【映画】『今日、恋をはじめます。』

[★★☆☆☆]
後悔なんて、あるわけない

あらすじ:真面目が取り柄で、結婚するまで貞操を守ろうという信念を抱いだ古風な女子高生・日比野つばき(武井咲)。高校の入学式当日、成績トップで学校一のイケメン・椿京汰(松坂桃李)と隣の席になるが、クラスメイトの前でファーストキスを奪われてしまう。突然のことに怒り、反発するつばきだったが、涼太の思いがけない一面をみて次第にひかれていく。

監督:古澤健
企画プロデュース:平野隆 森川真行
エグゼクティブプロデューサー:田代秀樹
プロデューサー:武田吉
キャスト:武井咲 松坂桃李 木村文乃 青柳翔 山崎賢人
製作年:2012年
製作国:日本
配給:東宝
上映時間:121分
映倫区分:G

感想:


“娘のするあらゆる愚行のうちで、初恋がつねに最大の愚行である。”

この言葉は、ドイツの劇作家アウグスト・フォン・コッツェブーの「断片」の一節である。全15巻の少女漫画を原作に持つこの映画は、まさにこの「初恋」という愚行をありのまま描いたものだ。

この作品の主人公である日比野つばき(武井咲)は、メガネでおさげ髪の地味で真面目な少女であり、長女としての役割を果たし親からの期待に応えようと勉強にいそしんでいる。そんな彼女が高校に入学し、偶然席が隣になった同じ“ツバキ”を苗字に持つ椿京汰(松坂桃李)にちょっかいをかけられた時から、物語は始まる。椿は見た目からしてチャラく、女子からも男子からも一目置かれるようなクラスの中心的存在である。つばきはそんな椿(ややこしいので以下、京汰)を苦手に思うのだが、なぜだか京汰はそんなつばきを気に入ってしまう。つばきはつばきで、京汰の意外な一面を知るにつれ、だんだん心が惹かれていく…

…と、ここまで聞いておわかりの通り、この作品は誰もが思う「少女漫画的記号」ですべてが構成されている。姉であるつばきとは対照的で明るくオシャレで奔放な妹さくら(新川優愛)も、京汰の親友でお調子者の西希(山崎賢人)も、すべてどこかの少女漫画で見たことがあるようなキャラクターであり、“真面目そのもので地味な少女が、少し粗暴(だけど夢があって実は一途)な少年に惹かれていき、自分自身の魅力を開花していく”という物語自体も、あまりに定型化されたものだ。

ではこの作品には新たな視点はないのだろうか?

つばきはなかば強制的にクラスの委員長をやらされる羽目になるのだが、つばきに反感を持つ女子グループらは言うことを聞こうとしない。おかげで文化祭の催し物も決まらず、つばきは窮地に陥ってしまう。そんな時、つばきを救ったのは京汰だった。

「この場は俺がなんとかしてやるから、その代わりに俺とデートしろ」

つばきは考える余裕もなく、この条件を飲んでしまう。

この場面で私はあるアニメ作品を思い出した。
その作品とは、「魔法少女まどかマギカ」である。

ご存知の方も多いだろうが、「魔法少女まどかマギカ」は2011年に放映されたテレビアニメーションであり、放映後の反響から、劇場版アニメになるまで社会現象化している作品だ。この作品のあらすじを簡潔にいうと、中学生である鹿目まどかの前にキュゥべえと呼ばれる謎の生物が現れ、どんな願いも叶えられるという魔法少女になる契約をまどかに迫るのだが、それは同時に、“魔女”と呼ばれる怪物と戦わなければならない義務も存在しており、彼女はその因果に巻き込まれていくという物語だ。

「僕と契約して、魔法少女になってよ!」というキュゥべえのフレーズは一度はどこかで聞いたことがあるだろう。このセリフが、まさに上述の京汰のセリフとシンクロしたのだ。

つばきは「学級委員長として文化祭を成功させるために、京汰とデートをする」という“契約”を結ぶ。

もちろん、「魔法少女まどかマギカ」を想起したのは上述の場面があったからだけではない。付き合うことになった二人は、だがふとしたきっかけで仲違いし、つばきは自らの夢である美容師への道を歩み始める。その段においても、つばきは美容院で働かせてもらうために、美容院店長から店内スチール写真のモデルとして撮影されることを求められ、これを許諾するのだ。

つばきは「夢である美容院で働くために、スチール写真を撮られる」という“契約”を結ぶ。

ここからわかるのは、彼女は「何かを得るためには、何かを失わなければならない。」という哲学を持って生きているということだ。それは両親の期待を背負う長女としての責任感から生まれたものかもしれない。そして、真面目な彼女だからこそ、契約の代償として京汰と付き合うことになった事実を観客は思い出すだろう。

