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ダンスの海へ 舞踊評論家・高橋森彦のblog このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2008-09-23

[]アキコ・カンダ『風の追憶』

アキコ・カンダ モダンダンス公演『風の追憶』を観た。

モダンダンスといってもカンダの場合、いわゆる現代舞踊=ジャパニーズ・モダンダンスとは趣が異なる。渡米しマーサ・グレアムに師事、そのカンパニーで踊った経験を元にアメリカン・モダンダンスのエッセンスとカンダの感性を融合させた独自のもの。長年のファンも多く、老若男女幅広い客層を誇るが、宝塚歌劇団の舞踏講師や振付を担当、新国立劇場バレエ研修所でもコンテンポラリーダンスを指導していることもあってか客席には演劇、バレエ関係者の姿も少なくない。今回は新作を含めた3つの小品と2005年に発表した「彼方へ」の最終章にあたる「風の追憶」を上演した。

カンダの踊りを観ていると、いつも心洗われる思いがする。彼女が無心に音楽と戯れ踊るだけで涙が出てきそうな感動を覚えるのはなぜだろうか。思うに、彼女は舞踊の原点、人間の自然な欲求である憧れというか「〜になりたい」という想いを誰よりも純粋にうつくしく表現できるからだろう。彼女が虚空にそっと身体を差し出すと風の音が聴こえ、ひたすら羽ばたくと鳥の羽ばたきとなる。観るものはそこに自身を重ね、生命や自然のうつくしさ、いとおしさを感じて胸がいっぱいにならざるをえないのだ。

無我の境地で想念を踊りきることのできる舞踊家は、決して多くない。いや、なかなか到達できないというべきだろう。そのためには、技巧をみせたい、自分をよくみせようという欲を拭い去らないといけない。容易ではないはずだ。長い経験と凡人には想像もつかない苦闘と研鑽の末に得たものなのだろう。ひたすらに、ただひたすら純粋に無心で舞い踊り、観るものに深い感動を与えるカンダは至高の境地に達した稀有の存在。

一度は必ず観ておきたい芸術家といえる。

(2008年9月19日 青山円形劇場)

アキコ・カンダ、篠山紀信 AKIKO―1971‐2006

アキコ・カンダ、篠山紀信 AKIKO―1971‐2006

2007-10-01

[]アキコ・カンダ作品選〜夢、紡いで〜

アキコ・カンダの舞台といえば、『バルバラを踊る』シリーズや新国立劇場に委嘱された『マーサへ 空のなか 愛がふれあう時』などを思い浮かべることができる。一途なまでにストイックな世界。1950年代にマーサ・グレアムに学び、帰国後も精力的に創作を続けてきた。アメリカンモダンダンスを日本人の感性で磨きあげたピュアで奥深い舞台に接するたび心洗われる思いがする。

今回のリサイタルでは、元宝塚星組のトップスターで退団後も多くの舞台で活躍する峰さを理をゲストに招いた。峰は、ロドリーゴ曲による「暁の祈り」ではカンダ門下の踊り手たちとともに踊り、高度な振付をうまくこなしていた。「愛の旅立ち」「インシャラー」では艶のあるボイスを披露、カンダ門下の踊りを盛り立てる。カンダはソロ『実生(みしょう)』において、白のドレスに身を包み、禁欲的ながらも地に足の着いた踊りみせた。圧巻は、峰の唄にあわせカンダが踊る「黒いワシ」。老境に達した作家は、黒のロングドレスの端を両手で持ち、ひたすらに、ただひたすらに羽ばたく。それは、年輪を重ね、純粋なまでに無の境地でダンスに向き合うカンダの生き方と重なる。求道者の厳しさを漂わせながらも、より強く、より前向きに生きたい、という姿勢がひしと伝わってきた。

