元気でね


 
 
 今日は「Cats安暖邸」の最終日である。
 私は行かなかった。最終日に上京するというYuuさんに会いたいなとは思ったが、
「多分、yuuさんファンの人が、たくさん来るよね。」
 友人さくらともそんな話をし、お互い、平日に何とか時間を見つけて、それぞれお別れに行ってきた。
 私が「安暖邸閉店」の第一報に接したのが、三十日土曜日の夕方。安暖邸のブログを見てまっさきに知らせてくれたのは、猫カフェ荒らしのSさんである。
 翌日、別の用事でさくらに会った。その時点で、さくらはまだ、安暖邸が閉店するということを知らなかった。
 相談がある、と言いつつ、もごもごと口ごもる私に、
「何よ、相談って。」
 さくらが怪訝そうな目を向ける。
「いやその…あの、安暖邸がさ、閉店するじゃない!?」
「え、うそ!」
 そこで、二人とも黙りこんでしまった。
 お互い、目先の問題を抱えることになってしまったからである。
 さくらが直面した問題は、ある人を安暖邸に案内しようと思っていたことであった。飼っていた猫が最近亡くなり、一人で淋しくなった様子が心配だからと、安暖邸を紹介しようと目論んでいた矢先のことだったのだ。
「他の猫カフェさんもあるけど、やっぱり、安暖邸が良かったのよねえ。安暖邸がなくなったら、どこに行けばいいのか…。」
 その思いは、私も同じである。
「私達だって、どこに行けばいいのかねえ。」
 リトルキャッツ出身の猫たちがいる提携猫カフェはいくつもある。猫たちはみんな可愛い。だが――。
 はっきり言おう。安暖邸のボラさんたちは、安暖邸にしかいないのだ。安暖邸のあの居心地の良さや、安心感や、部屋全体をつつみこむあたたかさは、あの方々が作りだしていたものだ。猫たちへの愛情、使命感、そして、猫を愛する者たちを「同志」として受け入れてくれるオープンな共感や連帯感の空気は、安暖邸にしかないものだった。一歩間違えば、排他的な単なる内輪ウケになってしまう、その一歩手前で踏みとどまっている、危ういながらも安定した独特のホスピタリティ。
 私は安暖邸のボラさんや常連さんたちが好きだったのだ。猫と戯れつつ、初対面のボラさんや他のお客さんと猫の話をする時間。その気さくな居心地の良さは、本当に、唯一無二のものだったと言っていい。
 その安暖邸がなくなってしまう。どうして?という思い以上に、これからどうしたらいいのか、と、途方に暮れている私達がいた。
 思い出なら、たくさんある。だがもう、新しい出会いは途切れてしまう。誰か他の人に、この優しい空間を教えてあげることは、もはやできないのだ。
 
 

   
  
 その安暖邸で出会った猫たち。
 アタゴロウは、安暖邸に「在籍していた」ことにはおそらくなっていないと思うが、出会いは安暖邸である。おそらく私とのお見合いのために、yuuさんが山梨から連れて来てくれた。その証拠に、yuuさんが山梨に帰った後、何かの用事があって問い合わせてみたら、「アタゴは小さすぎて置いていけないので連れて帰りました」と言われたのを覚えている。
 その「お見合い」の際に、安暖邸にいたのが、キーゴちゃんとアンリちゃん。この二匹が、私にとって最も印象的だった猫の双璧である。
 このお見合いにより、私はアタゴロウを貰い受けることを決めたのだが、惜しくも“次点”となったこの二匹については、後々、
(ああ、やっぱり、あの子を貰っておけばよかった…)
と思うことが、幾度あったことか。思えば、あの時期、秀逸な猫が揃っていたものである。
 しかも、二匹とも、なかなか里親さんが決まらず、私は以来ずっと、内心穏やかでなかった。
 アタゴロウは完璧と言っていいほどの良い子である。可愛いし素直だし、他の猫にはフレンドリーだし、扱いにくい性癖や、困ったクセなどもない。であるから、彼には全く何の不満もない。
 それなのに、アタゴロウが我が家に来てほんの三〜四ヶ月後には、私は、
(やっぱり、女の子が欲しい。)
と、思うようになっていた。その都度、キーゴちゃんとアンリちゃんの姿が脳裏を横切った。
 アタゴロウを貰ったのは、ムムが亡くなり、その後継となる仔猫を探していたからで、そのとき、私がリクエストしたのは雄だった。ダメとムムのカップルがあまりに完璧で、「ダメちゃんのヨメはムム」という刷り込みが私にあったため、ムム亡きあとにほかの雌を入れることに、強い抵抗感を覚えていたのだ。
 が。
 やはり、雌と雄は違う。女の子には男の子とは違う味がある。いくらアタゴロウが可愛くても、その不足を埋めることはできない。正体不明の物足りなさが、日増しに募っていった。
 それでも当初は、三匹に増員すること自体にためらいがあった。ぐずぐず悩み続けて、ようやく「アタゴロウの嫁」という名目で自分に折り合いをつけた頃には、キーゴちゃんには立派な里親さんが決まり、アンリちゃんはすでに成猫だった。新しい子を飼うなら、仔猫の方が馴染みが良い。そして、“押しかけ女房”の玉ちゃんがやってきた。
 キーゴちゃんの賢さや性格の良さは、キーゴちゃんの里親様のブログを読めば、良く分かると思う。(ちなみに、キーゴちゃんの里親さんは安暖邸のボラさんである。この方との出会いも、安暖邸がもたらしてくれたものだ。)
 そして、アンリちゃん。
 思慮深い猫だという。言われなくても、彼女は全身に、そんな雰囲気を漂わせている。
「玉音ちゃんだって思慮深いじゃないですか。いや、用心深いだけか。」
 Sさんのフォローは、残念ながらあまりフォローになっていない。玉ちゃんは玉ちゃんで、私にとってはある意味、理想的な猫なのだが、やはりアンリちゃんのそれとは違う。
 猫は人間の次に賢い動物である――そんな言葉を、久々に思い出す。
 猫が本当に、人間の次に賢いのか。それはどんな基準で判定しての話なのか。まったく根拠の分からない話ではあるのだが、それでも人を深く頷かせる、根拠のない話に説得力を与えるような猫たちがいる。
 私にとって、それは、亡くなったジンちゃん、そしてミミさんだ。ミミさんのあの美しい金色の瞳の、知性という言葉でしか表しようのない、深い色合いを秘めた輝き。
 その系統を受け継ぐのが、私の知っている猫の中では、キーゴちゃんとアンリちゃんなのである。アンリちゃんがジンちゃんと同じサビキジだからだろうか、彼女の姿には、微かな郷愁すら覚える。私のサビ好きは、その辺りにも源流があるのかもしれない。
 
