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ダンスの海へ 舞踊評論家・高橋森彦のblog このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2006-07-25

[]ポール=アンドレ・フォルティエ『1×60』

山口県山口市にある山口情報芸術センター(YCAM)に行った。ポール=アンドレ・フォルティエ新作ダンス公演『1×60』を観るためである。フォルティエは、カナダ・ケベック州を拠点に活動するダンサー・振付家。一昨年の青山ダンスビエンナーレで初来日を果たしている。60歳近いベテランではあるが、その先鋭な舞台への意識と個性的なダンスは国際的に評価が高い。YACAは、2年前からフォルティエと協議を重ね、山口での長期滞在による作品制作を実現させた。

本公演に先立ちフォルティエは、山口市内で30日間30分踊る野外連続ダンス公演『30x30』を行っている。その模様を、映像で観ることができたが、地元の住民たちとの交感をふくめ自在にダンスを繰り出すフォルティエは生きいきとしていた。いっぽう、劇場内で行われたソロが『1x60』。横浜トリエンナーレなどにも出品する大阪の気鋭メディアアーティスト・南隆雄と組んでのインスタレーションと映像とのコラボレーションとして注目された。

緻密な空間構成と、肩の力の抜けたダンスが素晴しい。張りつめた緊張感のなかにも独特のトーンを生み出している。椅子に座ったままの脚のダンス。ホリゾントに照らされた照明のなかでみせる手のダンス。インスタレーションの流されるTV画面の横で立ちつくす静止。グニャグニャのダンスでみせる美しい手の軌跡。魅惑的なシーンの連続であり、完全に舞台に引き込まれた。初演ながら完成度は高い。フォルティエの美学が全編を濃密に支配している。山口で撮影した蛍の光や、舞台上に設置したミラーシートを効果的に用いた映像など、南の造形力にも才気が感じられた。ただ、美術・空間設定に関しては、事前にある程度、フォルティエのリクエストがあったという。音響、照明などフォルティエが連れてきたケベックのスタッフたちとの意思疎通も難しかったことだろう。

山口情報芸術センターは、“芸術と情報の新たな創造的価値を追求する”ことをコンセプトに2003年に開館。シアター・ディレクターの岸正人氏のもと意欲的に活動を展開している。ダンス・演劇公演のラインナップは渋い。コンテンポラリー系の若手振付家を招いてのワークショップなども盛んだ。公演前にセンター内のスタジオ、事務室などをみることができたが、広いスペースとメディア環境の充実に目を見張らされた。情報・文化の発信が開設当初から明確に意識されている。先鋭的なパフォーマンスで知られるフォルティエ、注目のメディアアーティストによる南の共同制作は、まさにこのスタジオならではの試みといえよう。

今回のコラボレーションの直接制作期間は六週間。公演後のアフタートークで、その時間は決して長くはない、とフォルティエは語るが、国内の公立施設においては画期的であろう。首都圏では、個人・カンパニーが自前の稽古場を持ち、時間をかけて創作に挑むのは難しい。たとえば、新潟のNoismを率いる金森譲は、東京では舞台が消費され、まともな創作ができないと公言している。世界各地で活動を重ねるフォルティエが山口での滞在制作を望んだのは、物心ともにアーティストが心置きなく創作に励める環境だと認めたからに違いない。

今回初演された『1×60』は、本年12月にモントリオールで再演されたあと、ヨーロッパでのツアーが予定されている。“ローカルからグローバルへ”。コンテンポラリー系の有能な制作者のなかには、近年、東京というダンスマーケットをあえて外す動きもみられる。ダイレクトに海外とのコンタクトを取り活動の幅を広げるNPO、公共施設も増えてきた。そのなかでも、精力的な活動を展開する山口情報芸術センターの企画・制作・発信力には、今後も要注目である。

(2006年7月22日 山口情報文化センター スタジオA プレビュー所見)

2006-07-16

[]豪日共同ダンスプロジェクト『INK』


A-J Dance Project,INK

海外との共同制作による舞台は年々増加している。異なるバックグラウンドを持つアーティストたちが手を取りあい創造に励むことは意義深い。「ネオン・ライジング/アジアリンク-日本 コンテンポラリー・ダンス交流」の一環として行われた豪日共同制作『INK』も両国の気鋭アーティストたちによる刺激的かつ密度の濃いコラボレーションとなった。

