いち在日朝鮮人kinchanのかなり不定期更新日記

はてなダイアリーから移行しました。古い記事ばかりになりましたが、ボチボチ更新していこうと思います。

Amazonでベストセラー? 「在日通名大全」 — 差別のための労力と屁理屈

先日取り上げた「国葬議」については、圧倒的大多数の日本国民が弔意を示すことを当然とし、それに同調しない者に対し有形無形の圧力をかけるのではないか、と予想していたが、どうやらそれは大きく外れたようである。どの世論調査を見ても(Twitter等の母集団形成が怪しいものは除外して)、国葬実施反対が賛成を上回っている。
国葬で祀られる安倍の資質や資格を語る者、法的手続の不存在を訴える者、「内心の自由」の侵害を問う者、財政の観点から批判する者、統一協会というカルト集団との関係から安倍の再評価をして転ずる者(今更感はあるが)、様々である。
対する賛成論者の意見は、(自分らで葬式やお別れの会程度をやること自体は誰も止めていないが)国葬と一般的な葬式を意図的に混同し、いつもの界隈の連中が念仏のような反芻を繰り返すだけでまったく説得力が無い。
英国女王の死去も影響して、国際的にもまったく盛り上がりが無くなってしまった国葬を、自民党は意地でも強行するようだが、私が憂慮していた「市民の分断」ほどの威力は、今となっては持ち得ない。弔意を示さないことが平常運転となりそうだ。それだけでも、「良かった」と思える。
国葬については、歴史的な評価は固まりつつあるので、これ以上書かない。

 

さて、

日頃、amazonで本を買うことが多いのだが、信じられない本がベストセラーになっていて、腰が抜けそうになったので紹介しておく。
(一応リンクを貼っているが、この本のレヴューを参照いただくためのものであって、書籍の購入を推奨しているわけではない。お断りしておく)

 

 

まさかの、「在日通名大全」である。
ザイニチが使っている通称名によくあるものを挙げて論じる、という「学術本」らしい。


紹介文にはこうある。

『在日通名大全』は日本初の在日コリア人の通名を研究した本です。「在日」は在日外国人の略称であり、本書では特に在日韓国・朝鮮人に限定して使用します。また、大韓民国朝鮮民主主義人民共和国のどちらかを支持するわけではないので総称として「コリア」と呼ぶことにしました。通名を多く知って在日との関係改善に役立ててほしいと考えています。 本書は『官報』の帰化の記録に記載のあるすべての通名9,672個を収録しています。特にその語源に関心のある名字810個には◎をつけて判別できるようにしました。あなたの名字、知人の名字はありますか? 100人以上記載のある重要な通名363個には推定人口と帰化人数を記しました。どのような名字を思いつきますか? 付録として大韓民国の姓ランキング、コリア人の個人名、創氏改名、本貫の項目を収録しました。大韓民国の姓で上位10個は多い順に金李朴崔鄭姜趙尹張林。ほかの姓は知っていますか? 巻末で1959年、1980年、1952年から1995年の通名ランキングを記載しました。1952年から1995年のランキングは100人以上記載のある通名363個の順位であり、本書で初公開のデータです。全数調査の結果では新井は2位。果たして1位は何でしょうか?

 

官報を繰ってまでしてザイニチの通名をあげつらう、という行為が何を意味するかは、論じるまでもない。個人をザイニチに特定して、差別や選別のネタに使うことを扇動・幇助する行為、それ以外に無い。実際の出自及び自己認識がどうであるかは関係ない、差別扇動のための書籍である。

そもそも、「ザイニチである可能性が高い苗字」を理解して、その氏の者と接触し、どのような過程を経て『在日との関係改善』が成り立つのか?

屁理屈にしても出来が悪い。

 

出版社が、よりによって、あの「示現舎」である。学術研究と称して各地の被差別部落を練り歩き、被差別部落と、その周辺の「部落でない」土地とを比較して嘲笑し、至るところでトラブルを起こしている、あの悪名高いYoutubeチャンネル「神奈川県人権啓発センター」を運営する、あの「示現舎」である。まさに差別をメシのタネにする唾棄すべき出版社の、差別を意図した書籍が、こともあろうに、Amazonのベストセラー、である。まったく、どうかしている。

 

これを見た瞬間に思い出したのが、「部落地名総鑑」事件である。1975年ごろに、どこが被差別部落かを詳細に記載した書物が次々に出版された事件である。これを企業が買い求め採用活動等に活用されていたというのだからおぞましい。どのような経過をたどった事件か、参照してほしい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%9C%B0%E5%90%8D%E7%B7%8F%E9%91%91

 

差別心が芽を出すとき、差別する者の最初の行動が、「我」と「彼」を隔てる差異を見つけることである。その後、「我」を上げたり「彼」を下げたりすることで、属性そのものを貶める差別行為へと繋がっていく。
インターネット上で、動画サイト上で、「あの芸能人はザイニチではないか」「亡くなった○○は実はザイニチだった(隠していた)」という言説が消えたことは無い。例えばある芸能人のスキャンダルがあれば、早速「目元が半島顔だ」とか「氏が○○だから本名は△だ」とか、ザイニチ認定が積みあがっていく。暇つぶしにちょうどいい、罪悪感の無いライトな差別コンテンツなのだろう。
事実かどうかは関係なく、叩くことを正当化する記号として、ターゲットをザイニチにするわけだ。醜悪そのもの、と言わなければならない。

 

日本の植民地政策における「創氏改名」で、朝鮮人が先祖由来の姓を棄て日本人風の氏名を付けさせられたのが、ザイニチの「通名」の、ほとんどである。朝鮮の姓に一文字足したり、地域や祖先の文字を当てたり、どうにか朝鮮のルーツを残そうとした。例えば金であれば「金山」「金本」「金城」「金海」などとなった者が多い。
しかし当然に、これらの氏を使うからといって朝鮮人の証明にはならず、朝鮮になんの関わりの持たない者も多い。それこそ木村や田中など、日本人のトップ10に含まれる氏を付けた朝鮮人も少なくない。
調べてもどうしょうもないものを、何故に書籍にしてまであげつらうのか?

「差別心を満たすため」としか説明がつかない。

 

私は大学生のときに、本名とともに取りついた「通名」を、自らの民族的アイデンティティの自覚に基づいて消除し、以降すべての社会生活に本名を使用して過ごしてきた。ザイニチが社会の中で顕在化して日本人個々と生身に交流するほうが差別は氷解するだろう、という(今から思えば陳腐な)理由からであったが、いまでもこのことで、名前を見てケンカを吹っ掛けられたり、客からクレームが入ったりする。わざわざ詳細は書かないが、ケッタクソ悪い思いを散々してきた。それだけ「朝鮮人差別」はポピュラーな差別なのだろう。
これが齢40を過ぎて社会的立場も伴ってくると、逆に「差別もあるだろうに本名を名乗ってて偉い」だとか「ほかのザイニチも金さんみたいに本名で生活すればいいのに」とか、私にアピールする意図で軽薄なコトバを向けてくる者も現れてくる。「俺には差別心は無いよ」というアピールが痛々しく、何とも言えない気持ちになる。

 

何故に多くのザイニチが出自を隠し、通名を用いて生きているのか、3秒ほど脳味噌を動かせば分かるだろう。多くのザイニチが日本社会の中でザイニチとして顕在できないことが、何よりの証明ではないか。

まったくどうしようもない話だが、Amazonはフィルターがザルなのだろうか、コンプライアンス的にも非常に問題があると思うが、どうだろうか?

安倍元首相の国葬決定 — ザイニチみたいに排撃の波が起きなければいいが

安倍元首相の死去に対し、今秋に「国葬議」が執り行われることになった。

 

岸田内閣総理大臣記者会見

更新日:令和4年7月14日

https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2022/0714kaiken.html

 

岸田首相は、その意義を「憲政史上最長の内閣」「卓越したリーダーシップ」を遺した安倍元首相を讃え「民主主義は暴力に屈しない」ことを内外に示すこと、としているようだが、

 

・「憲政史上最大の内閣」は国葬に値するのか

・「多大な功績」とはいったい何か

・「民主主義は暴力に屈しない」ことを示すことになるのかどうか

疑問山積である。

 

ただ単に姑息に延命した結果として憲政史上最長になったのではなかったか、

庶民は確実に貧乏になり憲法や法治が軽視されモラルはハザードしまくりだったが、それが功績になるのか、

被疑者は政治的意見で彼を殺したのではなさそうだが統一協会云々を隠すためにそういうことにしたいのか、

2秒くらいで次々、本当に次々と疑問符が浮かぶ。

 

国民大多数の圧倒的な同意のもと内閣が賛意に押されて決定した、ということではなく、どこまでも賛否両論なものを、政治的な思惑優先で国費を投じ実施するらしい。

根っからの安倍不支持者である私が今般の国葬に反対なのは言うまでもないが国葬の実施如何については、諸兄が散々書いているので、これ以上は書かない。

 

 

 

私が危惧するのは、

国葬に至るまでにどのような雰囲気が醸成されるのか、国葬に反対する者、弔意を示さない者に対する「圧力」「排斥」が拡がるのではないか、という危惧である。国葬に対する態度如何で、また市民が分断されるのではないか、と危惧するのである。

 

・当日までに、昭和天皇の体調不良が続いた昭和63年よろしくの雰囲気が醸されるのではないか?

