青い羊つれづれ日記

2019-01-15

麗江ぶらり旅〜(その6)食は命の泉

| 20:07

中国料理の特徴は南淡(ナンタン)、北鹹(ヘイシエン)、東酸(トンスアン)、西辣(シーラー)と言われている。南方料理はあっさり、北方料理は塩辛く、東方料理は酸味があり、西方料理は辛味が強いという意味だ。

中華料理が好きなのは亡父が中華料理好きだったことによる。父にとっては故郷の味だったからだろう。あるいはお袋の味への追憶だったのかもしれない。

定かには覚えていないが 、五歳くらいから連れられて横浜中華街食事をしたぼんやりとした記憶がある。年長になってからの記憶では今も続く「同発」が行きつけの店だったように思う。すでに六十年も前の昔話なのでデジャブなのかもしれない。

神戸長崎も、海外ではロンドンニューヨーク中華街を覗いたことがある。それでも世界最大の規模を誇る横浜中華街が大好きで、ことあるごとに足を運んでいる。ここに行けばどの地方の中華料理も食べることができる。同発以外にも何軒か行きつけの店がある。

雲南省麗江の旅では飛行機の機内食を除くと、朝昼晩三食、中華料理を食べた。この地方の料理は塩味が基本で四川省が近いこともあって唐辛子ニンニクも効いているが、それほど辛くなく、クセもなくて、食べやすい料理だった。春巻きや水餃子や焼売は一度も食べなかった。この地方では食べないようだ。

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海のない地方なので魚貝料理は食べなかった。ちなみの麗江市内を流れる川では魚釣りはしないという。水に棲む魚は龍の化身尊い生き物であるから食べないとのことだった。玉水寨の池では金色の鱒が養殖されていて、刺身が美味いと言っていたので、麗江の川魚に限ったことなのか、真贋は定かではない。

食べた料理は地元野菜と鶏あるいは豚肉の料理が中心だったけれど、食べ飽きず日本人の口にあってツアーのメンバーにも好評だった。重複はあるが、おそらく五十種以上の料理を食べた勘定になる。すべて素朴な家庭料理に近かった。

雲南省キノコが特産で地元で食べない松茸はほとんどが日本に輸出されているそうだ。数種類 のキノコは食べたのかもしれないが、季節のせいもあってそれほど印象には残らなかった。

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豆から作られたこんにゃくのようなもの、淡水に生える水草のような野菜、色の黒い鶏( 烏骨鶏か)、素朴な豚肉入り炒め物、ベーコンのような焼肉等、おそらく全て食材は地物だろう。豆腐入りスープはまさに日本の家庭料理と同じ味付けだった。

鍋料理以外の調理法は炒め物が多かった。印象に残った料理は野菜も肉も小さく方状に切った薄めの味付けの炒め物だった。数カ所のレストランでこれとよく似た料理を食べた。炒め物ではないけれど、日本の料理になぞらえると意匠津軽郷土料理であるケノシルに似ていた。それぞれの料理に日本のような名前はついていないかもしれない。

郷土料理名物鍋料理が主流のようだった。鶏肉や豚肉と野菜たっぷりの鍋で、濃厚なスープが美味だった。散策がてら眺めた麗江古城のレストランの中でも鍋料理が食べられていて、この地域の看板メニューのようだった。

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堂々と鶏の頭がそのまま入った鍋も美味だった。頭はきっと最も偉い家長か長老が食べるのだろう。

コース料理は品数も量も多くて、我がツアーは、妙齢(!)の人生経験豊かな女性や高齢者ばかりだったので料理が残ってしまったのには後ろめたさを感じた。満腹で、山盛りのご飯(米)に手が出なかったのが、ことのほか申し訳ない気がした。

2019-01-13

麗江ぶらり旅〜(その5)はるかな長江

| 06:17

この旅ではまったく予期していなかったいくつかの出来事に遭遇した。

ひとつは長江との出会いだった。

旅も終わりに近い1月2日の午後、空港へ向かう途中、麗江から西へ50キロメートルにある石鼓(せきこ、シークー)古鎮を訪れた。そこが、一生涯忘れないことになるだろう、長江との出会いの場所だった。

中国を横断するこの長大な川を日本では揚子江と呼んでいる。中国では長江あるいは、一文字で「江」と呼ばれる。ちなみにもう一つの大河、黄河は「河」と呼ばれているそうだ。