オーストラリアのフィジカルシアターのディレクターであるケイト・デンボローが演出を手掛けた。出演は、“なにわのコレオグラファー”こと北村成美、ケイトとともに活動を続け、ソロ作品も発表するジェラルド・ヴァン・ダイク。映像を、光を使ったインスタレーションで注目される高橋匡太が手掛けている。

冒頭は、北村のソロ。彼女の舞台を久々にみたが、四肢のエッジを利かした胸透くような踊りは健在。ツカミはOKといったところだ。続いて舞台中央に雑然と巻かれた白いシートのなかからジェラルドが現れ、シート(正方形)を広げる。舞台奥、背景となるところに大きなスクリーンが設けられ、シートの上で行われるパフォーマンスを上からとらえた映像を高橋がライブで加工したものが流される。巧みな空間構成、魅せ方のツボを心得た鮮やかなオープニングだ。

北村とジェラルドが抱き合い濃密に絡む場面、そこに血糊を思わせる赤いライン(の照明)が幾重にも重なりあう。ジェラルドはパンツを除き裸になり、そこに北村が泥のような黒いインクをなすりつける。悪夢のような時間であり、痛々しく、寒々しい。ここでは〈男〉と〈女〉が記号的なものではなく、〈個〉としての存在を強く感じさせる。血の記憶、耐え難いまでの距離を感じさせながらも、身体の記憶をとどめようとするふたりの行き場のない関係が濃密に浮かび上がる。タイトルの『INK』とは、その痕跡を留めようとする悲痛なまでの願望の顕れに他ならない。

国籍、言語、文化背景の違いを超えたアーティストたちの交流では、互いを尊重するあまり微温的な内容に陥ることが散見される。また、制作的な視点からみて、コラボレートすること自体でその目的が達成されたかのように錯覚しているケースも見受けられる。ボーダーレス化する世界で、コラボレーションは当たり前。その上で、いかに質を向上されるかが問われよう。

その点、『INK』は、散発的な企画ではなく、スタッフ、キャストが時間をかけ交流、信頼関係を深め合ったことから実現した。3年前にケイトとそのカンパニーが大阪に二ヶ月間滞在、北村、高橋たちとArt Theatre dBでコラボレーション作品を発表したことを端緒とする。本年、2月には北村、高橋が渡豪。この7月に横浜で最終的な作品製作が行われた。強い個性を持ったアーティストたちが揃いである。しかし、あくまでも身体に焦点を当てたケイトの演出意図を軸に、ダンス、映像、音響などが足し算、掛け算となり得ている。

コラボレーションの意義と可能性について示唆に富む公演だった。

(2006年7月15日 横浜赤レンガ倉庫1号館3F070173ル)

2006-07-01

[]モーリス・ベジャール・バレエ団『バレエ・フォー・ライフ』『愛、それはダンス』


Bajart Ballet Lausanne, Ballet For Life and Best of Bajart

モーリス・ベジャール・バレエ団の来日公演に感激した。

『バレエ・フォー・ライフ』は日本でも98年、02年と上演され大きな反響をよび、海外への“追っかけ”までいる人気作。その卓抜さを改めて語るまでもないだろう。ベジャール一流の“愛と死と再生”というテーマ、ジョルジュ・ドン、フレディ・マーキュリーに捧げられた若さと生への限りない愛惜は、掛け値なしに素晴しい。しかし、以前観た際には大いに感動するとともにひとつ不満を覚えた。それは、ラストの「ショー・マスト・ゴー・オン」。作品としては完結したあと、暗闇にベジャールが現れ、駆け寄るダンサーたちを抱擁する。いくらなんでもやりすぎではないかと思った。熱狂する客席とは裏腹に、少し醒めた気分を味わったのだ。

畏敬する知人の編集者によれば、この場面は、駆け寄るダンサーたち=不世出のベジャール・ダンサーであったドンの子供たちであり、「君も、ドンなんだよ、私のドンなんだよ」と抱きしめることに意義があるという。その後、皆が肩を組んで客席に向かい前進すること以上に。なるほど、それはよくわかる。これがなければ作品の収拾がつかないのも事実。けれども、やはり、舞台演出としては反則に近い、と筆者には感じられた。作品自体の枠を越え、そこの部分だけ突出、暴走。みるものに異様なまでのカタルシスを与えるのが危険だと思ったからだ。