女性関係に奔放で傲慢な京汰は、いくら両親の離婚という原因があるとはいえ、客観的にみれば、つばきに相応しい男ではない。それでもなお、なぜつばきは京汰に惹かれたのか。それはひとえに、「初恋とは純粋であらなければならない」という、つばきの強迫観念に似た思いがさせたのである。京汰を一度好きになった以上、生真面目な彼女はその生真面目さゆえに、彼を愛し続けざるを得ない。だからこそ、付き合う前の段階では、つばきは身体の関係を迫る京汰を断固として拒否したのだ。

そして、物語が進むにつれ、私たちはうすうす気づいていく。純粋なる愛を求めるがゆえに、つばきが失わなければならないものを。

つばきが失わなければならなかったもの、最後に彼女が京汰と交わさなければならなかった“契約”とは何か。それは、永遠の愛を得るためにする身体の契りだ。彼女の持つ「代償」の思想からいって、彼女は彼の愛を確かめるためには身体を許さざるを得ない。つばきは、自らがもっとも大切にしている処女を捧げることでしか、京汰から永遠の愛を引き出すことができないのだ。

だが、我々は知っている。処女の代償は永遠の愛ではないことを。だからこそ、一夜を過ごした後、朝日を浴びる彼女らの笑顔が作中では完全にポジティブに描かれるにも関わらず、どこか寒々しさを感じさせるのだ。

この作品で描かれているのは、この世界に普遍的に存在する処女喪失システムである。彼女らは自らの処女と引き換えに、願いを叶えていく。しかし、「魔法少女まどかマギカ」における魔法少女たちがそうであったように、希望は時に搾取され、利用されることもありうるのだ。つばきと京汰の間にあるものが永遠の愛だと楽観的に信じる人はいないだろう。だが、それがたとえ儚く散る恋だとしても、一向に構わないのだ。なぜなら、初恋とはつねに最大の愚行なのだから。

私がただ一つ願うことは、この作品を見た少女たちが、決して魔女化することなく、いつまでも魔法処女のまま居続けて欲しいということだけだ。

【映画】『チェンジリング』

[★★★★★]
信。

あらすじ:
1928年のロサンゼルスを舞台に、誘拐された息子の生還を祈る母親(アンジェリーナ・ジョリー)の闘いを描くクリント・イーストウッド監督によるサスペンスドラマ。息子は無事に警察に保護されるが、実の子でないと疑念を抱いた母親が、腐敗した警察に頼らずに自ら息子の行方を捜して行動を起こし、同時に市長や警察機構を告発する。共演にジョン・マルコビッチ。(eiga.comより)

映画情報:
原題:Changeling
監督・製作・音楽:クリント・イーストウッド
脚本:J・マイケル・ストラジンスキー
製作総指揮:ティム・ムーア、ジム・ウィテカー
製作:ブライアン・グレイザーロン・ハワード、ロバート・ローレンツ
撮影:トム・スターン
美術:ジェームズ・J・ムラカミ
製作国:2008年アメリカ映画
上映時間:2時間22分
配給:東宝東和
キャスト:アンジェリーナ・ジョリー、ガトリン・グリフィス、ジョン・マルコビッチコルム・フィオール、デボン・コンティ、ジェフリー・ドノバン、マイケル・ケリー、ジェイソン・バトラー・ハーナー、エイミー・ライアン、ジェフリー・ピアソン、エディ・オルダーソン

感想:

「これは実話である。」

この文言が冒頭になければ、作品内で描かれる出来事はあまりに荒唐無稽であり、リアリティを感じることができなかっただろう。それぐらい衝撃的な物語が展開される。1928年、クリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)と息子のウォルター(ガトリン・グリフィス)の親子は、ロサンゼルス近郊で二人、慎ましく暮らしていた。クリスティンの夫は、彼女に子供ができたとわかった時点で蒸発し、クリスティンは息子のウォルターを女手一つで育てていた。電信所でバリバリ働くクリスティンは、今でいうシングルマザーでありキャリアウーマンである。彼女にとってウォルターは生きる糧であり、彼女のすべてだった。

そのウォルターが、ある日突然姿を消す。
彼女は警察に訴えるものの、「子供の失踪は24時間以内は探さない。」と冷たい対応で取りあわない。彼女はウォルターを必死に探すものの、見つからない。あせりと動揺の中、警察から一つの連絡が仕事中の彼女のもとに入る。

