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deadman 2 〈訃報系blog〉 このページをアンテナに追加 RSSフィード

 

wrote on 13 Nov, 2007

2007-11-13 鉄腕 稲尾和久氏逝去 70歳

昭和30年代に全盛期の西鉄ライオンズの絶対的なエースとして活躍し、伝説の日本シリーズ4連投にシリーズ史上初サヨナラホームランや、シーズン42勝(1961)など記憶にも記録にも残る活躍で「鉄腕」「神様仏様稲尾様」と地元ファンに信奉され、現役14年で通算276勝137敗の聖跡を残した元日プロ野球ピッチャーで、野球評論家の稲尾和久氏が、悪性の腫瘍福岡市内の病院で死去されたそうです。ご冥福をおいのりいたします。

神様でも死ぬのか…

D

YouTube - 稲尾和久ピッチング - http://jp.youtube.com/watch?v=31mprHQI1pA

訃報

wrote on 30 Jul, 2006

2006-07-29 元広島エース「小さな大投手」 長谷川良平さん 76歳

チーム草創期の弱かった広島カープを支えたエースで、後にカープ監督も努めた長谷川良平さんが肺炎で亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

2リーグ分裂した1950に新加盟球団として発足して創立された広島カープは、市民球団であるという資金面の弱みもあって、1967年まで18シーズンにわたってBクラスに低迷していましたが*1、その発足1年目にテスト生で入団し、1年目にいきなり15勝(27敗)、以降8年連続で2桁勝利し、1955年にはチーム最多記録である30勝(17敗)を記録しました。この年にはカープはチームとして58勝(70敗)しかしておらず、勝ち星の半数以上を長谷川ひとりで稼いだことになります。チームを支えたという言葉がこれほどまでに似合う方はいらっしゃらないでしょう。感服いたしました。

詳細は以下のリンクなどを参照ください。

訃報

さすが地元中国新聞の訃報が充実しています。

その日のカープの試合

ブラウン監督の退場劇がゲームの象徴シーンとなるのは、お門違いである。今日はカープ草創期を支えた長谷川良平さんの追悼試合。創設時の多大な苦労を乗り越えた先人に、カープが存在していることを感謝し、選手全員で挙げた白星をささげるべきだろう。

嶋奮迅 - 中国新聞 カープ情報

ブラウン監督退場て

*1広島国鉄大洋の3チームが最下位を争うのが例年だったようです

wrote on 26 Jul, 2006

2006-07-25 国際野球連盟会長 アルド・ノタリさん 73歳

国際野球連盟(IBAF=International BAseball Federation)のアルド・ノタリ(Aldo Notari)会長がイタリアのパルマで亡くなられました。ノタリ氏は、選手としては1967年までイタリアの国内リーグで活躍されたそうです。

IBAFにおいては、会長就任(1993年)前の副会長時代、今年5月に亡くなられた山本英一郎全日本アマチュア野球連盟前会長(前IBAF副会長)とともにオリンピックで野球が正式種目に採用されるよう働きかけ、1992年のバルセロナ大会で実現されました。しかし次々回のロンドン大会では除外されることが決まっており、復活を働きかけていたところだったそうです。

さらにオリンピックへのプロ野球選手の参加にも積極的だったそうです。思えば2000年シドニー大会で日本チームも初めてプロ野球選手が参加(8名)したものの、公開競技時代を含めて初めてメダルを逃すという残念な結果に終わり、続いてオールプロで編成された2004年シドニー大会での「長島ジャパン」も気負いすぎて惜しくも銅メダルに終わるという苦い経験が、今年春のWBCにようやく「王ジャパン」の世界一として結実しました。

野球の国際大会においてはまさに第一の功労者であり、日本にとっても大きな存在の方だったということでしょう。親日家でいらしたそうです。ご冥福をお祈りいたします。

訃報

wrote on 25 Jul, 2006

2006-07-24 元南海ホークス外野手 堀井数男さん 82歳

戦後直後〜鶴岡一人監督時代の全盛期の南海ホークスで主軸として活躍された堀井数男さんさんが亡くなられました。通算1,513安打は、ホークス在籍中の数字としては野村、門田、広瀬に次ぐ歴代第4位だそうです(参考 → ソフトバンクの記録*1。生涯打率.272。

