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ダンスの海へ 舞踊評論家・高橋森彦のblog このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2006-09-30

[]佐多達枝バレエ公演『庭園〜the summer garden』

凄い作品に出会ってしまった。

佐多達枝の『庭園』である。公演終了後、数日、虚脱状態というか、打ちのめされるくらいの衝撃だ。本年度ベスト1は確定、といっていい。世界的にみても極めてハイレベルだといえるのではないか。

佐多は大ベテラン。新国立劇場が上演した『踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ』、合唱舞踊劇『カルミナ・ブラーナ』などで知られる。功なり名を遂げた人に思われるが、もっともっと注目されていい。というか、評価が低すぎる。『beach〜ナギサカラ』以降の作品は、舞踊によるエセーの試みだ。エセーといっても雑文だとか軽いタッチという意味ではない。個人の視点からみた人間・社会の考察という意味である。透徹した視線、強靭かつ自在な動きの創り方、たぐい稀な音楽性。いずれとっても傑出しており、未踏といっていい境地に達している。

十三景から構成される。舞台は鬱蒼たる蔦の垂れ下がった庭園。いくつも印象的な場面がある。「光合成」における静謐な、あまりに静謐なソロ。「埋葬」と題された景は、スコップで穴を掘り、男を埋めようとする女をめぐる、ゾッとするような話。「ロマンチスト」は女一人男二人の典型的な三角関係だが生々しい。「湖水」という景では、壊れゆく家庭のありさまが描き出される。不気味な虫たちが地の底から現れ、うごめくシーケンスも…。一つ一つの場面が緻密かつ異なる質感を持ち、リンクする。生きとしいけるものの流転を容赦なく、しかし声高にならずに描き出した。

哲学性の高さというと、ベジャールやノイマイヤーを想起するが、彼らのように(ひとくくりにできないが)壮大でコスモロジカルな世界観とは違う。あくまで個人の実感からスタートしているのが佐多の特徴。動きに関しても、基本はバレエなのだが、ちょっと観たことのない動き、空間の創り方がある(企業機密なので書かないが)。音楽も、「アメリ」の映画音楽はさておいてアンゲロプロス映画の音楽で知られるエレニ・カレインドルーの曲を用い、荘厳な雰囲気を出している。安易にペルトなど使わないのはさすがである。

今回はとくに照明が傑出していた。足立恒はいつもいい仕事をする。先日みたKバレエの『ジゼル』第ニ幕のあかりなども独創的だが、それは、今回のための実験だったのでは?と勘ぐりたくなるくらい。日本のバレエでここまで独創的かつ綿密なプランが立てられた(と思われる)ものはそうそうお目にかかれない。

ダンサーも柳瀬真澄、高部尚子、島田衣子、足川欣也、穴吹淳、石井竜一、後藤和雄ら超一流どころが揃った。

本年観たすべての舞踊作品のなかでもトップ。安易に比較できないが、キリアン、フォーサイスの新作もそれぞれ独自の境地に達しているし、ドゥアトの振付もよかったが、それらをはるかに上回る。日本には国際競争力を持つ振付家がいない、などとのたまわっている御仁は佐多をみたことがないのだろうか。少なくともそれなりに多くの舞台を観て、舞踊に関する知識もある人間で本作の凄さがわからないのであれば、理解に苦しむ。そういいきれるくらいの傑作だ。ただ、残念なのは、再演される可能性が少ないと思われること。なんとかならないものか。

(2006年9月27日 メルパルクホール)

2006-09-28

[]貞松・浜田バレエ団『ドン・キホーテ

貞松・浜田バレエ団は『ドン・キホーテ』を02年に初演。プティパ/ゴールスキー版に基づき、再演出・指導はニコライ・フョードロフが当っている。この演出の特徴は、演劇的なドラマとしての成熟を目指していること。ゴールスキーはモスクワ芸術座の演劇理念に触発を受けた。広場の群集ひとりひとりに至るまで存在の意義が与えられているのだ。ことに主要登場人物たちは感情の動きを自然な形で表現しなければならない。役を演じ、踊るのではなく、役を生き抜かなければならない。