調べて見ると、この川の揚子江という呼び名は上海東シナ海に注ぐ下流の部分の呼び名で、チベット高原から始まり今回訪れた長江第一湾のあるあたりの上流部分は金沙江、以後の中流は荊江と呼ばれている。

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(石鼓鎮の坂道

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(16世紀にチベット軍を撃退した記念の古亭の石の鼓)

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(長征の記念碑が建つ石鼓鎮の丘からみた長江

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長江に接する石鼓鎮の街)

勝手な想像で、黄河は砂漠の黄砂を運ぶ荒ぶる猛獣のような濁流、長江は悠久の時をつなぎ、のどかにたゆとう大川のようにイメージしていた。実は、こんな想像とは違って、近代までしばしば氾濫を繰り返す黄河は底が浅く中流以降では水が少なく、このため水上交通が発達せず、太古、流域の交易は馬の背によっていたという。

それに比べてチベットを水源とする長江は南からの湿潤な風がもたらす雨によって水量が多く、早くから水運が発達した。これによって長江の流域では農耕と交易が栄え多くの都市文明が繁栄したとのことだ。

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(川岸の展望地から見た長江第一湾)

長江第一湾とは、この川が最初に大きく180度方向転換する場所だった。

私たちの世代では、人類の文明の起源として黄河文明世界四大文明発祥のひとつと教わったけれど、揚子江長江)上流でもこれに匹敵する古代文明の隆盛があったことが現在の定説になっているようだ。

中国の歴史は長すぎてなかなか親しみが湧きにくい。いつか三國志を読むことがあるかもしれないが、今のところまだその意欲が湧かない。

そんななかでも、李白杜甫象徴される漢詩の世界には憧れを感じてきた。

隋や唐の時代に日本との交流があった古代のロマンに惹かれるのは、はるか昔の遠い先祖から受け継いだ血が騒ぐからかもしれない。

歳の離れた詩仙・李白と詩聖・杜甫とには親交があり、互いの詩篇にはしばしば長江が登場している。

豪放な李白は酒に酔って溺れて死んだという。

思慮深い杜甫は叶わぬ栄達を嘆いて慎ましく死んだという。

二人がこんな辺境の長江の上流まで訪れた記録はないが、性格も詩風も異なるそれぞれが見つめた6500キロメートルにも及ぶ長大な川は歴史のロマンを乗せて今も流れ続けている。

長江との遭遇に、詩作に憧れた青春のほろ苦い思いが蘇った。

2019-01-12

麗江ぶらり旅〜(その4)トンパ文字と東巴文化

| 16:50

今回の旅行のもう一つの楽しみはトンパ(東巴、Dongba。中国語発音ではトンバに近い)文字を持つ東巴文化の歴史に接することだ。

トンパ文化はナシ族によって受け継がれてきた固有の文化で文字は世界記憶遺産に認定されている。麗江古城のあちこちの看板には中国語に添えてトンパ文字が書かれていて目を引く。いまでは文化遺産という観光資源としての役割が主で、日常用途には用いられていないが、表音と表意文字のどちらの機能も持つユーモラスな絵文字のような象形文字だ。

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実は、トンパ文字のことはだいぶ以前、30年以上前から知っていた。

今回の旅から帰って調べてみたがいつこの文字のことを知ったのか、結局はっきりしたことはわからなかった。おそらく1980年に放送されたNHK特集シルクロード」か、1984年に同じく放送されたNHK特集秘境雲南」か、どちらかがきっかけだと思う。その後、世界記憶遺産に登録された機会に民放で放送された番組も観たのかもしれない。

トンパとは伝統の宗教や催事をつかさどる司教を意味する。時には先祖の慰霊預言者としての役目を果たした長老たちのことを指す。むかし住んでいた津軽であれば、土着の神様であるおシラ様を祀る巫女のような存在だろう。死者の霊を呼び出し、現世の遺族に意思を伝える特殊な技能者を指す者のことのようだ。そのほかにも死者の追悼や日常の様々な困難への助言などを担っているらしい。いわゆるシャーマンに近い智者・賢者のことのようだ。ナシ族は女系家系の文化が基本だけれど、トンパは男性の長老の役目だったらしい。

