2007-05-14
■[本]ドイツの出版社二つ
ベルリンの出版社Merveのページ。この出版社はPeter Genteによって1970年に設立されたもので、翻訳を中心にこれまで300タイトルほどの出版があり、特にフランス現代思想の紹介に力を注いできたことで知られる。そのGenteは今年の初めに出版界から引退し、それを記念した音楽イベントなんかも行われた模様(Die Zeitの記事"Denker und Punk"参照。私はちゃんと読んでないけど)。この出版社、Gente自身の言葉によれば「オリジナルな発想として、ドイツではあまり知られていない著者の長めの作品を、小冊子の形で印刷し直すというのがありました」という。要するに、原文に独自編集を加えて短くし、気軽に手に取りやすい形で出していたということだろう。そういう発想の延長線上、なのかどうかは知らないが、出版社のサイトにはMerve.mobileというコーナーがあり、有料でケイタイへのテクスト配信を行っている。ラインナップを見るとドゥルーズとかキットラーとかあって面白い。
こちらはミュンヘンの、同じく人文書や学術書の出版社BOERのページ。一見何の工夫もないページに見えてしまうが、絶版になってしまった本をpdfの形で廉価で配信しているのがすばらしい。ほとんどの書目は数ユーロで手に入ってしまう。たぶん読み切れないのは分かっていながら、以前2冊ほど買ってしまった。いろいろと大人の事情はあるんだろうけど、日本の某社や某社や某社や某社でも同じことすればいいのに、と思ってしまうのはいかんともしがたい。
2007-05-11
■[その他][映画]あるジジェクの映画評
スラヴォイ・ジジェクが映画300を評した"The True Hollywood Left"という文章が英語圏のブログで最近ちょっとばかり話題になっていた(参考までに、他ブログへのリンクがまとめてあるこの記事を挙げておく)。この映画はペルシア戦争中、テルモピュライの戦いでたった300人でペルシア軍を迎え撃ったスパルタ軍の勇姿を描いた映画らしいが、これがアメリカの軍事政策をアレゴリカルに正当化する映画、ほとんどあからさまなま国威発揚映画として批判されたらしい。ところがシニカルなジジェクは、まったく逆に、これをアメリカの支配に対する抵抗を描き出した映画として評価する。この映画で肯定的に描かれるスパルタ軍は、さまざまな点で、むしろアメリカの侵攻に抵抗するアフガニスタンのタリバン勢力に似ているのだ、と。
しかしこの記事が話題になったのは、ジジェクがそのような大国(ペルシア、アメリカ)への少数勢力による抵抗の美点を(軍隊的な)「規律」と「犠牲精神」に見いだし、それを称揚しているからである。そしてジジェクはさらにその価値を次のように「左派」に結びつける。「今日、支配的イデオロギーとしての快楽主義的寛大さhedonist permissivity*1の時代にあって、左派にとって規律と犠牲精神を(再び)我がものとすべき時がやってきつつある。これらの価値に固有にファシズム的なものなどないのである。」ある規律に自分を従わせること、さらにはそのために我が身を犠牲にすること、そのような要請はファシズム固有のものではない、むしろ左派こそがそれを手にしなければならない、というわけだ。ジジェクが続けて言うには、自由や理性といったものは決して無償のものではなく、「自分の実存を賭して」勝ち取られるべきものであり、「ルソーからジャコバン派まで、近代初期の急進的平等主義者たち」はスパルタを崇め、共和制のフランスを新たなスパルタとして思い描いていたに違いない……。
そんなわけで、この「スパルタ的」というか、ほとんど軍国主義的でさえある「規律」「犠牲精神」と「左派」の結びつけをどう評価するか。私はといえば、こうした発想にまったく賛成できないのだが、その理由の一つは、「規律」「犠牲精神」と「左派」の結びつきということで、私がかつての日本の学生運動(の負の側面)をすぐさま思い浮かべてしまうからかもしれない。ジジェクが日本の学生運動についてはたぶん知らないとしても、ジャコバン派を例に挙げたとき、恐怖政治のことが思い浮かびはしなかったのだろうか、とふと思った。
*1:正しい英語ではpermissiveness
2006-11-11
■[本]French theory
