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deadman 2 〈訃報系blog〉 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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wrote on 30 Jul, 2006

2006-07-29 元広島エース「小さな大投手」 長谷川良平さん 76歳

チーム草創期の弱かった広島カープを支えたエースで、後にカープ監督も努めた長谷川良平さんが肺炎で亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

2リーグ分裂した1950に新加盟球団として発足して創立された広島カープは、市民球団であるという資金面の弱みもあって、1967年まで18シーズンにわたってBクラスに低迷していましたが*1、その発足1年目にテスト生で入団し、1年目にいきなり15勝(27敗)、以降8年連続で2桁勝利し、1955年にはチーム最多記録である30勝(17敗)を記録しました。この年にはカープはチームとして58勝(70敗)しかしておらず、勝ち星の半数以上を長谷川ひとりで稼いだことになります。チームを支えたという言葉がこれほどまでに似合う方はいらっしゃらないでしょう。感服いたしました。

詳細は以下のリンクなどを参照ください。

訃報

さすが地元中国新聞の訃報が充実しています。

その日のカープの試合

ブラウン監督の退場劇がゲームの象徴シーンとなるのは、お門違いである。今日はカープ草創期を支えた長谷川良平さんの追悼試合。創設時の多大な苦労を乗り越えた先人に、カープが存在していることを感謝し、選手全員で挙げた白星をささげるべきだろう。

嶋奮迅 - 中国新聞 カープ情報

ブラウン監督退場て

*1広島国鉄大洋の3チームが最下位を争うのが例年だったようです

wrote on 26 Jul, 2006

2006-07-25 国際野球連盟会長 アルド・ノタリさん 73歳

国際野球連盟IBAF=International BAseball Federation)のアルド・ノタリ(Aldo Notari)会長がイタリアパルマで亡くなられました。ノタリ氏は、選手としては1967年までイタリアの国内リーグで活躍されたそうです。

IBAFにおいては、会長就任(1993年)前の副会長時代、今年5月に亡くなられた山本英一郎全日本アマチュア野球連盟前会長(前IBAF副会長)とともにオリンピック野球が正式種目に採用されるよう働きかけ、1992年のバルセロナ大会で実現されました。しかし次々回のロンドン大会では除外されることが決まっており、復活を働きかけていたところだったそうです。

さらにオリンピックへのプロ野球選手の参加にも積極的だったそうです。思えば2000年シドニー大会で日本チームも初めてプロ野球選手が参加(8名)したものの、公開競技時代を含めて初めてメダルを逃すという残念な結果に終わり、続いてオールプロで編成された2004年シドニー大会での「長島ジャパン」も気負いすぎて惜しくも銅メダルに終わるという苦い経験が、今年春のWBCにようやく「王ジャパン」の世界一として結実しました。

野球国際大会においてはまさに第一の功労者であり、日本にとっても大きな存在の方だったということでしょう。親日家でいらしたそうです。ご冥福をお祈りいたします。

訃報

wrote on 25 Jul, 2006

2006-07-24 元南海ホークス外野手 堀井数男さん 82歳

戦後直後〜鶴岡一人監督時代の全盛期の南海ホークスで主軸として活躍された堀井数男さんさんが亡くなられました。通算1,513安打は、ホークス在籍中の数字としては野村、門田、広瀬に次ぐ歴代第4位だそうです(参考 → ソフトバンクの記録*1。生涯打率.272。

当時の活躍の様子

ホークスの公式記録によると

トップから蔭山和夫.303=5位、島原輝夫.297=6位、岡本伊三美.318=首位打者、飯田徳治.296=7位、堀井数男.314=2位と5人が打撃ベストテン入りというコンスタントな打力だった

ホークスの歩み −昭和28年− (1953年) 大混戦の中で南海足攻の優勝 - 福岡ソフトバンクホークス

またWikipediaでは

1946年は、1番・安井亀和、2番・河西俊雄(後阪神近鉄の名スカウト)3番・田川豊(後のパ・リーグ審判)の俊足トリオでかき回し、4番鶴岡、5番・堀井数男が返すという「機動力野球の元祖」で巨人を1勝差でかわし、戦後プロ野球再開初年度の優勝を、南海の初優勝で飾った。

