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オネミリエ このページをアンテナに追加

2018-04-15

[]息抜き 息抜きを含むブックマーク

 久々にだらだらブログを書いて声を整える余裕ができた。といっても何か書くべき新しいことがあるわけじゃない。思いついたままを適当に。生活人生には建設的な方向に持っていこうとする力がことあるごとにしつこく顔を出し、復讐してくるので少し気晴らししたいだけのことだ。すっかりブログを書かなくなってしまった。最近に限ってのことではなく、5年くらい前から仕事で書く文章の量がどんどん増えていって、今では2ヶ月に一冊新書が出そうなくらいのペースになっていて、書くことに追い立てられながら新しい仕事もやることになったりして、仕事以外のインプットが少なくなった。少し空いた時間があっても、なかなか気楽にエロゲーアニメに沈潜していけない。最近はもっぱら今度の旅行先の中央アジア歴史とか、ロシア旅行ブログとかを読むこととか、旅のしおりを手作りする手伝いとかに費やされていた。イスラム建築ゾロアスター教やナントカ・ハン国の栄枯盛衰歴史など僕の人生にはこれまでもこれからも何の関係もなく、そこまで準備することは求められていないけど、いざ旅行するとなればできるだけそこで意味を回収したくなる貧乏性だ。仕事の出張とは関係のない純粋な海外旅行は20年ぶりくらいだし、この先も何回もする気にはならないと思う(連れて行かれるかもしれないが)。

 エロゲーには自由安心がある。すべてが画面の中に限られているという制約がある一方で、画面の中からは常に明るい欲望に満ちた現在がこちらにつながってくる。新作を追いかける余裕すらないが、積んでいるゲームを時折起動して読んだりすると、自分が今どんな時間の中を生きているのか忘れられるような、人生の別の時代に飛ばされるような気がする。先日、だいぶ前にやりかけて止まっていた『私は女優になりたいの』(Chloro、2012年)をクリアした。ゲームの長さやテンポも、青臭いSF設定も、親切に説明しないテキストも、殴り書きのような荒々しい勢いと楽しさが詰まっていて良かった。今は『幻月パンドオラ』(Q-X2009年)を少しずつ進めたりしている。古いゲームだけど、今の自分にはあまり新しさは関係ないし、古いゲームのほうが気軽に中断したり的外れな感慨を抱いたりしやすいのでよいかもしれない。エロゲーはあまりに完成されすぎているので、エロゲー自分生活人生を適合させることができなかったことが惜しくなる。エロゲーを選ぶことで捨てなければならなかったものの価値はいまだに確定されていないが、逆の場合に切り捨てられるエロゲー価値否定できないくらいにエロゲーにはいろいろなものをもらった。両立の道は思っていた以上に難しいと実感している(特にきちんと考えてたわけではないけど)。

 渇き。カクヨムで『イリヤの空、UFOの夏』(https://kakuyomu.jp/works/1177354054885579795)の掲載が始まった。横書きの見苦しいレイアウトで読むのは冒涜的な作品であり、そんな形で読むことで自分の大切な読書体験を壊していくのは間違っている気もするが、それでも読んでしまう。画面からはやはり現在が飛び込んでくる。いずれにせよ、電子データとしてこの作品が公開されるのは喜ばしいことだ。いつか暇になったら自分の好きなレイアウト編集しなおして、製本することすらも可能になるではないか。

