浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



神田須田町・あんこう鍋・いせ源

3月14日(火)夜


さて。


火曜日。


今日は、以前からの約束で内儀(かみ)さんの
古い仕事関係の先輩で、私もなん度も会っている人と飯を食う。


場所は神田須田町あんこう鍋の[いせ源]。


20代の頃からの旧知であるがこの人ももう還暦という。


会って話してみると中身はあまり変わっていないが
お子さんが3人既に独立されていたり、環境は大きく変わっている。
私も年を取ったことをまざまざと思い知らされる。


さて[いせ源]。


私にとっては長く通っている店。
一冬に一度は行くし、この日記にもなん度も書いている。


池波レシピでもあるし、以前やっていた
NHK文化センターの「下町歩き講座」でも行った。


創業は天保元年(1830年)、今年187で年。
堂々たるものである。


この界隈、今は神田須田町だが古くは連雀町
江戸期を通し明治まで、隣の神田多町日本橋魚河岸と並ぶ
江戸のもう一つの台所、神田市場、やっちゃば、つまり
青物と青果の市場があったがそこに隣接する町。


そして明治45年、中央線の始発駅、万世橋駅が開業。
小さいが煉瓦造りで東京駅によく似たデザインの立派な駅舎であった。
大正から昭和初期、始発駅前の町として大いににぎわうようになる。


当初、中央線は神田、東京駅までつながっていなかったのである。


また、須田町は当時市電、都電の路線が集まる
ターミナル駅でもあったこともこの界隈のにぎわいにつながっていた。


その後、中央線は神田から東京駅まで延伸され、
万世橋駅は廃止となる。


この界隈、東京でも希少なのは、戦災で焼け残ったこと。
それが今でも、数多くの老舗が残っている所以であろう。


この駅跡は我々の子供の頃は国鉄交通博物館として
使われ、親しまれていたわけである。


その交通博物館も閉じられ、しばらくは放置されていたが
数年前に駅前はJR東日本のビルとして再開発され、駅跡のホーム
などはカファに生まれ変わっている。


万世橋の上から見た神田川沿いの煉瓦造りの中央線高架風景は
美しい。


東京の現在も使われている明治大正の近代遺構として
大切にしたい場所である。
(この界隈、かなり詳しく書いている。ご参考に。)


閑話休題


[いせ源]。


この店は予約はできない。


真冬の混んでいる頃は、寒い中、店の前で待つこともしばしば。


7時集合。


さすがに3月、並んでいる人もなく、まったく待たずに入店。


下足の小父さんに札をもらい、お二階。
幅の広い梯子段をトントンとあがる。


なるほど、空席もちらほら。


座れば、黙っていても人数分の鍋の用意が始まる。


お酒とビール。


鍋がきた。

(ちょっと手ブレ、、)


今、あんこう鍋というと、茨城などの、肝と味噌で煮込むものが
普通であろうが、ここのものは、しょうゆで甘辛い、
すき焼きをちょっと薄くしたような、つゆで食べる。


基本、江戸東京の鍋というのは、軍鶏鍋などもそうだが
この味付けであったのであろう。


東京名物の白い独活が入るのもここならでは。



お膳がなかなかよいではないか。


春慶塗でよいのか、朱の漆塗りだが使い込まれて、
欠けたり、剥げたりしているところもあるが、それもまた、よい。


煮凝り。



(写真を撮り忘れたが)鮟肝も別皿でもらう。


あんこうはぷりぷりの皮がまたうまい。


ここの酒は、菊正。


以前に長々、玄関で待たされた時に下足の小父さんに
聞いたのだが、玄関の天井。
ちょっとした格天井のようになっているのだが、そこの絵が菊に
正宗とある。
菊正宗に作ってもらったのか。広告といってよいのであろう。
その頃から、ずっと菊正なのであろう。


やはり、濃口しょうゆの東京の味には、菊正
なのである。


あらかた食べ終わり、おじや。


お新香。



ほんのりピンクの丸いのは山芋の梅酢漬け。


おじや。



玉子を落とす。
お客は手を出してはいけない。
まあ、まかせて見ていればよい。


茶碗に二杯。


うまかった。


ビールから、酒も呑んで、よい感じに酔っぱらった。


御馳走様でした。


よいもんである。


また来シーズン。





いせ源

千代田区神田須田町1丁目11番地1
03(3251)1229