「ウォルター君が見つかりました。」

マスコミが「母と子の感動の再会」というスクープを狙う駅のホームで、息子が乗っているという汽車を待つクリスティン。喜びと驚きの混ざった感情で待つ彼女の前に降り立つ一人の少年。その少年を見て、クリスティンは呆然と立ちすくむ。その少年は、ウォルターと似ても似つかなかい別人だったのだ。しかし、自分たちの成果を高らかに宣伝したいロス市警は、人違いであるという彼女の訴えを聞こうとはしない。1928年は世界恐慌の前年にあたり、ロサンゼルスでも犯罪は増加し、ロス市警は腐敗しきっており市民の信頼は皆無に等しかった。このような状況で、人違いという決定的なミスはロス市警の信頼をさらに貶める結果になるため、彼らがそれを認めることはあり得なかった。

それでも訴え続けるクリスティンの行動を、ロス市警は考えられないような方法で封じる。彼女が精神的に不安定であるという事実をでっちあげ、精神病院へと送致してしまうのである。「ウォルターを見つける」という彼女の最終目標は、ロス市警という権力によってあっさりと抹殺されてしまう。それでもクリスティンはあきらめることなく、最後まで自分の意思を貫き、戦い続けるのだ。この映画でイーストウッドが描きたかったことは、「集団」の意思ではなく「個人」の意思こそがもっとも重要であり、自らの意思を貫き通すことがもっとも尊く気高いものである、ということだと思う。

ここでいう「集団」とは、いうまでもなくロス市警のことである。彼らは自分達の保身の為にクリスティンを利用し、彼女の存在が彼らにとって不都合なものになれば、彼らは権力を用いて彼女を排除しようとする。しかし警察だけがこの映画で描かれる「集団」ではない。この作品で描かれるもう一つの「集団」とは、グスタブ(ジョン・マルコヴィッチ)率いるキリスト教会である。彼らはクリスティンの味方であり、彼らによって彼女はある意味救われるのだが、彼女は教会との距離を一定に保ち、過度に近づこうとはしない。キリスト教会にとっても、彼女に近づくのはそれが警察との戦いを有利に進めるためであり、彼女のことを100%考えての行動ではない。

警察によって派遣されてきた精神科医と、キリスト教会の人間たちがクリスティンの家に訪れる際の演出が類似していることからわかるように、彼らは自分達の都合のよい事実をクリスティンに強要しようとする点において、本質的に同質な存在なのだ。だから、彼女はそのどちらもが押し付けてくる「事実」を屹然と否定する。彼女は外の環境がどんなに変化しようと、一貫した信念を貫き通すのだ。その信念とは、「息子は生きているし、必ず見つけ出す」ということだ。その為なら手段は問わないし、どんな「集団」だろうと立ち向かう。*1

また、確かにロス市警は徹底して「悪」として描かれているのだが、ジョーンズ警部(ジェフリー・ドノヴァン)がクリスティンの意見を却下し、警察署を無理やり追い出すまさにその時、カメラはクリスティンを追うジェフリー警部の視線を捉え続ける。それによって、警察組織という「集団」内部に属する「個人」の苦しみさえ表現しているのだ。イーストウッド監督の神がかったバランス感覚によって、安易な勧善懲悪ものに落とし込まれがちな題材が、深みを持った名作へと昇華させられている。「集団」の意思は容易に「個人」の意思をゆがめてしまうことがある。しかしだからこそ、「個人」はその意思を強固に保ち、貫かなければならないのだ。

戦い続けることによって勝ち取ったかすかな希望を胸に抱いて、クリスティンは多くの人々が行き交う街中に消えていく。絶望に等しく思えるような、わずかな希望と共に去って行く姿は高貴であり、それと同時に物悲しい。安易なカタルシスが顕然と否定されたこの作品は、いつまでも心の奥底に重たい何かを感じさせ続ける圧倒的な作品だった。

*1: 勿論、基本的に警察が「悪」、教会が「正義」として描かれているのは言うまでもないが。

【映画】イカとクジラ

[★★★★☆]
家族という呪い。

あらすじ:
ライフ・アクアティック」の脚本家ノア・バームバックが、86年のニューヨーク・ブルックリンを舞台に、ある家族の崩壊を滑稽に描いた自伝的悲喜劇。落 ち目のインテリ作家である父親バーナードと「ニューヨーカー」誌で作家デビューを飾ることになっている母親ジョーンの間に生まれた16歳の兄ウォルト、 12歳の弟フランクは、ある日両親から離婚することを告げられる。ウォルトは父親に、フランクは母親についていくが、2人とも学校で問題を起こすようにな る……。(映画.comより)