マイムの重要さを再認識させられた。繰返すまでもないが、グリゴローヴィッチ以後、古典の改訂、物語バレエの創作においてマイムは排除される傾向にある。また、マイヨー、デュアトらのように、ダンスとマイムは別立てに構成する試みもある。だが、マイムとは、単にストーリー・意味を伝える手段ではなく、状況を創り出すもの。バレエ・ダクシオンという言葉を持ち出すまでもなく、ダンスとマイムどちらが欠けても古典全幕は成り立たない。その信念のもと、貞松・浜田バレエ団では、以前からマイムの大切さを訴えてきた。全幕公演の開演前には、団長みずからが舞台に上がり解説を行う。バレリーナが実演し、10分ほどで初心者にもマイムの基礎が理解できる。マイムが豊富でドラマを盛り上げるゴールスキー版『ドン・キホーテ』を上演することは、バレエ団にとって宿願であったにちがいない。指導者としてボリショイの名プリンシパルとして鳴らしたフョードロフを招いたのも当然の成り行きであった。

フョードロフは、ゴールスキー版を元に、その後創作された居酒屋での「ジグ」やゴレイゾフスキー振付による有名な「ジプシーの踊り」を組みいれ、モスクワ派、ボリショイの流れをくむ正統派の舞台に仕立て上げた。いきいきとした広場の情景、居酒屋での滑稽な人間模様・・・。登場人物たちのおしゃべりや笑い声が聞こえ、それを観客が共有できるような舞台こそゴールスキーが目指したものである。それが現代に蘇えった。当節、古典の新演出では、曲順の入れ替えや場面の短縮が花盛り。だが、そのすべてが成功しているとはいいがたい。ダンスとマイムを共存させ演劇性を復権させる姿勢はひとつの見識だろう。オーソドックスではある。しかし、古くはない。チラシ等に堂々と“ドラマティック・バレエ”と銘打っていることからもその自負を見て取れる。

キトリは、正木志保。持ち役であり、安心してみていられる。サバサバと垢抜けた素敵なキトリだ。グラン・パ・ド・ドゥでは、ほとんど軸のぶれないグランフェッテを決め、会場を大いに沸かせた。バジルの貞松正一郎は、初演時に急な故障で降板しているだけに、今回の再演に期するものがあったに違いない。しかし、そんな気負いは感じさせない。狂言自殺の場では、オーバーな演技をせず、それでいておかしさを誘う。グラン・パ・ド・ドゥのヴァリエーションには瞠目させられた。力みがなく、パとパの継ぎ目をいささかも感じさせない。刃物の上を渡るような超絶技巧で魅せる踊り手は多いが、バレエは運動会でも筋肉番付でもない。音楽的でしなやか、踊り心のあるバジルのヴァリアシオンを久々に観た気がする。ドン・キホーテとサンチョ・パンサはそれぞれ大の付くベテラン、外崎芳昭(石神井バレエ)、井勝が務めた。一朝一夕ではいかない芸達者が求められるだけに、まさに適役。ガマーシュは岩本正治。長身、偉丈夫の彼がトボケたキャラを演じると可笑しさが増す。この5人の布陣が舞台の成功の鍵となった。

他の踊り手もいい。首都圏の大手も羨むような陣容だ。町の踊り子の瀬島五月は色っぽく、力押しで男たちを惹きつけた印象。メルセデスを踊った吉田朱里はラインの美しさが際立つ。ジプシーの女で激しい女の情念を表した竹中優花は、一転、第三幕のヴァリアシオンで清涼感漂う踊りが光る。キューピッドの上村未香は、キュートで役にぴったり。ドゥリアーダの女王の山口益加は安定感がある。結婚式の場でボレロを踊った大江陽子も場を盛り上げた。ヴァリアシオンを踊った廣岡奈美は各種コンクールで上位入賞を果たす注目株。テクニックは非凡だし、楽しんで踊っているのがよくわかる。川村康二、芦内雄二郎、武藤天華ら男性陣の充実は壮観。アンドリュー・エルフィンストン扮するエスパーダ率いるマタドールたちの踊りには惚れ惚れさせられる。ただ、踊っているとき以外の、歩くときの動作や立ち姿にもう少し神経が行き届いていれば尚のことよかった(舞台でのリハーサルが足りなかったのかもしれないが)。闘牛士は、この時代、エリート的な存在であるのだから、風格を感じさせなければならないように思う。

プログラムに載せられた「いつもある祭りの楽しみ」と題された一文の最後でフョードロフはこう語っている。

“観客には舞台の光り輝く雰囲気に浸っていて欲しい。スペインの広場にある小さな居酒屋の常連客の気分でいて欲しい。つまり、客席は舞台の延長、祭りの延長であって欲しいのです。祭りの楽しみはいつも私たちのそばにあるのですから。”

観客のだれもが、その気分を味わったことだろう。あえて不満をいえば、公演が1回しかなかったことである。

(2006年9月23日 尼崎アルカイックホール)

