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2018-08-12

[]昔のアニメ 昔のアニメ - オネミリエ を含むブックマーク

 最近、放送20周年だとかでserial experiments lainの話題をみて、久々に見返してみた。観たのは3回目くらいか。最初に観たのはエロゲーを始める前の頃、エヴァンゲリオンで受けた衝撃というか傷を再び受けたくて安倍吉俊氏関連の作品を漁っていた頃、海賊版だか海外版だかよく分からないアニメのDVDをヤフオクで買っていた頃だ。今回は初めて話が割りとすっきりと飲み込めた。ネットワーク用語に関する知識がようやくアニメに追いついたからだと思う。そうしてみると、説明的なせりふを最小限に省き、言葉よりも目や顔のアップや風景などのイメージに語らせようという姿勢が強いのがよくわかり、ずいぶんとよく練って作っていたのだなと思った。インフラの変容が社会の変容につながる物語。唐突に思えた一つ一つのイメージもずいぶんと論理的で雄弁であるように思えた。神話としてのlainと一人の小さな女の子としての玲音はきれいに統合されることはなく、玲音自身の不可避の選択によってほとんどlainのみが残る結末だが、そういう残酷な終わり方にこそ惹かれてしまう。どうにもならないすれ違いだ。今のネットワークはたとえ飛び交う情報不透明だとしても生態系としてはずいぶんとクリアになってしまったように思えるが、そんな環境lainという神話が必要とされるかはよく分からず、だからこそ空気のように透明になったlain痕跡を時折思い出したくなる。

 2週間後、時間が取れたのでついでに灰羽連盟も見返してしまった。こっちは割りと昔見たときの印象に近かった。

2018-04-18

[]森薫乙嫁語り』10巻 森薫『乙嫁語り』10巻 - オネミリエ を含むブックマーク

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

 どのヒロインもそれぞれ魅力的だが、一番引き込まれるのはやはり3巻のタラスの話だ。神がかった構図や視線の動きのコマがいくつかあって、思わず息を止めるようにして見入ってしまう。タラスというヒロインの性格を絵によってここまで表現できるのだなと感心する。

 それと比べると、この間で登場するタラスのエピソードは絵の技術的な観点からすると3巻の強度には及ばず、彼女の幸せを描くためのファンディスク的な位置づけに見えてしまうところもあるが、作品のよしあしは絵が芸術として優れているかどうかだけで決まるわけではないので、タラスというヒロインにやられてしまった読者にとっては多少のご都合主義的な軽さでさえも彼女のためにむしろ喜んでしかるべきだ。ともあれ今回はタラスを描いたコマの数が圧倒的に足りていないので、次巻ではこうした強引な正当化をしなくても存分に作品を味わうことができると期待したい。

 それにしても、作者もどこかのあとがきで書いていたと思うが、タラスとかアミルといった名前は男性名っぽく響くのだがどうなんだろう。

 ちなみに、10巻ではカルルクと動物とのふれあいを通じて、アミルが人間の範疇を超えたヒロインであることが明瞭になってきた。そのように説明されていたわけではないが、絵として読み解けるようになっていて、そこがこの作家さんの力だ。アミルの水際立った目力やたたずまいは、人間というよりはイヌワシのような半野生動物に近いものを思わせ、その意味で嫁として迎えられたアミルは、鶴の恩返しや羽衣伝説の天女のように、半ば神話的な嫁である。この先の物語がそのまま神話的展開になるとは思えないが、絵からそのような気配が常に伝わってくるのが面白い

 このシリーズを読み始めたのは、どうやらちょうど2年前だったようだ(http://d.hatena.ne.jp/daktil/20160404)。そう考えると大した時間がたったわけではなく、何の偶然か今度本作の舞台のあたりを旅行することになってしまったのは不思議に思える。当時はトゥルケスタンは、ブハラとホラズムの田舎豪族が小さな競り合いをしながら緩やかに衰退していく時代であり、1900年代になると中央アジアアールヌーヴォーともいうべき繊細な近代イスラム美術が花開きかけて死産されるらしいのだが、アミルの実家が属するモンゴルトルコ系の遊牧部族のあまり痕跡も残っていないらしいので、本作の空想が面白く感じる。どうしても観光となると宗教建築めぐりショッピングが中心になってしまう。幸い、中央アジアのこれらの地域工芸メッカでもあり、絨毯、刺繍陶器はさみなど見ていて飽きないものが豊富にあり、観光客向けに整備されてもいる。今回は有名な人間国宝級の陶磁器師の工房にも行ってみるつもりだが、貧乏外国人旅行客であっても、事前にロシア語で見学を申し込んだら丁寧に返事をくれて恐縮してしまった。よき巡り合いがありますように。

2018-04-15

[]息抜き 息抜き - オネミリエ を含むブックマーク

 久々にだらだらブログを書いて声を整える余裕ができた。といっても何か書くべき新しいことがあるわけじゃない。思いついたままを適当に。生活人生には建設的な方向に持っていこうとする力がことあるごとにしつこく顔を出し、復讐してくるので少し気晴らししたいだけのことだ。すっかりブログを書かなくなってしまった。最近に限ってのことではなく、5年くらい前から仕事で書く文章の量がどんどん増えていって、今では2ヶ月に一冊新書が出そうなくらいのペースになっていて、書くことに追い立てられながら新しい仕事もやることになったりして、仕事以外のインプットが少なくなった。少し空いた時間があっても、なかなか気楽にエロゲーアニメに沈潜していけない。最近はもっぱら今度の旅行先の中央アジア歴史とか、ロシア旅行ブログとかを読むこととか、旅のしおりを手作りする手伝いとかに費やされていた。イスラム建築ゾロアスター教やナントカ・ハン国の栄枯盛衰歴史など僕の人生にはこれまでもこれからも何の関係もなく、そこまで準備することは求められていないけど、いざ旅行するとなればできるだけそこで意味を回収したくなる貧乏性だ。仕事の出張とは関係のない純粋な海外旅行は20年ぶりくらいだし、この先も何回もする気にはならないと思う(連れて行かれるかもしれないが)。

