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ダンスの海へ 舞踊評論家・高橋森彦のblog このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2007-10-28

[]身を乗り出すな

普通、劇場の座席というものは、腰を深く、背もたれに背を落ち着けて座らないと後ろの人が見えないように作られている(元々段差等がなく見え難い小屋はあるが)。しかし、身を乗り出して観劇、後ろの人に迷惑をかける人が後を絶たない。少しばかり身を乗り出したからといって、よく見えるようになるわけでもあるまいのに。

あまり観劇に慣れていない人に多くみられることだが、それだけに限らない。以前、よく演劇を観ていたころ、いかにも業界人風の人で近くの席に座ると、ほぼ毎回身を乗り出し(しかも足を大きく組んで)観劇している人がいた。後で知ったのだがさる有名なプロデューサーだとか。驚きを通り越してあきれた記憶がある。自分が一度被害に遇わないと分からないのでしょうかね。ある知人いわく身を乗り出す人たちは悪気があってやっているのではなく、舞台に夢中になって無意識にしていることなので、そう厳しくいわなくても・・・だとか。ハァ?以前、前に座ったおばさんのせいで舞台が見えなかったので休憩時に「見えにくいから・・・」と軽く注意を入れてみたらキョトンとされたことがある。言っている意味が分からなかったらしい・・・。永遠に解りあえない距離?

観客同士でのトラブルやクレームは増えてきているようだ。実際以前、客同士が揉めているのを目にしたことがある。自分の少し斜め向かいの席の人が身を乗り出しており、後ろに座った“被害者”が暗転時に小さな声で軽く注意したのに、前の人は意に介さず相変わらず身を乗り出したまま。後ろの人は休憩時に改めて注意していたが、そこで口論になったようで、しまいには身を乗り出していた客が「たしかにそれで舞台が見えなくても、あなた一人が我慢すればすむことなのに、上演中や休憩中にゴチャゴチャいうと、周りの皆さんが迷惑するのでは・・・」などと開き直る始末。

やっとというべきか、ついに、というべきか、最近都内の某劇場の主催公演では、開演前、休憩時に「身を乗り出さないように」とアナウンスが掛かるようになった。しかもご丁寧に英語での案内付き。そうでもしないと、改善されないのだからその処置は当然といえる。でも、海外からの客などはそれを聞いてあきれるのでは。別のさる貸し劇場中心のホールでは、一部の観客から休憩時にアナウンスするなど対応をして欲しいという声があっても、逆に観劇の気分を損ねるとの意見も出ているので、主催者に任せホールとしては手を打たないという方針のようだ。それも一理あるが、少しでも被害が減って快適に観たいので、注意するのに賛成かな。放置していては何も変わらない。

他にも、観劇に対するマナーで気になることは多々あるけれども、いつどこで自分が他の人の迷惑になっていないか、もう一度よく考えることも必要だろう。自戒を込めて。

2007-10-26

[]最近書いた記事の補遺

最近書いた記事についての補遺、フォロー。 

Noism

先日のNoism公演で配布されていたフリーペーパーが好評のようだ。

新シーズンから加わった人も含めたメンバーの紹介や、創設当初からの年表形式で綴るカンパニーの軌跡、発売中のDVDの紹介などカラー写真入りで内容、ヴィジュアルともなかなかの出来。公演会場のほか一部バレエ用品店等でも配布されている。

で、年表・作品歴を観ていて気がついたのだが、国内で公演として上演された作品は『SHIKAKU』からコンプリートしていた。新潟のみの能楽堂公演、関東圏ではつくばのみ上演だった『sence-datum』を観られたことは大きかった(媒体には能楽堂公演、『sence datum』「TRIPLE VISION』の評を書いた)。国内では基本的に新作を上演しているが、『NINA』『PLAY 2 PLAY』などはぜひとも再演して欲しいものである。

アキコ カンダ

現在発売中の「婦人公論」、ルポルタージュ・時代を創る女たちに「孤高のモダンダンサー」として取上げられている。文・写真:井上和博氏。

7歳からモダンを学び、その後マーサ・グラハムに師事しグラハム舞踊団の一員として活躍したが、その人生、創作の歩みは決して平坦なものではなかったことが改めてうかがえる。世には様々な差別や偏見があるものだが、苦境を逆手に取り、真摯な取組みを続けてきたアキコ。帰国後、創作の場はなかなか与えられなかったが自分で発表の場を作ったというエピソードは、敷かれたレールや手厚いサポートに慣れきった現在の若いダンサー・作家たちにも示唆に富むのではないだろうか。

先日の公演では見事な踊りをみせたが、記事によると、じつは体調を崩しここ10カ月踊られなかったという。踊れなくなり、復活、踊ることの素晴しさを噛み締めたという老境の作家の言葉が胸に響く。