 人生はやりかけの連続で、そんな無責任復讐されることの連続だ。そこから逃げるために、何かを生み出し、残したいと思うのだろう。文字通り子供だったり、何かの文章作品だったり。仕事お金をもらいながら、義務として何かを生み出していくことのようなねじれのない、若くて自由無責任創造を夢見る。人を本当に愛したり、大切にしたりするには欠陥のある性格だと思う。自分が本当に満足できるのは、自分クローンだけだろうというくらいに、ことあるごとに他人とぶつかったりすれ違ったりして、生活の精度が下がっていく。もはや単なる愚痴だが、2人で暮らすようになると助け合うので効率がよくなるのかと思っていたが、2人のすれ違う部分が多いので、それにいちいち足を取られて金銭的にも時間的にも効率は大幅に悪化する。お互い様だが、できることがずいぶんと少なくなった。一人暮らしエロゲーマーや本読みの生活の完成度は高かった。それと引き換えにできるようになったのは、生きた人間との感情の交換だが、そこには一義的価値はなく、いろんなことが未確定だ。自由解釈できる可変的なシナリオだからまだいい。とはいえ、少しずつ未確定を消費しながら、先送りの未来を、逃げ道を作り出していくのが人生なのだとバフチンもいっているのかもしれないが、そんな風に戦略的に考えないで、ただただまぶしくて楽しいものに翻弄されていきたいという欲望もある。子供であり続けたい。現在の中にとどまり続けたい。またエロゲーにどこかに連れ出して欲しい。ことごとく受け身の願望だ。まずはゲーム読書家族時間をつくるところからかな。考えてみれば、嫁は身体が弱くて僕以上に生活能力が低いので、一緒にいて楽しいけど生活を楽にしてくれないという意味エロゲーヒロインとあまり変わらないのかもしれない。エロゲー主人公ヒロイン生活価値観をあわせようと努力し、小さな喜びを育てていくのを眺めるのは(やがて主人公ヒロインは静かな個人生活の沼の中に小さな幸せに包まれて沈んでいくが、そのことは描かれない)、聖者伝の偉業を読むのと変わらないのだろうか。実現されたメタファーの例でいうと、エロゲーヒロインがおいしい食べ物に感激したりテレビ好きだったりポンコツだったりするのは安全圏の記号的な振る舞いだが、現実の嫁が本を読むのが苦手で食べ物や買い物の話ばかりするのは、控えめにいって精神の鍛錬だ。そしてそれはお互い様だ。エロゲー主人公の変容は、どれだけ頭で分かってもなかなか実践にまで至らない神秘であり、秘蹟なのかもしれない。そうした聖者伝をたくさん読んだおかげで、僕も立ち向かっていけるのかもしれない…。

Sek8483Sek8483 2018/05/04 01:39  お久しぶりです。Sek8483です。
 vostokさんのことを勝手ながら先輩エロゲーマーみたいに思い、学ばせていただいておりましたゆえ、こうして書かれている文章へと、生活の立体感ある陰影が少しずつ付いてくると、寂しいような納得するような不思議な気分にて、読ませていただいております。
 ところがしかし、そこから『イリヤの空』みたいなどん詰まり感ただよう小説へと話題が飛んで、なんだかんだいってそれに目を落としてしまわれるあたり、やはり素晴らしく業が深いですよね……! また、『ノラとと』関連のお話などは特にわたし好みで、面白く読んでおります。詩や音韻について語っていながら「むしろ便秘としての母親でしょうかね。」とか出し抜けにこぼされるものだから、クスリと笑ってしまいます。エロスケなどで感想を読んでいるさい、わたしに "笑いの発作" を引き起こす文章をもっともよく書いてくださるお一方というのがvostokさんです (もうお一方あげるとすれば、vicinityofobscenityさん)。ボソッと一言「世界ヤバイ」とおっしゃるだけで笑わされてしまったりと、vostokさんの文章ならではの風貌というのは、もういっそ卑怯なほどでして。最初の頃にはやはり恐縮しいしい拝読していたきらいもあったのですけど、その文章にいくらか親しんだ近ごろでは、意外なほどに茶目っ気を含んでいらっしゃるなぁという印象がむしろ強かったりします。

