猫撫ディストーション ギズモ


適当な感想垂れ流しです。あとネタバレもあるかも。


 あまりよく覚えていないのだが確かくきゅの字椎奈にとって家族というシステムは隙のない牢獄のようなものだったはずで、そこから先に行こうとしていたというテーマからすると、この作品の壊れた家族を修復するというテーマは割と分かりやすくなってしまっているようで物足りなさを感じてしまうかもしれない。
 声もグラフィックも一番可愛かったので飛びついたギズモシナリオだが、ひょっとしたら後回しにしたほうがよかったかもしれない。野生の出自を持つから一番肉体的で具象的なはずのヒロインなのに、実は言葉という実体のない魔術で編み上げられた一番不安定で可能性的な存在であることを掘り下げるシナリオ。言葉を共有することで世界を共有する(と同時に世界の断絶を意識する)というコミュニケーションの基本への言及で作品世界をプレイヤーへと開くという作業自体にはそれほど革新的なことはないのかもしれないが、それをはっきりとヒロインの口から聞かされる行為はやはりなんとも夢のあふれることだ。なんとか半径の中でずっと落ち続けることにも「まっすぐ歩き始める」ことにも乾いた絶望の匂いがする。ただしそこにギズモがいなければの話だ。猫はある程度近くにある動くものしか認識できないという。ギズモがいつもびっくりしたような顔をしているのは事物が急に出てくる恐ろしい空間の中にいるからで、言葉を共有してその空間が「世界」へと変わっていく中で、びっくり顔もだんだん減ってくるだろうが、代わりに不確かで万能の言葉の世界を通して彼女の温もりを常に感じることができるのならばそこには希望が見える。可能性についてのシナリオなので「かも知れない」とか「ならば」みたいな言葉だらけの感想になってしまったが、彼女が残したアリアドネの糸みたいなものはこの手の中に確かにある。

猫撫ディストーション 式子

 エロゲー的想像力が夢見ていた楽園の実現を実際にやってみるとそれは多分に陳腐なものになる可能性が高いのだけど、その陳腐さはある程度までは取り除くことができるノイズに過ぎない。そしてそれを完全に取り除くことには意味はないと分かっていたはずだろう。夢と現実の境目の問題は、問題や問いとして立ててももう意味はない。楽園があるのなら、それを実現させ実践するというのが出発点であり、楽園である以上その先の目指すべき目標などはなく、出発点はそのまま到達点になる。式子シナリオが陳腐に見えるのだとしたら、それは些細な純度の問題に囚われる観察者の目が曇っているということなのだろう。こんな風にありのままに幸せを差し出されてありのままに受け止めることができる機会なんてなかなかないのだから、ここは素直に頂いておきたい。
 他者と関わる際に生じるキアスムについて、同じく森で表象された最果てのイマの沙也加とは式子は異なった捉え方をした。短絡的な図式化をすると、これはモダンとポストモダンの違いであり、また、柚木から七枷に変貌した式子の姿を見ることができる。80年代の価値観がいまだに気になってしまうのは多分その頃と同じ問題が今もあるからなのだろう。
 意図的なのかどうか微妙なところだが、この作品の視覚的な演出はかなりしょぼい。メッセージウィンドウが跳ねたりキャラの顔の近くに出たりするのはけっこううっとうしい。大事な場面ではメッセージウィンドウは音声で読み上げられる場合には右クリックですばやく消しながら進める必要がある。あと、立ち絵がひょこひょこ動いたり、キャラが入退場するときに横に動いたり、近づいてくるときに小刻みに揺れながらアップになったりするのは紙芝居を見ているようでかなりしょぼい(ちなみにこの手の演出のしょぼさに初めて気がついたのは以前はぴねすの体験版をやったときだったが、本作はそれと比べてもだいぶひどい気がする)。立ち絵と背景画の不調和具合もけっこう感じられるところがあり、そもそも立ち絵自体もけっこう残念だったりする。ついでに言うと、掛け合いや日常会話もけっこうすべっている。そして、それらを全て引き受けても「幸せ」を提示しようとする明確な力を感じることができる。子供だましのような破綻した二次元であってもそれは子供に読み聞かせる紙芝居のように愛の込められたものであり、そして式子と一緒になって観測して手にした幸せならば、それはささやかながらも永遠といってもいいものだ。いかに弱くて剥き出しだとしても、心地よく、前向きな意志だろう。その意志に答えるのにためらう必要はないと思うのです。