国葬に反対するデモや意見に対し、様々な排撃や吊るし上げが行われるのではないか?

・当日は休日の扱いになり、学校や事業所も「平常運転」が許されないのではないか?

・極端な団体が出てきて、弔旗を掲げろ、弔文を打て、喪服を着ろ、遊興や演芸はするな、とか言い出すのではないか?

 

自民党がかの日、連呼した「民主主義の価値」が、国葬で試されると考えている。

 

思えば、

私が朝鮮学校の生徒だった時、初級学校(小学校)時代は、日本の祝日は学校の休みではなかった。逆に朝鮮の祝日(4/15金日成の誕生日や9/9建国記念日など)は休日であった。朝鮮の休日に近所のゲームセンターに遊びに行ったら、そのゲームセンターの親父に「学校を休んで来るな」とか言われるので、その際は決まって「学校の創立記念日だ」と言い訳する知恵がついていた。

その後、保護者からの意見もあって日朝両方の祝日を休むようになった。送る側の保護者の負担とか、学校教員側の負荷とか、いろいろ理由があったが、並行した保護者の意見として根強かったのは、日本の祝日に平常運転で登校させると、朝鮮学校の生徒だとすぐにバレて、例えば「朝鮮学校の生徒は天皇陛下の誕生日を祝わないでけしからん」と排撃に遭うので休ませてほしい、というものだった。チマチョゴリ事件の真最中で近所の女子生徒が次々制服のチマを切られる事件が続発したころだったので、やむを得ない、というか妥当な判断だったと思う。

 

ザイニチが顕在化すると排撃に遭う。

レイシストは排撃材料を確保するために、ザイニチ認定を行い、「本名推奨」を行い、挑発を繰り返す。政治は差別をガス抜きのメディアとして放置しているので、これからも当分は、ザイニチは攻撃に遭わないように、通名を使い、チマチョゴリ制服を脱ぎ、息をひそめて生きるしかない(私は本名で生活をし、決して息をひそめなどしないが、ザイニチ全体では少数派だろう)。

 

これと同じ図式が、国葬当日にかけて再生されるだろう。

日頃「ザイニチ探し」に奔走するレイシストらと同じような価値観の目線で、彼に弔意を外形的に示さない者を『非国民』扱いする言説や行動が溢れ、内心の自由を侵して恥じ入らない連中が、日の丸を手に闊歩するだろう。

それが、かの日、自民党によって声高に主張された「民主主義」日本の姿であることを、よく目に焼き付けておいたほうが良い。

 

杞憂となれば良いとは思うが、たぶん無理だ。同調圧力が強すぎて息が詰まりそうである。

安倍元首相の死

安倍晋三元首相が凶弾に倒れた。

彼が第一次政権で首相を始めて以来の、根っからの「安倍不支持者」である私にとっての彼の死は、喜べるようなものではまったく無かった。

暴力によって生命が奪われたことによる戸惑いや憤りばかりだ。

冥福を祈ることなどはあるわけが無いが、少し思いを馳せてみたい。

 

彼の政治家としての素質や、民主主義をないがしろにする政治姿勢、日本の政治風景を何十年も後退させたことに対する憤慨については、これまで諸兄が散々書き連ねてきたことなので書かない。

 しかし、彼の死によってもたらされる社会の損失は、彼の生命以上に、幾重にも重大で、日本社会に暗い影を落とすものである。私はその、余りにも分かりやすい近未来に絶望している。私の絶望について、少し書いてみる。

 

 

 

まず、彼が、自らの責任において被告人席に立つべきあらゆる政治疑獄について、自らの口で語り、自らの罪を償う可能性が、永遠に絶たれたことに対する、日本社会の損失である。

彼が、この社会の民主主義が正常であれば負ったであろう刑事責任をことごとく負わず、正常であれば機能したであろう国会の議論がことごとく空費され、正常であれば生きていたであろう役人が自死し、正常であれば追いやられたであろう政治家の立場を維持して死んでいった。

これをろくに清算せず、歴史的に評価せず、法の支配が破壊された状態で、彼の生命の終焉によって、うやむやに決着が図られたことは、まことに大きな損失であると言える。

 

一般庶民はコンビニでコーヒー代を数十円ちょろまかせば逮捕されるが、彼は国費を数十億円保身に費やしても逮捕されるどころか崇められる。

ある国会議員は鉄オタよろしく写真を撮りに線路をまたげば検察沙汰になるが、彼は検察官の人事にまで口を出して自らの疑獄を握り潰す。

まことに不公平な世の中だ。法の下の平等が泣く、というものだろう。

元々差別主義が払拭できない社会だったが、この10年で、よりグロテスクで露骨な社会に、「富益富貧益貧(富める者はますます富み貧しい者はますます貧しい、資本主義社会の本質として朝鮮学校でよく習う)」の社会に、見事に成り下がった。

 

 

 

次に、彼の死を徹底的に利用するであろう、近未来の政治風景が、絶望に余りあるということである。

自民党の国会議員、今回の選挙の候補者がことごとく、「民主主義に対する挑戦」という言句を口にしている。コトバの意味をよく考えて言ったほうががいい。普段民主主義をないがしろにしている自民党の議員がここぞとばかりに民主主義を連呼していることには反吐しか出ない。

民主主義を尊重するのであれば、国会での野党の質問に子供じみた妨害はしないだろうし、「野党の言うことなんか聞かない」などという暴言は出ないだろうし、選挙で吐いた公約を軽んじて恥じ入らないということも無いだろう。ことごとく民主主義の手続きを軽視し、監視するマスコミに圧力をかけ、一昨日までニュースに選挙がほとんど取り上げられておらず、「選挙=民主主義」が風前の灯火となっていたのが現下の日本社会である。

それなのに厚顔無恥にも、自民党は「選挙=民主主義」を旗印に最後の一日を過ごすだろう。明日は、弔い合戦よろしく「安倍元首相の死を無駄にするな」と、見事なまでの泣き落としに入るであろう。SNSでもそのような言句が並ぶだろう。そして分かりやすい文句に、これまた分かりやすく単純な有権者らが感化され、同情票は一気に自民に加勢するだろう。当落線上に居た自民候補はことごとく当選し、維新を除く野党はあっという間に飲まれるであろう。憲法改正ラインどころの騒ぎではない、荒廃した国会風景が、既に確定したも同然である。

 

当然、彼の死は憲法改正も勢いづかせる。「安倍元首相の遺志を成し遂げよう」という文句で埋め尽くされるであろう。少なくとも憲法改正国民投票に付すのであれば、その中身を詳細に広報し、その賛否を問うべきだろうが、そんなものはすべて「安倍元首相の悲願」という文句に取って代わるであろう。そして彼の思想にシンパシーを抱く多数の国民(国家主義へのシンパシー、という言い方と大差はない)が、中身を精査せずに彼の棺桶に票を投げるであろう。

 

襲撃犯人の蛮行は、この国の民主主義を完全に殺したと言っていい。

この国の鈍磨な民主主義の構成員は、やたらと人の死に寛容だ。レイシストであろうが独裁者であろうが、死んだらさっさと免罪して、線香の一本、香典のひとつでもくれてやるのだ。彼の影響でどれだけの者の人生がないがしろにされたか、どれだけの日本の風景を破壊されたかを顧みず、死んだら赦され、聖人のように崇められるのだ。それが、選挙戦も終盤の、自民からしたら抜群のタイミングで起こった。勝敗は、投票箱を開ける前に、見事に決したのだ。

結果は見るまでもない。

 

蛇足ながら、

今回も「犯人=朝鮮人」的な言句が、飽きもしないでtwitterを賑わしている。もちろん、犯人の実際がナニ人であろうと、このような言句の発生にはまったくの影響は無い。良いことをすれば日本人だし、悪いことをすれば朝鮮人、というまことに都合の良い思考回路なのだから、実際はどうでもいい。

問題は、このような社会を賑わす蛮行があって、社会的な不安が惹起されたときに、いつも持ち出されるこのような図式に、政治の側が注意喚起なり、打ち消す動きなりを、まったく見せないことである。このような言説を意識的に放置して、社会不安とゼノフォビアを結び付けてささやかな利を得ているのである。暴力の連鎖が社会的な弱者に向かおうとするとき、真っ先に「朝鮮人」の「子ども」がやられる。今日から多くの朝鮮学校が集団登下校だ。

この社会の風景の未熟さを見るにつけ、いつも叩かれる側の我が運命を呪っている。

また陰鬱な選挙の時間がやってきた(今回も無理だと思う)

ほぼほぼ休眠状態のブログに、ちゃんと記事をアゲる定期的なイベントがやってきた。

「選挙」である。

 

いままでアゲてきた選挙ネタを再掲する。

2014-12-12

無権者のkinchanより、有権者の皆様へ。『投票に行ってください!』

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20141212/1418357734

2016-07-11

盛り上がらなかった祭り(参院選)の後で、無権者は思う。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20160711/1468167331

2019-07-10

雑感:また陰鬱な選挙がやって来る。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/2019/07/10/162830

2019-07-30

雑感:日本には民主主義は無理だ、という結論に達している。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/2019/07/30/233912

