いらっしゃいませ。
こちらでは、私の日々の記録や思っていることを書いております。
本ブログについての重要事項は[広報モード]に記載されておりますので、
広報モードカテゴリの内容は必ずご覧ください。

また、はてなダイアリー・はてなブログによるリンクより辿って来た方は、
ホームページはこちらですので、
そちらもご覧ください。
一般的な雑談やご要望などはホームページにある「カフェ」(掲示板)にお願いします。
日記に対するコメントは一番近い話題が書かれている日のトピックスのコメント欄に、お願いします。
触れてある内容に近い話題であるならそちらに書き込んでも構いませんが、日記にコメントしていいかどうかわからない場合は、掲示板に書いても構いません。
ホームページにはゲストブックもございますので、足跡をよろしくお願いいたします。

記事内の動画を再生する際には、最新の QuickTime Player(無料)が必要です。

経過

だいぶ落ち着いてきましたので、経過をお話いたします。


母の癌が発覚したのは4月終わり頃。
丁度、会社の新人研修中に電話が掛かってきました。
奇しくも、二回目のうなぎランキングの最中です。
母は、築地の「国立癌センター」に入院。5/4,5/5にはお見舞いに行きました。
このときはまだまだ元気そうで、2週間くらいで退院しました。
ただ、進行具合から完全に癌を完全に消失させることはできず、日常では抗癌剤を飲みつつ2週間に一度の通院生活でした。
養生のために長野へ行ったりもしました。


しかし10月ごろ、だんだん抗癌剤も効かなくなり、膵臓から肝臓への転移が発覚したため、(癌を治すのではなく)痛みを和らげる「緩和ケア」に移らざるを得ませんでした。
このとき母は起き上がるのもつらくなり、両親の朝食や夕食も私が作るようになりました。帰りも普段より早くなりました。(遅いときもありましたが)
また、普段は遠くにいる兄や親戚の方々もお忙しい中、家にお見舞いに来てくださいました。
晩年の母のお気に入りは、出汁を入れた厚焼き玉子と、キャベツを煮込んだ味噌汁です。
特に、厚焼き玉子は最初は全然「卵を巻く」という感覚に慣れていないため、とまどいましたが「どんどん上手になっている」と兄嫁も褒めてくださいました。


10/28未明、母はこれまでにないほど激しい痛みを訴えて入院しました。
それ以前にも痛みはあったそうなのですが、「今までの痛みはなんだったのだ」というくらいの痛みだったそうです。
この日は、仕事が終わって直帰しました。
母の様子はこれまでにないほど衰弱していましたが、まだまだ体温はあり、意識もはっきりしていました。
この日は父が病院に付き添い泊まりで、私は帰宅。


10/29、この日は一日中母のお見舞いしました。
昼食後、薬を飲んだ後熟睡。その間に他の親戚の方々がいらっしゃいました。
このとき、お見舞いのローテーションなどいろいろと作戦会議。
それが16:00頃終了して、皆さんが帰る間際に起きました。このとき発汗したらしく、自分の汗で「水をかけられたような感覚だった」ということでした。
その後、親戚と母と雑談。
兄嫁も母のために寒天を作ってくれて、母は喜んでいました。
意識もはっきりしていて、とても翌日のことが想像もできませんでした。
この日も父が病院で付き添い。兄と私が帰宅して、兄嫁はもとの場所のアパートへ。


10/30、6:00本当はゆっくり出ようと思ったのですが、父から突然の電話。
幸い、私服のまま寝ていたので、そのまま病院へ急行。6:30頃到着。
父が母の「××(兄)、××(私の名前)ありがとう」というそれまでは言わなかったような言葉を聞いたため、私たちを呼んだそうです。今にして思えば、このタイミングで気付かなければと思いました。
このときはまだまだいろいろなことを話していたのですが、8:00頃容態が急変。個室へ移動して酸素+水分を吸入するようになりました。
9:00頃兄嫁も到着。それと同時に、脈拍も低下。
4人で一生懸命「元気になろうね」とか「またキャベツの味噌汁作ってあげるから」とか声をかけながら励ましましたが、
10/30、11:50膵臓癌のため、亡くなりました。享年59歳です。

その後

亡き骸は自宅へ搬送していただきました。
いろいろな思いがこみ上げましたが、兄から「悲しんでいたら母にかわいそうだ。ここは、現世に残された僕たちだけでも充分に生きていけることを示してあげなきゃ」と言われたので、確かにいつまでも悲しむわけにはいかないと思いました。
そこで、母への当面の恩返しとして私が母のために料理を振舞いました。
内容は、まだまだ修行途中の「厚焼き玉子」、病気のときあれほど食べたがっていた「キャベツの味噌汁」と、もてなし料理として唯一母から認められた「(ノンオイル)炒飯」を作りました。
家族には「これなら母も喜ぶよ」と喜んで食べていました。
しかしながら、これでも私の料理はまだまだ未熟です。これからはこの料理で母の代わりに父を養っていかなければならないので、頑張りたいと思います。


亡き骸の状態は、(化粧をしていたり、ドライアイスで保存されているとはいえ)本当に綺麗な状態でした。
葬儀屋さんも「今にも動き出すのでは」と。
母の思い出を振り返る気持ちで、添い寝をしたりもしました。


お通夜は11/2、告別式11/3に行いました。

母へ

母からはいろいろな恩があります。
勉強や家事を教えてくれただけでなく、学校での悩みやアトピーなどを親身になって奔走してくれました。(ここでは詳しくは書けませんが)
これからは、母からの教えを受け継いで立派にやっていきたいと思います。


本当に長い間ありがとうございました。