市川尚吾氏の謝罪・再反論文掲載と和解のご報告

渡邉大輔です。
市川尚吾氏の「極私的評論論」と、それに対するわたしの反論をめぐる「論争」についてのご報告です。
ツイッターのほうではすでにお知らせをしましたが、昨晩、市川氏からわたしに「極私的評論論」についての謝罪のメールと、わたしの反論についての再反論を含む長文のテキストファイルが送られてきました。
その後、市川氏と直接、メールでやりとりを行い、今回の件に関して両者が納得しました。
したがいまして、この度の市川氏とわたしとのあいだの「論争」は、市川氏の謝罪をわたしが受け入れ、両者が現時点で和解したことをご報告いたします。
密度の高い丁寧な応答を寄せてくださった市川氏に対して感謝するとともに、わたしも、市川氏に対していくつも感情的な文言を使ってしまった非礼を深くお詫び申し上げます。大変申し訳ありませんでした。

さて、この1万字を越える市川氏からの原稿を、どのように扱ってよいものか、しばらく悩みました。
この市川氏からの再反論に対して、わたしはさらなる反論が可能だと思っています。
また、市川氏、さらに、この「論争」に関わっている方々のためにもわたしはこれに応答すべきなのかもしれません。
しかし、評論のあり方を含め、少なからず有益な問題をいくつも含んでいるこの「論争」をわたしは単なる両者の偏狭な水掛け論で終わらせたくありません。
また、市川さんとのわたしの関係も、このなかで市川さんがいうように「価値観のすり合わせ」が両者のあいだで最終的にできなかったとしても、それでもできる限りの努力はしたいと思いますし、このまま不毛な関係で終わることはやはり両者の本意でありません。



そこで、市川氏の諒承をえて、この原稿を、一切手を加えず、すべてそのままの形でわたしのブログに掲載し、この「論争」に関心のある方々へ広く議論のための糧としたいと思います。
わたしの反論文、そして、この市川さんの原稿を併せて読んでいただきたいと思います。どのような感想を持たれてもかまいません。忌憚のない議論、ご意見をいただければと思います。
また、そのうえで、もし「やはり渡邉もこの再反論に応答すべきだ」「やはり渡邉が不公正だ」という声が多ければ、改めて反論文を書かせていただこうと思いますが、ただ、わたしとしては議論が生産的に発展しない部分での、個別の見解の相違にはもうあまり拘泥したくはありません。

ほかにも補足したい点などはありますが(市川氏にはお伝えしました)、あまり多言を要すると保つべき公平性を欠くようにも思いますので、この件に関しては以上で終わります(なお、市川氏から申し出があればこの文面を変更するかもしれません)。
なお、以下の市川氏の原稿は、この後、今回の件に関して、市川氏の側から改めて正式な謝罪があり、両者が和解し、論争が終了したことを踏まえて読んでいただければと思います。
先のブログにも記しましたように、わたしもまだ書き手として未熟な点が多々あると思います。
市川さん、そして、ミステリ関係者のみなさまには、今後もミステリに関しても、また評論に関しても、ぜひ忌憚のないご批判をいただきたく存じます。