 

今回の選挙は、安倍菅政治という、グロテスクで、無節操で、コロナ禍という社会危機の中では政治屋としての役割を全く果たす気が無かった無能な集団に、選挙民がどのような審判を下すか、という選挙である。

しかし、もう大勢は決まっているようである。大方の新聞を読む限り、自民が安定的な過半数を握り、立憲や共産などの野党共闘勢力は微増、というところのようだ。

 

※但し、「そういうストーリーにして投票率を下げる狙いを持った情報操作だ、という見方も存在する。

 

確かに、

選挙がこのへんにある、小選挙区だから一本化を推し進めて与党vs野党、という構図にしないと勝ち目がない、というのが分かっているのに、野党側は共闘の構築が遅々として進まず、挙句に枝葉末節の違いにアレルギー反応が止まらず仲違いを繰り返した。聞けば、連合は、あろうことか共産の統一候補を応援せず、与党の公明党を応援する、というような選挙区もあるらしい。https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA26BC50W1A021C2000000/

共産主義が憎いのは勝手だが、労働者の生活を踏みつけている与党側を応援する、というのは流石に頭が悪すぎる。この一件のみ見ても、連合が労働者の利益を代表する機関などではなく、労働貴族が労働者階級を資源にブルジョアジーに滅私奉公する出先機関だということが見て取れる。

 

この野党のゴタゴタの代わりに維新が大躍進、らしい。冗談も大概にしなければならない。PCR検査をイソジンで切り抜けることを発明したことくらいしか功績が無く、維新の城下では医療と産業が疲弊しきっていて東京などよりも新規患者が人口比で量産されているというのに、維新のナニを評価して大躍進なのか。本当に選挙民が節穴揃いで意味不明である。仕事そっちのけでテレビに出て「吉村サン頑張ってはるから」と投票するオバハンには反吐しか出ない。まさに、出るほうも出るほうだが、出すほうも出すほうである。

 

常に思っていることであるが、選挙民の大半が、とにもかくにも精神年齢が幼児程度なのだ(投票率と投票先が証明)から、野党が勝とうと思うのであれば、幼児にも分かるレベルの選挙構図にすると同時に、徹底的に与党の失策を突き、幼児程度の記憶力しかない選挙民の記憶を、繰り返し繰り返し呼び覚ます作業をしなければならないのに、つまらない小さな差異で数人も同一選挙区に立ち、クリーンだのなんだのと自らの小綺麗な政策しか言えない。今回の野党共闘には中途半端感が拭えない。

 

こんな野党側の子どもっぽさを見るにつけ、自民や公明、そして維新の、選挙時のみの「大人の対応」は政治屋として成熟のものだと言える。自公や維新には何度かの選挙で成功体験が積みあがっている。テレビでやらなければ選挙は無いものにできるし、キレイな顔だけ出して、ウソでも何でも新しいことや聞こえのいいことさえ言えば票を入れてくれるし、選挙で言っていたことの検証にも有効なものは存在しないし、選挙が終わった後はいくら不正を積み重ねても選挙民は忘れてくれる、という圧倒的な成功体験である。この成功体験を不動のものにしているのが、取り囲む選挙民の幼児性であり、機能を失ったこの国のマスコミの現状が、その幼児性を補完している。

 

私の選挙に対する「諦念」は、数年前から変わらない。この「諦念」を見事に描き切った記事である。5年前の記事だが、私の感情も、恐らく森監督の感情も、不変だろうと思う。

 

まだ絶望していないあなたへ
森達也 (映画監督・作家・明治大学特任教授)2016年7月4日

https://politas.jp/features/10/article/496

 

今回は、この国がマトモな民主主義国に戻るための最後のチャンスだと思う。

これだけ民をないがしろにしてきた10年弱の政策、極めつけがこの2年弱のコロナ禍での政策だったわけだが、これに対する怒りがあるなら、この無策の連続に対する記憶力が人並みにあるなら、投票先の回答はおのずと出る。普通なら。

しかし、投票率は最低レベルの50%台だろうし、自民は過半を得るだろうし、公明は全選挙区当選だろうし、我が大阪は維新が、イソジンの功績を讃えられてほぼ独占するだろう。

絶望するばかりだが、これが日本の民主主義の現状である。


私は朝鮮学校で学んでいた時に、資本主義の本質を「富益富貧益貧」だと習った。
「富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しい」という意味だ。良く本質を突いた言葉だと思う。資本主義の弱肉強食機能の中で社会格差が拡がっても、政治が再分配に関心が無ければ、社会にその機能が無ければ、貧しさに墜ちた者は、社会的に再び立ち上がることさえ厳しくなる。

再分配を是とし、公平な社会を築こうとしている政党はどこか、おのずと答えは出るはずだが、現実は、貧しい者が、自民党や維新の会の、中身の無い甘言に騙されて票を捨て、投票箱が閉まったら手のひらを返されてもコロッと忘れる。

この現状を、外国や外国人との比較ではなく、自らのものとして直視するところから、まずは始めるべきだと思う

 

と吐いて終わろうと思ったが、日本が民主主義国に踏みとどまることは、無権者の私のとっても大事なことである。

朝日がやっていた政策マッチをやってみたら、私にマッチしたのは共産党だった。まぁ妥当なところかと思う。

 

 

共産党の政策動画を観て、腑に落ちたものを紹介しておこうと思う。

朝鮮学校の卒業式に思う。

先日、我が息子の、朝鮮初級学校の卒業式があった。

息子が初級学校に通うあいだ、特にここ数年は仕事ばかりの親父で、ろくに授業参観や親子行事にも参加できなかった。それを恥ずかしく思いながらも、我が息子の晴れ舞台を観に久しぶりに学校に出向いた。

 

学校の小さな講堂には、保護者や下級生が溢れんばかりに集まっていた。これでもコロナ禍のなかで参列対象者を絞っているのだという。式が始まるだいぶ前から、教員らは口々に私の前を通り過ぎながら「○○さんのアッパ(お父さんの意)、おめでとうございます!」と祝いの言葉を掛けてくれる。仕事の忙しさとコロナ禍の影響とでかなり足が遠のいていた学校なのに、教員らは親の顔を覚え、生徒同様温かく迎えてくれる。卒業式というある種の荘厳さとは無縁の、家族的な雰囲気で卒業式は始まった。

 割れんばかりの拍手の中、卒業生が入場してくる。驚いたのが講堂の壇上に設けられた卒業生らの椅子が、保護者側に向けられて配置されていることだ。生徒たちの表情を参列者がつぶさに見ることができる。「今日の主人公は卒業生たちです」というのが、目で見て非常に分かり易い。卒業生らはその席に座り、ときには笑い、ときには涙を浮かべる姿を、保護者らは見守り、共に涙しながら過ごした。

本の学校の、ごくごく一般的な卒業式と言えば、日の丸がデカデカと壇上中央に配置され生徒がそれを仰ぎ見つつ、全員で君が代を歌ってから式が進行する。そういえば卒業式の指揮権は校長だからどうのと、教員が国歌を斉唱しているか口パク具合を見て回る、という冗談かとも思えるような事件まで発生するような日本の学校のそれに対して、我が息子の学校のそれは、国旗・国歌とはまったく無縁、もちろん金日成金正日金正恩とも無縁の、手作りでアットホームな卒業式だった。

校長は祝辞の中で、「保護者の皆さん、情勢が厳しい中、コロナ禍というなかで、私たちの学校を信頼して、かわいい子女を送り続けてくれてありがとうございました」と言った。ちょうど6年前、入学式の中でも校長がそのようなことを、私たち保護者の顔を眺めながら語った。「こんな世の中で朝鮮学校に子どもを送る選択をしたことは大変だったろうに、私たちを信頼してくれてありがとう、私たちはあなたたち保護者の期待に必ずや応える」と。そこには自らが行う民族教育についての確信を見て取った。朝鮮人朝鮮人として生きるために民族教育が必要だ、その価値を認め、共に歩んでくれてありがとう、と。

 

学校は我が息子の学びを支えるために、様々な取り組みをしてくれた。既に朝鮮学校では数年前から紙の教科書とは別に電子教科書が用いられ、授業も一部ではipadが用いられる。一般に言うICT教育が、日本の学校に先んじて、朝鮮学校では普及が進んでいる。これがコロナ禍の中で威力を発揮した。youtubeを使ったオンライン授業配信や、Zoomを使ったホームルーム等、息子はipadを使いこなしながら、困難な中でも学校生活を楽しんだ。

特筆すべきは、これらほぼ全てが、公的な補助などではなく、民族教育に携わる教職員や、保護者の月謝、支援者の寄付によって支えられているということだろう。私の住む大阪ではもう何年も前から、朝鮮学校の学び舎はレイシスト首長の政争の具として晒し物にされており、腹立つほど納める私の住民税は、維新政治の衆愚パフォーマンスには活用されても、息子の教育拡充にはただの一銭も、本当に一円も活用されていない。少子化、そして行政補助からの排除、朝鮮学校の財政は逼迫しており統廃合が進んでいる。それでも朝鮮学校の現場では、少ない資源で、できることを、あるいはそれ以上のことを、最大限に子どもたちに注いでくれた。ICT教育のコンテンツや電子教科書は全国の朝鮮学校の教員らのチームで作られたものだし、オンライン授業も、現場の教員が少ない資源から工夫して行われたものである。教員たちは、職業的ではなく、教育者という生き方として、かつ同族の子女に対する同胞愛を行き交わしながら、我が息子の学習環境を守り通してくれた。我が息子は、真面目に毎日勉強する習慣を身に着け、特に落ちこぼれるでもなくちゃんと『6年最優等()』と『6年皆勤』を獲った。周囲といさかいやケンカもせず仲良く朗らかに過ごし、優しさや気配りを持つことができ、心優しい少年に育ってくれた。しかも病気も怪我もせず、である。親孝行なことこの上ない。怠惰な父に似ず、自慢できる男に育ってくれた。ありがたい限りである。