市川紅美を筆頭とする門下のダンサーたちもよく訓練され、整然としたアンサンブルが見事。加えて、ユニゾンであっても、個々の表現、表情は微に細に異なっている。錬度の高さに加え、奥深い表現力を兼ね備えているのはモダンならでは。カンダとカンダ門下はひとつの舞踊集団として統率がとれ、ゆるぎない独自の美学をもっている。ひさびさに手ごたえのあるダンスを味わうことのできる会だった。

(2007年9月29日 青山円形劇場)

2006-09-02

[]金井芙三枝リサイタルVol.28

今年で75歳を迎える現代舞踊界の重鎮・金井芙三枝。故・江口隆哉に師事したのち、創作活動と平行して日本女子体育大学・同短期大学で教鞭をとるなど、後進の育成にもあたっている。自身の制作・主催によるリサイタルは28回目。しかし、今回をもって踊り収めとすることになった。

ファイナル公演のテーマとして選ばれたのは、チェーホフ。『未亡人』は、笑劇「熊」(1898年)、『可愛い女』は小説「可愛い女」(1899年)から想を得て創作された。いずれも主演は金井。そして、注目されたのが、それぞれの作品の振付として二見一幸、上田遥という、中堅の売れっ子振付家を招いたことである。ラストの公演に、自身の作品に執着せず、後進に機会を与え、自身も踊りを楽しむとは、なかなか粋な試みではないか。

『未亡人』は、夫に先立たれ来る日も来る日も部屋に閉じこもり悲しみにくれる未亡人・ポポーヴァが主人公。それを使用人・スミルノーフ(青木教和)は心配し、励まそうとするが、悲しみは癒えない。そこへ、熊のような荒くれた大男である地主(古賀豊)が、土地の権利を主張して怒鳴りこんでくる。あまりの無作法に怒った未亡人は、“熊”と格闘する……。当初から金井の用意した台本があり、音楽も用意されたうえで、二見は振付にあたったという。制約のある条件ではあるが、そこは才人・二見、職人的な手際をみせた。3人の動きをややオーバーにデフォルメすることで、シニカルな笑いを誘う。未亡人が地主に惹かれていく心情の揺れが手に取るように伝わってくる。金井は全身黒のドレス姿だが、彼女の手の雄弁な表情を上手く生かしているのもさすがだ。

いっぽう、『可愛い女』は、金井が上田とともに台本・演出を担当している。『三人姉妹』などでも顕著なチェーホフの“新しい女”像が込められた作品を、金井が翻案。老婆が若き日に愛した三人の男を回想する。台本の設定上、登場する男たちは原作とは別。年上の劇作家(堀登)との淡い恋は、彼の自決により幕を下ろす。医者(伊藤拓次)との出会いも、交通事故による不慮の死で終焉。悲しみのなか、郵便配達夫(上田遥)が自身の書いた手紙を届ける。そこに書かれていたことばは、“愛してる”。以降、30年にも渡り、その手紙は毎日欠かさず届けられる。愛し、愛されたいという“可愛い女”の強い願望こそ、金井の人生観と合い通じるのだろう。ここでの金井は、若い。肉体的にも75歳とは思えないほどよく動く。しかし、それは褒めたことにはならない。精神的に若いというか、人生に対して、創作に対しての姿勢が若々しいのである。初恋のときめきをや恥じらいをなんとも瑞々しくにじませる。人は、憧れを踊るとき、どうしてこれほどまで若くみえるのだろうか。“ダンスは人なり”、大御所ながら枯れることを良しとせず、前向きに生きる姿勢は素敵だ。ナレーションやコロスを用いた演出も効果的。プレイスリーなどポピュラーな曲とオリジナル曲を上手くつかった音楽も親しみやすい。