渡邉大輔

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■要約の不備について

前半の「要約」がそもそも駄目で、もし後半の「反論」に自信があるのなら、前置き部分はなるべく正確な「要約」にしておくべきであろう。元の原稿を書いたオレが読んでも「ああ的確に要約されている」と感じるくらいであれば、それをベースにして後半で展開される反論が、オレをより効果的にノックダウンさせるという仕組みである。でも実際には前半の「要約」が、元原稿を書いたオレからすると不満のあるものになっていたので、ああ、後半の「反論」に自信がないのかな、と勘ぐってしまったり(下種な人間なので許してください)。
オレの「極私的評論論」を学生に渡して、その1節から6節までを三千字程度に要約せよ、という課題を出したときに、学生の一人が、今回自分が「要約」したものと同じテキストを提出してきたら、渡邊ははたして何点をつけるか。「この主張も驚くべきものですが、ひとまず内容に戻りましょう」なんて文が混じっていたら、おそらく減点するでしょう。つまりはそういうこと。「第三者的要約」になっていない。「当事者(論敵)による要約」になってしまっている。その時点でフェアな「要約」ではなく、できるだけ相手を醜悪に見せようとデフォルメしている可能性がある。
オレが渡邊の「要約」が不当だと思うのは、そういう「要約者の感想」が混じっていることもそうなんだけど、第一には143頁下段最終行から144頁上段にかけて書いてあることが、ごっそり抜けている点である。オレとしては、そこが抜けていてはまったく話にならないんだけど。
その部分でオレは「評論というジャンルがあって、その中で行われていることにケチをつけるつもりはない」という意味のことを書いてるんだけどなあ。渡邊大輔の反論は(乱暴に要約すれば)「評論というジャンル内で書かれていることに部外者はケチをつけるな」という感じのものだから、カットされた部分を復活させてみると、うーん、その点ではあまり反論になってないよなあ。
ただオレは「公開オナニー」という言い方はたしかにしてるけどね。でもジャンル外読者によるその手の悪口は「私的」なものとしてはアリでしょう。いくら反論しようとも、オレにはそう見えてしまっているというのは事実なんだから。その手の批判が一種のテンプレ化しているというのがもし事実であれば、対応には慣れているだろうし、反論などせずに「またか!」と思って軽く受け流すだけに留めておくのが正解なのでは。
本格ミステリというジャンルだって、需要と供給のサイクルに入っていない外部の人間からはたいがいの悪口は言われていて、それに対してオレはいちいち反論しようとは思わない。というか、その人にとって本格というジャンルが「幼稚」だったり「無用のもの」だったりするのはおそらく真実なので、そもそも反論はできないのである(ただし「私的」の範囲を超えて汎用的な形で使っている場合には、もうちょっと範囲を狭めてください的なことは言うかもしれないけど)。
「公開オナニー」とか「幼稚」とか、そんなふうに見ている外部の人がいる。でも書き手がいて読み手がいて、出版社が本や雑誌を出して黒字になっていれば、流通のサイクルが出来ている(=そのジャンルが商業として成り立っている)のは事実。だったらそれでいいじゃん。外部からどう言われようと平気でしょ。そう思ってるから、本格というジャンルの悪口を言われても、相手が心からそう思っているのならオレは(相手の私的な範囲においては)その悪口を甘受するしかないと思っているし、逆にオレが評論というジャンルに対して悪口を言っても、それが「私的」な範囲にとどまっているならば、反論されるいわれはないと思っている。
「公開オナニー」が私的な感想でありオレにとっては紛れもない事実である以上、その部分に反論するのはおかしい。市川、お前にとって「オレ様評論」は「公開オナニー」ではないはずだ、と言われても、あんた、オレの何を知ってるの? みたいな話になるだけで。だからそれはいいよね? だとすると問題はどこにあるのか。オレは「評論というジャンルの中では何をしたって構わない。外部の人間がとやかく言うことではない」という意味のことを明言しているのだから。だとしたら「評論というジャンル」の中ではこれが常識なんだよ、といった感じの「反論」は、渡邊はそこにかなりの字数(時間)を割いて語ってくれているんだけど、うーん、それだと反論のポイントがズレてしまっているんだけど。
結局、オレにとっては、今回の渡邊の反論はほぼ反論の体をなしていないというか、評論というジャンルに対しての認識がほぼ一緒だということを確認しただけに終わっているんだけど(ジャンル内の評論の多くが「オレ様評論」であり、評論のジャンル読者にはジャーゴンや書き手のナルシシズムが好評をもって迎えられる場合もあるという指摘などは、オレが想像で書いた「その場では公開オナニーこそがスタンダードであり、娯楽として消費されている」という意味の文章とあまりにも合致していて、なーんだやっぱりそうだったんだと思ったくらいである)。
話を戻すと、渡邊による「要約」の中でオレが他に不満に思っている点が他にもあって、具体的には、オレが渡邊を「罵倒」しているとして直接引用された文中での「省略」が挙げられる。引用範囲内で省略されている部分に、オレはカッコ書きの形で、自分がへり下って相手を尊重するようなフォローを入れているのである。それがあると、第三者がその引用部分を「罵倒」と判断するかどうかは微妙だと思うし(というか、そのカッコ書きを抜いて論調をきつくした今の状態の引用文でも「罵倒」には見えないという人もいるんじゃないのかな)、そのレッテル貼り(「罵倒」かどうか判断のわかれる文章でも、「これが市川による罵倒です」とレッテルを貼って紹介することによって、読み手の多くがそれを「罵倒」だと認識する。そういった情報操作が加わっていること)や要約の仕方がフェアかどうかを、オレとしてはここで改めて問題にしたいところ。