 それにしても、奥さまのことを「エロゲーヒロインとあまり変わらないのかもしれない」というのは、あんまりにもあんまりな字面なので笑ってしまいました。そして、迂遠ながら惚気のたぐいなのだろうかと、共感めいた気持ちになったりもします。
 はしたなく身の上話をしますと、最近、仲よくなってる子がおりまして。仕事上がりに連れ立っては、そこらのビルのてっぺんから夜景を見下ろしつつ、食べたもののこととか、前職での話だとか、家族の病のことだとか、よく飽きもせずしゃべってたりするのですけど。そうしたときに、彼女がふと「コンテナ眺めてるのとかも好きなんですよ」と言い出したところで、わたしの脳裏に反射的に浮かんじゃったのが、鈴木さんちの佳奈すけ。『大図書館の羊飼い』です。エロゲです。初対面あたりのシーンで「ジャンクション写真集とか好きなんです」みたいなことを言ってきて、うわぁコイツあざといなぁと感じ入りキュンと来た記憶がわきおこってきちゃいまして。わたしのエロゲ脳がたいへん手遅れでした。
 今ここに居てくれる人の顔を見やりながら、うつつを抜かしてエロゲヒロインの極彩色イメージを重ねてしまったわけでして、なんとも救いがたい話なのです。こんなふうにうつつを抜かしていたら、そのうち足をすくわれることだろうと思います。思うのですけれども、そうした自分の人生のシーンに感じ入ったときを、これなんてエロゲとばかりに関連づけて、スクリーンショットをとるように記憶していくのが面白くもあります。エロゲが現実から自由になりきれぬように、わたしの現実もまたエロゲから自由になりきれていなくて、十年余りのエロゲーマー生活のうちに脳みそについた戦傷というのがなかなか根深い。
 わたしなども、人を本当に愛したり、大切にしたりすることは (あるいはされることも) むずかしいだろうなと痛感している、この頃なのですけれど。せめて、「でもこの人は "自分の"人生を愛しているんです」と誰かへ声をかけたり (あるいはかけてもらったり) だけでも出来るようになれればという、漠然とした希望もいまだ手放せずにおり厄介なものです。

 さて。
 ひょっとしたら、ちょうど中央アジアへとご旅行されている頃合いなのでしょうか。傍目からは、ぶつくさしつつも準備がとても楽しそうに見えてしまいお羨ましいです。わたしなどもプライベートな旅行をしなくなり久しくて。かねて以前より、たとえばキジー島あたりには行ってみたいなとか、漠然とした憧れをもっていたりしたのですけれど。最近では、そうした願望も、願望のままにしてしまいそうな予感がしています。なにとぞvostokさんの今回の旅には、よき巡り合いがありますように。

 返信などは、どうぞ急がれず、まったく無くとも結構です。
 ではでは。

daktildaktil 2018/05/12 20:36 ご無沙汰しております。もったいないコメントをいただき恐縮です。
Sekさんのいい話、嬉しく思います。文章の端々からうかがわれる細やかな気遣いや知的な魅力は、きっと彼女さんにもよく伝わっているのではないかと思います。僕が女だったら惚れている!(気持ち悪くてすみません) 佳奈すけの影を見せられるのは大変でしょうが楽しそうですね。
エロゲーヒロインと現実のパートナーを重ね合わせるのはルール違反であり、おそらく悪趣味なことかと思いますが、それでもごく私的なブログならいいかなということでやっちゃいました。エントリのタイトルどおり、気を抜いて勢いで書いたところ、嫁に見つかって大変なことになった。Sekさんは迂遠な惚気と好意的に解釈してくださいましたし、僕もそういうニュアンスの余地を作っていたつもりでしたが(私的なブログということでご容赦ください)、変な甘えが通じないケースもあるようで、旅の1日目に世界遺産になっている青いタイルの搭の下で「一人で見るからついてこないで」と泣かれてしまい大変でした。今となればいい思い出ですし、嫁は本気でまた行きたいと考えているようなので旅行としては成功でしたが、このエントリのことはまだ完全には許してもらっていません(笑)。しかしSekさんもおっしゃるとおり、僕たちの現実をエロゲーから完全に切り離すこと、なかったことにすることというのは建設的な方向ではないと思います。知らない人に説明しても理解してもらうのは難しいでしょうけど、やはりエロゲーをたしなんだ人間だからこその強さや優しさもあると、少なくともこうしたブログのような場所でくらいは愚痴っておきたいです。こんな風に書くと窮屈ですね。愛煙家にとっての喫煙所みたいだ。

