クソゲーの文学性

 「クソゲー」というのは必ずしも悪い意味ではなく、ある種の美点を持つアニメを「クソアニメ」と呼ぶ程度にはいい意味のつもりだが、うまい言葉が見つからなかったのでひとまず。
 「世界と世界の真ん中で」を始めたのだが、何というか、社会主義リアリズム文学を連想させるところがある。学生寮エルデシュはどこかの田舎のコルホーズかライコム(地区委員会)で、寮生である優等生ヒロインに「連理君はエルデシュの精神的支柱」と評された主人公は、そこで頼りにされている議長だ。村民は誰もが幸せで、美しい……。連理という主人公の名前も、連理の枝とかの連理じゃなくて、本当は「レーニンのことわり」とか「連邦のことわり」いうような由来で、意識の高い市民であることを示しているんじゃないのか。
 料理や家事が得意でヒロインたちに褒められる系の主人公が、ヒロインたちや親友役男キャラやヒロインたちの仲良しグループで「連理君らしいわね」とか「どうしたの?あのとき、連理君らしくなかったから」とかちやほやされながら(社会主義リアリズム文学における「ディシプリン」や「イニシアチブ」があると評される肯定的主人公)、あるいはヒロインが喜ぶのを見て「よかったな」(イリイチもきっと同意しただろうよ)とか声をかけてやったりしながら、あるいは元気のないヒロインを見て「俺にできることといったら、美味しい料理を作ってやることくらいだ」(労働は裏切らない)とかつぶやきながら料理や家事をする描写や誰が何を作るかとか食べることの話題ばかりが延々と続く序盤の日常パート、イケメン家政夫による介護施設での労働的なパートの文章のつまらなさが苦行レベルなのだが(無意味に爽やかな高原の別荘風――共産主義ユートピア…――の学生寮だったりして倫理的な意味での居心地も悪い)、この作品を手にした主な動機のひとつである絵の美麗さに助けられた。
 音声が流れているときはメッセージを消すという設定があって、それを使うとヒロインたちの表情や姿勢の変化をぼんやり眺めることに集中できる。特にヒロイン同士が会話しているときは地の文が少ないので、たとえそれがまったくどうでもいい言葉の応酬であっても、あるいはむしろ非効率極まりない冗長性の塊りであるからこそ、そしてエロゲー文法の魔法によりなぜかヒロインの立ち絵はいつもこちらを見ているので、それを浸す善意の空気にぼんやりと包まれながら、思考停止の境地に遊ぶことができる。正確には、ヒロインたちの他愛のない間の抜けたやりとりはセクハラ的なつっこみを入れる余地だらけの無防備なものなので(ニコニコ動画で大量にコメントがつく萌えアニメのタイプで、例えば、BGMが変わると曲名がその都度右上に出てくるのだが、穏やかないい雰囲気のシーンになって「黄金の円光」と出るといちいち馬鹿馬鹿しく釣られて、あぁ、となる)、思考停止というわけではないのだが、日本語の読み物としての面白さや倫理性の問題から遠く離れた境地に至れることは確かだ。主人公の提灯持ちみたいなうざい親友キャラはすぐさま音声を切ったが、立ち絵も非表示にできたらもっと快適性が増しただろう。こういう楽しみ方をするなら主人公はノイズでしかないので、なるべく主張せずしゃべらない、人格というよりは一つの機能に退化(進化か)させるのが望ましい気がする。それを推し進めて主人公を消したのが萌え4コマであり、エロゲーではシステム上そこまで至るのは難しいのだろうけど、この作品のようにヒロインの絵が美麗で声も可愛ければ、高度に空虚な癒し作品として十分に比肩できる。