映画情報:
キャスト:ジェフ・ダニエルズローラ・リニージェシー・アイゼンバーグオーウェン・クライン、アンナ・パキン、ウィリアム・ボールドウィン
監督・脚本:ノア・バームバック
製作:ウェス・アンダーソン
撮影:ロバート・イェーマン
音楽:ディーン・ウェアハム、ブリッタ・フィリップス
原題:The Squid and The Whale
製作国:2005年アメリカ映画
配給:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
上映時間:81分

感想:

人は自分の生まれる場所や環境を選ぶことはできない。その意味で、家族とは人が生まれた瞬間にかけられる「呪い」のようなものだ。この映画の主人公であるウォルト(ジェシー・アイゼンバーグ)とフランク(オーウェン・クライン)の兄弟も、家族という「呪い」にかけられたごくごく普通の少年たちである。

彼らの両親はともに文筆業を職業としているのだが、父親のバーナード(ジェフ・ダニエルズ)は売れない作家であり、現在は大学で教鞭をとって食い扶持を繋いでいる。一方、母親のジョーン(ローラ・リニー)は雑誌「ニューヨーカー」で作家デビューを飾ることが決まるなど、そのキャリアは対照的なものになっていく。そんな中、突然家族会議が招集され、ウォルトとフランクの兄弟は両親から予想しない発表を聞く。

「私たちは離婚する。」

家族とは、血のつながりがあるとはいえ個人同士の集合体だ。普段の生活ではそれは強固なものに見えるかもしれないが、ちょっとした傷や歪みで簡単に崩壊してしまう可能性を孕んだものである。また、あらゆる家族がそうした傷や歪みを知らぬ間に内包している。それが果たして離婚にまで至るかどうかは、その傷や歪みを自覚したままそれでもなお家族という形に固執するか、あるいは、傷や歪みを消し去るために家族という形を捨て去るかという夫婦の選択にかかっている。この映画におけるウォルト兄弟の両親は、後者を選択した。

家族よりも自分たち個人の意思を優先するのは、この両親が自分たちがインテリであり知識階級であると自覚してるからこその判断なのではないかと私は感じた。離婚の相談において、子供たちと会える日を事務的に決めていくその会話からもそれが見て取れる。この両親は「離婚」という家族にとっての大問題を、あくまで理屈で解決し処理できると思い込んでいるのだ。しかし、結婚という「契約」は事務処理によって片付けられようとも、人間のこころというものはそれほど単純なものではない。

ましてや、彼ら両親の離婚に巻き込まれるのは、16歳のウォルトと12歳のフランクという、もっとも過敏な年頃の少年たちなのである。彼らは両親の離婚という現実と、また、その奥にある原因に過剰に影響され、客観的にみると間違えた、おかしな方向に進んでいってしまう。その危うさはこの映画にある種の恐怖映画の様相さえ与えているのではないだろうか。ホラー小説の帝王スティーブン・キングが「これは恐ろしい映画である。」と書いたのも納得できる。

子供から大人になるということは、そうした家族という「呪い」を受け入れるか、あるいは解き放たれるかのどちらかを達した時である。この映画の主人公であるウォルト青年はまさにその呪いを解かんともがき苦しみ、最終的に自分の深層心理を映し出すある「もの」と対峙する。それは傍からみればどうということのない光景なのだが、彼にとってはその瞬間こそが人生が変わる転機なのである。本当に素晴らしいラストだったと思う。

作品内において「野生の少年」や「勝手にしやがれ」などの映画が言及されるように、この映画はいわゆるハリウッド映画というよりは、ヌーベルバーグの作品に近い。どこに着地するかわからない物語やジャンプカットなどにそれが見て取れる。なので、起承転結や結末がはっきりしたものを期待している人には肩すかしかもしれない。

余談。この映画で描かれる家族の中でも、一層際立っているのがローラ・リニー演じる母親の存在である。「普通の人々」や「レイチェルの結婚」を見ていても思ったのだが、こうした家族を描いた作品では、母親というものがとかく得体の知れないものとして描かれる傾向にある気がする。これらの作品がすべて男性監督のものであるからかもしれないが、男性である私から見ても、母親、あるいは女性とは得体の知れないものであり、そこがまた面白いと思った。

【映画】『ひゃくはち』

[★★★★☆]
栄冠は君に。

あらすじ:
野球の名門として知られる京浜高校の補欠部員・雅人とノブは、甲子園のグラウンドを目指して毎日過酷な練習に励んでいた。しかし上級生が引退しても、彼らに与えられるのは雑用ばかり。そんな中、有望株の新入生が入部したことにより、2人は高校最後の甲子園のベンチを巡って争うことになり……。29歳の新鋭・森義隆監督が、補欠部員たちの奮闘を爽やかに描いた青春ドラマ。雅人役に映画初主演の斎藤嘉樹、ノブ役に「恋空」の中村蒼。(eiga.comより)