■評論界が決めること

「ひとまず十年後くらいに、わたしが評論界から一切評価されなくなり姿を消していたら、そのとき改めて心おきなく罵倒していただければと思います」
「何度もいうように、ただの「オレ様評論」かどうかは現在、そして将来的に、読者と市場と、評論の歴史が決めることです」
143頁下段最終行から144頁上段にかけての文章で、オレは「そういう場」(=評論界)の中での営為には口出ししないと言っている。だから渡邊が評論界で生き残ろうが消え去ろうが、評論界でのポジションがどうなろうと、知ったこっちゃないという立場なのである。なのに渡邊はそこを勝負どころにしようとしている。オレの文章のどこを読めば、そういう結論に達することができるのか、オレにはその思考のメカニズムが理解できない。
市川には「オレ様評論」だと思われていてもいい、他の読者がそうじゃないって言ってくれればいいんだもん、と思っているのなら、わざわざオレの私的な文章に反論する必要はない。反論しているということは、市川にも自分の書いている評論が「オレ様評論」じゃないと認めてもらいたいということなのでは? だとしたら評論界がどう判断しようと関係ないと思うんだけど。評論界の決定にオレが従わなければいけないのならば関係あるけど、オレはそんな義理は背負っていないしね。
実は十年も待たずにオレの意見を変えるいい手がある。オレが読んで意味を理解できなかった(だから内容が空疎な「オレ様評論」だと判断した)ものを、オレにも理解できるように平易な言葉で書き直してみたらどうだろう。それが手間なら、この論文を自分はこういう動機で書いた、ここが評価ポイントだ、ね、これとこれを結びつけたのって価値あるでしょ、みたいな説明を加えるのでもいいや。そうしたらオレも、あ、そういうことだったのか、中身があったんだ、空疎じゃない、言いたいことがあって書いてたんだ、じゃあ「オレ様評論」じゃないね、とすぐに翻意して謝罪する用意はあるわけで(ただしその場合でも、最初からそう書いとけよ、出力の技術がねーなー、という類の批判は最後まで残ると思う)。

■論戦の目的や動機など

オレが問題にしているのは、あくまでも渡邊の「評論界の外での」ふるまいである。外に出たときに中で行っている癖が出ていませんか、それはみっともないとオレは思うけど本人としてはどうなのよ、ということを問い掛けているわけで、まあ余計なお世話と言われるのも仕方のないことなのだが、そこはちょっと説明させてほしい。
もともとオレはこういった論争はあまり得意ではない。オレは基本的には「人それぞれ」の価値観を尊重するタイプの人間だと自分では思っていて、容疑者X論争に参加しなかったのもそういった「人それぞれ」(=過去に「相対主義」と表記したことがあったが、批評のジャーゴン的にはそれで合っているかどうかわからないので、今回は別な言葉を使っている)という価値観が、オレの論争魂に着火をさせなかったのである。論戦の一方の現場のわりと近くにいながら、みんな何であんなに熱くなってるんだろう、自分は容疑者Xを支持する、自分は支持しない、人それぞれだよねーで収まる話じゃないの? などとその当時は暢気に構えていたくらいである。
それなのに今回、なぜあんな文章を書いて、結果的に論戦を吹っかける形になったかといえば、渡邊が本格ミステリ作家クラブの会員になり、本格ミステリ大賞の予選委員になり、そこでアカデミズム内の価値観を丸出しにした発言をしたからである。そういうことがなければ、渡邊という人がいてどんな文章を書いていてどんな活動を行っていようとも、オレは今回のような攻撃的な文章は書かなかったと思うのだ。だってそんなの「人それぞれ」じゃん。勝手にやってればいいだけの話じゃん。
だけど本格ミステリ大賞の予選委員として、彼の姿勢が疑問だと思った以上、そこは余計な口出しをあえてしなければならない事態に陥ったとオレは判断した。自分では「罵倒」とは思っていないけど、まあそれなりに挑発的な物言いをして、双方の価値観を戦わせる方向に仕向けたことは認識している。その論戦の過程で、渡邊が本格ミステリ作家クラブの会員として(本格ミステリ大賞の予選委員として)自分の態度を改めるとか、逆に渡邊に軍配が上がったときにはオレが折れるとか、とにかく両者の間で今以上に価値観のすり合わせを行っておく必要があると思ったのである。来年二月の予選会までの間に。オレの価値観では、渡邊の姿勢は本格ミステリ大賞の予選委員として要件を満たしていないように思うし、逆に渡邊のほうが正しいという結論に至れば、予選委員として要件が足りている渡邊を要件不足と判断したオレのほうが予選委員としての要件を満たしていないということになり、その場合はオレが予選委員を辞めなければならない。でも価値観のすり合わせができれば両者とも来年二月に予選委員を務めることができる。
だからオレが今回の論戦で(一方的に)目指しているのは、そのへんの落とし所を見つけることであり、とりあえず渡邊が(無視しても構わなかったのに)論戦に乗ってきてくれたのは、個人的には「しめしめ」という気持ちがあったりするのである。
とりあえず渡邊のほうでも、同じ気持ち(来年二月の予選会までにお互いを予選委員として認められるようにしたい)を共有していただけたら、ありがたいのだが。