 エロゲーには自由安心がある。すべてが画面の中に限られているという制約がある一方で、画面の中からは常に明るい欲望に満ちた現在がこちらにつながってくる。新作を追いかける余裕すらないが、積んでいるゲームを時折起動して読んだりすると、自分が今どんな時間の中を生きているのか忘れられるような、人生の別の時代に飛ばされるような気がする。先日、だいぶ前にやりかけて止まっていた『私は女優になりたいの』(Chloro、2012年)をクリアした。ゲームの長さやテンポも、青臭いSF設定も、親切に説明しないテキストも、殴り書きのような荒々しい勢いと楽しさが詰まっていて良かった。今は『幻月のパンドオラ』(Q-X、2009年)を少しずつ進めたりしている。古いゲームだけど、今の自分にはあまり新しさは関係ないし、古いゲームのほうが気軽に中断したり的外れな感慨を抱いたりしやすいのでよいかもしれない。エロゲーはあまりに完成されすぎているので、エロゲー自分生活人生を適合させることができなかったことが惜しくなる。エロゲーを選ぶことで捨てなければならなかったものの価値はいまだに確定されていないが、逆の場合に切り捨てられるエロゲー価値否定できないくらいにエロゲーにはいろいろなものをもらった。両立の道は思っていた以上に難しいと実感している(特にきちんと考えてたわけではないけど)。

 渇き。カクヨムで『イリヤの空、UFOの夏』(https://kakuyomu.jp/works/1177354054885579795)の掲載が始まった。横書きの見苦しいレイアウトで読むのは冒涜的な作品であり、そんな形で読むことで自分の大切な読書体験を壊していくのは間違っている気もするが、それでも読んでしまう。画面からはやはり現在が飛び込んでくる。いずれにせよ、電子データとしてこの作品が公開されるのは喜ばしいことだ。いつか暇になったら自分の好きなレイアウト編集しなおして、製本することすらも可能になるではないか。

 人生はやりかけの連続で、そんな無責任復讐されることの連続だ。そこから逃げるために、何かを生み出し、残したいと思うのだろう。文字通り子供だったり、何かの文章や作品だったり。仕事お金をもらいながら、義務として何かを生み出していくことのようなねじれのない、若くて自由無責任創造を夢見る。人を本当に愛したり、大切にしたりするには欠陥のある性格だと思う。自分が本当に満足できるのは、自分クローンだけだろうというくらいに、ことあるごとに他人とぶつかったりすれ違ったりして、生活の精度が下がっていく。もはや単なる愚痴だが、2人で暮らすようになると助け合うので効率がよくなるのかと思っていたが、2人のすれ違う部分が多いので、それにいちいち足を取られて金銭的にも時間的にも効率は大幅に悪化する。お互い様だが、できることがずいぶんと少なくなった。一人暮らしエロゲーマーや本読みの生活の完成度は高かった。それと引き換えにできるようになったのは、生きた人間との感情の交換だが、そこには一義的価値はなく、いろんなことが未確定だ。自由解釈できる可変的なシナリオだからまだいい。とはいえ、少しずつ未確定を消費しながら、先送りの未来を、逃げ道を作り出していくのが人生なのだとバフチンもいっているのかもしれないが、そんな風に戦略的に考えないで、ただただまぶしくて楽しいものに翻弄されていきたいという欲望もある。子供であり続けたい。現在の中にとどまり続けたい。またエロゲーにどこかに連れ出して欲しい。ことごとく受け身の願望だ。まずはゲーム読書家族時間をつくるところからかな。考えてみれば、嫁は身体が弱くて僕以上に生活能力が低いので、一緒にいて楽しいけど生活を楽にしてくれないという意味エロゲーヒロインとあまり変わらないのかもしれない。エロゲー主人公ヒロイン生活価値観をあわせようと努力し、小さな喜びを育てていくのを眺めるのは(やがて主人公ヒロインは静かな個人生活の沼の中に小さな幸せに包まれて沈んでいくが、そのことは描かれない)、聖者伝の偉業を読むのと変わらないのだろうか。実現されたメタファーの例でいうと、エロゲーヒロインがおいしい食べ物に感激したりテレビ好きだったりポンコツだったりするのは安全圏の記号的な振る舞いだが、現実の嫁が本を読むのが苦手で食べ物や買い物の話ばかりするのは、控えめにいって精神の鍛錬だ。そしてそれはお互い様だ。エロゲー主人公の変容は、どれだけ頭で分かってもなかなか実践にまで至らない神秘であり、秘蹟なのかもしれない。そうした聖者伝をたくさん読んだおかげで、僕も立ち向かっていけるのかもしれない…。

Sek8483Sek8483 2018/05/04 01:39  お久しぶりです。Sek8483です。
 vostokさんのことを勝手ながら先輩エロゲーマーみたいに思い、学ばせていただいておりましたゆえ、こうして書かれている文章へと、生活の立体感ある陰影が少しずつ付いてくると、寂しいような納得するような不思議な気分にて、読ませていただいております。
 ところがしかし、そこから『イリヤの空』みたいなどん詰まり感ただよう小説へと話題が飛んで、なんだかんだいってそれに目を落としてしまわれるあたり、やはり素晴らしく業が深いですよね……! また、『ノラとと』関連のお話などは特にわたし好みで、面白く読んでおります。詩や音韻について語っていながら「むしろ便秘としての母親でしょうかね。」とか出し抜けにこぼされるものだから、クスリと笑ってしまいます。エロスケなどで感想を読んでいるさい、わたしに "笑いの発作" を引き起こす文章をもっともよく書いてくださるお一方というのがvostokさんです (もうお一方あげるとすれば、vicinityofobscenityさん)。ボソッと一言「世界ヤバイ」とおっしゃるだけで笑わされてしまったりと、vostokさんの文章ならではの風貌というのは、もういっそ卑怯なほどでして。最初の頃にはやはり恐縮しいしい拝読していたきらいもあったのですけど、その文章にいくらか親しんだ近ごろでは、意外なほどに茶目っ気を含んでいらっしゃるなぁという印象がむしろ強かったりします。

