canashiroのブログ

はてダ挫折者の再挑戦。

カナシロはおたくかという論争

昨晩の飲み会でカナシロとは会話による意思疎通が容易であるのでカナシロはおたくではない、という意見をきいた。逆に言えば、彼(ら)の中でおたくは会話による意思疎通が困難だ、という意見が大部分を占めているようだ。
他に、幼児性愛の傾向が顕著にはないのでまだ大丈夫だ、という意見もあった。
たしかに、一般人とも会話は成立するし生身の女子中学生やあるいはもっと下の女子に性的興奮を覚えるまでにはいたってないわけだが、カナシロは広義にいえばまごうことなきおたくであろうとおもうのだが、いかがなものか。
おかげで昨晩は「カナシロはまだ大丈夫だ」「いや、俺はりっぱなおたくだ」という非常にゆかいな論争があったわけだが、過去の例を持ち出すと
http://d.hatena.ne.jp/dancing/20050113#1105628940
に今までの僕の主張がまとまっているが、この主張におけるおたく、つまり「社会的常識にかける」人々が一般人からみたおたくであり、特定の分野において詳しいだけの人はまだおたくとして一般人から卑下される対象にはなっていないようである。
もしくは、僕が単純に彼らとある程度の信頼関係を築けたからこその「まだ大丈夫」発現なのかもしれないが。まだ信頼関係を築くにいたっていない一般人からみれば十分立派なおたくだよな、やっぱり。

萌えは隠語か

先日、朝日新聞に「萌えとはなにか」という記事があって、そのしめが「これだけ世間に浸透してしまったので、現在では萌えを使う人が減っているかもしれない。それが隠語の常である」という論調だったのだが、現在においても果たして萌えは隠語として生き延びているのだろうか。
萌え - Wikipediaに萌えに関する歴史的考察が詳しく述べられているが(よくできているので興味のある氏は一読をおすすめする)、現在において萌えはもはや隠語として成り立たなくなっており、むしろその言葉の便利さから多様性を増し続けているというのが僕の主張である。
萌えを使う人間は当初よりも爆発的に増加しており、いわゆるおたく界隈の人間だけに限定してみても(つまり電車男以降のマスコミによる萌えの乱用を度外しても)その多様性の取得はとどまることを知らず、使用用途は増加し続けているように見える。その結果、萌えは世間に浸透した隠語としてその生をおえることなく、今後も多様につかわれていくんではないかなぁ、と思うしだいである。