両作品を挟んで、門下生による祝舞が上演された。波場千恵子『五重奏』は金井が36年前に振付けた作品をリニューアルしたもの。モーツァアルトの弦楽五重奏曲にのせ、音楽に逆らわないスムースな振りが光る。踊り手では、武元賀寿子の長い手の表現が抜群。飯塚真穂『千の囁き』、坂本秀子『月蝕』ともに水準には達しているが、ユニゾン、群舞の創り方など教科書的、優等生過ぎる嫌いがある。師匠のほうが創作姿勢が若々しいのはなんとも皮肉だ。出色だったのが内田香の自作自演のソロ『ブルーにこんがらがって』。彼女の代表作だ。筆者は、内田のことを“現代舞踊界のシルヴィ・ギエム”と勝手に呼んでいるが、長身の見事なプロポーションと美貌、身体能力の高さは群を抜いている。昨年度、江口隆哉賞をうけるなど、振付家としても有望だ。雰囲気のあるヴォーカル曲にのせ、抜群の身体コントロールをみせながら、物憂げな女性の内面を表現する。じつにクールだ。高々と脚を上げ、長い髪を軽やかに透かす姿はカッコいい。

金井は今後もレッスンは続け、高齢者のダンスクラブへの指導は続けるという。“雀百まで踊り忘れず”プログラムに記されたことばは、自身の進退を見極めつつ踊りに生涯をささげる金井になるほどふさわしいと思われた。

(2006年9月1日 新国立劇場小劇場)

2006-06-30

[]Perfect Modern『サーカス団の白いトラ』

コンテンポラリー/モダン問わず、エンターテインメント性ひいては観客に“魅せる”という意識を持つ舞台は少ない。無論、自己表現が先行するのは当然。客に媚びる必要はないが、“魅せる”ということへの意識も必要だ。コンドルズのように笑いを巧みに生かした舞台づくりも、ひとつのアプローチといえよう。また、H・アール・カオスのように、社会的なテーマを掲げつつ、多彩な演出手法を駆使、芸術性とエンターテインメント性を共存させ評価の高いカンパニーもある。

浅野つかさ率いるPerfect Modernの第8回公演『サーカス団の白いトラ』が興味深かったのは、たしかな作舞力を活かしつつ、“魅せる”意識を備えていたことである。自意識の発露に陥りがちな振付家が吐いて捨てるほどいるなかで、“魅せる”ことへの意識を感じさせる浅野の試みは注目に値する。

とあるサーカス団の人気者・白いトラ(浅野つかさ)が何者かに撃たれ死んでしまう…。果たして、犯人は団員たちの誰なのだろうか?不器用だけれども誠実な調教師(小林洋壱)と白いトラのデュオが終り、銃声。白の衣装の白いトラは、赤い布(血)を取り出し、息絶える。寡黙で不気味な光り蛇(YUTA)、仲良いけれども傷を負った刺青の女三兄弟(小林七奈・島明香・森田玲奈)、生きる術に長けた子犬のママ(鈴木魅穂子)と子犬(塙琴・前沢亜衣子)、他にも極楽鳥(梅田恵子、千田あかね)らが登場、それぞれの“想い”が交錯する。

サーカスを舞台にした演劇などにありがちなノスタルジーよりも、ファンタジックな空気が漂う。幽霊となった白いトラの叶うか、叶わないかわからない淡い願いが切ない。詩的な台詞をオウム(雅燐・山岡未絵)の二人(小劇場の役者)で掛け合い、ダンスと言葉が掛け算となる。光り蛇のYUTAはポイのパフォーマー。彼が暗闇なかで発光するボールを回し踊る演出は息を呑むほど美しい。登場人物個々の性格を表すダンスや群舞はシンプルだが説得力がある。白いトラのソロは、浅野の美貌で恵まれた肢体を活かし、脚や手の軌跡がじつに鮮やか。75分の上演時間を通して、ダレることなく客席の目を惹きつけることに成功した。

浅野は新国立劇場のダンスプラネットで作品を発表するなど、モダンダンス中堅のホープとして知られる。優れたダンサーであり、振付の力量もなかなかのもの。カンパニーとしても、これまで美術館やギャラリーでも活動するなど意欲的だ。それほど多くの作品を観たわけではないので、はっきりとはいえないけれども、柔軟な姿勢と明晰な意識を持って作品を創り出すことができる人だと見受ける。現代舞踊界のエリートとしての活躍に加え、多くの観客にアピールできる作品を創る技量を持つのだから、その面でも次なる展開に期待したい。