映画情報:
監督・脚本:森義隆
原作:早見和真
撮影:上野彰吾
音楽:和泉剛
製作国:2008年 日本映画
上映時間:2時間6分
配給:ファントム・フィルム
キャスト:斉藤嘉樹、中村蒼市川由衣竹内力高良健吾北条隆博桐谷健太三津谷葉子有末麻祐子小松政夫二階堂智光石研

感想:

毎年、熱戦が繰り広げられる甲子園。ひたむきに白球を追う球児の姿に、毎年目頭を熱くしている人も多いだろう。真剣勝負をしている彼らの姿が、自分より年下の高校生だとはとても思えない人もいるかもしれない。しかし、我々がテレビで見る高校球児たちは、全国の野球をしている高校生の、ほんの、ほんの一部でしかない。高校球児の中には、スタメンに入ることはおろか、補欠にすら入れない子も数多くいるのだ。我々が甲子園で見ているのは、「高校野球」という大きな物語のほんの一部でしかない。そしてこの映画は、「ほんの一部」ではない高校球児たちが主人公なのだ。

この映画の主人公は、強豪校の野球部に所属している、「目指すは補欠!」という高い(?)目標で日々努力を重ねる二人の高校生、雅人(斉藤嘉樹)とノブ(中村蒼)。世間では、高校球児は「清純で真面目」といったイメージで見られることが多いが、この映画では高校球児の日常を過度に美化することなく、ありのままを描こうとしている。映画として拙いところはあるが、高校野球の清濁両面を描き、それでありつつ、最終的には高校野球というものを肯定してみせるこの作品は、高校野球好きはもちろん、高校時代に部活に打ち込んでいた人も胸を熱くしてしまう作品なのではないだろうか。

どちらかといえば高校野球にネガティブなイメージを持っていた私でさえ、高校野球も悪くないなと思わせられるほど、よくできた青春映画の傑作だと思う。

おちゃらけたムードメーカーの雅人と物静かで冷静なノブという対照的なキャラクター設定は、青春映画ではスタンダードな設定とはいえ、斉藤嘉樹くんと中村蒼くんがそのキャラクターにマッチしていて、非常によかった。また、脇を固める役者陣も素晴らしい。『フィッシュストーリー』でも存在感を放っていた高良健吾だが、この作品でも本当に素晴らしい演技を見せてくれている。(あんなに自然な「セックスしてぇ…」というつぶやきは聞いたことがない。)もはや青春映画に欠かせない存在となった桐谷健太も相変わらず最高に面白い。野球部の鬼監督に竹内力というキャスティングは、フィクション感が強すぎるのではないかと危惧していたが、そういうこともなく、逆に、役者陣のリアルな緊張感を引き出すことができたという意味では、もっともこの映画に貢献しているかもしれない。

高校球児を「汚れなき存在」として喧伝する高野連や、それを信奉している「高校野球信者」には、この映画には目を覆いたくなるシーンばかり現れるかもしれない。「タバコは高校球児のサプリメント」と豪語し、お酒をがぶ飲みしながら女子大生との合コンに興じる…そこに甲子園での輝かしい高校球児の姿はまったくない。タイトルの『ひゃくはち』の意味でわかる通り、高校球児だって煩悩を抱えた普通の高校生であることがこの映画では殊更に強調される。*1これがそのままリアルだとは思わないが、強豪校でないにせよ体育会系がヒエラルキーの頂点にいた高校に身を置いていた私としては、それほど現実とかけ離れているとも思えなかった。また、野球部監督とプロスカウトとの灰色の関係など、高校野球そのものが構造的にはらんでいる問題も逃げずに描いていて、そこも好感が持てた。

ただ、原作に比べれば、この映画では恋人との関係の描写があまりに不十分で中途半端に感じ、これならば一層のことばっさり切ってしまってもよかったかもしれない。また、音楽やその使い方がちょっとベタで、この点は残念に思った。

高校野球がこうも人々の心を捉えて離さないのは、それは終わりが見えている物語だからではないだろうか。三年間という非常に短い期間、その間に「目標」を達成しようと努力する、その姿勢こそが何物にも代えがたいものに映るのだろう。二人は最初、応援席で応援するしかない野球部員を馬鹿にしているのですが、三年間を通じてその思いが徐々に変わっていく。作品を見る私たちにとっても、オープニングにおいて応援席で必死の形相で応援していた、はたから見れば滑稽な三年生の姿が終盤においてまったく別の印象で思いだされるのだ。

だからこそ、三年間がんばってきたけど補欠にさえ入れなかったという人物を、雅人かノブのどちらか、または全く別の登場人物が担っているべきだったと思う。そうすれば、よりこの作品で言いたいメッセージは強調されていたはずだ。