鶴岡一人 - Wikipedia

訃報

*1:「ホークス在籍期中」というのがミソで、例えば秋山幸二などは2000本安打を達成していますが半分はライオンズ在籍時で、ホークスで打ったのは900本強です。つまり堀井さんはホークスの主軸打者としては、飯田徳治より、藤原満より、佐々木誠より、山本和範より、吉永幸一郎より、佐々木誠より、小久保裕紀より、城島健司よりたくさん打ったということになるでしょう

wrote on 19 Jul, 2006

2006-07-18 前高野連会長 牧野直隆さん 95歳

1981年から2002年までの11期22年にわたって高野連日本高等学校野球連盟)会長(4代目)を務め、「21世紀枠」の導入など高校野球の改革に熱心に取り組まれた牧野直隆さんが膵臓癌で亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

71歳から92歳までという超高齢期の長期政権はいかにも「日本の組織」っぽいですが、老人の名誉職的なものとはまったく無縁だったようで、在任期間中には「21世紀枠」だけではなくさまざまな改革を積極的に推し進めたと訃報にはあります。1960年から高野連の理事に就き、また戦前戦後を通して審判として甲子園の土を踏むなど、半世紀以上にわたって近くから高校野球を見てきたことで、いろいろと思うことがあったのでしょう。

新聞各紙の訃報にあった業績を箇条書きにまとめてみました。

  • 現実的な視点から高校野球体質改善に尽力
  • 不祥事に対して連帯責任を問う厳罰主義から、柔軟路線に転換
  • 外国人学校への門戸開放
    • 1991年朝鮮高級学校などの大会参加を認めた。
  • 球児の安全対策
    • 投手の負担軽減のため、準々決勝2日制を導入
    • 肩やひじの故障を防ぐため、1993年から代表校に投手の関節機能検査を義務付け
    • 練習で週1日の休みを取る「ゆとりと休養の日」
  • 2001年の選抜大会からは「21世紀枠」を新設
    • 模範的活動を続ける学校に甲子園への道を開いたが、賛否両論あり。
  • 金属バットの安全性の確保
    • 2000年に新たな金属バットの規格が設けられ、2002年から使用
  • 1995年1月、甲子園球場も被災した阪神大震災への迅速な対応
    • 自身も被災者として近隣住民の心情に配慮しながら開催に導いた
  • 統廃合する学校の救済措置として「連合チーム」の容認。
  • 野球の国際化
  • 都道府県高野連との連携を深める
    • 甲子園にばかり関心が集中する風潮に対し、地方大会の重要性を説いた
  • 勝利至上主義や商業主義を嫌った
    • ドラフトでは、逆指名や高校生を対象とする自由獲得枠を認めなかった
    • 1992年夏の明徳義塾戦で星稜・松井(現ヤンキース)が5打席連続敬遠された際には「お互い苦しい練習をしてきた。その分を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」と指導者の勝利至上主義をいさめる談話を発表
  • 会長としての就任期間で最も印象に残った試合は、1998年夏の横浜神奈川)―PL学園大阪)の延長17回の死闘

経歴

高野連会長というだけではなく、野球人として選手および監督としてもアマチュア野球界で一流であったそうです。

1910年日韓併合された明治43年!)のお生まれで、プロ野球がはじまる前の今より遙かに人気のあった戦前の大学野球において、慶応大学遊撃手として活躍し、主将も務めました。のちの名将水原茂と三遊間を守り、在学11シーズンで5度の東京六大学リーグ優勝という輝かしい成績を残しました。

卒業後は鐘淵紡績(現カネボウ)に入社。ノンプロで活躍し、全大阪都市対抗野球大会初優勝(1934年)に貢献し、同年秋には鐘紡淀川を創部。同年12月の日米野球で全日本チームに選ばれ(チームメイトに沢村栄治など)、ベーブ・ルースを含む大リーグ選抜チームと対戦しました。戦後は1949年に全鐘紡の総監督に就任し、1950年から都市対抗大会唯一の3連覇を達成しました。

本業でも1961年には鐘紡の取締役に就任し、その後は鐘淵合成化学工業の社長などを歴任。同時期の1960年高野連理事に就かれたことは前述したとおりです。また日本社会人野球協会(現・日本野球連盟)の設立(1949年)に尽力されたとのことです。