 それにしても、奥さまのことを「エロゲーヒロインとあまり変わらないのかもしれない」というのは、あんまりにもあんまりな字面なので笑ってしまいました。そして、迂遠ながら惚気のたぐいなのだろうかと、共感めいた気持ちになったりもします。
 はしたなく身の上話をしますと、最近、仲よくなってる子がおりまして。仕事上がりに連れ立っては、そこらのビルのてっぺんから夜景を見下ろしつつ、食べたもののこととか、前職での話だとか、家族の病のことだとか、よく飽きもせずしゃべってたりするのですけど。そうしたときに、彼女がふと「コンテナ眺めてるのとかも好きなんですよ」と言い出したところで、わたしの脳裏に反射的に浮かんじゃったのが、鈴木さんちの佳奈すけ。『大図書館の羊飼い』です。エロゲです。初対面あたりのシーンで「ジャンクション写真集とか好きなんです」みたいなことを言ってきて、うわぁコイツあざといなぁと感じ入りキュンと来た記憶がわきおこってきちゃいまして。わたしのエロゲ脳がたいへん手遅れでした。
 今ここに居てくれる人の顔を見やりながら、うつつを抜かしてエロゲヒロインの極彩色イメージを重ねてしまったわけでして、なんとも救いがたい話なのです。こんなふうにうつつを抜かしていたら、そのうち足をすくわれることだろうと思います。思うのですけれども、そうした自分の人生のシーンに感じ入ったときを、これなんてエロゲとばかりに関連づけて、スクリーンショットをとるように記憶していくのが面白くもあります。エロゲが現実から自由になりきれぬように、わたしの現実もまたエロゲから自由になりきれていなくて、十年余りのエロゲーマー生活のうちに脳みそについた戦傷というのがなかなか根深い。
 わたしなども、人を本当に愛したり、大切にしたりすることは (あるいはされることも) むずかしいだろうなと痛感している、この頃なのですけれど。せめて、「でもこの人は "自分の"人生を愛しているんです」と誰かへ声をかけたり (あるいはかけてもらったり) だけでも出来るようになれればという、漠然とした希望もいまだ手放せずにおり厄介なものです。

 さて。
 ひょっとしたら、ちょうど中央アジアへとご旅行されている頃合いなのでしょうか。傍目からは、ぶつくさしつつも準備がとても楽しそうに見えてしまいお羨ましいです。わたしなどもプライベートな旅行をしなくなり久しくて。かねて以前より、たとえばキジー島あたりには行ってみたいなとか、漠然とした憧れをもっていたりしたのですけれど。最近では、そうした願望も、願望のままにしてしまいそうな予感がしています。なにとぞvostokさんの今回の旅には、よき巡り合いがありますように。

 返信などは、どうぞ急がれず、まったく無くとも結構です。
 ではでは。

daktildaktil 2018/05/12 20:36 ご無沙汰しております。もったいないコメントをいただき恐縮です。
Sekさんのいい話、嬉しく思います。文章の端々からうかがわれる細やかな気遣いや知的な魅力は、きっと彼女さんにもよく伝わっているのではないかと思います。僕が女だったら惚れている!(気持ち悪くてすみません) 佳奈すけの影を見せられるのは大変でしょうが楽しそうですね。
エロゲーヒロインと現実のパートナーを重ね合わせるのはルール違反であり、おそらく悪趣味なことかと思いますが、それでもごく私的なブログならいいかなということでやっちゃいました。エントリのタイトルどおり、気を抜いて勢いで書いたところ、嫁に見つかって大変なことになった。Sekさんは迂遠な惚気と好意的に解釈してくださいましたし、僕もそういうニュアンスの余地を作っていたつもりでしたが(私的なブログということでご容赦ください)、変な甘えが通じないケースもあるようで、旅の1日目に世界遺産になっている青いタイルの搭の下で「一人で見るからついてこないで」と泣かれてしまい大変でした。今となればいい思い出ですし、嫁は本気でまた行きたいと考えているようなので旅行としては成功でしたが、このエントリのことはまだ完全には許してもらっていません(笑)。しかしSekさんもおっしゃるとおり、僕たちの現実をエロゲーから完全に切り離すこと、なかったことにすることというのは建設的な方向ではないと思います。知らない人に説明しても理解してもらうのは難しいでしょうけど、やはりエロゲーをたしなんだ人間だからこその強さや優しさもあると、少なくともこうしたブログのような場所でくらいは愚痴っておきたいです。こんな風に書くと窮屈ですね。愛煙家にとっての喫煙所みたいだ。

「エロゲヒロインの極彩色イメージ」というのはうまい言い方ですね。日常という違うモード、違う現実の中におかれると、単純な視覚現象のようなものまで後退して格下げされてしまう儚いけれどきついイメージという感じでしょうか。
今回、シルクロードの中心地としてかつては世界最先端の天文学や文学や工芸を生み出していた中央アジアの乾燥地帯を観光するにあたって、僕はどこかでねこねこソフトの「朱」の影を探していました。朱の舞台は中央アジアというよりは北アフリカのような気がしますが、いずれにしても現実の中にエロゲーの世界を探すことは、直接的な類似を探そうとすればするほど意味がないということを早々に確認しました。ひょっとすると、朱を再プレイしても同じような気持ちを味わうのかもしれません。僕はきっと聖地巡礼をしてもつまらないことをいってしまいそうです(ちなみに、実際に中央アジア最大のイスラム神秘主義の聖地にいって文字通り聖地巡礼をしている人々もみましたが、チベット仏教の五体投地のような過酷な法悦の境地とは程遠い雰囲気で、晴れ上がった青空の下で白く輝くモスクの建物や庭の脇で、頭巾をかぶったおばあちゃんたちが花を植えている中、たくさんの老若男女が和やかにおしゃべりをしながら散歩してしている庭園のようなところで、アジア人を珍しがる現地JCたちに一緒の記念写真をせがまれたりなどしました。比較的貧しいイスラム圏の国だからかわかりませんが、いたるところで素朴に話しかけられたり記念写真を頼まれたりしました)。
個人的には、今回の旅行でオタクとしてのひとつ印象に残ったのは、古い建物の中庭で行われた民族舞踊ショーの踊り子でした。中央アジアらしく胸や腰や腕の曲線を艶やかに際立たせる動きの踊りで、僕を含めた観光客たちが夕食を食べながら眺めているという不条理な催しなのですが、ところどころで「アッ!」という元気な合いの手の声を出す小さな踊り子がいて、意図せずネルリを見つけたような気がして嬉しくなりました。騎馬民族系のネルリとはぜんぜん違いますが、類似点が少なくとも楽しい発見もあるのだなと思いました。