「エロゲヒロインの極彩色イメージ」というのはうまい言い方ですね。日常という違うモード、違う現実の中におかれると、単純な視覚現象のようなものまで後退して格下げされてしまう儚いけれどきついイメージという感じでしょうか。
今回、シルクロードの中心地としてかつては世界最先端の天文学や文学や工芸を生み出していた中央アジアの乾燥地帯を観光するにあたって、僕はどこかでねこねこソフトの「朱」の影を探していました。朱の舞台は中央アジアというよりは北アフリカのような気がしますが、いずれにしても現実の中にエロゲーの世界を探すことは、直接的な類似を探そうとすればするほど意味がないということを早々に確認しました。ひょっとすると、朱を再プレイしても同じような気持ちを味わうのかもしれません。僕はきっと聖地巡礼をしてもつまらないことをいってしまいそうです(ちなみに、実際に中央アジア最大のイスラム神秘主義の聖地にいって文字通り聖地巡礼をしている人々もみましたが、チベット仏教の五体投地のような過酷な法悦の境地とは程遠い雰囲気で、晴れ上がった青空の下で白く輝くモスクの建物や庭の脇で、頭巾をかぶったおばあちゃんたちが花を植えている中、たくさんの老若男女が和やかにおしゃべりをしながら散歩してしている庭園のようなところで、アジア人を珍しがる現地JCたちに一緒の記念写真をせがまれたりなどしました。比較的貧しいイスラム圏の国だからかわかりませんが、いたるところで素朴に話しかけられたり記念写真を頼まれたりしました)。
個人的には、今回の旅行でオタクとしてのひとつ印象に残ったのは、古い建物の中庭で行われた民族舞踊ショーの踊り子でした。中央アジアらしく胸や腰や腕の曲線を艶やかに際立たせる動きの踊りで、僕を含めた観光客たちが夕食を食べながら眺めているという不条理な催しなのですが、ところどころで「アッ!」という元気な合いの手の声を出す小さな踊り子がいて、意図せずネルリを見つけたような気がして嬉しくなりました。騎馬民族系のネルリとはぜんぜん違いますが、類似点が少なくとも楽しい発見もあるのだなと思いました。

というわけで相変わらずオタク生活への未練が尽きませんが、何とか生きております。Sekさんの文章も楽しみにしております。ではまた。

daktildaktil 2018/05/14 15:28 「朱」については、ちょうどSekさんが「砂の城」について投稿されたのをみてなるけどと思いました(/ero/toukei_kaiseki/music.php?music=2657)。印象的な楽曲が多いというだけでなく、音楽的手法が音楽の外にまで広がっているように見えるからこそ、作品外の現実に朱の影を探すのが難しいのかもしれない。朱に限ったことではないでしょうが。そして、音楽のように耳(?)に残るからこそ現実の中に痕跡を探したくなるのかなと。僕は英語とか洋楽がだめなので、「砂の城」はあの焦燥感とその先にもう終わりが見えてもおかしくないような眩しさにくらくらするばかりで、大概ナイーブに浸りきって聴いています。本当なら英語の歌であることに違和感を覚えるべきでもあるかもしれませんが、なまじ音楽を知らない方が勝手な抒情性や音楽性を読み込めるかなと開き直り気味です。勝手だから固有性の強度がありますが、外部の情報で砂の城のように簡単に崩されちゃうわけですが。ちなみに旅先の民族音楽は、当然ですがまったく別の現実の中にありました。