ここ数年フランスの新聞や雑誌の文章で"French theory"という英語の言い回しがそのまま使われているのを見かけるが、この言葉は、デリダ、フーコー、ドゥルーズ、リオタール、ボードリヤールなどフランス現代思想のアメリカにおける受容の過程を跡づけたFrançois Cusset, French theory, La Découverte, 2003(その後2005年に廉価版が出ている)という本が話題になったことから、いわば英語圏での評価から逆照射するかたちでこれらの思想家を総称する言葉として用いられるようになったもの。
まあ私は読んでないのだが、この本は一時期のフランスの国際的な知的影響力を単純に称えるような本ではなく、例えばadpfが発行している新刊情報案内Vient de Paraîtreのn°17(pdf)に載っている紹介文(p. 91)を見ると、この本にはブルデュー的な「知識人の社会学」という側面も多分にあることが窺える(ところでこの紹介文の翻訳がここにあるけど、こんなところにあるのになぜか豪快にデタラメな翻訳になっている。特に最初の段落の後半)。しかしこの本を離れて"French theory"という言葉が一人歩きし始め、また当初はそこに込められていた微妙なニュアンスが摩滅してしまうと、単に海外からの評価を後ろ盾にした「フランスの威信」の顕揚になりかねないと思うし、一部ではすでにそうなっているかもしれない。現代の小粒な専門知識人には及びもつかない「知の巨人」を幾人も輩出しえた時代、そのようなイメージとともに語られる言葉は、もちろん一歩間違うと後ろ向きなノスタルジーでしかない。それはサルトルの死後に起こったことを思い出させる。彼の知識人としての存在の巨大さを称え、その欠落を嘆いてみせるような言説の興隆は、彼の思想そのものが時代遅れなものと見なされ、顧みられなくなったことと裏表の関係にありはしなかったか。同じように、"French theory"の思想家たちを国外からの視線によって再評価の対象とすることは、彼らの思考そのものに向き合い、継承しようとする姿勢が衰退しつつあること反映かもしれないのだ。
しかしその一方、Mark Alizart & Christophe Kihm (dir.), Fresh Théorie, Léo Scheer, 2005というFrench theoryとよく似たタイトルの本も出ていて、というかこれは出版社による本書の紹介にもあるように、"French theory"をはっきり意識し、それに応答しようとする試みである。哲学、社会学、精神分析などの分野から比較的若い書き手が集まって、雑多なテーマ(サブカルチャーに触れたものが多い)について論じており、"French theory"の読み直しを標榜しながらも、後ろ向きなノスタルジーに耽るのではなく、新たな思考の場を構築しようとする意欲に満ちており、非常に楽しい論集に仕上がっている(出版社とは別にFresh Théorieのサイトもあって、そこの本書の紹介ページでは収録テクストの一部を読むことができる)。そして最近その第二弾として、同じ出版社から同じ監修者によってFresh Théorie IIが出たところ。真っ黒い表紙で副題に"Black Album"とあるこの本は、"French theory"の「暗い」側面に焦点を当てたもので、前回と同じく雑多なテーマが扱われながらも、死や喪や亡霊といった"Fernch theory"の隠れた大テーマが基調低音となっている。内容については拾い読みしかしてないので措いておくが、フランスの学術書にあまりないデザインで最初から小型の版型の廉価版で出すという戦略も含めて、なかなか面白い試みだと思う。次(があるかどうか知らないが)にも期待したいところ。
■[その他]ブルデューによるロワイヤル