当時の活躍の様子

ホークスの公式記録によると

トップから蔭山和夫.303=5位、島原輝夫.297=6位、岡本伊三美.318=首位打者、飯田徳治.296=7位、堀井数男.314=2位と5人が打撃ベストテン入りというコンスタントな打力だった

ホークスの歩み −昭和28年− (1953年) 大混戦の中で南海足攻の優勝 - 福岡ソフトバンクホークス

またWikipediaでは

1946年は、1番・安井亀和、2番・河西俊雄(後阪神、近鉄の名スカウト)3番・田川豊(後のパ・リーグ審判)の俊足トリオでかき回し、4番鶴岡、5番・堀井数男が返すという「機動力野球の元祖」で巨人を1勝差でかわし、戦後プロ野球再開初年度の優勝を、南海の初優勝で飾った。

鶴岡一人 - Wikipedia

訃報

*1:「ホークス在籍期中」というのがミソで、例えば秋山幸二などは2000本安打を達成していますが半分はライオンズ在籍時で、ホークスで打ったのは900本強です。つまり堀井さんはホークスの主軸打者としては、飯田徳治より、藤原満より、佐々木誠より、山本和範より、吉永幸一郎より、佐々木誠より、小久保裕紀より、城島健司よりたくさん打ったということになるでしょう

wrote on 19 Jul, 2006

2006-07-18 前高野連会長 牧野直隆さん 95歳

1981年から2002年までの11期22年にわたって高野連(日本高等学校野球連盟)会長(4代目)を務め、「21世紀枠」の導入など高校野球の改革に熱心に取り組まれた牧野直隆さんが膵臓癌で亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

71歳から92歳までという超高齢期の長期政権はいかにも「日本の組織」っぽいですが、老人の名誉職的なものとはまったく無縁だったようで、在任期間中には「21世紀枠」だけではなくさまざまな改革を積極的に推し進めたと訃報にはあります。1960年から高野連の理事に就き、また戦前戦後を通して審判として甲子園の土を踏むなど、半世紀以上にわたって近くから高校野球を見てきたことで、いろいろと思うことがあったのでしょう。

新聞各紙の訃報にあった業績を箇条書きにまとめてみました。

  • 現実的な視点から高校野球の体質改善に尽力
  • 不祥事に対して連帯責任を問う厳罰主義から、柔軟路線に転換
  • 外国人学校への門戸開放
    • 1991年に朝鮮高級学校などの大会参加を認めた。
  • 球児の安全対策
    • 投手の負担軽減のため、準々決勝2日制を導入
    • 肩やひじの故障を防ぐため、1993年から代表校に投手の関節機能検査を義務付け
    • 練習で週1日の休みを取る「ゆとりと休養の日」
  • 2001年の選抜大会からは「21世紀枠」を新設
    • 模範的活動を続ける学校に甲子園への道を開いたが、賛否両論あり。
  • 金属バットの安全性の確保
    • 2000年に新たな金属バットの規格が設けられ、2002年から使用
  • 1995年1月、甲子園球場も被災した阪神大震災への迅速な対応
    • 自身も被災者として近隣住民の心情に配慮しながら開催に導いた
  • 統廃合する学校の救済措置として「連合チーム」の容認。
  • 野球の国際化
    • 1998年にアジアAAA(18歳以下)野球選手権を初めて国内(大阪市ほか)で開催
  • 各都道府県高野連との連携を深める
    • 甲子園にばかり関心が集中する風潮に対し、地方大会の重要性を説いた
  • 勝利至上主義や商業主義を嫌った
    • ドラフトでは、逆指名や高校生を対象とする自由獲得枠を認めなかった
    • 1992年夏の明徳義塾戦で星稜・松井(現ヤンキース)が5打席連続敬遠された際には「お互い苦しい練習をしてきた。その分を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」と指導者の勝利至上主義をいさめる談話を発表
  • 会長としての就任期間で最も印象に残った試合は、1998年夏の横浜(神奈川)―PL学園(大阪)の延長17回の死闘

経歴

高野連会長というだけではなく、野球人として選手および監督としてもアマチュア野球界で一流であったそうです。

1910年(日韓併合された明治43年!)のお生まれで、プロ野球がはじまる前の今より遙かに人気のあった戦前の大学野球において、慶応大学の遊撃手として活躍し、主将も務めました。のちの名将水原茂と三遊間を守り、在学11シーズンで5度の東京六大学リーグ優勝という輝かしい成績を残しました。