トンパ文化はナシ族の伝統的な信仰であるトンパ教に基づいており、チベット仏教道教に土着の自然崇拝が混交して成立する宗教的な背景を持つ。トンパ文字は日常の通信手段と言うよりは、経典の記載や神話の記述に用いられていたようだ。およそ千年前に成立したとある。

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(トンパの神話が書かれている)

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麗江古城の北部にある玉泉公園(黒龍譚景区)後門に接する納西東巴文化博物館麗江博物館)にはナシ族の由来や東巴文化に関する多彩な資料が展示されていて面白かった。入るとすぐにナシ族神話が壁一杯にトンパ文字で書かれている。八人の兄弟と九人の姉妹が彼らの祖先だそうだ。

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中庭の床には中央の円に矢で刺された尻尾のあるカエルが配置されたルーレットのような模様が描かれてあった。トンパの神事に用いられた占いの道具を表しているようだ。この地方では生き物では蛙が一番偉いらしい。

トンパ文字の解読はなぞなぞの答えを探すような楽しさがある。わからなくて答えを見ると、確かにそうだなあと納得してしまう説得力があって興味が尽きない。

次の写真は何を表すトンパ文字かと言うと.『笑』という意味だ。女性が大きな口を開け歯をむき出しにして大声で笑っているように見える。まさに笑ってしまう(^。^)

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中国の他の少数民族でも独自の文字を持つ部族がある。日本ではアイヌに代表される少数民族に文字を持つ部族があったとは聞いたことがない。さかのぼって縄文弥生時代の遺品にも日本独自の文字は発見されていない。そもそも日本を統一した大和民族には固有の文字がなかった。漢字の伝来は三世紀後半から四世紀ごろといわれているし、日本独自の表音文字のカタカナが作られたのは漢字の伝来以降だ。

広大な中国の辺境に暮らす少数民族が文字を作るエネルギーはどこにあったのだろう。おそらく民族文字は大国とは別の民族独自の固有性を形として残すための手段か、遠方に住む同族にだけ理解できる情報を伝える手段として生まれたのだろう。言い換えれば、文明の発達程度ではなくて、自らのアイデンティティをみつめる熱意と反骨に依存していたのだろうと思う。

2019-01-11

麗江ぶらり旅〜(その3)玉龍雪山とナシ族の文化

| 03:09

麗江周辺に暮らす少数民族のナシ(納西)族にとって万年雪を抱く玉龍雪山は神々の住む聖地だという。

標高5596メートルの高山は雲に覆われて麓から頂を見ることができないことが多く、広州に立ち寄った際の地元のバスガイドからは眺めることができる幸運を祈っていると空港に向かう途中に言われた。

まさに幸運に恵まれて、麗江に滞在した四日間は連日快晴となり、朝日に輝く日の出から日没までくっきりと霊峰の姿を眺め続けることができた。

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天気に恵まれた場合にだけ催行されることになっている、今回のツアーの目玉のひとつの玉龍雪山展望台に立つことができたのはこのうえない感動の経験だった。

元日の朝、ゴンドラに揺られて訪れた標高4506メートルの氷川公園展望台では遮るもののない全天空の展望を堪能した。

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ここからさらに上を目指して歩けば、4680メートルの地点まで登ることができるが、初めて経験する超絶のこの高度は空気が薄く、息が切れて、一歩一歩の脚が重く、歩くのがやっとだった。

賑やかに騒ぐ中国韓国の若い観光客が列をなして上を目指しいていたのが少しだけ羨ましかったけれど、高山の厳しさを十分に満喫できたので展望台より上に登るのは諦めた。今、アコンカグア登頂最高齢者記録の樹立を目指している三浦雄一郎氏の冒険を一部疑似体験できたのはまたとない体験だ。

風に音がない。眩しくて目を開けているのが辛い強烈な紫外線が降り注ぐ氷原に立っていると天と地の間にいる不思議を感じた。玉龍雪山の名前の由来は陽を浴びて銀色に輝く氷河天空を舞う龍に見えるという中国人らしい譬えに由来するらしいが、きっと誰でも、翼があればこのまま天上へと飛んで行きたい気持ちになるに違いない。

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ナシ族の伝統的な信仰宗教は日本と同じで万物に神々が宿る自然崇拝を基盤とした多神教だ。素朴な自然信仰に近い。その点では日本の古来からの神道との共通性を感じる。風貌や気質も日本人に似ていて先祖の由来を想像するのも面白い。