著書

70年以上の野球との付き合いを書籍にまとめられています。

ベースボールの力

ベースボールの力

書評が次のサイトにありました。

その牧野さんの自著『ベースボールの力』(毎日新聞社)は、何度、読み返しても、感銘が深い。

甲子園の父と言われているが「僕はといえば、栄光の甲子園出場経験などない」「あと1歩のところで早稲田実業に敗れ、甲子園へは出場していないだけに、僕にとって神宮球場は一世一代の晴れ舞台」その慶大で「補欠生活は2年半の長きに」やっと「3年生の秋のリーグ、初スタメン出場、二死満塁で回ってきた打席、追い込まれてから体を乗り出して叩いた外角球は、右翼へ」(中略)

牧野さんの今日までの歩みは、そのまま我が国の野球界のそれである。「甲子園で勝つことは目標であるが、断じて目的ではない」が持論の牧野さんは、

にまで意を尽くして書かれ、平成14年の退任記者会見で「プロ野球よ、原点に戻れ!」の思いがほとばしったとか。

MIZUNO|おおむらのこらむ

訃報

wrote on 14 Jul, 2006

2006-07-13 元巨人投手「8時半の男」 宮田征典さん 66歳

1965年に「8時半の男」と呼ばれ、今で言う「抑えの切り札」として大活躍したジャイアンツの元投手宮田征典さんが亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

宮田さんは、巨人のいわゆる「V9」の1年目にあたる1965年に20勝(うちリリーフで19勝)を挙げ、チームのリーグ制覇に貢献しました。当時の巨人は現役晩年の金田正一投手など完投が望めない投手陣を要しており、心臓に疾患を持つために長いイニングを投げることができなかった宮田さんを救援の切り札として抜擢、140試合の約半数に当たる69試合に登板しました。7〜8回からロングリリーフすることが多く、毎日午後8時半ごろになると登場することから「8時半の男」と呼ばれたそうです。宮田さんが出た1点差試合は26勝10敗(勝率.722)と圧倒的な安定感を見せ、現在のセーブ制度を当てはめると22セーブ(41セーブポイント)の大活躍でした。

しかしその大車輪のような働きのせいか翌年以降は肘や肩を故障し、1969年限りで引退しました。引退後は投手コーチとして、野口茂樹中日)、工藤公康西武)、桑田真澄巨人)など後のエースを数多く育てたそうです。

訃報

2006-07-12 デキシーランドジャズ 薗田憲一さん 76歳

日本のデキシーランド・ジャズの第一人者、トロンボーン奏者の薗田憲一さんが食道癌のため亡くなられました。ご冥福をおいのりいたします。

薗田さんは「斉藤隆とドンキー・カルテット」などを経て、1960年に結成した自身のグループ「薗田憲一とデキシーキングス」で45年以上にわたり一貫してデキシー・スタイルのジャズを演奏してきました。海外でも活躍され、1977年にはニューオーリンズの名誉市民にもなったそうです。

今年1月に調布さくらんぼ」での新春ライブの様子がこちらにあります。

またデキシーやスイングが大のお気に入りの談志師匠が「葬式の演奏」を頼んでいたそうですが、薗田さんのほうが先に亡くなられてしまいました。憎まれっ子世に(略

デキシーを教わったのは、「薗田憲一とデキシー・キングス」からです。薗田さんとは20代の頃からのつきあいで、葬式の演奏も頼んである。食道がんの手術をするより前からの約束です。

俺の葬儀のリクエスト〜THAT’S A PLENTY(薗田憲一とデキシー・キングス)/立川談志さん選曲 - asahi.com : Be on Saturday

わが心のデキシーランド・ジャズ

わが心のデキシーランド・ジャズ

作品

デキシー・ランド・ビッグ・ヒッツ

デキシー・ランド・ビッグ・ヒッツ

意外なところでは高田渡さんのベルウッドからの3枚目「石」に参加。

石

またアニメ魔法使いサリー」の主題歌も演奏されたそうです。

訃報

wrote on 12 Jul, 2006

2006-07-10 元アイドルタレント 甲斐智枝美さん 43歳 (自殺?)