「夢を追い続けることは、生きているということだから」

ちなみに昨年春、写真集が発売されている。

アキコ・カンダ、篠山紀信 AKIKO―1971‐2006

アキコ・カンダ、篠山紀信 AKIKO―1971‐2006

貞松・浜田バレエ団

9月に兵庫・尼崎で行われた『白鳥の湖』の評が「ダンスマガジン」12月号、旬刊「音楽舞踊新聞」10/21に出ている。地方(原則、筆者は使わない)の公演は全国メディアにはなかなか大きく載らないがともに大きな扱い。

港・神戸を拠点に置く同バレエ団。日本人の得意とする加工貿易ではないが、西洋から入ってきた古典中の古典を長年自力で研究を重ね、独自の版として練り上げてきたことは、高く評価されていいとあらためて思う。その精緻な演出とアンサンブルの妙は、バレエになじみの薄い観客をその魅惑へと誘い、コアなバレエファンをも唸らせる。

先日は、恒例の「創作リサイタル」が行われた。ナハリン、マランダイン、ユーリ・ン、ウェルチ、そしてバランシン、チューダーら世界的に知られた振付家の創作をレパートリーに持つ団体だが、今年は石井潤の『泥棒詩人ヴィヨン』、同団出身で欧州で活躍する森優貴の新作『羽の鎖』など邦人の創作を上演。世界レベルの作品を踊りこなすいっぽう、みずからの手で新たな作品を生み出している。創造に重きを置く創作姿勢。舞踊集団としてプロのバレエカンパニーとして非常に理想的な態度であると思う。

2007-10-18

[]ベルリン国立歌劇場『モーゼとアロン』

旧約聖書に登場するモーゼとアロンの物語に材を得たシェーンベルク未完のオペラ『モーゼとアロン』は、演奏の難しいこともあってか上演されることはごく稀である。日本での舞台上演は今回のベルリン国立歌劇場公演で2回目、なんと37年ぶり。

ベルリンでの初演に際しては2年の準備期間が費やされたという。巨匠ダニエル・バレンボイム雄渾の指揮によって不協和音の洪水がなんとも力強く、そして艶やかに奏でられる。絢爛たる、そして妖しいまでの魔性を秘めた響き。アロン役はテノール、モーゼ役の歌手は、歌唱と語りの中間的な表現「シュプレッヒシュティンメ」を用いる。声と言葉、歌唱と語りの対比。アロンとモーゼの宗教観をめぐる対立というテーマと表現手法の対比がリンクしている。

演出は鬼才ペーター・ムスバッハが手掛けた。大きな特徴は、偶像崇拝の象徴たる金の仔羊像の代わりに、金色に輝く首のない胴体の巨像を登場させた点。フセインら独裁者のそれを思わせる。民衆は、男女問わず黒のスーツ姿でサングラスをかけ、神なき暗闇では、ライトセイバーを思わせる光る杖をもってさまよう。偶像の前では信仰心をなくし騒ぎ乱れる。いつの時代も変わらぬ、民衆の愚かさ…。

魔的な魅力を誇る音楽に対し、舞台空間は色彩感に乏しく、やや殺風景ではある。第二幕、民衆が偶像にすがり酒池肉林を繰り広げる場では、狂喜乱舞の派手なアクションはみられない。第一幕の、アロンが民衆にみせる奇跡――モーゼの杖を蛇に代え、病人を癒し、ナイル川の水を血に変える――も具体的なイメージは示されない。ここでは華美なスペクタクルは徹底して排される。声と語り、演奏の魅力を可能な限り際立たせる点にムスバッハの主眼はあると思う。

バレンボイムとムスバッハの出会いは、シェーンベルクの音楽の特性を最大限引き出す幸福なものとなった。

(2007年10月15日 東京文化会館)

2007-10-15

[]金魚『沈黙とはかりあえるほどに』

金魚率いる鈴木ユキオは、舞踏を出自とするがオルタナティブな可能性を追究してきた注目の作家。以前は演劇的要素も取りいれるなど模索を繰返してきたが、昨年の『犬の静脈に嫉妬せず』は、自身の原点である舞踏を乗り越えようとする意思がにじむ舞台だった。このところの鈴木は、舞踊としての身体へと関心を深めているようだ。

新作公演は、東京は下町・月島にあるギャラリーにて行われた。客席数30程度の小空間である。冒頭の、鈴木のソロが魅力的だ。白シャツに黒ズボンというラフないでたちで登場、踊り始める。勢いよく、切れよく踊りであるが、ディティールは驚くべき精度を持つ。そして場を支配する存在感。踊り手としてただならぬ力量を持つことを証明する。安次嶺菜緒、原田香織が重心を低くし頭を垂らし踊る場や、横山良平の小気味いい踊りも見ごたえがあった。ただ、全体に無音の場が多く、動きのない場もある。導入→展開→結末というパターンや序破急的構成でもない舞台。シンプルな舞台意匠ゆえにダンサーの力量が問われてくる。個々の踊り手が自身の意識の変容が身体に、舞台空間にどのように影響をあたえるのか、を突き詰め状況を打開しないと舞台に隙間風が吹く。終盤、鈴木が再び登場するまでやや間延びした展開になった感は残る。