 

無論、朝鮮学校に送り続けることに困難や葛藤が無かったわけではない。公立の学校に送れば学費はタダだし給食もあるが、朝鮮学校は学費も高いし給食も無い。運動会だ学芸会だと言われればカンパもせねばならないし、動員もある。朝鮮学校草創期、「力がある者は力を、知識がある者は知識を、金がある者は金を」拠出して学校建設をしようと呼びかけられていたが、現在では、保護者が「力も知識も金も」全部を動員して支えなければ、学校は立ち行かないわけで、私も多くの保護者同様、息子の学校に幾度かボランティアをしてきた。しかし朝鮮学校それ自体に関して、細かい文句をつけるような発想は、私からは最後まで、まったく出てこなかった。大した学校だと思うし、このように息子をまっすぐに育ててくれた朝鮮学校には、本当に感謝しかない。

 

息子の進学先について、私は特に何もリクエストをしなかった、「自分で考えればいい」と。公立に行きたければ行けばいいし、私学でもいい。もちろんそのまま朝鮮中級学校に上がりたければ上がればいい。全部自分で決めたらいい、と。私は息子を信頼しているし、ありていに言えば、初等教育(小学校)時点で、自我は確立されているだろうから、この先何とでもどうとでもなる、と思って、完全に息子に委ねた。ここで言う自我とは、人間としての自立と同時に、朝鮮人としてのアイデンティティということである。自らの母国語としての朝鮮語を習得し、母語(日本語)と共に用いることができること、日本の地に生まれ落ちた朝鮮人としての来歴と文化風習を教わったことが、この先の彼の人生に否定的に作用することは、まず考えられない。私が幼少期に息子に得させたいと思ったもの、つまり日本で朝鮮人として、朝鮮人であることイコール自分自身を否定せずに生きる能力は、ちゃんと備わったと思う。これから先に親としてのリクエストは(今のところ)無い。だから完全に委ねた。

息子はそのまま朝鮮中級学校に進むと言う。4月からは中級学校に通うことになるが、親の私としては何の心配もしていない。急に難しくなる勉強や、急に増える同級生間の対人関係で、いろいろ思い悩むことは多いだろうが、我が息子なら、のらりくらり、しかし前を向いて堂々とやっていくだろう。

 

私も息子と同時に、朝鮮初級学校の保護者を卒業したことは本当に感慨深いが、この期間に更に顕在した、行政や取り囲む能天気な市民の明け透けな差別から、将来の息子を解放してやれなかったことが親として本当にもどかしかった。息子には未だ直接的な被差別体験は無いようだが、SNSやインターネットを経由して、そのようなものに触れる危険は、どんどん増してきて、日々露骨になってきているようにも見える。

想えば、私がこのブログを書き始めた当初(まだ執筆頻度を一定程度保っていた当初)、政権は民主党の下にあった。目玉政策の高校無償化法から朝鮮学校が排除されかけたことを発端に、朝鮮学校へのむき出しの差別が表れ始め、当然に私もそれに抗い拙い文を重ねていたが、いまから思えば、日本が溶けていく過程における、一種の象徴的な出来事だったように思う。

朝鮮学校差別のときに、朝鮮人は日本社会の隅でカナリヤのように鳴いていたが、日本社会は朝鮮人だから相手にしなかった。在特会レイシスト朝鮮人を排撃しにかかったが、日本社会は一部の極端な者を適当に間引いただけで茶を濁し、その根本には一切目を向けず、病巣を放置した。

その後、政権中枢はレイシストを支持基盤に抱える、無能かつ無節操な集団に移り変わった。政権移行後最初に手を付けたのが、朝鮮学校を無償化法から排除する省令改正だった。このことはこの政権の性格を余りに分かり易く映すが、朝鮮人がいくら警鐘を鳴らそうとも、日本社会は問題にもしなかった。朝鮮人だから。

その後、日本社会はどうなったか?

政権は史上最長となり、その後も子分が居座り続けているが、この政治勢力には恥の概念が無く、自らのテリトリーにカネを呼び込むことに必死で、自らの椅子を守るためには、嘘を吐くことにも、法律や記録に手をかけることにも、下っ端が死ぬことにも抵抗が無い。既に官僚らも、検事や判事すらも、良心をとっくに失い、ひれ伏し、おもねり続けている。

いつの間にか、コーヒー代を数十円ちょろまかしたら逮捕されるが、わけのわからない屁理屈をこねくり回して、自らの買収行為や利益供与行為から言い逃れをして、国費を数十億円空費しても、まともな批判が向けられないという、法律とか価値とかが取っ散らかった、グロテスクな社会に成り下がった。昨年からのコロナ禍においても、行政は市民を救う気が無く、カネは全然出さないが口は中途半端に出し、敵を指し示し、叩いては、自らの失策の言い訳に腐心した。自粛警察が跋扈し、廃業や自死は増える一方である。このように社会が劣化する速度は緩まる気配がないが、それを構成する市民は呑気が過ぎ、危機感を全く共有できないままでいる。選民政治(社会)・差別政治(社会)が、どんどん極まりつつある。

このようななか、いつまた行政が、レイシズムに活路(逃げ道)を見出すか、油断も隙もあったものではないし、SNS上では今日もレイシズムが野放し状態で、手軽な娯楽として消費されている。社会構造の中で朝鮮人を賤民と固定することで、日本人多勢に適度なガス抜きとして機能し、社会が保全されている。これからも朝鮮人差別を日本社会が必要とする以上、そうそう容易く、我々家族が『朝鮮人』であることを意識せずに暮らす日は来ないであろう。

 

このような社会で、まともな考え方、理論武装が不在では、自らが朝鮮人として、この日本に生まれ落ちたことを呪うような発想が、生まれてこないとも限らない。「生まれてきた時代を間違えたのではないか?」「私はなぜ朝鮮人なのか?」と。朝鮮人として生まれたのは自分の責任ではないし、良いことでも悪いことでもない。そう生まれた、そういう運命だったのだ。しかし、この社会で、その運命を受け入れ、能動的に生きるための能力は、日本人が日本人として生まれ落ちたケースとは別個のものとして必要だ。

その意味で、やはり朝鮮学校での教育は意義が深かったと思う。少なくとも、この社会で、朝鮮ルーツの先祖から受け継いだ自分の名前を、堂々と名乗ることに抵抗が無い時点で、教育は成功しているではないかと思う。

胸を張って、自分の名前で、堂々と生きてほしい。親父は息子にそう願っている。

 

 

 

()朝鮮学校の学業評点は絶対評価制で、高いほうから順に最優等-優等-普通-落後、となる。相対評価ではないので最優等だからと言ってクラスで最も優秀、というわけではないし、最優等評価の人数が決まっているわけでもない。少人数のクラスでは全員が最優等生ということも珍しくない。これについて、加えて日本教育における相対評価制(偏差値輪切り制)に対して、私が特にコメントすることはしないが、幼稚な物言いで「全員が頑張ったから全員が100点!」でいいのではないか、と私は思う。少なくとも中等教育までは。

雑感:日本政府のコロナ対応は、わざわざ「韓国の逆張り」をしているのだろうか?(20200429追記)

日本の新型コロナ患者は増加の一途を辿っており、五輪の延期を発表した直後から、堰を切ったように罹患者数がみるみる増えた。いつの間にか日本全体の罹患者は韓国のそれをさっさと追い抜いている。
マスコミは「毎日のように100名づつ患者が増えてます!」と恐怖におののいているが、常識的に考えて、罹患数に過度にクローズアップして声高に報道する意味がそれほどあるとは思わない。『高』と『率』の両者を捉え、それを諸外国のそれと比較しないと、日本の現状が捉えられない。例えるなら単に100万円と連呼しているだけで、それが200万円との対比なのか、1億円との対比なのか、言っていないに等しい。
 
これについて、少し検索して調べてみた。

韓国の状況は、こちらのサイトで毎日更新されている(https://coronaboard.kr/)が、本日閲覧の時点では、検査総数571,014件に対して、罹患者10,683名、罹患率1.87%である。
これに対し、日本の状況は、恐らく厚生労働省のサイトが最も正確だろうと思う(https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html#kokunaihassei)が、検査総数178,084件に対して、罹患者10,751名、罹患率6.04%である。
 
韓国は「手あたり次第」検査しているのに対し、日本は「もったいぶってからやっと」検査しているから、韓国より日本のほうが罹患率は高く出るのは当然であるが、
韓国の人口(51,843千人)に占める検査率の概数は1.10%であるのに対し、日本の人口(125,960千人)に占める検査率の概数は、たったの0.14%、韓国の一割強である。仮に韓国並みの検査を敷いたら、実際の罹患者数は膨大な数に上ると容易に推測できる。
 
さて、MARS禍の教訓を機に先進的な防疫体制を敷く韓国・文在寅大統領は、facebookにたびたび投稿をしているのだが(たぶん広報官が書いているのだとは思うが)、コロナ対応の前線に常に立ち、たびたび国民を鼓舞する文言を発し続けている。施策の実績を示し、医療従事者に対する謝意も忘れない。行政を預かる者として自信に溢れた対応を続けている。
 
例えば、罹患者が大量発生した大邱市の新規陽性患者がゼロになったとして、「皆さんお疲れ様でした、もう少し頑張りましょう」と呼びかけたり、

어제 대구의 신규 확진자가 드디어 ‘0’이 되었습니다. 지역에 첫 확진자가 나온 이후 52일 만입니다. 일일 신규 확진자가 741명으로 최고를 기록한 날로부터 42일 만에 이룬 성과입니다. 그동안 대구...