■人文系アカデミズムの根源的危機

人文学部の人気は景気動向に影響を受ける。就職氷河期になると、潰しのきかない人文系の学部の人気は低迷する。その「潰しのきかなさ」とは要するに、その学問の専門家を採用したいという民間企業がほとんどないということで、哲学科とか国文学科の卒業生を積極的に採用したがる民間企業というのは、たしかに数が限られているだろうとは思う。
そこから進めて「はたしてその学部・学科は本当に必要なの?」という疑問を抱く人も世の中にはいるだろう。昔の俺がそうだった。国公立大学においては、研究者の給料は俺らの税金から払われているのだから、一般人が専門家の研究内容に口出しする権利はある。税金を払って研究させる価値があるのかどうか。私学でも文科省から研究助成金みたいなものが拠出されているから一緒か。アカデミズム全般に対して、外部の一般人はあれやこれや口出しする権利を有していると言えよう(というか、まったく有していないとは言えないだろう、ぐらいにしといたほうがいいか)。
一般人が専門的な研究の必要性を認めるのは、恩恵を受けた場合がわかりやすい。専門的な理論はわからないけど、そこから生じた発見や技術革新によって、新しい治療薬が開発されたり、不治の病が治療できるようになったり、家電がエコ化されたり値下がりしたり、新素材を使ったフライパンで焦げ付きがなくなったり、そういった応用技術の恩恵にさずかったときには、それを生み出した専門分野に(たとえその専門的な理論そのものは理解できなくても)価値を認めるにやぶさかでないという立場に立つだろう。
転じて哲学・現代思想とか、文学とかの理論に関してはどうだろう。一般人が理解できない高レベルでの議論があり、専門的な研究がなされて、何らかの画期的な新発見があったとしよう。でもそのフィードバックを、専門理論を理解できない一般人が恩恵として受ける可能性はどれだけあるのか。要するに彼らが一般の人の生活にどれだけ役に立つ研究をしているのか。そういったときに一般人への「恩恵」を具体的に説明できる研究者がどれだけいるのかが、その学問が「安泰」だったり「危機」だったりするときの指標になり得るわけで、「文学部が危機に立たされている」という吉田司雄の危機意識は、俺からすれば、そういった現状認識に根ざしていたように思えるのである。
俺が渡邊大輔に求めているのは、その(けっこう根源的な)レベルでの危機意識である。二〇〇四年の時点ですでに吉田司雄(第五回本格ミステリ大賞評論研究部門の候補作『探偵小説と日本近代』の編著者)はそういった考えを表明しているし、諸岡卓真も同様の危機意識を持って本を書いている。なのに渡邊は「専門家にしかわからない高レベルでの議論が生み出すもの」自体に価値があると思っている。その「高レベルでの議論」を理解できる人にしか恩恵が与えられないのであれば、その「価値」は一般人にとって意味がない。活動の成果が中の人しか幸せにしないのだとしたら、それは学問ではなく宗教である。もしくは趣味である。そうなると税金が注ぎ込まれる根拠を失う。伝統芸能のようなものだとすれば別な意味で保存のために税金が注ぎ込まれるのがOKになるが、その場合は、学問として認められていたときの権力はあらかた失う。
要するに、評論が学問ではなく、実は宗教や趣味や伝統芸能のほうに近い存在なのではないか、というのがオレの根源的な疑念なのである。で、そういった批判の可能性があることを危機と認識したからこそ、吉田や諸岡は「一般人へのフィードバック」のあり方を模索しているのだとオレは思うのだ。諸岡のように、博士論文そのものを一般向けの読物として通用するレベルで書く、というのも「フィードバック」の一手法としてはアリだと思う(諸岡の場合、論文中で扱っている素材も古典ではなく、新本格とかミステリゲームとかといった鮮度のある、しかもアカデミズムの外部でもけっこう馴染みのあるものをあえて選んで、大衆性をなるべく確保しようとしている意識が見て取れる)。