氷川公園から下った後は、ここも聖地の雲杉平(うんさんへい)を訪ねた。雲南杉の森を抜けると玉龍雪山を遠景に広がる山中の平地で、ナシ族信仰では天国への入り口に相当する場所だそうだ。日本であれば立山連峰の室堂平というような場所かもしれない。火山の噴気はないので室堂平のような張り詰めた緊張感はなく、牧歌的な草原の広がりにここに住む民族のおおらかさを感じた。

由来と伝説を聞くと、かつてここは寄り添うことのできない運命の若者たちの心中の場所だったそうだ。ここに来て聖山を眺めながら来世での逢瀬を誓い、ひとときの安らぎのあと、永遠の愛の成就を願って毒草を食べて心中を図った場所だという。天国への入り口は悲恋のロマンに彩られていて、立山のような殺傷気が漂う天国と地獄の境目とは趣が違うようだ。

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おとぎ話のような由来とは裏腹に、大勢の観光客が記念写真を撮り気勢をあげていた。ガイドの話では最近、中国で流行っているネズミ講の団体がこの日大挙してここを訪れているとのことだった。いずれは破綻があきらかなネズミ講の仕組みは最近怪しげな団体によって日本から持ち込まれた仕業らしく、いかがわしい事業の隆盛にガイドは眉を潜めていた。

ツアーバスはこのあとも景勝地を巡るプランになっている。海外旅行のツアーに参加したのは今回が二度目だ。予備知識がなくても次々に観光地を繋いで案内してくれるので、自分のようなズボラで学習なしに参加するものには楽チンこのうえないが、次々と色々な場面に遭遇すると段々とこんがらがってしまい、次第にどこを訪れたのかわからなくなってしまうのが難点だ。

次に訪れた玉龍雪山を望む藍月谷(らんげつこく)や甘海子も美しい場所だった。

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(藍月谷)

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(甘海子の石碑前にて)

中国多民族国家だ。いま問題となっているアメリカヨーロッパ移民による多様性とは大きく異なり、この国では有史以前の先住民と歴史の中で浮き沈みする侵略者によって書き換えを繰り返す世界史の中の多様性に基づいている。十分調べたわけではないが、中国では現在五十六部族の民族が住んでいるらしい。圧倒的多数を占めるのが現在の政権を担う漢民族で、その他にも千数百万からせいぜい数万人の民族まで多種多様な民族がそれぞれの風習信仰を拠り所として暮らしを維持している。

日本でも基本的には先祖の出自は多様であるのだろうけれど、少なくとも現在では日本に住む多くの在来人は民族としての執着はすでに希薄になっていると言っても大きな間違いはないだろう。節句お盆など、日本古来の習慣や土俗的な信仰中国をはじめとした外国から伝来した風習が渾然と混ざり合って日本の文化の現在を形作っている。今年、平成が終わり新たな元号となる日本と日本人のアイデンティティとは何かと考えてしまう。

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(束河古鎮の露天商

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現在の中国の発展の勢いがいつまで続くのか、誰にも予測はできないと思うが、経済や社会の発展は永遠に続くことはないのが歴史の真実だから、今後のこの国の在りようがどのように展開するのか、多くの人々の関心を集めているのがうなづける。日本を離れ外国の空気を吸うと、今更ながら、地球人である自分と向き合う機会になるのは間違いない。

現地ガイドに聞くと、これまでの中国の治世者の中で誰が一番尊敬されているかと言うと、小平だという。毛沢東も根強い人気があるという話だった。いづれ政治家も現代中国の発展の礎を築いたことで尊敬を集めているようだ。かつての文化大革命の時代、伝統を徹底的に破壊する機動力となった紅衛兵だった若ものたちもそろそろ50代、60代に差しかかっている。「白猫黒猫論」として今も記憶に残る改革開放路線を足場として、次の現在の働き盛りがこれからの中国を大きく変える担い手となりつつある。この大国も確実に次の時代に向かっているのだろう。

そんなことを考えると苦手な世界史にも少し興味が湧いてくる。

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(白沙近郊のチベット仏教寺院・王峰寺門前で’営業’するナシ族の老婆たち)