というわけで相変わらずオタク生活への未練が尽きませんが、何とか生きております。Sekさんの文章も楽しみにしております。ではまた。

daktildaktil 2018/05/14 15:28 「朱」については、ちょうどSekさんが「砂の城」について投稿されたのをみてなるけどと思いました(/ero/toukei_kaiseki/music.php?music=2657)。印象的な楽曲が多いというだけでなく、音楽的手法が音楽の外にまで広がっているように見えるからこそ、作品外の現実に朱の影を探すのが難しいのかもしれない。朱に限ったことではないでしょうが。そして、音楽のように耳(?)に残るからこそ現実の中に痕跡を探したくなるのかなと。僕は英語とか洋楽がだめなので、「砂の城」はあの焦燥感とその先にもう終わりが見えてもおかしくないような眩しさにくらくらするばかりで、大概ナイーブに浸りきって聴いています。本当なら英語の歌であることに違和感を覚えるべきでもあるかもしれませんが、なまじ音楽を知らない方が勝手な抒情性や音楽性を読み込めるかなと開き直り気味です。勝手だから固有性の強度がありますが、外部の情報で砂の城のように簡単に崩されちゃうわけですが。ちなみに旅先の民族音楽は、当然ですがまったく別の現実の中にありました。

2017-11-19

[]石川博品『先生とそのお布団』 石川博品『先生とそのお布団』 - オネミリエ を含むブックマーク

先生とそのお布団 (ガガガ文庫)

先生とそのお布団 (ガガガ文庫)

 どこまでが事実でどこからが創作なのか厳密に考えてもしかたないので自分にとって自然で都合のよい読み方をするしかないのだが、飄々としているように石川先生がこれほど苦労しているのをみるのは正直なところ素直に喜べない。僕が好きなラノベ作家は寡筆であるか廃業気味である人が多く(秋山瑞人、中村九郎、唐辺葉介、田中ロミオ)、石川先生も順調そうではないけど、それでも書くことに対しては純粋な気持ちを持ち続けていて、スランプなどとは無縁であるように思っていたいからだ。同人誌も含めれば佳作というわけではないし、売れっ子作家のように3ヶ月に1冊くらいのペースで刊行されて枯渇されても困るので、今のようなペースであっても創作に集中できるような環境があってほしい。そのためには何が必要なのかはわからない(ちなみに、石川先生のラノベなら商業なら1冊1000円、同人なら1冊2500円くらいにしてもらってもかまわないけど、代わりに複数冊買うのは何だか気が進まない)。

 「先生」が四人制姉妹百合物帳を高く評価しているくだりがあって、これは異論ないと思った。平家さんもいい作品なので、読者にとっては同人と商業の差はない。どちらでもいいので後宮楽園球場の続きを待ちたい。

 あと、石川先生は「趣味(テイスト)の作家」、好きなものを外から集めてきて文章にする作家であって、内側に抱える大きくて重いテーマを何度も掘り下げていくような「宿命の作家」ではないと意識するくだりがあったけど、この二分法にはこだわらないでほしいなと思った。最近人から勧められて村山由佳『星々の船』、三浦しをん『光』といった直木賞作家の小説を読んだけど、勧めてくれた人との関係を除いて小説そのものとしてみれば、こうした広く大衆に向けて書かれた(?)現代人の心(?)を扱った作品は、何だか人間の暗くて嫌らしくて疲れた部分を集めてあらかじめハードルを下げた上で感動を描いているようで(おそらく昔ソログープの『小悪魔』もそういう批判を受けた)、僕の好きなライトノベルやエロゲーに比べて時代遅れで低級な文学であるように思われた。こんなふうな見方は社会主義リアリズム批評だと言われるのかもしれないけど。あと、唐辺作品のような暗い作風も好きだし、それは直木賞作家に近いのかもしれないな。いずれにせよ、ラノベは「男子中学生」向けに書かれているなんていう認識は無能なラノベ出版社のたわごとだと思いたいし、ラノベが描ける「若さ」の質は一般文芸よりも先鋭で特権的なものだと思いたい。石川先生の文章の美しさや抒情性は趣味的なものなのか、悲劇に根ざさない美というのは存在しないのか、ということに関しては、先の四人制姉妹百合物帳が答えの一つだと思うし、そもそもそんな問いを無意味にするような小説をこれからも書いていってほしいと思う。

2017-07-16

[]泉鏡花『由縁の女』 泉鏡花『由縁の女』 - オネミリエ を含むブックマーク

 読み始めたのは何年前だったか。トノイケダイスケの書くのろけシーンのような文章が、トノイケダイスケの文章のような鷹揚なテンポで続いていくのについていけなくなり、いつの間にか挫折していた。今回は2か月くらい前に読み返し始めて、モスクワに向かう機内でようやく読み終わった。分厚い小説だからあのまま冒頭のトノイケ的文章が続いていたらと思うと良い意味でも恐ろしいが(泉鏡花なので当然、地味豊かな字面をどうにか追っていくだけでもある程度楽しめる)、まもなく物語が動き出して、のろけた掛け合いが延々と続くのではなく、終盤に向かって空間的にも時間的にもどんどん日常から逸脱して、折口信夫の死者の書のような凄みのある話になっていって引き込まれた。