문재인さんの投稿 2020年4月9日木曜日
ときには、「障がい者の日」に合わせて、少数者に目に向け、コロナが少数者にとってはより大きい脅威となる、お互いの尊厳を守ろうと呼びかける。

“우리는 모두 서로에게 소중한 사람입니다.” 장애인이 걷기 편한 길은 비장애인도 편하게 걸을 수 있습니다. 장애인이 불편함 없이 마음껏 일상을 누리는 세상은 비장애인의 삶도 풍요롭습니다. 제40회 ‘장애인의...

문재인さんの投稿 2020年4月19日日曜日
諸外国は韓国の防疫方式に注目を向け、たびたびカメラやマイクを向けるが、外相は外信向けに、所管外部署の対応を外国語で明晰に説明する。 
 
これらの姿は、
ろくな補償もせずに「家に居ろ」と強弁しつつ、自分はよりによって、その生活をろくに補償しないアーティストのコンテンツにタダ乗りして、優雅に「家に居る」動画を配信した、どこかの国の無神経な行政官とか、
つい先日、休校に伴う休業補償からキャバクラ嬢や風俗嬢をわざわざ外そうとして後から怒られて撤回する、どこかの国の行政の根性とか、
 
コロナ対応が失敗したときの責任の所在について、子供でも言わないような幼稚な反論を見せたどこかの国の行政官とかとは、
レベルにして雲泥の差を感じるのは、私だけではないだろう。
 
コロナ禍の中にも関わらず総選挙を予定どおりに実施した韓国では、当然にコロナ禍の対応が最大の争点となり、与党が圧勝し野党は惨敗した。その落選議員の中には、日本のワイドショーを朝から晩まで席巻した、タマネギ外相こと曹国氏の批判の急先鋒だった羅卿瑗氏も含まれた。
ちょっと前の日本のワイドショーからしたら格好のネタになりそうだが、日本の現状は最早それどころではない。


황교안·나경원·오세훈 줄줄이 낙선…통합당 '인물난' 과제로

2か月前は、韓国のドライブスルー式検査、ウォークスルー式検査、その他様々な防疫体制について、安倍応援団を中心に虚報に群がり、「韓国ガ医療崩壊ダー」「そんなもん意味ない」と嘲笑を送っていたワイドショーのコメンター達も、ようやく潮目が変わったと理解したのだろう、韓国の現状の取り上げつつ、日本の行政官の対応が遅い、やることなすことことごとく失策を重ねている、という言い草を隠さなくなってきている。逆に一応の峠を越えた韓国のネチズンたちが、日本のテレビ報道を紹介する動画を作っているのが対照的である。


일본 의료 붕괴를 막기 위한 힌트는 한국에 있다 / 일본 의사 의료붕괴 경종 "이미 시작" / 국민의 목숨과, 재정을 저울질



오늘의 늬우스~ 일본 연예인(개그연예인)이 한 발언

(↑20200429追記 以前紹介した動画が非公表になっていたので、別の素材に差し替えました)

 

最早、日本政府の対応を擁護する発言は、熱狂的かつ盲目的かつ世間知らずな安倍信者くらいからしか聞こえてこなくなってきたが、ここからは、完全な私の邪推である。
 
日本政府の今般のコロナ対応は、韓国嫌いを味方につける安倍が、わざわざ「韓国の逆張り」をしているのではないか、と思えてくる。
 
例えば、
・隣国に防疫の成功例が転がっているにもかかわらず、同じ方式の導入を頑なに拒み、未だに「クラスター探し」に資源を費やしていることとか、


[일본어뉴스 청해]드라이브 스루, 워크 스루 한국처럼 해 주세요#가토장관#야마노이의원#드라이브스루#워크스루

・当初の国際線封鎖の際に、いきなり中国全土と韓国を封鎖しながら、比肩するほど罹患者が増えていたイタリアは対象外だったりとか、
・韓国のように、とにかく情報公開に努めて無用のパニックに陥れないようにするのではなく、とにかく情報をひた隠しにしながら、自分たちの補償が最も手厚いと1秒でバレる嘘を吐くとか、
・国民に対する補償を捻出するのに躍起になって米国からの装備購入を先送りした韓国とは対照に、ウォンより有利な通貨を持つのに2か月以上出し渋るとか、
https://asagei.biz/excerpt/15050
韓国方式を採らないことに信念を持っているのかと、邪推している。
それがことごとくダメダメなのに、である。
 
私は安倍が小泉の次に総理をやると言い出した時からの、根っからの「安倍不支持者」である。それは彼が政治家としての能力(義務教育修了程度)に事欠くということ以上に、人間性として政治家には不適格だからである。政治の機能が資源の再分配と弱者救済と捉える(経済原理に任せるなら政治は不在でいい、ということを考えれば当然に行きつく結論、中学生の社会科レベル)ときに、彼のような選別主義を採る者は最もふさわしくないからである。それを、これまで何十回と総理大臣の座から追い出すチャンスがあったのに、呑気にそのままにしておいた。
このままでは日本社会はイヤというほど、そのツケを、最悪のカタチで支払うことになる。どれだけの産業と文化と娯楽とが、コロナの災禍に補償も無く耐えられるだろうか。中学生でも分かりそうなものだが、まだ分かっていないのが総理大臣なのだから、悪夢でしかない。

なお、今回の稿は、韓国礼賛・日本批判みたいな二極分法で敢えて書いた。それ程に今般の対応が「月とスッポン」だからである。普段の私は、朝鮮人だからといって韓国政府に諸手を挙げて賛意を示すような残念な人間ではない。今までの稿を見れば分かると思うが。一応お断りしておく。

蛇足:コロナで自宅に留まる市民に保健所から送られた生活必需品に驚く韓国人のツイート。ここまでやれば愛国心も湧きそうなものだが、
対して安倍の肝いり、「アベノマスク」はこのクオリティである。これが400億円強。もう勘弁してください。
 
 
(20200428追記)

私の「邪推」と同様の言及をするものも現れてきたので補強の意味で掲載する。

ドライブスルー検査も「韓国の医療崩壊の象徴」とバカにして3カ月遅れに…安倍政権とメディアの“嫌韓”がコロナ対策を遅らせた
リテラ 2020.04.26 02:18
https://lite-ra.com/2020/04/post-5393.html

 

200422 NO HATE TV 第85回「レイシズムで日本滅亡😩」
のりこえねっとTV 2020.04.22
https://www.youtube.com/watch?v=oDoXXZ_kguE
(1:06:00あたりからそのような言及がされている)

ローソンが朝鮮学校にもおにぎり配布 - ありがとう。ウリハッキョの子どもたちを普通に扱ってくれたことに涙が止まらない。

 

朝鮮学校にもおにぎり届く ローソン、川崎に60個無償

神奈川新聞  2020年03月18日 11:30
https://www.kanaloco.jp/article/entry-302275.html


(引用開始)


在日コリアンの子どもたちが通う川崎朝鮮初級学校(川崎市川崎区)に17日、おにぎりの支援が分け隔てなく届いた。新型コロナウイルスの感染が拡大する中、学童保育施設を対象にコンビニ大手のローソンが無償で配布したもの。学校関係者は「朝鮮学校ということで色眼鏡で見ることなく、当たり前に扱ってくれたことが何よりうれしい」と喜んだ。

 

 正午すぎ、小学1年生の教室で子どもたちがぱりぱりのノリを巻いたおにぎりをほお張っていた。午前中に1人2個行き渡るよう60個が届けられた。教員が作ったわかめスープも添えられ「とってもおいしいよ」と笑顔が広がった。

 

 無償配布は各地で学校が休校となったことを受けて実施。昼食の準備をしなければならなくなった保護者の負担を減らそうと、申し込みがあった施設を対象とした。10日は約1800施設に約14万個、17日は約2700施設に約22万個を届け、24日にも行う予定だ。

 

 同校では10日に福岡市の朝鮮学校に配られたことを知った姜珠淑(カンジュスク)校長が申し込んだ。公式サイトに施設名などを記入すると確認の電話が鳴った。同校は学童保育施設として市に届け出ているわけではないが、「日本の学校と同じく子どもを受け入れていると伝えたら『では届けます』と。学校名ではなく、実態に即して判断してくれた」と姜校長は安堵(あんど)する。