もう一月以上前の話になるが、日本語で触れているところがほとんど見つからなかったのでメモ。Zalea TVというケーブルテレビの局で、1999年に行われたピエール・ブルデューのインタヴューが放映されたのだが、その中でセゴレーヌ・ロワイヤルについて、「彼女は左派ではない」「彼女は私がハビトゥスと呼んでいるもの、つまりある存在の仕方、話し方をもっていて、それが彼女が右派であることを教えてくれるのです」と発言があり、また知り合いのENA(国立行政学院)の教授から聞いた話として、「彼女はキャリアプランの一環として「私は左右のどちらなのか」と自問していました」という言葉が引かれている。ロワイヤルが政治家として左派を選んだのは、自分のキャリア形成に有利だったからに過ぎないというわけだ。そんなわけで、来年の大統領選を前に社会党の基本路線から外れた政策提言を繰り返しているロワイヤルの今日の姿は、すでに1999年にブルデューによって正確無比に予言されていたのだ!と、YouTubeなど動画共有サイトでこのインタヴューがアップされると、フランスのブログ圏で話題になったのだった(その後Zalea TVのサイトでもこのインタヴューが見られるようになった。上のリンク)。まあブルデューの発言、この部分だけ取り出してみるとホントかよって感じもするけど。右翼的な話し方や左翼的な物腰というものをはっきり見分ける自信は、少なくとも私にはない。
2006-10-24
■[音楽]Miossec & Murat
ほぼ同時に発売された二人のフランス人SSWの新作。MiossecのL'Etreinté (Pias)は、いつものように自分の顔をジャケットにしているが、今回は写真ではなくイラストということで心機一転という意味もあるのだろうか、非常に曲の粒がそろっていて、しかもヴァラエティに富んでいて、ここ最近の作品の中では一番いいのではないか。Jean-Louis Murat(この人も、Christophe Miossecがアーティスト名としてはMiossecとだけ名乗っているように、Muratとだけ表記されることも多い)のTaormina(Scarlett/V2)は、最初に聴いたときはなんて地味な作品だと思ってしまったが、何度も聴くうちにとても気に入ってしまい、結局Miossecよりもはるかに繰り返して聴いている。憂いを湛えた淡々とした歌声と張り詰めた空気を感じさせるブルージーな演奏が、どこかルー・リードを思わせる。
■[本]ジャン・ポーランと文学賞
ジャン・ポーランJean Paulhanの新しい全集がGallimardから出始めている。これは本当に嬉しい。ポーランはNRF(Nouvelle Revue Française)誌の編集長を長年務め、20世紀フランス文学の「黒幕」とも言われる人物だが、そのように文学史のメインストリームの影にぴったりと寄り添いながら、作家としての彼のエクリチュールはきわめて異様なものであり(と私には思える)、彼の著作はすべて奇書であるとさえ言ってよい。しかし、あまり翻訳に恵まれていない日本ではもちろん、フランスでもそのエクリチュールの特異さは、ごく一部の研究者を除いて、それに相応しい驚きをもって迎えられているようには見えない。編集者という裏方の仕事にこだわりつづけたためか、彼自身が社交的でありすぎたためか(彼は驚くべき数の書簡集によっても知られており、未刊行のものも含め、保管されている書簡の差出人は2200人以上――書簡が2200通なのではなく――になるという)、その存在は彼を取り巻く人々との関係性において眺められがちだが、しかしこの全集刊行をきっかけとして、彼のテクストそのものが読まれ、その怪物的なエクリチュールの一端が明るみに出されることを期待したい。
Le Magazine Littéraireの457号には、このポーラン全集刊行についての記事が出ており、それに非常に短いものではあるが、1946年にLes Temps Modernes誌に掲載予定だった彼の未発表原稿が掲載されている。それは「文学賞審査員への助言」と題されており、そこには以下のような言葉が読まれる。「最後に受賞が決まるのは愛想よく書かれている小説、ほんの少しの神秘趣味とちょっとばかりの魂の高潔さ、それに民衆への思いやりといった、すでに検証ずみの策略が張り巡らされた小説であり、要するにくだらないものである。それに加えて作者が誠実な人間であると評判だったり、対独レジスタンスに参加していたりするとさらによい。これが特にここ数年の、あらゆる文学賞審査員に当てはまる話であることは周知である」。それにしてもポーランが、こうした状況の解決策として、文学賞審査員の「純粋に民主的なシステムを独裁的なシステムに置き換えること」、要するに「ただ一人の審査員によってであれ、もっとも激しく賛美された作品」を選ぶという、あまり上手くいきそうにない奇特な提案をしているのがいかにも彼らしい。そもそも対独協力者の清算も済んでいなかった1946年の時点で、「レジスタンス」や「民主主義」を揶揄的に語っているところに、この作家の面目躍如たるものがある。