1980年代初頭に活躍した「スター誕生」出身の元アイドルタレント、甲斐智枝美さんが43歳の若さで急死されたそうです。ご冥福をお祈りいたします。

f:id:deadman2:20060712200541j:image

訃報と死因

甲斐さんの死は12日午前中に報道されましたが、その時点では死因は「心不全」とされていました。

しかし同日夕方*1になって産経新聞が「検視の結果、(首つり)自殺」と報じています。

二度目の警察発表があったということでしょうか? 既報の各メディアが修正されるのかどうか気になります。テレビのワイドショーを現在進行形で見ていればすぐにハッキリしそうですけども。

*1:このエントリを書いているいままさに現在進行形のことですが

wrote on 11 Jul, 2006

2006-06-17 「YBO2」の北村昌士さん 49歳

1984年に結成された日本のアンダーグラウンドなロックバンド「YBO2」の中心人物であり、同時にインディーズレーベルトランスレコード」も主催し(いったんレーベル活動休止後、90年代には「SSEレコード」として復活)、またプログレニューウェイブ系の先鋭的ロック雑誌「フールズメイト」の初代編集長として、80年代の日本のインディーズロックシーンをつくったひとりである北村昌士さんが亡くなられたという情報が流れています。

詳しいあるいは正式な訃報ではなく断片的な情報が多く、亡くなられた日や享年・死因などは不明ですが*1、本当だとしたらまだ亡くなられるにはずいぶんお若いのではないでしょうか。残念です。ご冥福をおいのりいたします。

現時点でネットで確認できる情報

2chの「伝説のミュージシャン」板の北村昌士スレッドでは300あたりから話題になっています。

またバンド「Z旗」のブログにギターのNOBU氏が次のように記しています。

2日午後をまわった頃、友人K.Hくんから訃報が届く。カオスノイズ響き、YBO2の北村昌士氏死去とメールが届く。近しい人からの報なので間違いない、

Z旗(ZETKI): CHAOS

関連リンク

バンド「YBO2」とトランスレーベルについてはexcite music(Listen.jp)に小野島大さんが書かれた解説がわかりやすいです。

入り組んだ変拍子リフが連続的に展開する複雑な曲構成と、オブセッションに満ちたヒステリックなヴォーカルなどで、ある種の危機感や崩壊感を表出するサウンドは、およそ親しみやすいともポップとも言いがたいものだったが、彼らがZ.O.A.、ソドム、アサイラム、さらに北村のもうひとつのバンド、キャニス・ルーパスらとともに「トランス・ギャル」なる少女たちを呼び寄せるほどの人気を得てしまったのは、やはり80年代という時代ゆえだろうか。

トランス・ギャル」と「ナゴム・ギャル」が80年代インディシーンを代表する女子の有り様ですね。

次のサイトはレコジャケの紹介がステキです。

SSE/YBO2の公式サイトは2001年頃で更新が止まっていました。

追記 2006-08-03

フールズメイト誌に訃報が掲載されたのでその情報を元に見出しなど修正しました。

元本誌編集長でありYBO2などの音楽活動で知られる北村昌士氏が、6月17日、心臓疾患により逝去されました。'77年の本誌創刊から編集長をつとめ、'85年に編集を離れてからは、トランスレコードSSEなどの自主レーベルを運営、みずからの作品のみならず多彩なアーティストの作品を世に送りました。享年49歳でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

2006-07-07 元ピンクフロイドのシド・バレットさん 60歳

世界的なプログレッシブサイケデリックロックバンド「ピンクフロイド」の最初期の中心メンバーで、70年代初頭には精神を病んでリタイヤし、30年間ほとんど自宅に籠もっていた元ミュージシャンのシド・バレットさんが糖尿病からくる合併症で亡くなられたそうです。ご冥福をお祈りします。

帽子が笑う・・・不気味に (紙ジャケット仕様) Opel Best of Syd Barrett: Wouldn't You Miss Me

1967 Singles Sampler Piper at Gates of Dawn Wish You Were Here

訃報ほか

*1:年齢については2ちゃんの該当スレに「秋田昌美氏とタメで50歳」という書き込みがありました

wrote on 10 Jul, 2006

2006-06-23 元東映動画社長 今田智憲さん 82歳

東映アニメーション元社長の今田智憲さんが亡くなられました。Wikipediaによると、アニメ映画銀河鉄道999』の監督にりんたろう氏を直々に指名し大ヒットさせた方だそうです。ご冥福をおいのりいたします。

特にハーロックの第1話の試写では、今田智憲東映動画社長が感動のあまり涙を流し、『銀河鉄道999』を映画化する際、社長がりんを直々に監督に指名することになった。東映動画の長編作品で社外から監督を起用するのは異例中の異例だとされる。

りんたろう - Wikipedia

wrote on 01 Jul, 2006

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