 

 朝鮮学校は高校授業料や幼児教育・保育の無償化から排除され、さいたま市では感染防止のためのマスク配布でも対象外とされた。学校と無関係な拉致問題が理不尽に持ち出され、補助金や物資を支給すれば「不正をするのでは」というあらぬ疑いが排除の理由にまかり通る。県などの補助金の停止も相次ぎ、李靖華(リチョンファ)先生も「授業料の負担から共働き家庭も多く、学童保育のニーズも高い」と話す。

 

 ローソンの広報担当者はマスク不支給問題に心を痛めていたといい、「朝鮮学校だからという線引きなど考えもしなかった。困っている保護者の負担軽減という目的に照らせば、子どもを預かっている施設であれば対象にするのは当然だ」と話している。

(引用ここまで)



引用文最後の「当然だ」と言い切るローソン担当者の言葉に、勇気をもらい、感謝と感激を感じた在日朝鮮人は、恐らく私だけではないだろう。私企業がその資源でCSRを行なうにあたり線引き匙加減は企業の自由であるが、朝鮮学校にも他の学校の生徒らと同様に「当たり前」におにぎりを贈ってくれたことを、本当に嬉しく思う。ありがとうローソン。私はこの報に接して涙が止まらない。ウリハッキョの子どもらを人間として扱ってくれた企業に、心からの敬意を覚える。

明日から当分、毎朝のコーヒーはローソンで決まりだ。ちゃんと一杯一杯注いでくれるし。ありがたくいただくことにしよう。ご恩返しだ。

 

しかし、

それだけ我々在日朝鮮人が社会から、差異を設けられ、切り分けられ、排除され、再分配の対象から外され、声を聴かれず、義務は求められるが権利は奪われる、という日常を送ることに慣れていた。

特にここ10年弱の、高校無償化法に絡む朝鮮学校排除の際に並べられた、中学生をも白けさせる屁理屈の数々と、それに胸を張る日本国・日本社会の『大人たち』の仕打ちに、大きな幻滅を感じていた。

 

ここ数日のコロナウイルスに絡む、埼玉の「マスク騒動」についても、朝鮮学校にマスクを配布することを最初から想定せず、抗議すれば「転売するのでは」と吐き捨てられ、社会的批判が高まっても悪びれるそぶりもない。それを報じるYahooニュースでは高校無償化法騒動の際に湧いた連中がその当時そのままの汚い字面で行政や差別者を擁護して回る。「マスクが欲しければ将軍様に恵んでもらえ」と。どれだけの悪意を詰めればこんな言葉が思いつくのだろうか。同時発生的に拙ブログにもクズコメントがどんどん押し寄せて来た(←当然に承認しない)。

 

このようにあらゆる資源と屁理屈を弄して、朝鮮人を除け者にする『大人たち』の姿が、我が息子の眼にどのように映るか、ということを、ここ数日考えていた。本当に教育上余りに「よろしくない」今日の日本国・日本社会の姿だった。

 

しかし、この報に触れて改めて思う。この社会は、やはり捨てたものではない。

埼玉のハッキョにも、多くの心ある日本人からのマスクが贈られてきた、と聞く。

捨てたものではない。

 

我が息子が出自による差別を理解できる人間になって、むき出しの差別に絶望を覚えているとき、私は息子にこのように伝えたい。

 

この社会は、多くの良識ある人間によってできている。

人々の違いを認め、尊重し、融合し、共生することのできる、尊敬できる仲間がたくさんいる。

 

なかには、人々の軋轢を好み、分け隔て、貶め、機会あれば他人(ひと)より多くを得ようと騙(かた)る者がいる。底の浅い政治に翻弄され、時代に絶望することもある。

そのような者の声は大きく、目につきやすいから、余計にそう思うだろう。

 

でも、この社会は多くの良識ある人たちで支え合って成り立っている。

アッパ(おとうさん)は何度も、社会の中で助けられてきた。

誠実に生きていたら、必ず社会の中で誰かが見ていてくれるし、手を差し伸べてくれる。

 

誠実に生きろ。

貶める側、騙る側に回らず、誠実に生きろ。

必ず、自分の血を恨まずに生きられる時代が来る。

必ず、社会の中で共に手を携えて生きることが当たり前の世の中になる。

アッパはそう信じている。

新型コロナウイルスを警戒して「中国人を入店禁止」にするラーメン屋 - 論外

新型コロナウイルスは猛威をふるい、さっさと日本に上陸して感染が広まっている。
これに関連して、札幌のラーメン店が馬鹿げたツイートを晒しているので、あげつらっておく。

f:id:dattarakinchan:20200130220344j:plain

https://blog.goo.ne.jp/menya-hareruya/e/f5aed52cac19eb2ebe497852df0a0b74

「論外」である。
私も一応客商売に勤める者として、サラリーマンのリスクヘッジとして考えても、この対応は論外である。
思いつくまま、どう論外かを書いておく。
(数日中に当該ツイートは消される可能性が高いので、画像も保存しておく)


1)「病者であること」を理由に入店させないのではなく、「中国人だから」入店させないらしい。新型コロナウイルスは人種で感染する/しないは無い。日本人感染者もどんどん発生している。病者である日本人と、健康そのものの中国人、どちらに感染危険性があるかは言うまでもないが、中国人だからという理由で一律に入店させない、と言う。論外である。



2)「飲食されるお客様ならびに従業員の健康と安全を考慮し」たらしい。
中国人観光客はお客様ではないらしい。論外である。


3)中国人観光客と在日中国人をどのように区別するのだろうか?まさか渡航歴でも調べるつもりなのだろうか?パスポートを見せろとでも言うのだろうか?
この店ならやりかねないが、論外である。

 


4)中国人と日本人、朝鮮人、モンゴル人、フィリピン人、インドネシア人、以下無限、、、どのように判別するのだろうか?

判別できたところで何か意味があるのだろうか?論外である。

 

 

5)1000000000歩譲って、明らかに体調悪そうにゲホゲホと咳をまき散らしながら自店に入店してこようとしたなら、「他のお客様に感染するかもしれませんので」と事情を説明して入店を「ご遠慮いただく」ことは、客商売としてあるかもしれない。「また快復されましたらお待ち申し上げます」とクーポン券の一つでも渡せば、余程の偏屈でもなければ「仕方が無い」と客も納得するだろう。

それを、こともあろうに「禁止する」と書いている。まったくの論外である。


元々中国人に何らかの軽蔑心を持っていたのが、これを機に適当な理由をつけて「禁止」にした、というのがおおよそ推測するオチであるが、人種を排斥排除するような店は、客のほうから願い下げである。

まったく論外である。どうしょうも無い。

朝鮮人を嫌いなのはどうでもいい。「朝鮮人が嫌いだ!」と触れて周るな。迷惑だ。

実は、前稿で予告していた韓国の書店のレポートだが、校了寸前にパソコンがバグって振出しに戻ってしまった。心が折れたので別のことでも書こうかと思う。ちょうどYahooに馬鹿が陳列されていたので、それを素材にしようと思う。

 

なぜ在日コリアン嫌うのか?「ニンジン嫌いと一緒」 元在特会メンバーら、朝鮮学校ヘイトに謝罪なし
Yahooニュース 2019/12/19(木) 19:06配信 京都新聞

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191219-00200709-kyt-l26

 

(引用開始)

 

「正義のためにやっている」。今年9月、ヘイトスピーチ(憎悪表現)をした過去について、「在日特権を許さない市民の会在特会)」元メンバーの被告の男(51)=京都市右京区=は、京都地裁であった公判で声を強めた。

 10年前の京都朝鮮第一初級学校(南区)の襲撃事件で、差別を扇動する罵詈(ばり)雑言を浴びせたうちの一人。威力業務妨害罪などで有罪となった後に服役し、高額の賠償命令も受けていた。

 今回の裁判では、2017年に同校の跡地そばで「この学校は日本人を拉致している」「学校関係者かな、と思ったら110番して」などと拡声器で言い放ったとして、名誉毀損(きそん)罪に問われていた。

 

     ◇

 

 朝鮮学校襲撃事件を起こした在特会は、事件の動画をインターネットで公開。社会に衝撃を与えるとともに、会員数を激増させた。12年ごろには1万2千人超に達したとされる。当時、襲撃に加わったメンバーたちは今、何を思うのか。

 

     ◇

 

 被告と一緒に襲撃事件を起こしたうちの一人で元在特会員の男性(40)=京都市=が取材に応じた。男性は、襲撃事件の1年ほど前に外国人在留許可問題を巡る在特会の活動をネット上の動画で知った。「すげー」と思い、「日韓断交」などを掲げるデモに加わった。「死ね」「殺せ」と叫ぶことに抵抗はなかった。一連の行動に参加した感想は「『やったった』やね」。

 なぜ、在日コリアンを嫌うのか。「レイシスト(人種差別主義者)」だと自称する男性に尋ねると、自宅近くの在日コリアン集住地域でトラブルを避けるよう親から厳命されて育った記憶を話した。それ以上のエピソードは質問を重ねても語られず、「その人種が嫌いなのは、ニンジン嫌いと一緒」と事も無げに言った。同校の児童に対する今の思いを聞くと「(学校側の)大人を相手にしていた」。事件については「謝罪はしない。自分たちの主張に感化された人がいる以上、裏切れない」と強弁した。