しかし、森義隆監督自身も野球部だったらしく、練習シーンや試合シーンなどの演出はまったく逃げておらず、違和感はまったくない。若い役者陣の生き生きとした、演技を超えたパワーを感じることができるという、青春映画としてもっとも必要な要素をそなえたこの映画は、間違いなく傑作といってよい作品だと思う。

*1:ただ、高校球児の煩悩を象徴するんだったら、「女子大生とのセックス」じゃなくて「オナニー」だろ!!とは思ったが。

【映画】『その土曜日、7時58分』

[★★★★☆]
この世は醜い世界だぜ。

あらすじ:
兄アンディ(フィリップ・シーモア・ホフマン)と弟ハンク(イーサン・ホーク)のハンソン兄弟は、状況こそ違うが、どちらも大金を必要としていた。そんな時、アンディはハンクを実家の宝石店を襲い強盗する計画を持ちかける。その計画は上手くいくように思えたが、ある誤算が生じて…。

映画情報:
原題:Before the Devil Knows You're Dead
監督:シドニー・ルメット
脚本:ケリー・マスターソン
製作総指揮:ベル・アベリー
撮影:ロン・フォーチュナト
音楽:カーター・バーウェル
製作国:2007年アメリカ・イギリス合作映画
上映時間:1時間57分
配給:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
キャスト:フィリップ・シーモア・ホフマンイーサン・ホークマリサ・トメイアルバート・フィニーローズマリー・ハリス、アレクサ・パラディノ、マイケル・シャノンエイミー・ライアン、ブライアン・F・オバーン

感想:

シドニー・ルメットといえば、「十二人の怒れる男」「セルピコ」「狼たちの午後」などで知られる名匠である。今までに多くの作品を監督してきた彼だが、90年代に入ってからはあまり評判がよくなかったようだ。そんな彼が御年84歳にして撮りあげたのが、この「その土曜日、7時58分」だ。結論から言えば、この作品はすでに書いた三本同様、彼の代表作となるだろう。それほど素晴らしい作品であり、傑作だった。また、彼は2011年4月9日にリンパ腫で亡くなったため、この作品がシドニー・ルメットの遺作ともなっている。素晴らしい作品だっただけに、次回作が永遠に観られないので残念でならない。合掌。

フィリップ・シーモア・ホフマンイーサン・ホークも素晴らしい演技だったし、なんといってもアルバート・フィニーの今作での演技は一生忘れることのできないほどの強烈な印象を与えた。名匠と名優の見事な化学反応がこの作品は起きている。そして、そういう作品こそ傑作と呼ばれるにふさわしい。

一つの犯罪に端を発した、ある家族の崩壊は痛々しく、全体のトーンも重厚で、決して気軽に見られるタイプの映画ではない。しかし、時間軸をずらす脚本により、徐々に観客に真実を明らかにすると同時に、それぞれのキャラクターの背負う「業」を伝えていく演出は流石というほかなく、観終わった後の充実感は久々に感じるものだった。84歳にしてこんな内容の、そしてこれほど素晴らしい映画を作ることができる。20代の私にとってそれは、羨望というよりも畏怖の気持ちに近い。

小太りのフィリップ・シーモア・ホフマンが「立ちバック」する姿から始まるこの映画には、老齢さは一切なく、人間というモノを徹底的に見つめるシニカルな視線だけがある。序盤のこのシーンが18禁になっている理由のようだが、ルメット爺さんからすれば「つかみはOKだろ?」ということなのだろう。

邦題は「その土曜日、7時58分」だが、原題は「Before the Devil Knows You're Dead 」となっている。タイトルではその前にもう一文ついて、

「早く天国に着きますように。死んだことが悪魔に知られる前に」

という一文になっている。つまり、この映画に登場する人物は、天国に行く前に悪魔に見つかってしまうと地獄に行かなくてはならないほどの「罪人」だということだ。それが一体誰を意味するかは実際に見て確かめて欲しい。

これは「犯罪」の物語である。

これは「夫婦」の物語である。

これは「兄弟」の物語である。

これは「親子」の物語である。

そしてこれは、「家族」の物語である。

物語の発端は、兄であるアンディ(フィリップ・シーモア・ホフマン)が、弟のハンク(イーサン・ホーク)に強盗計画を持ちかけるところから始まる。しかもその強盗の対象は、兄弟の両親が営む宝石店にしようということだった。強盗が入ったとしても保険が効くので両親に迷惑がかかることはない。警備の情報も筒抜けだ。その計画は易々と実行できる、はずだった。