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麗江とその周辺には三十万人のナシ族が住んでいるという。それ以外にも多種多様な辺境の少数民族の装う民族衣装は色鮮やかで、彼らが受け継いできた固有の文化がこれからも大事に受け継がれてゆく時代が続くのか、少しばかり心配になってくる。でも、訪れたあちこちの旧跡で真新しい民族衣装で着飾った若者達が結婚記念のアルバム製作用に記念写真を撮る光景に出くわすと、そんな危惧が意味のないように思えてきた。

2019-01-08

麗江ぶらり旅〜(その2)麗江はワンダーランド

| 08:21

雲南省は地図で見ると小さく見えるが、面積はほぼ日本と同じで、麗江は大きな省都昆明や隣接する大理とともに雲南を代表する一大観光地だ。

地理的には昆明から北西600キロ、大理から北に200キロ離れた場所にある。

金沙江(揚子江上流)を挟んで、有名なシャングリラ香格里拉)のあるデチェンチベット族自治省に向かい合っている。

訪ねてみると旧市街と新市街を合わせて百二十万人もの人口が住み、こじんまりした少数民族の住む辺境の地のイメージとは異なる発展途上の地方中核都市だった。

麗江中国語でリジアンLijiangと読む。

観光の中心をなす麗江古城旧市街)はまさに大きなワンダーランドで、中世の明代や清代の古い町並みを残し、あるいは再現したテーマパークのような観光地だった。

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旧市街のほとんどの地元住民は新市街に移り住み、迷路のような石畳の道が続く古城の中は古い民家を使ってこの地方特産の中国茶プーアル茶)や銀細工、土産物を売る商店、ホテルやレストランなどの商業施設が軒を連ねている。

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(朝の黒龍譚から望む玉龍雪山)

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(市民の生活を支える井戸、三眼井)

古城のはずれには玉龍雪山の雪解け水に由来する伏流水が湧き出る黒龍譚と名のついた水源があり、ここから流れる清流が街を潤している。

あちこちに古い井戸もあり、いまでも住民の生活の支えとなっている。

南門と北門をつなぐ市街のほぼ中央に四方街と名のついた広場があり、周囲をホテルと土産物屋、レストランが取り囲む。かつてはここが住民の生活を支える露天市場だったそうだ。現在ではイベント広場になっていて民族衣装を着た地元民が中国風の音楽に乗ってダンスを踊っていた。

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(北門街のランドマーク古城水車)

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(四方街の東面)

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先住民少数民族ナシ族で、この街は今から八百年前(南宋末)に中央政権(元)から統治を任命されたナシ族の豪族、木氏(ムー、日本語読みでモクシ)が本拠地だった白沙から移住して造成した街だという。

四方街から南に数分歩いたところには木氏の故宮だった「木府(モクフ)」が往時の三分の一の規模で再現されていた。それでも地所は広く、忠義坊と名の付いた議事庁や政務のための建物は当時の木氏の強大な権力を忍ばせる。

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街のあちこちからナシ族の聖地、玉龍雪山が眺められる。

氷河のあるこの山には現地3日目にロープウェイで登った(後述)。

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朝陽に照らされるナシ族信仰の山、玉龍雪山)

古城内には古い遺跡の大石橋や長い年月でつるつるにすり減った石畳が続き、赤く塗られた住宅や商店の壁や柱、重なり合って美しい光景を生み出している瓦屋根の波は栄えていたこの街の往時を忍ばせる。たしかにふらふらと街を歩くと明代や清代にタイムスリップした感覚になる。耳を澄ませば荷物を運ぶ馬の蹄の音が聴こえるようにな気がした。

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旧市街最古の大石橋)

現代中国では新暦年末年始にはあらたまった行事はなく、企業や学校は12月30、31日、1月1日は三連休だけれど特別な祝い事はしないと現地ガイドさんが教えてくれた。中国人にとって正月と言えば、旧暦春節をさすそうだ。とはいえ訪れた年末休みの旧市街は、夜明けすぐの朝の散策を除くと昼前から深夜まで観光客でごった返す賑わっいだった。しかし欧米人や日本人はほとんど見かけなかった。辺境だからか、あるいはあまり知られていなからだろうか。

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古城旧市街南部には野菜や生鮮食料品、日用雑貨を売る露店の生活市場である忠義市場があったが、それ以外の場所はに生活臭がなく、それこそ街全体が巨大なテーマパークそのものの感じがした。