(2006年6月29日 吉祥寺シアター)

2006-06-16

[]新宿芸術家協会「I ♥MOZART」

今年はモーツァルト生誕250年。音楽界はもとより各方面でモーツァルトにちなんだ催しが行われ、盛況の様子。そんなモーツァルト・イヤーの本年、モーッアルトと舞踊との相性について改めて考えさせられる公演が行われた。題して「I ♥MOZART」。新宿区在住・在勤の舞踊家たちが創設した新宿芸術家協会の第10回公演である。モダンダンスとフラメンコのダンサー、振付家がおのおのモーツァルトの曲を用い創作、競演した。

最初に上演された『小さいメヌエット』(構成・振付:雑賀淑子)は、「メヌエット ト長調K.2」などを用いている。小さな子どもたちが、健気にメヌエットを踊るのが愛らしい。気負いなく踊りと音楽を一致させることに成功、客席を和ませた。

音楽とダンスの動きの緊密な関係性、構造を洗い出したのが、バランシンのアブストラクト・バレエ、いわゆる“音楽の視覚化”と呼ばれる試みである。そのスタイルをモダンの文脈で試みたのが『踊る音符』(構成・振付:庄司恵美子)。「交響曲第40番ト短調第四楽章 Allegro assai」にあわせ、四人の女性ダンサーがユニゾンを中心にシンプルだけれど見ごたえのあるヴァリエーションの妙をみせた。フロアの動きなどを取りいれたのは、モダンならでは。

冒頭に、ソプラノ歌手(山田綾子)が登場、歌いだし客席を驚かせたのが『春風彩香』(構成・演出:鈴木恵子ほか)。「春の憧れk.596・ディヴェルティメント二長調K.136第一楽章」を用い、春の訪れを祝福する。舞台は、生を謳歌するような幸福に包まれる。ピンクの衣装に身を包んだ群舞が印象的。音の喜びが踊る喜びと共振、演奏と歌、踊りが溶け合い、心地よい時間が過ぎていく。

一転、『レクイエム2006』(構成・振付:小林祥子)には、死の匂いがそこはかとなく漂う。「レクイエム二短調K.626」を使い、暗さ、静謐さが舞台を支配する。しかし、おだやかな調和を感じさせる。モーツァルトの晩年に創られた鎮魂歌に、若くして逝った天才の生と死のイメージを重ねたのだろうか。

ラストは、『夜の女王〜フラメンコによる』(振付:蘭このみ・小林伴子)。「レクイエム二短調K.626」より涙の日、歌劇「魔笛K620より夜の女王」を元に編曲。『魔笛』をモチーフに、濃密な舞台が繰り広げられる。モーツァルトとフラメンコという組み合わせが面白い。振付は、上半身の動きが自在。蘭このみと小林伴子の競演が観客を喜ばせた。

キリアンの『バース・デイ』、ベジャールの『魔笛』『バレエ・フォー・ライフ』(ロックバンド・クイーンの曲とともに、モーツァルトの曲が効果的に用いられる)、笠井叡の『レクイエム』――近年上演を観る機会のあったモーツァルトの曲を使った傑作群に比して、手づくりの小品ばかりである。しかし、観る方は構えることなくモーツァルトと舞踊の関係に思いをめぐらすことができた。創り手たちも、自主公演や協会公演でかしこまって“作品”を創るのとは異なり、モーツァルトに導かれて、さながら画家がスケッチを描くように気負いなく素敵な“舞台”を創り上げたのではないだろうか。若手による「フレッシュコンサート」、拉致されたわが子への想いを朗読とダンスで訴えた『祈り』を含め、充実したダンス・コンサートだった。

(2006年6月14日 四谷区民ホール)