しかし、計画と実行にはかなりの隔たりがある。まさにこれは「机上の空論」だったのだ。結果としてこの強盗計画は失敗してしまう。そして、もはや戻ることのできない大きな悲劇が起こってしまうのだ。この悲劇を契機として、アンディとハンクには不幸の輪廻ともいうべき連鎖が次々と起こっていく。

この作品の面白いところは、強盗事件から3日前、4日前のそれぞれの登場人物の行動があとから挿入され、つまり時間軸がばらばらに展開することで事件の真相が明らかになっていく。この手法はもはや目新しいものではないが、私が感心したのは、この手法がこれ見よがしに披露されるのではなく、あくまで映画上の演出として必要であり、かつ非常に有効に機能していることである。だから、この手法特有の混乱がこの映画にはまったくない。この辺りは一重に監督の力量によるものだろう。

他にも演出でよかったと思う場面が多くある。例えば、兄であるアンディが妻のジーナに出ていかれ、怒りを顕わにする場面。普通ならばここは、家にある様々な物をあたり構わずぶちまけるといった行動を取るのかなと予想される。しかし、フィリップ・シーモア・ホフマンは瞬間的に怒りを発散することを拒否する。その代り、静かな、しかし突発的な怒り以上の怒りを秘めながら、静かに物を床にまき散らかしていくのだ。この場面は本当に恐ろしかった。

笑った場面もある。逃走中のアンディとハンクが、クスリの売人であるゲイらしき男の高級マンションを訪れる場面である。アンディとその男が肉体関係があったかは明確にされないが、アンディは突然訪れた売人の部屋のベッドで、小太りの男が眠っているのを発見して怒りを顕わにする。(つまりこの売人はただのデブ専だったのだ!)

時間軸がバラバラのシーンで描かれるのは、一つの強盗事件を超えた、ハンソン家族そのものが背負う闇である。兄アンディは、弟ばかり愛する父を憎み、クスリに溺れ、金を横領し、妻とは上手くいっていない。弟ハンクは、離婚した妻に子供の慰謝料を支払うために困窮している。そんな二人が非現実的な強盗事件を計画し、そして失敗し、「悪魔に見つからないように」逃げ回る姿をカメラは執拗にとらえ続ける。

果たして彼らは「悪魔」から逃れることは出来るのだろうか。それとも、一度背負った罪から人間は逃れることはできないのか。答えは最後の最後までわからない。

そして最後、私は「悪魔」を見た。ここまで鬼気迫った、悪魔のような表情を見たことがない。アンディとハンクは疑うべくもなく罪深き人間たちであるが、この人物もまた、業を背負った罪深き人間なのだ。そして最後、この人物は逃げ回るべき存在である「悪魔」そのものに変容してしまう。

彼が最後に歩んでいく「光」の先には何があるのか。……悪魔が帰っていくのは当然、地獄でしかないだろう。

【映画】『英国王のスピーチ』

[★★★☆☆」
格式とユーモアと冗長と。


あらすじ:
現イギリス女王エリザベス2世の父ジョージ6世の伝記をコリン・ファース主演で映画化した歴史ドラマ。きつ音障害を抱えた内気なジョージ6世(ファース) が、言語療法士の助けを借りて障害を克服し、第2次世界大戦開戦にあたって国民を勇気づける見事なスピーチを披露して人心を得るまでを描く。共演にジェフ リー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム・カーター。監督は「くたばれ!ユナイテッド」のトム・フーパー。第83回米アカデミー賞で作品、監督、主演男優、脚本賞 を受賞した。

映画情報:
キャスト:コリン・ファースジェフリー・ラッシュヘレナ・ボナム・カーターガイ・ピアースデレク・ジャコビマイケル・ガンボンティモシー・スポールジェニファー・イーリー
監督・脚本:トム・フーパー
脚本:デビッド・サイドラー
製作:イアン・キャニング、エミール・シャーマン
撮影:ダニー・コーエン
音楽:アレクサンドル・デスプラ  
原題:The King's Speech
製作国:2010年イギリス・オーストラリア合作映画
配給:ギャガ  
上映時間:118分
映倫区分:G         (映画.comより) 

 
感想:

今年度のアカデミー賞で、12部門ノミネート、作品賞・主演男優・監督・脚本賞の5部門を受賞した「英国王のスピーチ」。監督のトム・フーパーは「レ・ミゼラブル」の公開も控えている。

この映画は、英国王室のジョージ6世コリン・ファース)という実在した国王を主人公とした物語になっている。ジョージ6世というのは、現エリザベス女王の父にあたり、彼の在位期間は1936年から1952年になる。在位期間でわかるように、このジョージ6世は第二次大戦下における英国王だった人物になる。このことがこの映画では重要な意味を持ってくる。