 

 
 
「で、何よ、相談って。」
「うん…まあ。」
 前夜、悩みに悩み抜いて、これはさくらに相談するしかないと思ったのに、やはり、あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、冷静なさくらを前にすると、言葉が出て来ない。
 口ごもる私を前に、さくらが独り言つ。
「もうちょっと近ければ、手伝いにも行けたのに。何もできることはないのかしらねえ。」
「いや…まあ、それもあるんだけど。」
「何よ、そういう話じゃないの?」
「いや。そうじゃなくて。つまり――。」
 本当に、もう言うのをやめようかと思っていたのだ。だが、さくらに追及され、引くに引けなくなって、私は本音を言った。
「アンリちゃんは、どうなっちゃうんだろう。」
  
   
 白状すれば、私がアンリのことに思い至ったのは、Sさんからの第一報に接してから大分経った後のことだった。
 何があったのだろう。山梨のyuuさんに?それとも、ボラさんたちに?
 正直、猫たちのことは、最初はほとんど心配していなかった。それぞれ、他の猫カフェに行くか、お山に里帰りするのだろうから。
 そういえば今、安暖邸には、どんな子がいたんだっけ?――そこでハタと、アンリのことに思い至った。
 アンリは――彼女はどこに行くのだろう?
 私は彼女の仔猫時代を知っている。安暖邸に来た時、彼女はまだ三ヶ月か、四ヶ月くらいだったのではないか。それから彼女はずっと、安暖邸で育っている。山梨に「里帰り」といっても、彼女にとってお山は、ほとんど知らない場所なのだ。
 かといって。
 アンリが他の猫カフェにいるところは、どうしても想像できなかった。また、片目にハンデのある、大人で、さらに落ち着いて大人しい彼女を、猫カフェ側が欲しがるとも思えなかった。
 猫カフェでもお山でも、いずれにしても、安暖邸以外の場所では、彼女は大勢の中に埋もれてしまうのではないか。果たして無事に、居場所を見つけられるのだろうか。
 じゃあ――我が家で?
 やぶさかではない。だが、私にはどうしても、うちの三匹と絡むアンリの姿が想像できなかった。それに、今この状態で四匹目の猫に手を出すことは、やはり無責任なのではないかという自制心みたいなものもあった。うちには、玉ちゃんという女の子がいる。成猫の雌同士ではリスキーすぎる。だいいち、二ヶ月足らずで保護した玉ちゃんが未だに私を警戒しているのは、私が放任し過ぎた結果ではないのか。仔猫一匹、まともに育てられないくせに、何を言うか。
 十中八九、失敗すると分かっているトライアルなんて、猫たちには迷惑なだけだろう。答えは分かっているのだ。
 しかし、冷静に私を制してくれるだろうと思ったさくらは、
「トライアルだけでもしてみればいいじゃない。少なくとも、yuuさんにメールして、アンリちゃんって子を気にしてますって言いなよ。」
 意外と言ったら失礼かもしれないが、彼女もまた、私につられたようにアンリを心配し始めたのだ。
「うーん。でもまあ、もうちょっと様子を見て…」
 そうやって私が逡巡している間に、アンリちゃんのトライアルが決まった。翌月曜日のことだった。
  