今回、「ショー・マスト・ゴー・オン」には、体調不良で来日にドクター・ストップがかかったベジャールに代わりジル・ロマンが登場した。本来の演出意図とは異なる意味を持ってしまったけれども、このラストが、舞台=ダンサーの生=我々の人生にダイレクトにつながってくるものだと素直に受けとめられ、心に沁みた。やはり、舞台に対しては、驕りや偏見を排し、曇りなき眼で向き合わねばならない。今では、ベジャールのなかでももっとも好きな作品のひとつである。

『愛、それはダンス』は、まさに、“ベジャールのすべて”。『春の祭典』『ロミオとジュリエット』から『ギリシャの踊り』『わが夢の都ウィーン』、近作の『バレエ・フォー・ライフ』『海』ほかを老練の手腕で連ねた、ベジャール美学の金字塔である。

オールド・ファンには懐かしく、遅れてきたファンにとっては、初期、中期の作品が抜粋とはいえ観られる得難い機会。『ロミオとジュリエット』の主人公を軸に、フレッシュな感性をもったダンサーたちが舞台を彩る。ストラヴィンスキーからクイーン、U2まで自在に使いこなすベジャールの音楽性には今更ながら驚きを禁じえない。『ロミオとジュリエット』にベルリオーズを使うという発想は今なお新鮮。そして、上半身の動きに特徴のあるいわゆる“ベジャール振り”から、近年の、滑らかに、伸びやかに空間を支配し、観るものに心地よさを与えるものまで、振付の変遷を目の当たりにできるのも興味深い。新作の『二つの大戦の間』には、『ロミオとジュリエット』で「戦いをやめて恋をせよ!」といわせた稀代の振付家の、今日の世界の状況に対する静かな異議申し立てが感じられる。

ベジャールは永年、意欲的に創作活動を続け、膨大な作品を残し、年とともに作品世界を押し広げてきた偉大な存在だ。その点において、二十世紀バレエの巨匠のなかでも、美術のピカソ、映画のヴィスコンティに匹敵、いや凌駕するくらいの天才ではないだろうか。『愛、それはダンス』は、ベジャールの舞踊人生をあたかも舞踊の神が祝福しているかのような不滅の輝きを放っている。

ベジャールは過去の作品に固執するようになった、創作意欲が衰えたといった批判・悪口も耳にする。しかし、それは、浅はかな認識だ。パリ・オペラ座バレエ、東京バレエ団ほかの水準の高い上演により過去のレパートリーが蘇えり、永遠性を獲得した。自身のカンパニーでは、若いダンサーを用い、エネルギッシュに作品を生み出している。今回上演された2演目を、昨年6月、ベルリン国立バレエ団が日本で上演した『ニーベルングの指環』、10月再演された東京バレエ団の『M』と続けてみてみると、ベジャールがいかに凄いかよくわかる。

『ニーベルングの指環』は、『孤独な男のためのシンフォニー』以来、“舞踊の世紀”をリードした巨匠の集大成。肉体の存在感、哲学性、演劇的企みなどを駆使した、ベジャール美学の大いなる円環の到達といえる。ドンの死後に創られた『M』は、三島という、老いを拒否し、死に魅入られた男の真実を探求することによって逆に、生の素晴しさ、プリミティブな記憶への憧憬を深めている(『M』がベジャールにとって決定的だということは、評論家/「ダンスマガジン」顧問の三浦雅士さんが指摘している)。大きな円環をなすコスモロジカルな世界から、より根源的で詩的なイメージが転生・変容していく世界へ。『バレエ・フォー・ライフ』『くるみ割り人形』『少年王』『海』、そして、今回披露された『愛、それはダンス』に至る作品群の豊饒さ、イノセントな魅力は比類ない。

最後に、90年代以降のベジャールの仕事を振り返えると、テーマの移り変りに加え、上で触れたように、振付・動きの質感もそれに連動し、変容していること。よりピュアに舞踊美を追求していることを繰り返し指摘しておきたいと思う。

ベジャールの偉大さを改めて実感した公演だった。

(2006年6月15日、21日 ゆうぽうと簡易保険ホール)

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