ジョージ6世は、小さな頃から吃音症という病気に悩まされていた。吃音症というのは昔でいう「どもり(今では差別用語?)」のこと。一般の人にとってもこの障害は日常に支障をきたす深刻な病気だが、このジョージ6世は、演説という国民全体に「語りかける」行為をしなければならないのだから、さあ大変。一国のトップの言葉は、時に国民全体の士気を良くも悪くも変える力を持つ。その国王の言葉の重みがあるからこそ、この映画はそれを克服しようとするジョージ6世の奮闘により感動することができるのだ。

また、感動だけでなく、この映画の「笑い」の部分も、演説すべき国王が演説下手というギャップによって生まれている。特に、のちに専任医となるローグ医師(ジェフリー・ラッシュ)との邂逅や治療の様子は、身分差設定を活かしたコメディ要素の強い、イギリスらしい会話劇になっている。また、 1930年代当時の、霧に満ちた汚らしさと伝統を兼ね備えた、これぞロンドンという風景が描き出されており、前半はその「イギリス力」とでもいうべき格式とユーモアでぐいぐい引っ張られる。(余談だが、「大英帝国」という字面のシンメトリーな感じが堪らなくカッコいい。)

兎も角も、そうしたイギリスらしいテンポと雰囲気で映画は進んでいくのですが、段々とその雰囲気は重苦しいものに変化していく。その大きな原因は、ナチスドイツの台頭など、きな臭い戦争の空気がイギリスにも押し寄せるようになったことにある。本来、ジョージ6世にはエドワード8世(ガイ・ピアース)という兄がおり、王位はその兄が継いだのだが、兄はその任を自ら降り、弟のジョージ6世が望まずとも王になることに決定してしまう。

ここにおいて、「スピーチ下手」という克服すべき欠点は、一国の先行きを左右するさらに大きな壁として、ジョージ6世の前に立ちはだかるのだ。ジョージ6世は望んで王になったわけでもなく、スピーチ下手という自分の欠点も認識している。しかしそれでも王は国民の前に立ち、国民に向かって語りかけなければならない。この映画の主人公は、一国の王という観客にとってはかなり遠い存在のはずだが、「自分の望まざる状況」で「自分の苦手なことをしなければならない」という経験は誰もが少なからずあると思うし、だからこそジョージ6世に感情移入し、感動することができる。

この映画は、ジョージ6世が国民にとって本当の意味の国王になるまでを描いた物語だが、「望まざる状況において、それでもなお、あがきもがき欠点を克服しようとする一人の人間」を描いた普遍性を持った物語でもある。ジョージ6世はスピーチに関しては「凡人以下」であり、それでもなお立ち向かう彼の姿には感動した。また、「凡人」としてのジョージ6世を強調するために、「スピーチの天才」を彼の前に登場させるシーンがある辺り、演出の上手さが光る。

ただ、この映画に不満がないかといえば嘘になる。この映画は基本的にジョージ6世と医師のローグの二人が、身分差を乗り越えて友情を築いていくことが基本軸になっているが、それにしては一方のローグ医師の描き方が薄い。オーストラリア訛りやシェイクスピアに造詣があるといった点、家族との微妙な距離など、前半で彼の抱える問題や状況が描写されるからこそ、のちにそれが回収されぬまま終わっていく点に違和感を感じた。ジョージ6世とローグ医師がその出会いによってそれぞれに抱える問題を解決する、という構造の方がより物語としては多面的で面白いものになったのでは?と思う。しかしこれは史実をもとにした映画であるし、創作の余地は狭いという点で致し方がないのかもしれない。

また、118分という上映時間にしては体感時間はそれよりも長く感じた。兄のエドワード8世についての描写など、もう少し脚本上工夫できる点もあったかと思う。脚本といえば、終盤でジョージ6世とローグ医師が、ローグ医師に関するある事実が原因で仲違いするのだが、このあたりの説明が足りてないように思え、若干唐突に思えた(しかしこの部分は私が単純に見逃したからかもしれない…)。

…とまぁ色々書いてきたが、総じていえば予告編を見たときの期待感には応えてくれた佳作だと思う。

ただ、「インセプション」や「ソーシャル・ネットワーク」などの作品が並ぶ中で、今このタイミングでこの作品にアカデミー作品賞を与える理由については「?」と思ってしまった。そういえば、キャラクターは全然違うが、コミュニケーション能力に問題があるという点では、この映画のジョージ 6世と「ソーシャル・ネットワーク」のジェシー・アイゼンバーグには共通点がある。

ちなみに、これが実際のジョージ6世の演説。うーん、確かにもっさりとした喋りだ。
http://www.bbc.co.uk/archive/ww2outbreak/7918.shtml