2006-06-13

[]「新鋭・中堅舞踊家による現代舞踊公演」

“コンテンポラリー・ダンス”を支持するファンは、現代舞踊協会系=日本的モダンダンスの舞台を、まず観ない。“つまらないとわかっているから、みないと決めている“と声を大にして吹聴するダンス・フリーク、評論家も珍しくない(何をみるかは個人の自由、しかし、みないで批判するのはフェアじゃない)。近代舞踊史の流れからすると、モダンは、ポストモダン、やがてコンテンポラリーへと変遷をみせる。そのなかで、日本的現代舞踊は、内容・形式的にも、また教育・公演システムも旧態依然としており、芸術ダンスのメインストリームから取り残されていった――というのが、彼らの主張である。果たして、そうなのだろうか。

たしかに、モダンは乗り越えられ、歴史的使命を終えたかに思える。すくなくとも、形式面での新しさという点では。公演形態、師匠が弟子を育てるという日本的システムは閉鎖的という批判も一理ある。しかし、個人的には、石井漠以後、日本の現代舞踊界が育んできた、技術・人材の集積と、日本人ならではの美と精神性をたたえた身体の追求という点で注目している。

前置きが長くなったが、先日、現代舞踊協会主催「新鋭・中堅舞踊家による現代舞踊公演」をみた。“新鋭・中堅“の定義が曖昧な気もするが、日本的モダンの中枢たる現代舞踊教会系のメインストリームを担っていく人材たちのお披露目といったところだろう。一日十曲、二日間二十曲(そのうちフラメンコが四曲)をみるのはいささか疲れたものの、現代舞踊界の現在の状況を掴むことができた。

全体的にいえるのが、ダンサーたちがよく鍛えられた身体を持っているということ。自分で踊るにしろ、他の振付家の作品を踊るにしろ、表現を伝える手段として技術が必要だ。若手中心に、優れた技量を持つダンサーが散見された。また、現代舞踊=つまらないという悪しき風評をひろめた、大上段に社会的テーマを訴えたりしたものは少なかった。たとえ教科書的、既存のボキャブラリーに依存してはいても、それをベースに自らの内面と向き合いどう動きを紡ぎだすか、という点に関心のある作者が多いのも収穫だった。

以下、個人的に注目した作品を挙げる(フラメンコは除く)。

北島智子『UTAKATA』は、デュオ。照明や動きの造形に新味はないが、膳亀利次郎と北村の個性が活かされた。冴子『魚にもどれなかった男の話』は、ボキャブラリーが多彩。作品を構築しようという強い意思が感じられた。造形の上手い、オフ・バランスの動きなどをもっと活かしてもいいかもしれない。渡辺麻子『なかにわ』は、女性四人の濃密なパフォーマンス。照明効果、曲構成などにも工夫がみられる。内田香『na mi da』は、本公演中最大の十三人が出演したが、群舞、ユニゾンなどの作舞のレベルが高い。近年、各種コンクール・賞を受賞しているが、その力量はホンモノだ。古賀豊『ROMEO―光に沈むJuliet達―』は、視覚的にきわめて美しい。ライトを下降させて空間を変容させる照明の手法自体、新味はないけれども。

気になった点をいくつか。バレエのパをそのまま、もしくは少し変えたものが乱用された作品がいくつかみられたこと。バレエのテクニックを使うのは構わないが、手軽に、動きのつなぎに用いるのは安易。また、有名曲を使用するのも、よほどの覚悟と勝算のない限りやめたほうがよい。出演者の選考に関しても、よりオープン、納得のいくものにして欲しい(本公演に限らないが)。

ともあれ、大学ダンスもふくめ、日本のモダンダンスの新たな世代も育ちつつある。コンテンポラリー・ダンスとの境界を越えコラボレートする試みもみられる。現代舞踊協会はじめ、業界の意識も代わってきているようだ。観る方も、コンテンポラリー/モダンと隔てず、常に共感しつつ観続けられれば、と思う。

(2006年6月7、8日 東京芸術劇場中ホール)