 

■「タブーにびびる世間変えた」自負

 

 公判の傍聴席には、大阪府門真市の飲食店経営者の男性(55)の姿があった。09年の朝鮮学校襲撃事件などで有罪となり、服役した。今は、在特会の元会長が代表となった政治団体の選挙活動などに前述の被告と共に関わりつつ、3軒の飲食店を営む。

 「10年前と考えは何一つ変わっていない。在日は最も身近に日本人へ不利益を与えている。だから、ひとくくりにして出て行けと言う」。大阪にある繁華街のビルの一室に構えた店で、飲食店経営者は取材に応じた。

 水商売の世界で働いて30年余り。一時は10軒以上を経営し、中国に進出した。現地で反日デモに直面して06年に帰国後、在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)などに直接街宣を仕掛ける在特会を知った。「『これや!』と。従来の右翼と違い、普通の市民が自らを危険にさらして行動する姿に美徳を感じた」

 逮捕や服役は気にせず、培った人脈と才覚でどう転んでも食べていく自信はあるという。「仕事と政治的主張は別物」と強調し、「在日コリアンの女性も雇い、自分は慕われている」と話した。

 飲食店経営者は、時に笑顔を交えて家族の話題も披露した。90代の母と2人で暮らし、自身に3人目の孫が生まれたばかりだという。記者には「いい質問しますね~」とくだけた物言い。2時間余りの取材で会話が途切れることはなく、ネオン街の話術が垣間見えた。ただ、あの日、朝鮮学校にいた児童への謝罪はなかった。

 この10年、「嫌韓」の主張がメディアや政治家の間で台頭し、強硬な右派論者も次々と登場した。16年、東京都知事選に出馬した在特会の元会長は11万超の票を集めた。飲食店経営者は、「事件の頃、僕ら以外にそんなことを言う人間はいなかった。世間は『タブー』にびびっていた。世論を変えるきっかけをつくった」

 冒頭の裁判。地裁は11月末、被告の男に罰金刑を宣告したが、拡声器での訴えに公益性を認めた。閉廷後、被告は「差別目的は否定された。保守世論を下支えするため、これからは選挙や」と勢いづいた。

 

朝鮮学校襲撃事件】2009年12月4日、京都朝鮮第一初級学校に在特会メンバーら11人が押しかけ、約50分間にわたってヘイトスピーチを行った。うち4人は威力業務妨害罪などで有罪が確定。後日、同校周辺であった2度のデモ行進でも差別発言が乱発された。民事裁判で在特会側は、同校による隣接公園の「不法占拠」への「意見表明」と主張したが、京都地裁判決は「表面的な装い」と退け、人種差別と結論付けた。大阪高裁も地裁の判断を支持し、高額の賠償命令などに加え、民族教育の重要性を積極的に評価した判決が最高裁で確定した。

 

〈連載「ヘイト追跡 朝鮮学校襲撃事件10年」 全4回の2〉

 

※おことわり 連載記事には、在日コリアンを対象にした民族差別に該当する文言が複数登場します。京都新聞社は、差別の実態を共有するため文言をそのまま報道します。あらゆる憎悪犯罪や憎悪表現を許さない社会をつくる一助とする目的です。

(引用ここまで・強調は引用者)



「差別ではない、正義の闘いだ、批判批評だ」と言えば差別が大手を振って市民権を得る光景。拉致問題さえ持ち出せば、朝鮮・朝鮮人を幾らでも叩くことが許される光景。数十年前から全く変わっていない光景だ。

連中の行動が娯楽的差別目的(月光仮面ゴッコみたいなもの)であること、政治団体を標榜したり選挙に打って出たりしてレイシズムを公共の場に持ち出す手段としていることが、マイノリティから見れば、あるいは初級的な知的鍛錬を得た者であれば明らかであるのに、こともあろうに裁判所が、公共性があると認めたわけだ。

まったくもってどうしょうもないことだが、私は数年前から日本の司法には完全に絶望しており、裁判所による人権救済に何らかの期待をするほうが間違っているという結論に達しているので、裁判所の判断について言及することはしない(マジョリティのなかで勉強ばかりしてきて社会経験が無く、多数者専制を宣言して憚らない安倍政権の下僕としての生存競争から無縁ではない連中が裁判官である。少数者の人権を救済する発想が出て来ると期待するのが間違いである)。


レイシストは相も変わらず、「○○人が嫌いだ」ということをひけらかす自由があると言い放ちふんぞり返っている。今回のインタビューでもそのように言い放ったし、彼らはいつでも、そのような『自由』を侵害するなと主張している。

○○人が嫌いという人間個々の内面を云々するつもりは無い。たまたま近所に住んでいた○○人『個人』の素行が悪いのを見てその『人種』に嫌悪を持つ、あるいはネットや雑誌で○○人を蔑む情報を日々収集してそのような視座を獲得する。いろいろなパターンがあるだろう。

一部の個人を見定めて全体をDNAで一絡げにしている時点で、救いようのない思考回路であるが、その○○人が嫌いという発想に対して、同じ○○人の個人には、責任も無いしやりようも無い。取り合う義務も無い。いろいろ思うことはあるが、しょうがない。

 

しかし、「○○人が嫌いだぁ!」と言って回り、書いて歩き、○○人を嫌う根拠、醜い事例を散々あげつらい、他者に理解や共感を取り付ける行為は、果たして自由なのだろうか?

 

これについて、私は数年前、駄文を連ねたことがある。△△が嫌いだ、という駄文である。拙い。

https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20111028/1319772824

(△△が何か知りたい方はリンク先からご覧ください)


私がこれを書いて既に8年経った。私の△△嫌いは今も相変わらずである。これを書いた時点で、人生で△△を口にしたのは2度きりだが、それからも一度も更新されていない。未だ2度だ。その2度ともが、辛く、思い出したくもないものだ。

 

私は△△が嫌いであることは間違いがない。時に狂気すら覚えるような△△嫌いだ。しかし△△が好きな者(たとえば私の家族)に向かって罵声を吐いたり、周囲の△△好きを矯正して嫌いにしようとしたり、普段△△を出している食堂に行かない、などということはない。私が△△が嫌いなのは私の自由だが、周囲が△△を好きなこと、それを受け入れていること、それで営業をすることも、まったくの自由だ。

仮にこれが、△△を喰っている場所に出かけて行って「△△を喰うなんて人間の所業じゃない」とほざいたり、△△を出している食堂に罵詈雑言を仕掛けたり、△△の工場労働者をディスったりすると、侮辱とか名誉棄損とか威力業務妨害とかの刑法犯に引っかかろうし、幸運に引っかからなくてもハタ迷惑この上ない行為である。いい大人であればやってはいけない。

 

件のレイシストの例えにしても、仮にニンジンが嫌いなら嫌いで結構だろう。個人の内部に留まる限りは自由である。多少食生活に偏りが出るだろうが、それは個人の責任だし、社会にとってはどうでもいい。

しかし、みんなでニンジンジュースを飲んでいるところに出かけて行って「お前ら気持ち悪いよー、家に帰れよー」とほざいてみたり、食堂で「俺はニンジン嫌いなのにこのカレーに入っているから代金を返金しろ!」と強請ってみたり、「ニンジンを給食から叩きだせぇ!」とアジってみたり、果てはニンジン農家に出かけて行って「なんでこんなの作ってるんだよ!」と嫌がらせをかけてみれば、早速警察が飛んでくるだろう。ただそれだけのことだ。それも理解できず、乱暴狼藉の限りを尽くし、ニンジン嫌いの何が悪い、とふんぞり返っているのが件のレイシストだ。

 

くどくど書いたが、結局のところ、自己の嫌悪感を外部に発散し他者を扇動すれば、いさかいの種になる。それが社会の少数者に向かえば排除排斥の種になる。だから差別扇動は許されない。ヘイトスピーチは許されない。

 

 

このようなことを想うとき、つい数十年前のルワンダでの出来事を思い出す。○○人が嫌いだ、○○人を排除しようと発散し続けるとどういう社会になるか、という人類としての教訓である。ルワンダでは1990年代初頭、多数民族フツの強硬派が出資したラジオ局が設立された。そこでは明るい音楽とともに、少数民族ツチを排斥しようと、日々呼びかけられていた。毎日のように「ツチはゴキブリだ」「立ち上がれ」「殺せ」と扇動していたのである。


千の丘自由ラジオのヘイトスピーチ Hate-speech excerpt from RTLM - Radio Télévision Libre des Mille Collines (1994)
https://www.youtube.com/watch?v=EobbnePn3qw 

それに感化されたフツらが、何の罪悪感も感じずにツチを殺しまわった。虐殺された人数は80万人とも100万人とも言われる。


ルワンダ虐殺の被害者映像と煽動者たち
https://www.youtube.com/watch?v=XqSxVedhnAg

翻って現在の日本社会。ひとに向けるには余りにふさわしくない悪罵が、朝鮮人相手にはやすやすと口から出る。あるべきモラル、倫理観、公共心が、朝鮮人相手には薄まる現在の日本社会。現在の状況がルワンダの前夜にあるとは思いたくもないが、現在の状況は、見事に符合している。