 この小説は誰に勧められたんだったか。泉鏡花の本を何か読みたいと思ってたまたま古本屋にあったのがこれだったのかもしれない。いずれにせよ、一度挫折した僕が言うのもなんだか、エロゲーマー必読の作品ではないでしょうか。解説の種村季弘も書いているが、物語は4人のヒロインが順番に登場する一本道ルートのエロゲーのような構造をしており、ヒロインの属性は日常現実から次第に非日常・幻想へと移っていく。

 読むべきと言っておきながら、ネタバレ的な感想を書く。最初は妻のお橘で、これはいわばトノイケダイスケの幼馴染ヒロインシナリオのような章だ。トノイケ作品では過去と未来が後退して現在ばかりが延々と続くように、妻との掛け合いが顕微鏡的な細かさで描かれる。2番目は人妻となった幼馴染のお光で、お店を切り盛りする勝気なヒロインだ。子供時代のほのかな感情のやり取りが回想される。どのライターとははっきり言えないが、青山ゆかりの声が似合いそうな感じもする。3番目はエタサーの姫という感じのマージナルな娘・露野。子供時代から苦労を重ね、ぎりぎりの日常を過ごしながら、主人公と再会したことで日常の外側に出てしまう。この辺から舞台は墓掘りたちの部落民コミュニティや避難所としての寺、山家の集落への道行きへと移っていく。強いて挙げるなら、ねこねこソフトの描くようなヒロインだ。当然ながらエッチシーンはないが、色気のあるシーンが多く、エロゲー化したら映えそうな感じがする。最後は子供のころに憧れていた娘で、今は人妻となって奇病に罹っているお楊で、ここでは現実は思い出と神秘に侵食されていて、舞台も山の中や夜ばかりの印象だ。そして、まるでヒロインたちを描くことで目的を達成したかのように、物語は急に終わってしまう。エピローグで描かれるのもヒロインたちだ。

 これをいまさらゲーム化しなくても、すでにこの作品にかなりインスパイアされたらしい希氏の「花散峪山人考」があり、山岳民俗学の可能性の豊かさを感じさせる。

 とはいえ、設定とストーリーだけ追っていても仕方なく、この作品の魅力は何といっても泉鏡花の文体でエロゲー的な物語が展開されているところにある。僕にとってははっきりとわからない語彙が多く、語りのリズムも半分江戸時代みたいだったりして独特に思えるけど、もちろん同時代の人にとっては違った風に見えたはずで、反対に視点のトリックや英詩や民謡の引用、方言や様々な社会階層の言語に敏感というモダニズム文学の仕掛けも同時代の人には違った風に見えたと思う。僕としては、同じくモダニズム作家で女性的なものを愛した象徴主義者だったアンドレイ・ベールイの、(特に後期の)いかれた小説を文体ごと日本語に訳したら泉鏡花みたいになるのかなとふと思った。

 鏡花の小説はまた暇を見て読んでみたい。

2016-12-30

[]総括とそれをすり抜けるもの 総括とそれをすり抜けるもの - オネミリエ を含むブックマーク

 一応、今年は7本クリアできたのか。こころナビとこころリスタと出会えたのでよい1年だったのかもしれない。秋以降に急に生活環境が変わって、最近はほとんどゲームをプレイできていないので(Бесконечное летоが止まったままで、他にも積んだままの作品がいくつか)、今年のことではないように感じられる。本もあまり読めておらず、仕事の資料以外の情報といえば、帰宅して寝る前に見るアニメとまとめサイトくらいで、ツイッターすら最近はあまり目を通せていなかった。時間を捻出しようと思えばできたのかもしれないが、仕事みたいにきつきつにこなしていくのはあまり気が進まない。ゆるく付き合っていきたい。

 独りに戻り、肉親と死別し、また婚約した。子供の頃の自分家族、成人してからの自分を細切れに、生活の合間に振り返る。仕事バカになって残業代で給料が1.5倍になり、いやな緊張感から解放されないまま正月も家で仕事をしたり、婚約者のご両親に挨拶に行ったりする。バック・トゥ・ザ・フューチャーのように、あるいは並行世界物のエロゲーか小説のように、いくつもの時間の中を行ったり来たりしているような気がする。自分の属性を増やし、足場を増やし、逃げ道を作っていくことは、生きることを楽にしてくれる。でもそれぞれの属性をうまくつないで回していく余裕がなくなると、頭を切り替えていくだけで精一杯で、それぞれの属性を実感を持って生き、伸ばしていくことができなくなって、責任を背負いきれなくなり、人格を統一しきれなくなり、多極性に復讐される。言葉や欲望は実体がないから無限に増幅していけるものだけど、物理的な自分はついていけない。何かを雑にしなくてはならなくなり、何かや誰かを傷つけてしまう。それを許してしまう雑な人間自分だ。