俺のアカデミズム批判は人文系をひとまとめにしたかなり乱暴なものだが、ざっと上に書いたような認識に根ざしている。研究成果が役に立っている範囲がほとんど専門家に対してだけだったりする学科は、本当に学問として一般人から認められているのか。今は何となく明治時代からの流れで認められているとしても、そういった根本的な疑念が社会全体に広まったときに、生き残るための「一般人への恩恵説明」がどれだけできるのか。そのあたりのオレの個人的な疑念というか背景が「極私的評論論」では不足していたので、ここで説明を補っておく次第である。
ちなみに渡邊は「また、一方で、評論というものは、小説や映画などの物語ジャンルと異なって(わたしは評論もまた一種の「物語」であり、それは「研究」とはなるべく区別されるべきものだと思いますが)、じつは単純に多くの読者に届けばよいというものではありません。むしろ、きわめてハードコアな数十人に読まれることで世界が変わってしまう可能性がある、そんな特殊な領域が評論なのです」と書いている。医学や薬学、工学、化学など、他の領域の学問が「世界を変えた」(というのは大げさだが、外部の一般社会に良い影響を及ぼした)例を、オレは前のほうで列挙していたが、評論にもそういうことができる可能性があると、渡邊は主張している。オレの判断基準からすればすでに「特殊な領域」ではなくなっているんだけど、渡邊の言う「世界が変わってしまう可能性」が、不治の病が治るとかのレベルではない、もっと上位の恩恵を外部の人々にもたらす場合を想定しているのであれば、そこに矛盾は生じない。
でも評論によって「世界が変わってしまう可能性」って、具体例にはどんなものがあり得るのだろう。評論を読まない一般人の生活にさえ多大な影響を及ぼすような「評論」といえば、具体的には、戦争とか立法とかの引き金になったケースが考えられると思うのだが、たとえば独裁政権を倒して民主主義国家が成立したとか、そういうふうに民衆を扇動するタイプの評論は「ハードコアな数十人」にしか読めない代物ではないだろうし(最初はそんなふうに書かれていたとしても、誰かが庶民にもわかりやすく書き直したものが普及して初めて世の中を変える可能性が発生するだろうから、渡邊の想定している「可能性」には当てはまらない)、逆に「ハードコアな数十人」にしか理解できないものが戦争や国家体制に影響を及ぼすとしたら、その数十人に含まれていた強権者は独裁者に近いのであって、だとすると一般人への影響も「恩恵」ではない可能性が高い。うーん。「ハードコアな数十人に読まれることで世界が変わってしまう」具体例が思いつかないのですが。結局「世界が変わ」ったと思っているのはその数十人だけで、一般大衆には何の恩恵もない、というパターンしか想定していないのでは? だとしたら学問としての正統性は何も担保されていない(危機に陥っている)ことになりませんか?
あなたが学問だと(しかも「特殊な領域」だと)信じているものは、本当に学問として認められていて(維持発展のために文科省の予算が投入されて)もいいものなのですか。その学問がもたらす恩恵はあまねく一般社会に還元可能なものなのですか?
評論家を名乗っている以上、自分にとってあまりにも身近な評論というジャンルに対するそういった根源的な疑念を、過去に抱いたことは当然あると思いますが、そのときに出した結論はどんなものでしたか?
というか評論というジャンル内で、この手の問題提起は当然テンプレ化している(=FAQが用意されている。なので渡邊が新たに考えなくてもジャンル内で回答がすでに用意されている)と思いますが、じゃあ、過去の評論家たちの出した結論はどういったものでしたか?
僕は評論というジャンルの外部にいて、中の人たちの営為には基本的に興味を抱けないのですが、例外的に、上に挙げた点に関しては興味があります。教えていただけたら幸いです。