 

 

私を含めた在日朝鮮人が、「朝鮮人が醜い」「朝鮮人はろくでもない」という悪罵を吐かれる、人種に対する攻撃に遭うということは、言うまでもないが、この社会でここ最近に始まった話ではない。思えば私の人生の、それこそ幼少期から付きまとってきた。朝鮮学校への通学途上、電車やバスの中で殴られ、路上でヤジられ、朝鮮人だとバレれば笑われ、けなされてきた。しかしそのような行為に遭えば、周囲の日本人の大人たちが助けてくれたことも多かった。バスの中で私を殴った男子高校生に「やめて!」と制止してくれた女子高生のお姉さん、私をヤジったオッサンに「なんやお前」と割って入ってくれたお兄さん、すべて記憶に鮮明に焼き付いている。だから幼少期の私は、そのような乱暴を働くのがごく一部の堕落者や愚者の行いであると理解できたし、圧倒的な多数はまともな大人であって、私はそんな社会を信頼してきた。

幼少期からつい十数年前までを思い返せば、「差別はいけない」「国と国とにいさかいがあっても人と人との間柄は関係ない」という、当然のコンセンサスは形成されていたと思う。

しかしレイシズムは、いまや街中で何のためらいや良心の呵責もなく吐露できる感情となり、その羅列のみで一冊書いたら書店に平積みで置かれるようになった。行政が推進し、立法が放置し、司法が追認する感情となった。虐げられても助ける周囲はおらず、逆によく言ったもっとやれと喝采が送られ、味方をしようものなら一緒になって叩かれる。私の半生だけでもこの社会は堕ちるだけ堕ちた。レイシズムを社会が必要とし、人々が渇望した結果なのだろう。

 

差別は人間の生存本能や防衛本能に根差した、太古からある感情であり、社会の形成とともに形を変えながら維持された社会構造なのだという。原始的なものであると言える。その原始的なものが、現代になって、人間の理性や普遍的な権利意識によって淘汰されるのではなく、逆に研ぎ澄まされているのが今日の日本社会である。グロテスクな社会に成り下がったと言える。

 

「自分のなかの差別心に向き合わない者の行列だ」と、件のようなレイシストを評する人がいた。差別心を治癒する教育や啓蒙が必要だ、と。半分当たりだが、半分間違いだと思う。教育や啓蒙の不在は完全に同意するが、差別はそれが足りて早速根絶できるほど、人間社会にとって根の浅いものではない、と思っている。

差別心は誰の心にも、私の心の中にも、確実に存在する。そしてそれは死ぬまで治ることはない、とも思う。所詮、99.9%の人間は、仏や聖人君子のような心にはならない。

しかし私は、この世の差別は根絶されないが、差別なき社会を願わずにはおれないと思い描き、自らの差別心が社会に溢れないように理性や公共心を持って行動しよう、とは常に思っている。

単純で下品な例えをするが、セクシーな服装の女性が目の前に現れたからと言って、いきなり手を出したりパンツを脱いだりしないだろう。それが理性であり公共心である。大人であれば当たり前にそう行動する。しかしそれができない幼児性が犯罪に導く。

ヘイトを吐くか吐かないかも結局、おのれの差別心の吐露を理性で抑えるか、本能でダダモレさすか、の違いなのだろう、と思う。


社会をもって朝鮮人を虫けらに見立て嗤うことに熱中している昨今、余程の学習や知性が備わっていない人間は「朝鮮人が嫌い」と属性で括る思考回路に導かれていくのだろうと思う。何らかのきっかけで朝鮮人が社会的な迫害の対象になる環境は十分に備わっていると言える。最後は理性だけが、その垣根を超えることを抑える要素になると思う。

クラウドファウンディング:「ヘイト」に対抗するための言論誌を応援します。

また数か月ぶりの更新となってしまった。


仕事が忙しく気が回らない、というのもあるが、何よりもこの社会に何かを問うことの意義を、私自身が見失っている、ということが最も大きい。

例えば、日本の首相は連日のように己の醜さと能力の無さをひけらかしているし、日本の政治風景、基本的な人権の侵害度合いは、日を追うごとに酷さを増している。公文書は隠ぺいか改ざんか不作成が平常運転になったし、政治家は開き直れば責任を取らなくてもよくなったし、頼まなくても自分らに気に入らない映画や言論は愚民が寄ってたかって潰してくれるし、代わりに朝鮮カルタを展示して「表現の自由だ」とふんぞり返る者には方々から賛辞が送られる。人々は社会の分断を促進し、仮想の敵を作り上げ、あげつらうことに熱中している。来年東京五輪を迎えようというのにこの「発展途上感」は凄まじい。私の眼には、この世は本当に21世紀なんだろうかと錯覚するほどの、社会の劣化を見て取る。
しかしそれが日本のテレビで問題になることは少ない。自国の社会の劣化具合よりも韓国の法相がどうだとか、朝鮮のミサイルがなんだとかのほうがよっぽど重要なようで、朝5時のニュースからニュースを飾る。昼間のワイドショーも「カンコクガー」と言っていればいい。楽な商売である。

例えば、国会で障がい者である議員が、トイレの個室が使いづらいので基準を見直してほしいと意見したことを取り上げたニュースには、障がい者ヘイトと言うに相応しい見苦しいコメントがベッタリ貼りつき、それに賛意を示す「いいね」が連なった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191108-00000074-kyodonews-pol

例えば、首里城が火災に遭ったら、早速「韓国人の放火だ」「ざまぁみろ」というクソを煮しめたようなコメントや動画が溢れた。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1017781.html


https://www.youtube.com/watch?v=WKx9vG_WCx8

本当に探す苦労など無く、幾らでも挙げることができるヘイトの数々。それに対する、あるべき抵抗感や嫌悪感も、日々同種のヘイトが巻き散らかされる圧倒的な量的充実によって、私ですら、もう何とも思わなくなってきた。恐ろしい感覚の麻痺である。

こんな世の中になるとは、正直思わなかった。

約9年前にブログを立ち上げたときは、在日朝鮮人との無接触から来る誤解と偏見を少しでも解いていけたら、という思いだったが、社会の劣化スピードが速すぎて、最早そんな初心など、早い段階で飛んで行ってしまった。今思えば、その初心とやらがどこまで青臭かったのか、と。嘆かわしいまでの「先見性の無さ」であった。

少数者に対する差別など、マジョリティである日本人男性健常者(と敢えて書く)にとってはどうでも良く、逆に自分らへの分配が耳垢程度間引かれることに対する嫌悪感のほうが強いようだ。日本社会はいまや、理性というパンツを投げ捨て、本能を丸出しにして街中を闊歩する連中に、称賛すら与えられる、グロテスクな社会に変質したのだ、と思う。少数者の自由を慮るより、多数者(と思いこまされている我々と同種の弱者)個々人のみみっちい分け前を守るほうが正義なのだと吹き込まれ、それを妄信する者たち。そのような者らの前で、この社会の劣化を、いち在日朝鮮人がカナリヤのように鳴いて知らそうとしても、最早まったく価値がない。もう余りに手遅れだ。

ただ、私にも息子がいる。

これ以上この社会の劣化が進めば、自分の生存権すらやすやすと差し出さざるを得ない状況が来るのは目に見えている。我が家族がいざ殺されようとする前に、息子が「アッパ(お父さんの意)、こうなる前にアッパは何をしていたの?」と訊かれて、恥ずような行動だけはしてはならない。そのような気概のみで何とか書いている。

 

さて、この社会に蔓延したヘイトとの闘いについて、当然少数者一人ひとりの力など取るに足らず、ヘイトを吐くことに羞恥心が不要となった世の中に響くことはない。文字通り多勢に無勢である。
ただ、対抗言論を絶えさせず、常に抵抗し、ヘイト社会への進行を少しでも遅らせる行動には、相変わらず敬意を覚える。ヘイト本が100冊並ぶ脇に、良質な書物が1冊でも並ぶようでないといけないと思うし、そのような書物を応援したいと思う。
そんななか、「ヘイト」に対抗するための言論誌を作りたい、とのクラウドファウンディングがあったので紹介したい。

https://camp-fire.jp/projects/view/206457

呼びかけには、こうある。

私たちは今、隣人に対する「ヘイト」の蔓延する社会に生きています。外国人・移民に対するレイシズム、性差別、障害者差別などが複雑に絡み合い、殺伐とした不寛容が拡がっていく社会。そんな状況を、私たち自身で乗り越えていくための批評/文学/学問の新雑誌を創刊します。

 

実際にどのような雑誌になるのかは分からない。ヘイトに対抗すると大見得を切りながら羊頭狗肉が如くの『残念な』筆致に落胆したことも一度や二度ではないが、彼らに見えているこの社会の現状には同意するところが多い。私も応援してみようと思う。早速少額だが振り込んでみた。創刊号の読了後には、感想文の一つでも書いてみようと思う。微力ではあるが、この社会の劣化が、すんでのところで踏みとどまることを願っている。

(付記)
以前書いた稿(https://dattarakinchan.hatenablog.com/entry/20181203/1543846906)の続編を執筆中である。実はこの夏も韓国に行っていくつか書店を回ってきた。そのレポートである。数日中には稿をアゲる予定である。