紅玉の瞳のアンリ


  
  
 久々に「Cats安暖邸」に行ってきた。
 メンバーは、現在の職場の猫好き仲間で、私を含めて6名。
 午前中の貸し切りをお願いしたため、ボランティアさん方には時間外にご迷惑をおかけしてしまったわけだが、皆さん快く迎えてくださり有難かった。さらに、ボラさんのお一人が、たまたま「キーゴちゃん」の里親となった方であったため、今日はじめてお会いしてお話ができたことは僥倖であった。
 安暖邸では、最近、猫の入れ替わりが多かったため、今日いた猫たちは大半が「新入り」なのだそうだ。新入りと言っても、どの子ものびのびとくつろいで、元気に遊んだり甘えたりしていたが、本当に今更ながら、であるが、「幸っちゃん」「チャーくん」「ロトくん」「ライアンくん」などの大きな看板猫がいないというのは、大猫・成猫好きの私には、ちょっぴり淋しいものがあった。
 いや。
 安暖邸は「常設譲渡会場」なのだから、猫が次々と入れ替わって行くのは、大変良いことなのである。むしろ、仔猫からここで育って、大きな猫になってしまうというのは、本来、喜ぶべきことではないのだろう。
 ちなみに、安暖邸の現在の横綱は「ワタルくん」らしい。大猫・チャトラ好きのSさんは、以前会ったワタルくんを気に入っており、彼に会うのを楽しみにしていたのたが、残念ながら、最初から最後まで爆睡状態で、まさに岩のように不動であった。
 もう一匹、旧知の猫がいた。
 アンリちゃん。
 1歳になるムギワラ女子である。
 彼女に会うのは何回目だろうか。ただ、偶然なのか、私が見る彼女は、いつも大人しく、人間に対して積極的に甘えてくる様子ではなかったように思う。そういう印象がある。
 今日も、ホットカーペットの上で無邪気に遊ぶ「新入り」のチビたちをよそに、彼女は部屋の隅の方にいた。手を出して構おうとすると、静かにすり抜ける。だが、本当に逃げるわけではない。
 成猫の少なくなった安暖邸で、私は多分はじめて、彼女とゆっくり触れ合った。彼女も嫌がってはいなかったと思う。目を閉じて小さく喉を鳴らしていたから。
 
 
 アンリに初めて会ったのは、確か、アタゴロウとの見合いの日である。
 アンナ・アンリのムギワラ姉妹は、2〜3ヶ月前から安暖邸に来ていた。その時点では、まだ譲渡対象となったばかりの仔猫であったと思う。つまり、アンリはアタゴロウより2〜3ヶ月年長であるわけだ。
 そのころ私はまだ、ムギワラ猫と言う言葉を知らなかった。私の分類では、彼女たちは「サビキジ」であった。となると、サビ猫好きの私にとっては、やはり気になる存在ではあった。
 アンナとアンリは、美しい一対であった。名前も美しい。近くでもっとよく見て、構ってみたかったが、二匹は壁際の棚の上で寄り添って眠ったまま、ほとんど動かなかった。そのため、そのときは、写真で見るより小さくてほっそりしている、という印象しか残らなかった。
 私は事前にYuuさんと連絡を取っていて、直前にブログで見た黒白猫が気になる、と、伝えてあった。それに対し、Yuuさんの方も、その子を勧めるつもりだった、との返事であった。それが現在のアタゴロウである。
 ただ、そのとき、私に選択の幅を持たせてくれるという意味もあったのだろう、「サビ猫も連れて行きます」とあり、それが、サビ姉妹のトーンとキーゴである。(私はつい先程まで、それがアンナとアンリだと勘違いしていたのだが、アンナとアンリはその前に安暖邸に来ている。)
 つまり。
 その時点での、我が家の新猫候補は、首位がアタゴロウで、次点がトーンとキーゴ、その次くらいに、実はアンナとアンリがいたのだ。
 結局、私は「雄」を選択した。
 が、今となって、内心、
(やっぱり、女の子が欲しい)
と、思っている私がいる。
 もちろん、アタゴロウに不満があるわけではない。
 だが、その後、安暖邸で、あるいはブログの写真で、キーゴやアンリを見るたびに、最初からこの子を選べばよかったのだろうか、という思いが、瞬時、脳裏をよぎったことも事実である。
 だからこそ、彼女たちが安暖邸に残っていることを確認するたびに、ひそかに胸が痛んだ。卒業の報に接すると、嬉しいと言うよりほっとする思いがあった。
 そう。
 今、PCに向かう私の膝の上で喉を鳴らしているのは、アタゴロウではなくて、アンリだったかもしれないのだ。
 
