも「ゼロ」であるかのように電気に依存し続け
何の疑問も持たずに、電気も空気や水のように
当たり前にそこにある「ゆかたさ」の一つとして享受してきました。
リスクは何も放射能だけではありません。
例えば、家庭内事故による死亡者は、自動車事故によるそれより何倍も多く
この両者を合わせるだけで2万人弱の人が、1年間で亡くなっているのです。
しかも、この数十年、毎年、毎年、です。
事故があったり、リスク管理の問題が明確になると、
掌を返すがごとく瞬時に正義の味方となって
リスクの出先を攻撃するのですが、
はたして、住宅の問題一つとってみても
地道に家のなかの事故リスクを減らし、CO2の削減に取り組んできた
地方の小さなビルダーさんたちに光をあてるような情報に
私は一度もお目にかかったことがないのです。
とても恥ずかしく思うことであり、自分の非力さを痛感するばかりです。
放射能のリスクは、それがガンに結び付くリスクでもあります。
しかし、ガンになりやすいリスクは放射能だけではなく
たとえば、野菜嫌いの人の発ガンリスクは被ばく量に換算すると100ミリシーベルト、
肥満や塩分摂り過ぎは200〜500ミリシーベルト、
毎日お酒を3合以上飲む人の
ガン死亡リスクは2000ミリシーベルトに相当するといいます(注)。
英国オックスフォード大学の調査では
同じ放射能でも、日本では年間X線検査数は先進国平均の1.8倍と高く、
年間の全ガン発症者の3.2%が検査被ばくによるものと指摘しています。
自動車事故は減ってはきましたが
今度は自転車による事故が増え、家庭内事故は減る兆候を見せてはいません。
年間3万人を超える人が自ら命を絶っており、
秋田と岩手は常に、全国トップレベルの自殺率の高さを維持していることも
あまり知られていません。
整備不足となってリスクとなってきたのではないかと、私は思うのです。
何年か前のことですが、「究極のバリアフリー」がうたい文句の
新築住宅の取材でカメラマンが大けがをするという事故がありました。
安っぽい玄関マットの上に足を置いた瞬間にそれが滑ってしまったのです。
カメラバッグと三脚で両手が塞がり
頭を床に打ちつけてしまうという、危険な事故でした。
バリアフリーにだって、ちゃんとリスクが待ち構えていたのです。
リスクは、私たち人間を脅かすと同時に、育ててくれもします。
リスクがあるからこそ、発展があるともいえましょう。
そのリスクも、否応なしにどこからか降ってくるようなものと
自分のなかに原因のいくつかが内包されているものとがあります。
いまも疼く大胸筋の痛みは、自分だけの責任でも、誰かの責任でもない
行き場のない痛みといっていいのかもしれません。
2011-07-19 第百五十八回
■セイカツ
4日間ほど北海道に行ってきました。
実家での用事と取材をかねての短い旅です。
札幌では旧知の建築家と会って、久々にじっくりと話を聞きました。
北海道の家を見るたびに、思うことがあります。
一つは、もうほとんどの家が熱的な性能が高く、暑い寒いといった
基本的な問題が解決されていること。
もっとも30年、40年も以前の家であれば、
そうでない家もあるのですが、割合からすれば
それらを含めても
熱的性能は日本でもっとも高いレベルにあるといっていいかと思います。
札幌などでは、若い人は
真冬でも半袖シャツのうえに分厚いダウンやコートを羽織っているのが
当たり前になっており
寒い思いはしないで済むといった意識が定着しています。
もっとも、省エネ性能がいくら高くても
そうした文化がいいかといえば疑問は残るのですが、
当たり前に、どこでもほぼ同じ熱的な環境が実現されていることは
理想に近いことといえましょう。
もう一つ。
これは、問題点なのですが
いつも思うのが、北海道の家には「顔」が感じられないということです。
無落雪の角型、三角屋根、中途半端な洋風、和風、黒や赤やブルーや黄の
色とりどりの外壁など、
どの街に行っても、家に「顔」はなく、統一感がまるでありません。
美しくない。
このことは全国どこの街でも問題にされることですが
北海道はとりわけ
元から古い街並みや町屋もなく
まっさらなところに、好き勝手な家がバラバラと建ってきたところに
その問題の根源があるような気がします。
私が札幌で仕事をしていたとき、富良野に住む著名な作家に
このことを話しましたら
「北海道の街がきれいに見えるのは、雪の日の夜だけです」
といっていたのが強く印象に残っています。
つまり、雪に覆われ、
暗くなってからしか、きれいには見えませんという意味です。
私が岩手に来て30年近く経とうとしていますが
家のことにこだわりをもってきたのは
北海道のそれに比べて、岩手の家はあまりに「夏を旨」としているからでした。
冬の厳しさは札幌と変わりませんし
夏の暑さも、ひょっとして旭川のほうがきびしいかもしれません。
(ちなみに、旭川は夏と冬の温度差は70℃ほどあります)
水道が凍ってしまうなんて家は、北海道ではほとんどありませんし
ニュースで流れることもないのです。
仏壇に置いたお茶が氷になってしまうような熱環境は
岩手の地方に行くと、まだ当たり前のように存在しています。
建築がどうのこうのではなく
それでは「セイカツ」ができないのではありませんか、というのが
私がずっと抱いてきた疑問でした。
しかし、北海道では都会も地方も、中途半端な家ばかりが乱立し
いくら性能がよくても、景観としての街並みは
おそらく日本で最悪ではないかと思います。
岩手ではまだ都会にも古きよき時代の街並みが残っていますし
農村には農村らしい景観が残されています。
まだ間に合うのなら、景観を壊すような家ではなく
家のなかが凍りつくような家もない、そんな家が増えていってほしい
というのが私の素朴な願いなのです。
このことは、北海道では実現不可能とさえ思われ
岩手に託す私の夢でもあります。
こういう話をすると、高断熱の家は伝統を壊すのだとか
そういった批判が必ず寄せられます。
伝統を継承したいのなら、抜きでも仕口、継ぎ手でもどんどん使って
外張りで断熱をすればいいだけの話ですし
伝統の技術をそのまま引き継いでいくことを
高断熱の家だからできないといったことはありません。
自然がどうのこうのというのであれば、
洋風の家がいいとか悪いとかではなく、和風でも景観にそぐわない家は
少なくないのですし
アタマを使えば、少なくとも全国均一キンタロウアメの
ハウスメーカーのそれより
素敵で性能の高い家を建てるのは何も難しいことではありません。
みんながみんな、自分の考えが正しいと思っているのです。
私もその例外ではないかもしれません。
断熱の話をすると、それでは多すぎる、少なすぎる。
外観、景観の話をすると、素材の話をすると…となると議論白熱で
住宅業界は自分は正しい、自分の工法がベストで他はどうのこうのという
ここでも何度も書きましたが
私たちが必要するのは、家という名の「セイカツ」の場です。
家族の「セイカツ」を支えてくれる場が必要なのです。
それは省エネ住宅でもバリアフリー住宅でも
伝統工法の住宅でも
EU仕様という名の住宅でもなく、
真っ先にクリアされるべき条件なのです。
その「セイカツ」ですが、
普遍的な美しさも必要です。
街でも家でも、暮らしでも、美しさのない「セイカツ」って、
味気ないものですよね。
でも、その「美しさ」というのが、なかなか難しい。
私にいちばん欠けている
この価値観(もしくはセンス)を
これからの学びのテーマにしようと考えているところです。