鈴木の近作はストイックな美学に貫かれている。観客への媚びなどとは無縁。その作風は屹立した断崖を思わせる。身を削るような創作への取組みには共感したい。が、ストイックな、あまりにストイックな態度が気にもかかる。模索の末に導き出した姿勢なのはわかるが、はやくも孤高の境地に入ったのだろうか。

(2007年10月13日 TEMPORARY CONTEMPORARY)

2007-10-13

[]Noism07「W-view」

Noism4年目のシーズン開幕は、外部振付家招聘企画の第3弾。元ネザーランド・ダンス・シアターの中村恩恵、現フォーサイス・カンパニーの安藤洋子を招いての公演である。プログラムに載せられた芸術監督・金森穣の言葉によると、公演名にはいくつもの意味がこめられているようだ。二つの中篇作品よるダブル・ビルということ、それぞれキリアン、フォーサイスという20世紀後半を代表する2大巨匠振付家の愛弟子たちの世界を現す創作であること、そして両者が女性振付家であるということ、の三点。

最初に上演された安藤作品『Nin-Siki』は「存在と認識」をテーマしたというもの。9人のダンサーたちが多彩な映像や照明効果にあわせ、組んず解れつの動きを展開する。ダンサーの身体そのものに焦点をあわせる姿勢は金森の近作とも相通じ、興味深い。踊り手の修練度の高さは感じられるが、ややあっけなく終わってしまった感も…。中村の『Waltz』は、宮河愛一郎のソロを皮切りに、金森や井関佐和子らが絡む展開。この作品では、台詞が印象的に用いられる。ブレイクの詩に触発され、アルファベットの文字ひとつ一つに動きを宛がったり、詩の微妙な意味合いに応じて動きを生んだりといった試みがなされているようだ。決して新奇な試みではないものの音楽、空間構成含め緻密な創りではあり、それなりに完成度は高い。ここでは、ダンサー金森の圧倒的存在感に惹きつけられた。金森は近年の自作では原則、自身が出演しない。その登場は外部振付家招聘企画のみどころのひとつといえる。

今回から新メンバーが加入したが略歴はじつに多彩。堤悠輔は、貞松・浜田バレエ学園を経て欧州で活動、キリアン、エック、ドゥアトらの作品を踊っている。原田みのるは、ジャズダンス出身。藤井泉は、ブロードウェイミュージカルへの出演含め多岐に渡るジャンルの舞台を経験。青木枝美は、児童舞踊を振り出しにバレエを学び、近年はコンテンポラリーの舞台にも出ている。新たに加わった多様な感性たちが金森のミューズたる井関、ベテラン青木尚哉らNoismの歴史を創り上げてきた踊り手たちと化学反応を起し、今後一層刺激的な舞台を繰り広げてくれるであろうことは想像に難くない。Noismは、来年2月に米・ワシントンでの『NINA〜物質化する生け贄』招聘公演を経て、初夏には国内で金森の演出・振付による新作を発表する。その舞台を心待ちにしたい。

(2007年10月12日 Bunkamuraシアターコクーン)

2007-10-01

[]アキコ・カンダ作品選〜夢、紡いで〜

アキコ・カンダの舞台といえば、『バルバラを踊る』シリーズや新国立劇場に委嘱された『マーサへ 空のなか 愛がふれあう時』などを思い浮かべることができる。一途なまでにストイックな世界。1950年代にマーサ・グレアムに学び、帰国後も精力的に創作を続けてきた。アメリカンモダンダンスを日本人の感性で磨きあげたピュアで奥深い舞台に接するたび心洗われる思いがする。

今回のリサイタルでは、元宝塚星組のトップスターで退団後も多くの舞台で活躍する峰さを理をゲストに招いた。峰は、ロドリーゴ曲による「暁の祈り」ではカンダ門下の踊り手たちとともに踊り、高度な振付をうまくこなしていた。「愛の旅立ち」「インシャラー」では艶のあるボイスを披露、カンダ門下の踊りを盛り立てる。カンダはソロ『実生(みしょう)』において、白のドレスに身を包み、禁欲的ながらも地に足の着いた踊りみせた。圧巻は、峰の唄にあわせカンダが踊る「黒いワシ」。老境に達した作家は、黒のロングドレスの端を両手で持ち、ひたすらに、ただひたすらに羽ばたく。それは、年輪を重ね、純粋なまでに無の境地でダンスに向き合うカンダの生き方と重なる。求道者の厳しさを漂わせながらも、より強く、より前向きに生きたい、という姿勢がひしと伝わってきた。

市川紅美を筆頭とする門下のダンサーたちもよく訓練され、整然としたアンサンブルが見事。加えて、ユニゾンであっても、個々の表現、表情は微に細に異なっている。錬度の高さに加え、奥深い表現力を兼ね備えているのはモダンならでは。カンダとカンダ門下はひとつの舞踊集団として統率がとれ、ゆるぎない独自の美学をもっている。ひさびさに手ごたえのあるダンスを味わうことのできる会だった。

(2007年9月29日 青山円形劇場)