 
 アンリの右目は「白濁している」と、安暖邸のブログや「新:隣のネコ観察記」(※安暖邸の猫たちを紹介している常連さんのブログ)には、ある。
 もともと両目白濁だったらしいが、今日見たところでは、左目は濁ってはいなかった。一部に影のような模様ができてしまっているようだが、それは漆と金箔の混じる蒔絵細工のようで、むしろ美しい。
 ただし、右目の方は、白濁というより、むしろ、赤く粘膜が露出しているように見えた。どう表現したら良いのだろう。人間の結膜炎の検査の際、まぶたをひっくり返して充血の度合いを調べるが、そのひっくりかえした瞼がそのままになっているような感じである。
「アンリちゃんの目は、ずっとこのままなのですか?」
 思わず、私は、ボランティアさんに尋ねてしまっていた。
 アンナとアンリの姉妹は、長いこと仲の良い一対であったが、昨年12月、アンナが一足先に卒業した。ボランティアさんたちは、慎重で繊細なアンナよりおっとりしたアンリが先だろうと思っていたそうだが、予想に反して、アンナが先だった。
 そして。
 残ったアンリは、すでに1年半近く、安暖邸にいる。
 やはり、この目が、忌避されてしまうのだろうか。
 とても残酷だが、それは無理もないことのように思った。
 ハンデを持っていることが悪いと言うのではない。そうではなくて、見るからに痛々しくて、切ないのだ。閉じてしまった目か、完全な白濁なら、それは「見える・見えない」の問題で、片眼であっても見えていればノープロブレムということになるが、アンリのそれは、むしろ治癒していない傷のように見える。少し感受性の強い人なら、彼女を迎えたなら、毎日、この痛々しさを見て切ない気持になるのだろうか、と、やはり考えてしまうだろう。
 実際には、アンリの目はもう固定した状態であるようだし、別に痛みがあるわけでもないのだろう。要は人間側の「慣れ」の問題に過ぎないわけであるが。
 だが、どう理屈を並べてみても、結果として、アンリは未だに安暖邸にいる。やってきては卒業していく、他の猫たちを次々に見送りながら。
 
 
 アンリは一匹だけで、目立たない部屋の隅の方にいた。私が手を出すと、その手をすり抜けながら、壁際に置かれた段ボール箱のベッドの中に飛び込んだ。
 何か、少し淋しげに見えた。
「今、古株の猫たちがみんな検査や何かで山梨に帰っちゃって、新入りの子ばっかりですから。ちょっと淋しがっているかもしれませんね。」
 そして、仲良しだったアンナもいない。
 段ボール箱に手を入れて、頭まわりや背中を撫でさすってやると、気持ち良さそうに目を細めた。
「この子は、アピールが下手みたいですね?」
 私がそう尋ねたボランティアさんは、否定もしないが同意もしなかったので、普段はもう少し積極的なのかもしれない。
「広い家に行かせてあげたいなあって思うんですよ。思う存分、サッカーができるような。」
「サッカー?」
「アンリはうちの『なでしこ』ですから。」
 そうだったのか。
 そんな元気な、若猫らしい一面もあるのだ。
 そういえば、以前、他の猫と一緒にフロアで遊ぶ彼女のことも、見ていたかもしれない。まあ、実際問題として、私には、アンナとアンリの見分けはついていなかったので、記憶が「ある」とはいえないのだが。
 しかし、彼女の左目は、無邪気な若猫の愛らしさというより、むしろ、思慮深くさまざまな思いを秘めているように見えた。蒔絵細工の影のせいだろうか。
 彼女と話をしてみたい、と、思った。
 猫と言葉で話し合いたいと思う瞬間が、時々ある。彼等は何を考え、自身の運命をどう受け止めているのか。猫は人間と変わらぬレベルの情緒を持っていると、私は信じる。だからこそ、どんな苛酷な状況をも乗り越え、たくましく今日を生きている彼等の思いを、聞かせてほしいと願うのだ。
 それを切実に感じさせる猫が、いる。
 賢い、思慮深い目をした猫。
 瞳の奥に、繊細な感受性の存在を幾重にも潜ませた猫。
 そして、その過去に、彼らなりの重荷を背負ってきた猫。
 私は、そのまましばらくの間、段ボールの箱の中に手を入れていた。アンリの顔まわりや、丸めた胴体の内側の、柔らかい腹毛を撫でながら。
 たくさんの自分より若い猫たちが、次々に幸せを掴んでいくのを見てきた。誰よりも仲良しだった姉妹との別れを、黙って受け止めてきた。たくさんの人間たちが自分と遊び、そして、自分を選ばなかった事実を見つめてきた。
 そして、その原因が何であるかを。
 彼女はその美しい左目で、静かに全てを俯瞰してきたのだ。
 彼女と、話をしてみたい。
 その思いが彼女に伝わることを、願った。
 