 年末年始のつかの間の休日に、久しぶりに学生の頃の感覚を思い出させてくれる本を読んだ。本というよりは雑誌か。「ゲンロン4」。仕事の資料を買いに行った本屋で偶然手に取った。ゲンロンカフェには昔一度用事があって顔を出したことがあるけど、それきりだった。2001年から現在までの批評の特集。2000年代半ばからはてなダイアリーでエロゲーの感想を書いている者、しかも動物化するポストモダンを読んで何かこじらせた挙句にエロゲーを始めた者、その後の彼のオタク批評活動に救われた者、そのような残念な青春にしがみつき続けている者、東浩紀スレやファウストやゼロアカ道場の盛り上がりを「観客」として横目で見ていた者、オタクとしての自覚を深めながら必ずしも愉快ではない同時代性の感覚ぬるま湯につかっていた者、今は思うようにオタク活動に邁進できていない者にとっては、ちょっと感慨深い本だ。この15年間、いろんなものが生まれたり、生まれかけたりして、そして死んでいったのね。そんな風なら、僕はせいぜい観客でしかありえない。なにしろ世界や社会だけでなく、自分人生に対しても観客になっちゃっている。ストリートの思想は確かに自分とは縁がなかったし、今も近寄りたいとは思わないけど、でもKeyの物語が進んでいったのはそっちのほうだったよなと思う。だからこそ、「運動」、共同体が中心に据えられる前の、OneとかKanonとか方が美しいと感じられるのだろうか。田中ロミオは単にサバイバル物が好きというよりは、時代空気を器用に読んでいるのだなとか、「運動」や社会から身を守る砦としての聖域、ユートピアを果敢に描いた最果てのイマはやはり美しいなとか思う。東浩紀は15年前のようにはじけてはおらず、この先もはじけることはないかもしれない。共同討議の他の参加者たちは、何だか東フォロワーみたいな小粒な人ばかりで、討議の対象もあまり前向きとはいいがたく、新しいものの誕生の予感はない。何かを横断することは難しくなくなったのだろうけど、今残っているのは安全な横断ばかりだ。そんな中から新しいものは生まれてこず、文学や社会学より経済学や政治学の方が重要だと浅田彰は言う。誰もワクワクしていないけど、それでも東浩紀が楽観と責任感を捨てようとしないから、観客たちはまだ待つことができるのだと思う。特集以外のいくつかの連載は、質も文脈もバラバラで、問題意識に多少の共通性が見られる程度の雑誌のコンテンツだ。韓国やタイやロサンジェルスは少なくとも僕にとってはまったくアクチュアルには感じられない。東北もだ。知的さざなみやグローバリズムの幻想に過ぎない、というと言いすぎか。自分ロシアのことばかり知ったかぶっているだけだし。雑誌というのは個々のコンテンツはバラバラでも、一冊の中にまとめると何だか単純合計以上のものを表しているように見せてしまう器なので当然ではある。とはいえ連載や寄稿の種類はそれほど多くなく、雑誌としてはミニマムだ。発行部数が少ないだろうから仕方なく、その辺の厳しさが垣間見えるのは切ないが、東浩紀にはそんな瑣末なことは気にしないでほしい。巻末の海猫沢めろんの小説(時代性を無視したロックな衝動の小説。バタイユのような衝動を現在ぶちまける意味があるのか不明だが、ロックにとっては時間は現在でしかありえないので、そんな問い自体意味がない。)くらいやけくそでもいい。何かと叩かれることが多いし、確かに失敗もしただろうし、大抵の批判は間違っていないのだろうけど、2000年代に彼よりも夢のある仕事をした批評家、夢のある課題に体当たりでぶつかっていった批評家は僕にとってはいない。それがすべてだ。彼がオタク批評でやらなかったことは別の誰かがやるしかないし、実際にやった人もいるだろう。そういう意味では僕にとっても過去の人なのかもしれないが、過去は現在の中にも潜んでいる以上、そのことはあまり問題にはならない。そうして2017年はやってくる。

2016-07-31

[]「凪のあすから」の話 「凪のあすから」の話 - オネミリエ を含むブックマーク

 最近、偶然なのかもしれないけど「ブルー・フィールド」(蒼き鋼のアルペジオED)とか「a-gain」(蒼の彼方のフォーリズムED)とか、青い色とか空を連想させる歌を買って聴いている(「愛の詩」(学戦都市アスタリスクED)もよい。ついでにナディアのDVDも見返した)。やっぱ歌に関してはエロゲーよりアニメの方がよいものが多い気がする。映像とセットで印象付けられるからかもしれない。このままではplanetarianのEDとこの美術部には問題があるのEDも油断すると買ってしまう気がする。

 この辺の歌とかエロゲーで糖分を摂り過ぎたせいか、久々に「凪のあすから」を見たくなって、美海まとめ動画とかを見たり、主題歌(特に「アクアテラリウム」と「ebb and flow」がよい)を買って聴いたりしていたら一日が終わってた。以前に書いた感想と同じような話になるけど、主題歌の歌詞に「温かい水に泳ぐデトリタス/長い時間をかけて糸を紡ぎながら繭になる」とあるように、デトリタス(海中を浮遊する微小な有機物の死骸)が海中だけでなく地上の漁村をも漂うようなひんやりと寂れた背景と、美海たちの抱え込み堆積した気持ちの組み合わせに打ちのめされる。

 脚本家のスタイルということもあるのかもしれないが、アニメではこういう満たされない思いを抱えた若者の群像劇というジャンルがあって、男キャラの顔や語りを見せられてもこちらの目や耳は喜ばないのだけど、そいつらがいなくてはヒロインたちが輝かないという意味では、僕たちもその満たされない思いの連鎖(チェーホフ劇的な連鎖)にいびつな形で巻き込まれてしまっていて、視聴者ヒロインたち→男キャラたち→他のヒロインたち→他の男キャラたち……作品枠の有限性という外的要因による終わり、という経済の一端を担ってしまう。

 こういう欲望の(年齢制限を含む)閉鎖的循環を解放するために要請されたメカニズムが、ヒロインとの矢印を可能な限り双方向にしてひたすら物量で攻めるエロゲーであって、エロゲーアニメの次世代のはずなのだが、解放するばかりがいいってわけじゃないんだよなあと思わせる作品もある。こちらの気分に左右される部分も少なからずあるのだろうが、作品自体が研ぎ澄まされていれば、はまると一気に引き込まれる。せめて輸入版DVDくらいは買うべきなんじゃないかと考え込んでしまったが、とりあえず主題歌を何度も聴きつつまた時間が過ぎてゆく。いや、さゆと要の話とか、光をめぐる三角関係の話とかまだあってもいい気はするんだけど(一番好みのちさきは申し訳ないがエロい想像しかできず、何だか嬉しくない)、多分出てもそれはそれでまた満たされない気持ちが残るのだろうから、もうどうしたらいいか分からない。いい加減こんなことをブログに書くような歳じゃないんだけど、ここはそのためのスペースだと開き直りつつ敢えて書いておく。これからも書いていく。それにしても今でも後半のOPを見ると引き込まれる。そのことを確認して終わっとこう。