  

 
   
 木曜日。
 取れるはずのない午後半休を無理矢理奪取して、安暖邸を訪れた。
 来るたびに少しずつ模様替えがなされている安暖邸だが、今回は気のせいか、今までよりがらんとしている感じがした。
 家具や猫ベッドの類も、少しずつ撤去しているのだろうか。
 それより何より、猫の数が少ない。
 いや、それは良いことなのだ。安暖邸の営業はあとその日を入れて四日。残る猫は少なければ少ない方が良い。
 平日だというのに、お客さんはけっこう入っていた。が、猫たちの方は、昼間のことゆえ、ほとんどの子が寝ている。
「差し上げますよ。」
 隅っこの方でひとり、手持無沙汰に寝ている子たちを眺めていたら、ボラさんが「なおちゃん」をこちらに寄越してくれた。
「この子は、ここ叩いてやると喜ぶんです。」
 脇腹から腰のあたりを、てのひらでポンポンと叩いて見せてくれる。「腰パン」である。我が家では玉音ちゃんが腰パン好きな様子なのだが、私はやり方が良く分からずにいた。
「へえ、そうやってやるんですね。結構強く叩いちゃっていいんだ。」
 こんなちょっとした知識をもらえるのも、安暖邸に来る楽しみの一つだった。
 私は勘違いしていた。アンリちゃんのトライアルは「決まった」としか書かれていなかったのに、すでに安暖邸にはいないものだと思っていた。だが、彼女はいた。フロアの真ん中に。
「本当はアンリちゃんも、こうやって真ん中に行きたかったんだろうねえ。今まで、他の猫に遠慮していたんだわ。」
 常連らしい女性が話していた。
 私はアンリを撫でた。彼女は、私の手に頭を乗せて寛ぐ様子を見せた。はじめてのことだった。
 もう、この子にも会えないんだな――急に、淋しい思いが込み上げてきた。
「アンリ、幸せになるんだよ。」
 アンリはついに、本当のおうちを見つけたのだ。今よりもっともっと、幸せになるに違いない。私だって、これで悩みから解放され、心晴れやかになれるはずだ。
 だが。
 何だろう、この、ほろ苦い寂寥感は。
 アンリの思い出の終わりと、安暖邸の思い出の終わりが完全に重なるなんて、考えたこともなかった。
 アンリが登場する前にも後にも、猫はたくさんいる。初代営業部長のチャーくんや、今は山梨に引退しているロトくん、ゴージャス熟女のさっちゃん、かつてyuuさん宅でダメちゃんとも一緒に暮らしていたライアンくん。私のよく覚えている猫は、初期メンバーばかりなのだけれど。近いところでは、アタゴロウの嫁候補だったリザちゃんもいる。
 それなのに。
 お別れのときが一緒だということで、私の中で、アンリちゃんだけが、安暖邸の象徴みたいになってしまっている。
 安暖邸は猫のための譲渡会場だけれど、「猫カフェ風癒しの空間」という言葉は嘘ではなかった。今にしてはっきりと感じる。ここでは、むしろ人間の側が癒されていたのだ。その癒しの空間の中で、常に静かで澄明な空気を身に纏い、北極星のように不思議なオーラを放ち続けていた猫。最後の最後に、彼女は幸せを掴んだ。安暖邸の終焉とともに彼女はその役割を終え、自分と自分の家族のためだけに生きる、本来の安らかな猫生を歩み始める。
 辺りが夕闇に包まれる頃、後から合流したSさんとともに、私は安暖邸を辞した。扉を開けて外に出ようとする私をまるで引き留めるかのように、アンリちゃんは扉のすぐ傍の空気清浄機の上で、私達を見送ってくれた。
「元気でね、アンリ。」
 さようなら、とは、言えなかった。
 アンリにも、安暖邸にも。
――さよならは別れの言葉じゃなくて、再び会うまでの遠い約束。
 そんな歌も、あったよね。
 いい言葉だとは思うが、やはり、さよならという言葉は重い。二度と会えない訣別を暗示するようで、私はいつも、どうしてもこの言葉が言えないのだ。
 幸せになってね、と、私はアンリに言った。だがこれも、本当は無責任な言葉だ。私は彼女の幸せのために、何もしてあげなかったのだから。
 だから。
 元気でね。
 誰かのために何かを祈るとしたら、それが全てではないだろうか。そこから先は、誰もが自ら切り開いてこその幸せなのだ。
「元気でね、アンリ。」
 そう。
 元気でね。
 安暖邸の他の猫たち。ボランティアの皆さん。安暖邸で出会った、あるいは出会わなかった、たくさんの他のお客さんたち。
 そして、yuuさんはじめ、リトルキャッツのみなさんや、山梨のボラさんたちや、安暖邸の大家さんや、そのほか、みんなみんな、安暖邸に関わってきた全ての人たちも、猫たちも。
 
 
 元気でね。
 そして。
 ありがとう。