以上は反論(1)を読んだ上で書いた文章の一部である。ここで反論(2)を読んだ。その上で部分的に一問一答形式で回答する。直接渡辺氏の文章に答える形になるため文体が一部変わるが了承されたい。

■三問三答

1.選考会の席上でわたしに直接指摘せず、時間が経ってから少なからず歪曲された形でネガティヴに批判してきたこと
2.本格ミステリ大賞の候補作選考に「学術書」に関して「学術書」であることを評価のひとつの切り口にすることの疑問に対する根拠が(わたしの見る限り)まったく明示されていないこと
3.その疑念の根拠ともなっている、市川氏の「アカデミズム」の世界に対しての知識が具体的には何もなく、そればかりか、どこかで聞きかじった「ステレオタイプ」の「イメージ」しか持っていないこと

1に関しては、実はリアルタイムでは「何かおかしいな」と思いこそすれ、具体的にここがおかしいと分析できなかったため、指摘が後日こういった形になったということで、了解していただけないでしょうか。あと歪曲に関しては、意図的なものではなく、自分の記憶には小森氏の発言が残っていなかったからで、もし事実が渡邊氏の書いているとおりであれば(たぶんそうなのでしょうけど)、渡邊氏一人を槍玉に挙げたことは謝罪いたします。批判がポジティブなものになっていないのはオレの資質のせいかもしれません。
2に関しては、学術書だから対象外だという認識はありませんでした。単純に「著書」なので内規に照らし合わせても対象内だという認識ですし、その点は特に問題ないはずだと思っています。あと商業出版物かどうかという切り分けは不正確な点があったかもしれませんが、これも特に問題があるとは思っていません。学術書として書かれたものだから、学術書としての評価のモノサシを本格ミステリ大賞の予選会の場に持ち込んでも何もおかしくないという主張は、うーむ、たしかにオレの元の「極私的評論論」では根拠が明示されてない。何となく自明で済ませられる話かなと思っていました。だってそういう場じゃないじゃん。そういうモノサシを当てられるのは限られた人間だけだ、その限られた人間がこう言っている、と言われて、博士論文を書いたこともない人間は、予選会の場で「黙っていろ」と言われたような気がするのです。それはさすがに過剰反応かもしれませんが、でも渡邊氏は、もとが博士論文だからこそ、この作品の当否は博士論文を書いたことのある自分が(ひとつ余計にモノサシを持っているぶん、それを持っていない他の予選委員=オレなどより)発言権が大きくなると暗に主張した形になり(あくまでもオレにとっては、渡邊氏の「前置き」はそういう意味を持つ発言だった)、その上で諸岡作品を五作の枠から外そうとしたわけです。オレはその場でそれに反対しました(「何かおかしいな」と思ったからです)。オレの感覚では、たとえ元が博士論文として書かれたものであろうとも、本格ミステリ大賞の予選会という場で、明らかに場違いな「アカデミズムの世界のモノサシ」は不要であり、それを持ち込むのはおかしいと今でも思っています。オレのその判断が解せないというのなら、評論研究部門では今後も博士論文が対象になる可能性があるので、評論研究部門の予選は、博士論文を書いたことのある限られた人間たちだけで選考するようにすべきです。渡邊氏は本格ミステリ作家クラブにその旨を上申して、永世予選委員を務めればよろしいかと思います。
3に関しては、「アカデミズムの中の人」が書いた著書を何冊かは読んだことがあって、だから「知識が具体的には何もな」いわけでもない。それらがわずかな知識の元となっている。だとしても、映画を一本見たくらいで映画について語っているレベルなのだが、外部からの批判はどうしても「不充分」「不勉強」にならざるを得ない。「充分」のレベルまで知識を蓄えてしまえば、それは内部からの批判になる。批判者の知識不足を指摘するのは当然だが、行き過ぎると「外部からの批判は一切お断り」という態度になるので、そこは考えどころかと愚考する次第。不勉強ゆえに現状を誤認して批判が空振りになっているのは、たしかに醜悪で、そこは嘲笑していただければと。オレの批判が空振っているのならば、別に無理やりワープア研究者などを味方に取り込んで集団で守りを固めるまでもないでしょう。それが本気で怒っていることの態度表明なのはわかりますが、オレがターゲットにしているのは、アカデミズムの世界にもいろんな人がいる中で、あくまでもオレのイメージに該当する人間に限られています。イメージから外れている人は、オレの批判の対象外です。それを「お前らも批判されてるよ」と勝手に対象化することは、オレの本意ではありません。やめてください。

■最後に

不充分な回答に終始してしまいましたが、とりあえず以上で終わらせていだだきます。
このテキストファイル内の文章は、ブログでの引用等の必要があればご自由にお使いください(積極的に公にしてほしいと希望しているわけではないです)。好き勝手に要約していただいても構いません。その上で反論が書かれた場合(オレのような下種のためにそこまで時間を使うこともないと思いますが)、オレからのさらなる次のコメントは、渡邊氏から求められない限りはしないようにいたします(求められてもできない場合があるかもしれません)。これ以上のお目汚しは、なるべくしないように気をつけたいと思います。
醜悪な人間の唾棄すべき駄文をここまでお読みくださったことを感謝し、そういう苦行をさせてしまったことを同時に謝罪いたします。