2016-07-25

[]石川博品『メロディ・リリック・アイドル・マジック』 石川博品『メロディ・リリック・アイドル・マジック』 - オネミリエ を含むブックマーク

 アイドルについてのガチな小説なので、そのシステムにアレルギーを持つ自分にとっては一筋縄ではいかない代物だ。確かに文章は素晴らしいんだけど、アイドルっていうのがなあという。例えば、『Key the metall idol』という渋いアニメがあって、そこではロボットや民俗学の概念を借りてアイドルという概念が補強されているので安定感があるのだけど、このメロリリはもっと剥き出しのアイドル観を押し出してくる。アイドルたるもの、アーティストぶるな、それじゃ見るほうが気を遣うわ、という。つまり歌や踊りにプロフェッショナリズムは要らない。もちろん、一生懸命練習して努力はするけど、一番大事なのはそこじゃないという。また、アイドルは何かの手続きを経て選ばれてなるものでも、ファンの数とか曲の数とか所属組織とかはっきりした指標があるものでもなく、本人がアイドルになると決めた瞬間に出現するものだという。つまり、とても儚い仮設建設のようなものであり、持ち運びできる機材を組み立てて会場を作り、ファンが一時的に集まってきてよく聞こえなかったりよく見えなかったりしながらもなんか盛り上がって、ひと時出現する疑わしい魔法のようなものなのだ。作中ではLEDというAKBをもじったグループが変な衣装を着て媚を売る大手として目の敵にされているけど、傍から見れば沖津区の若者たちも同族に見える。素人感がさらに増しているので、あざとさも増し増しと言えないこともない。

 確かにライブのシーンの臨場感は素晴らしい。剥き出しのアイドル観、技術のない素人が作り素人が歌うステージ、(嫌な言葉だけど)人間力で魅せるステージというものは、芸術歴史や超常的なものがなければ物事に価値を見出しにくい、人間不信気味の自分にとっては胡散臭いものだけど、ここではアコにある種の天才性が付与された描写がなされている。それは単に主人公が彼女に恋をしているからというだけのことかもしれず、また、実際のコンサート会場の客には知ることのできないステージの裏や歌手の心理といった細部を描ける小説という形式の狡さであり、また優しさなのだろう。

 同じステージ音楽の魅力を描いた作品としてキラ☆キラがある。こちらは初心者グループの成長物語という点ではメロリリよりも本格的で、悪く言えばメロリリのキャラ配置やストーリーの流れはキラ☆キラの縮小版のようにも見える。そしてきらりの天才性の表現は割りと中途半端で(エロゲーだと実際に音楽が鳴るので、ライターにはコントロールできない部分があるので仕方ない)、作品の主題もそれとは別のところにあった。メロリリでは、アイドルというシステムに乗せて青春を描くという主軸とは別に、ヒロインの「内面」(悩み)に迫る描写が多かったのは石川博品作品にしてはベタだなと思った(その悩みにしても、割とよくありそうな感じでのものでやや拍子抜けだった。というか、後半はストーリーの展開を詰め込みすぎた気もする)。同系の作品としてジャンパイア・サマーやトラフィック・キングダム、ノースサウスのような作品はあるけど、これらはどちらかというと実験作だと思っていて、石川作品の魅力が発揮されている本流は、ネルリや後宮楽園球場や平家さんのような、女の子を不思議な魅力に溢れた存在として描く作品だと思っている。女の子しか出ない四人制姉妹百合者帳でさえも(それとも女の子しか出ないからむしろ当然なのか)こちら側なのだから、石川センセの童貞力は筋金入りだと思うのです。

 その意味でアーシャの方はまだ「見られる」キャラクターとして描かれて部分が大きいので、もし続刊があるのならそのまま素敵な奇人路線を突き進んで欲しい。最後にチラ見せしたアコとの妖しげな友情路線もよい。この巻だけで判断すると、アコの陰に隠れてあまり分からなかったのが残念だ。インド(?)舞踊のような不思議な踊りも文章ではよく分からないし。

 僕にとっては石川作品で一番ハードルが高い作品だったけど、アーシャやアコの掛け合いや心の中の突っ込みが愉快な方向に転がっていって飽きさせず、下手に深刻ぶらない、というか深刻さを乗り越える軽やかさがあってよかった。この軽さは若さの特権であり、無からきらめく何かを作り出すアイドルという幻影のシステムに、明るさを与えてくれていて素晴らしかった。本物のアイドルやアイドル育成ゲームは相変わらず痛ましくて好きになれないけど、石川作品ならアイドルのきれいな部分を存分に見ることができるのだから。

2016-07-09

[]クソゲーの文学性 クソゲーの文学性 - オネミリエ を含むブックマーク

 「クソゲー」というのは必ずしも悪い意味ではなく、ある種の美点を持つアニメを「クソアニメ」と呼ぶ程度にはいい意味のつもりだが、うまい言葉が見つからなかったのでひとまず。

 「世界と世界の真ん中で」を始めたのだが、何というか、社会主義リアリズム文学を連想させるところがある。学生寮エルデシュはどこかの田舎のコルホーズかライコム(地区委員会)で、寮生である優等生ヒロインに「連理君はエルデシュの精神的支柱」と評された主人公は、そこで頼りにされている議長だ。村民は誰もが幸せで、美しい……。連理という主人公の名前も、連理の枝とかの連理じゃなくて、本当は「レーニンのことわり」とか「連邦のことわり」いうような由来で、意識の高い市民であることを示しているんじゃないのか。

