前借金は借金ではない〜『売春と前借金』(日本弁護士連合会編)

従軍慰安婦問題に限らず、人身売買をあつかった書物には、必ずと言っていいほど「前借金」という言葉が登場する。日本弁護士連合会が1974年に出した『売春と前借金』(1974年)(高千穂書房)は、その前借金契約に焦点をあてて、売春問題について書いたものだ。前借金については、過去の判例や、その法律的意義だけでなく、当時、前借金によってどのように売春が強要されていたかつまびらかにしている。当時の日本弁護士連合会は、返還前の沖縄に調査団を派遣するなど、沖縄の人権状況に関心があったため、沖縄における売春と前借金問題にページを割いている。

 本書を読んで分かるのは、前借金というものは、「借金」といいつつ、通常の金銭消費貸借とは、異なるということだ。前借金は売買された人身の代金であり、売られた人間に、その人権を著しく阻害する労務を提供させ、逃亡や廃業を阻害する心理的な力として作用するものだ。通常の金銭消費貸借契約であれば、債権者は債務者が、期日までに債務を弁済することに関心があるだろうが、前借金を貸した側が望むことは、相手が可能な限り長く、自分の支配下で労働搾取に甘んじるということであって、早期に債務を弁済することは望むところではないだろう。
 
 したがって、売春業者は、その支配下の売春婦たちの前借金に様々な名目の金銭を加算し、完済することを妨害しようとする。(残高の正しい記録すらない場合もある)加算されるのは利息であったり、女性が店を休んだときの罰金、寝具類、衣類、日用品を高い値段で売りつけた代金などだ。はては、女性が逃亡した時、売春業者は、捜索と連れ戻しを暴力団に依頼するが、その経費までが前借金に繰り入れられた。
 本書の表現を借りれば、「前借金は、稼いでも稼いでも一向に減らず、かえって年々増え続ける不思議な借金」ということになる。

 本書には、売春街に暴力団の詰所があって、女性の逃亡を見張っているとか、逃亡のおそれのある者は、離島の業者に売り渡されて、昼は農作業、夜は売春をさせられる、とか、生々しい事例が紹介されていて、業者の悪辣さには、めまいがするほどだ。
 
 日本軍は、軍慰安所の設置や運営に、こうした種類の業者を使っていたわけで、その一事だけでも、批判を免れないだろう。