ついでに、上記のポーランの文学賞についての文章を読んで、とりわけ「まして作者が誠実な人間であると評判だったり、対独レジスタンスに参加していたりするとさらによい」という部分で思い出したのは、今年のノーベル文学賞のこと。トルコのオルハン・パムクの受賞に疑問を呈する声、つまりその作品よりもその政治的良心に、さらに言えば西欧的価値観に対する彼の親和性に対して賞が与えられたのではないかという声が、ちらほら出ているようだ。私にその当否は判断できないが、代わりにアントニオ・タブッキの辛辣な言葉を引用しておこう。Les Inrockuptibles誌568号の短いインタヴューで彼は、パムクがトルコ社会の圧力にもかかわらずアルメニア人虐殺の事実を明言した勇気を賞賛しつつ、しかし以下のように言っている。「しかしこの高貴な振る舞いが、文学と何の関係があるのでしょうか? パムクの4、5冊の小説は、要するに慎ましやかな作品で、ありきたりな出来のものです。つまり世界中にはこの程度の小説は何百冊もあるし、この程度の小説家は何百人もいるということです。ノベール財団は実際のところ、何に賞を与えたのでしょう?」。
ともあれ、例えば芥川賞の選考についても最近とやかく言われることが多いので、文学賞にまつわる胡散臭さそのものが比較的最近の傾向だと思ってしまいそうにもなるが、実はそうした傾向は、1946年にすでにポーランによって余すところなく指摘され、批判されていたのだった。
2006-10-03
■[音楽]Les Olivensteins
もう出てからずいぶん経っているが、雑誌Les Inrockuptiblesの別冊、Les inrocks2 - Punk! Les 30 ans d'une insurrection culturelle(文化的反抗の30年)というパンク特集が売れ残っていたので買ってみた。おまけとしてLes Trésors Cachés du Punkと題されたCDがついている。収録曲目が載っているページを探したけど見つからない…がともかく「パンクの秘宝」と題されているように、メジャーなところをあえて外した選曲になっている。中でも聴けてうれしかったのが、78年に結成されたフランスはルーアンのバンドで、たった一枚のシングル盤を出して解散したLes Olivensteins(フランス語版Wikipediaのエントリー)の"Fier de ne rien faire"(何もしないことを誇りに思う)という曲。この唯一のシングルはCD化されておらず、彼らの曲はこれまで手軽に聴ける状態ではなかったようだ。で"Fier de ne rien faire"は、曲自体はごく普通のいかにもなパンクなのだが、歌詞がおもしろい(歌詞はここで拾った)。この曲では、「僕は職安に登録しに行く勇気もない/もちろん僕は自分の尽きることない才能と限りない魅力を、人生につぎ込むことができる年齢になっている/お金は欲しいのにこんなにも怠け者なのがつらい」と歌われる。社会的に不安定な若者の心情を歌うことは、当時そんなに珍しくなかっただろうが、一転してサビの「僕は何もしないことを誇りに思う/何もできないことを誇りに思う」という開き直りがいい。そうした「何もしないこと」が、それと表裏一体の不安や緊張を失ってのっぺりした日常になると、ジャン=フィリップ・トゥーサンの小説のようなものになるのかもしれないが。そういえば今年誕生30年のパンクと同い年の世代、つまりはパンク世代を意味する(嘘)76世代という言葉が最近あるようだが(「76世代」の光と影@YAMDAS現更新履歴で知った)、"Fier de ne rien faire"で歌われる不安と開き直りは、いわゆる就職氷河期の直撃を受けたこの世代にも無縁ではないのかもしれないと思ったり。
せいぜい規律と自己犠牲精神くらい身につけて
みたら?といっているだけだよ。
日本の学生運動はもっとおめでたいから
本気で規律とか犠牲とか言っていたので
はないの?