 料理や家事が得意でヒロインたちに褒められる系の主人公が、ヒロインたちや親友役男キャラやヒロインたちの仲良しグループで「連理君らしいわね」とか「どうしたの?あのとき、連理君らしくなかったから」とかちやほやされながら(社会主義リアリズム文学における「ディシプリン」や「イニシアチブ」があると評される肯定的主人公)、あるいはヒロインが喜ぶのを見て「よかったな」(イリイチもきっと同意しただろうよ)とか声をかけてやったりしながら、あるいは元気のないヒロインを見て「俺にできることといったら、美味しい料理を作ってやることくらいだ」(労働は裏切らない)とかつぶやきながら料理や家事をする描写や誰が何を作るかとか食べることの話題ばかりが延々と続く序盤の日常パート、イケメン家政夫による介護施設での労働的なパートの文章のつまらなさが苦行レベルなのだが(無意味に爽やかな高原の別荘風――共産主義のユートピア…――の学生寮だったりして倫理的な意味での居心地も悪い)、この作品を手にした主な動機のひとつである絵の美麗さに助けられた。

 音声が流れているときはメッセージを消すという設定があって、それを使うとヒロインたちの表情や姿勢の変化をぼんやり眺めることに集中できる。特にヒロイン同士が会話しているときは地の文が少ないので、たとえそれがまったくどうでもいい言葉の応酬であっても、あるいはむしろ非効率極まりない冗長性の塊りであるからこそ、そしてエロゲー文法の魔法によりなぜかヒロイン立ち絵はいつもこちらを見ているので、それを浸す善意の空気にぼんやりと包まれながら、思考停止の境地に遊ぶことができる。正確には、ヒロインたちの他愛のない間の抜けたやりとりはセクハラ的なつっこみを入れる余地だらけの無防備なものなので(ニコニコ動画で大量にコメントがつく萌えアニメのタイプで、例えば、BGMが変わると曲名がその都度右上に出てくるのだが、穏やかないい雰囲気のシーンになって「黄金の円光」と出るといちいち馬鹿馬鹿しく釣られて、あぁ、となる)、思考停止というわけではないのだが、日本語の読み物としての面白さや倫理性の問題から遠く離れた境地に至れることは確かだ。主人公の提灯持ちみたいなうざい親友キャラはすぐさま音声を切ったが、立ち絵も非表示にできたらもっと快適性が増しただろう。こういう楽しみ方をするなら主人公はノイズでしかないので、なるべく主張せずしゃべらない、人格というよりは一つの機能に退化(進化か)させるのが望ましい気がする。それを推し進めて主人公を消したのが萌え4コマであり、エロゲーではシステム上そこまで至るのは難しいのだろうけど、この作品のようにヒロインの絵が美麗で声も可愛ければ、高度に空虚な癒し作品として十分に比肩できる。

2016-05-15

[]星空めてお『ファイヤーガール』 星空めてお『ファイヤーガール』 - オネミリエ を含むブックマーク

 いつの間にか最終巻が出ていたんですね。感想は2年前に書いたものとそんなに変わらなかったと思う。設定を最後まで語りつくすこともなく(この辺はタイプムーン的なノウハウもあるのだろうか)、キャラクター物語を最後まで推し進めることもなく、1年という区切りで終わらせてしまったので、自分探しとかモラトリアムとかというのがこの作品の主なテーマのように見える結果になったと思う。その意味では、主人公たちの物語を卒業まで描ききって終わらせずに、あるいは卒業した先輩たちについても別に何も終わっていないことを暗示しつつ、中途半端なところで終わらせてくれたのは、このふわふわした青春の時間に浸っていたい読者への慈悲なのかもしれない。

 未知の世界のセンス・オブ・ワンダーで圧倒するのではなく、組織運営や折衝や人事の地味な話をひたすら描く。誰がどういうふうに動いて何を届けるかということ、その決定のプロセスを執拗に描く。その話し合いは理詰めではなく偶発的なところもあり、そのおかげで無駄に動き回ってほとんど宇宙に出てしまったりもする。何かを達成するにはたくさん無駄な動きをしているものなんだな。地味な話といえば、『大図書館の羊飼い』もそういうところがあったが、あっちは主人公がクールなイケメンなので生々しさがなく、年寄り臭い裏方フェチのように思えて、ヒロインを「受け止める」というプロセス、というかテキストそのものが息苦しくて読むのが疲れた(だからこその達成感も合ったのかもしれないが)。多分、前の感想で書いた視線の高さの問題なのだろうけど、『ファイヤーガール』は世界に対する関心と隣人に対する関心が等価に置かれているように思えて、若さを感じた。地味でよく分からないことを熱意を持ってやり続けるには、一緒にやる仲間が必要で、だから彼らはあれだけ大きなコストを払ってまで仲間たちとのコミュニケーションを維持しているのかもしれない。こういう非効率さは、作中では欧米式や中国式に対する日本式の教育的な「探検部」という概念だと説明されていた。真に受ける必要はないのだろうけど、そういうシステムには何かきれいなものを生む可能性があるのかもしれない。歳をとると、あまり人に関心を持てなくなり、対人関係に頭を悩ませるのが面倒になり、だらしのない子供大人になる。なった。仕事ではコミュニケーションにそんなにコストをかけていられないし、仕事外ではとにかく快適さと静けさを求めてしまうので人から遠ざかる。生活を単純化してストレスを減らす。ストレスとか言い出すともはや老人である。本作の登場人物の数が多すぎて、読んだ時期にも間が空きすぎたということもあるが、彼らが何をあてこすったり悩んだりしているのかよく分からない箇所があっても、そのまま読み進めてしまう。そもそも、悩みとか分かりやすくまとめて語ってくれず、何かの拍子にこぼれるだけで、しかもすぐに誰かが来たりして中断されて、言いよどんでしまう。そうやって恥ずかしい言葉は腹の底にたまっていく。その代わり、言いよどんだ瞬間や言ってしまった瞬間の空気が印象に残る。誰かと共有した瞬間だからだ。そういう断片が流れていく。動いているから流れていく。冒険はどこにでもある、のだそうだ。