 

  
  
 帰宅してから「新:隣のネコ観察記」さんに掲載されたアンリの記事を読み返してみて、やはり、あのとき私の覚えた感傷は、単なる考え過ぎだったらしい、と、悟った。
 アンリは、おっとりとマイペースで、そしてよく遊ぶお転婆娘でもあるそうだ。自分から人間の膝に乗って来るようなこともあるらしい。
 ちょっと安心するとともに、妙な思い込みを抱いてしまった自分を、少々面映ゆく思ったりした。
 だが、彼女の右目の白濁というより赤い色は、まだ強い印象として、私の中に残っている。そして、今日、私たちがいた2時間、彼女がほとんど箱から出て来なかったことも、気になっている。
 もう大人の猫だから、無邪気にはしゃいで遊ぶより、静かに寝ている時間の方が多くなって然るべきだろう。しかし、それはハンデを持つ彼女にとって、不利に働かないか。
 三本脚でも、驚くほど元気に走り回り、次々に人に甘えて、脚の数なんか全く気にならないと感じさせる「ポッキーちゃん」のそれに対し、静かに寝ていることの多いアンリの大人しいイメージは、彼女の右目のハンデを、際立たせることにならないだろうか。
 ハンデを持つ子を家族として受け入れる。それは、厳密に言えば、人間の側がそのハンデが「気にならない」と思っている時のみ、道義的に正しい。中には、敢えてハンデを持つ子を選ぶ人もいるだろう。だが、その選択の理由が「ハンデを持っていること」であるなら、それはやはり、どこかに偽善か、自己陶酔を含んでいるような気がする。
 今、私が、安暖邸にいた23匹の中で、ただアンリだけを気にし、こうしてブログに書こうとしている、そのこと自体が、正にそれだ。彼女の淡いムギワラの毛色がどれほど幻想的に美しかったとしても、彼女がハンデを持っていなかったら、私にとって、アンリはただの綺麗な猫に過ぎなかったに違いない。
 今日、私が見なかった、アンリの可愛い一面――「なでしこ」なお転婆娘という一面――を気に入り、その無邪気な可愛さに、右目のハンデなど気にならないと言って、彼女を受け入れてくれる家族。そんな人々に出会えることが、彼女にとって最も理想的なことなのだと思う。だが、それが難しいとしたら、アンリに会う人には、蒔絵細工の影を持つ、彼女のあの美しい左目を見てほしいと思う。
 ほんのひととき触れ合っただけだが、その瞳を見て、彼女は深い感受性と思慮を持つ猫である、と私は感じた。
 そして、人に、静かな思索を与えてくれる猫だと。
 
 
 段ボール箱の中のアンリを撫でていたとき。
 顎の下を撫でられて、気持ち良さげに顔を仰向けた彼女の顔立ちの端正さに、ふと目を奪われた。粘膜の赤さに彩られた右目が、光を反射して、瞬時、ルビーのような煌めきを放った。
 息を呑んだ。
 彼女は、こんな宝石を隠し持っていたのだ。
 ルビーは愛と情熱と勇気を与え、勝利へと導いてくれる石だと言う。そして、それは、「積極性」を司る、体の右側につけたとき、効果を発揮するのだと。
 ハンデを持ちながらも、元気でマイペースに暮らしているというアンリ。彼女のこの宝石が、彼女に勇気を与え続け、彼女を「勝利」へと導いてくれることを、願ってやまない。
 
 

(この記事の文中では、「アンリ」という名前の美しさを損なわないため、敢えて「ちゃん付け」を省略しました。アンナちゃん、トーンちゃん、キーゴちゃんの里親様には御不快だったかもしれません。お詫び申し上げます。)