2006-09-02

[]金井芙三枝リサイタルVol.28

今年で75歳を迎える現代舞踊界の重鎮・金井芙三枝。故・江口隆哉に師事したのち、創作活動と平行して日本女子体育大学・同短期大学で教鞭をとるなど、後進の育成にもあたっている。自身の制作・主催によるリサイタルは28回目。しかし、今回をもって踊り収めとすることになった。

ファイナル公演のテーマとして選ばれたのは、チェーホフ。『未亡人』は、笑劇「熊」(1898年)、『可愛い女』は小説「可愛い女」(1899年)から想を得て創作された。いずれも主演は金井。そして、注目されたのが、それぞれの作品の振付として二見一幸、上田遥という、中堅の売れっ子振付家を招いたことである。ラストの公演に、自身の作品に執着せず、後進に機会を与え、自身も踊りを楽しむとは、なかなか粋な試みではないか。

『未亡人』は、夫に先立たれ来る日も来る日も部屋に閉じこもり悲しみにくれる未亡人・ポポーヴァが主人公。それを使用人・スミルノーフ(青木教和)は心配し、励まそうとするが、悲しみは癒えない。そこへ、熊のような荒くれた大男である地主(古賀豊)が、土地の権利を主張して怒鳴りこんでくる。あまりの無作法に怒った未亡人は、“熊”と格闘する……。当初から金井の用意した台本があり、音楽も用意されたうえで、二見は振付にあたったという。制約のある条件ではあるが、そこは才人・二見、職人的な手際をみせた。3人の動きをややオーバーにデフォルメすることで、シニカルな笑いを誘う。未亡人が地主に惹かれていく心情の揺れが手に取るように伝わってくる。金井は全身黒のドレス姿だが、彼女の手の雄弁な表情を上手く生かしているのもさすがだ。

いっぽう、『可愛い女』は、金井が上田とともに台本・演出を担当している。『三人姉妹』などでも顕著なチェーホフの“新しい女”像が込められた作品を、金井が翻案。老婆が若き日に愛した三人の男を回想する。台本の設定上、登場する男たちは原作とは別。年上の劇作家(堀登)との淡い恋は、彼の自決により幕を下ろす。医者(伊藤拓次)との出会いも、交通事故による不慮の死で終焉。悲しみのなか、郵便配達夫(上田遥)が自身の書いた手紙を届ける。そこに書かれていたことばは、“愛してる”。以降、30年にも渡り、その手紙は毎日欠かさず届けられる。愛し、愛されたいという“可愛い女”の強い願望こそ、金井の人生観と合い通じるのだろう。ここでの金井は、若い。肉体的にも75歳とは思えないほどよく動く。しかし、それは褒めたことにはならない。精神的に若いというか、人生に対して、創作に対しての姿勢が若々しいのである。初恋のときめきをや恥じらいをなんとも瑞々しくにじませる。人は、憧れを踊るとき、どうしてこれほどまで若くみえるのだろうか。“ダンスは人なり”、大御所ながら枯れることを良しとせず、前向きに生きる姿勢は素敵だ。ナレーションやコロスを用いた演出も効果的。プレイスリーなどポピュラーな曲とオリジナル曲を上手くつかった音楽も親しみやすい。

両作品を挟んで、門下生による祝舞が上演された。波場千恵子『五重奏』は金井が36年前に振付けた作品をリニューアルしたもの。モーツァアルトの弦楽五重奏曲にのせ、音楽に逆らわないスムースな振りが光る。踊り手では、武元賀寿子の長い手の表現が抜群。飯塚真穂『千の囁き』、坂本秀子『月蝕』ともに水準には達しているが、ユニゾン、群舞の創り方など教科書的、優等生過ぎる嫌いがある。師匠のほうが創作姿勢が若々しいのはなんとも皮肉だ。出色だったのが内田香の自作自演のソロ『ブルーにこんがらがって』。彼女の代表作だ。筆者は、内田のことを“現代舞踊界のシルヴィ・ギエム”と勝手に呼んでいるが、長身の見事なプロポーションと美貌、身体能力の高さは群を抜いている。昨年度、江口隆哉賞をうけるなど、振付家としても有望だ。雰囲気のあるヴォーカル曲にのせ、抜群の身体コントロールをみせながら、物憂げな女性の内面を表現する。じつにクールだ。高々と脚を上げ、長い髪を軽やかに透かす姿はカッコいい。

金井は今後もレッスンは続け、高齢者のダンスクラブへの指導は続けるという。“雀百まで踊り忘れず”プログラムに記されたことばは、自身の進退を見極めつつ踊りに生涯をささげる金井になるほどふさわしいと思われた。

(2006年9月1日 新国立劇場小劇場)

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