卒業後は鐘淵紡績(現カネボウ)に入社。ノンプロで活躍し、全大阪の都市対抗野球大会初優勝(1934年)に貢献し、同年秋には鐘紡淀川を創部。同年12月の日米野球で全日本チームに選ばれ(チームメイトに沢村栄治など)、ベーブ・ルースを含む大リーグ選抜チームと対戦しました。戦後は1949年に全鐘紡の総監督に就任し、1950年から都市対抗大会唯一の3連覇を達成しました。

本業でも1961年には鐘紡の取締役に就任し、その後は鐘淵合成化学工業の社長などを歴任。同時期の1960年に高野連理事に就かれたことは前述したとおりです。また日本社会人野球協会(現・日本野球連盟)の設立(1949年)に尽力されたとのことです。

著書

70年以上の野球との付き合いを書籍にまとめられています。

ベースボールの力

ベースボールの力

書評が次のサイトにありました。

その牧野さんの自著『ベースボールの力』(毎日新聞社)は、何度、読み返しても、感銘が深い。

甲子園の父と言われているが「僕はといえば、栄光の甲子園出場経験などない」「あと1歩のところで早稲田実業に敗れ、甲子園へは出場していないだけに、僕にとって神宮球場は一世一代の晴れ舞台」その慶大で「補欠生活は2年半の長きに」やっと「3年生の秋のリーグ、初スタメン出場、二死満塁で回ってきた打席、追い込まれてから体を乗り出して叩いた外角球は、右翼へ」(中略)

牧野さんの今日までの歩みは、そのまま我が国の野球界のそれである。「甲子園で勝つことは目標であるが、断じて目的ではない」が持論の牧野さんは、

  • 記録員のベンチ入り、
  • 野球界の先頭切って平成9年から球審コールの国際化、
  • 甲子園の土(グラウンド管理)
  • 「アオダモ(バット)資源育成の会」

にまで意を尽くして書かれ、平成14年の退任記者会見で「プロ野球よ、原点に戻れ!」の思いがほとばしったとか。

MIZUNO|おおむらのこらむ

訃報

wrote on 14 Jul, 2006

2006-07-13 元巨人投手「8時半の男」 宮田征典さん 66歳

1965年に「8時半の男」と呼ばれ、今で言う「抑えの切り札」として大活躍したジャイアンツの元投手、宮田征典さんが亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

宮田さんは、巨人のいわゆる「V9」の1年目にあたる1965年に20勝(うちリリーフで19勝)を挙げ、チームのリーグ制覇に貢献しました。当時の巨人は現役晩年の金田正一投手など完投が望めない投手陣を要しており、心臓に疾患を持つために長いイニングを投げることができなかった宮田さんを救援の切り札として抜擢、140試合の約半数に当たる69試合に登板しました。7〜8回からロングリリーフすることが多く、毎日午後8時半ごろになると登場することから「8時半の男」と呼ばれたそうです。宮田さんが出た1点差試合は26勝10敗(勝率.722)と圧倒的な安定感を見せ、現在のセーブ制度を当てはめると22セーブ(41セーブポイント)の大活躍でした。

しかしその大車輪のような働きのせいか翌年以降は肘や肩を故障し、1969年限りで引退しました。引退後は投手コーチとして、野口茂樹(中日)、工藤公康(西武)、桑田真澄(巨人)など後のエースを数多く育てたそうです。

訃報

wrote on 19 May, 2006

2006-05-18 日本プロ野球史上初の酋長 相沢進さん 75歳

元の毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)および高橋ユニオンズの投手で、引退後は母親の母国であるミクロネシアで地域の酋長会議議長を務めた相沢進さんが亡くなられたそうです。ご冥福をおいのりします。

1950年代にプロ野球の毎日オリオンズなどでプレーし、57年に引退後はミクロネシアで酋長(しゅうちょう)を務めていた相沢進(あいざわ・すすむ)さんが18日未明に亡くなった。75歳。

日本人の父とミクロネシア人の母との間に生まれた相沢さんは、敗戦により父と帰国。

セ、パ2リーグ制となった50年の毎日オリオンズ創設時に投手として入団し、53年に初登板。54年に、その年設立された高橋ユニオンズに移籍した。主に技巧派の中継ぎとして実働4年間で93試合に登板して8勝17敗、防御率4.20だった。

引退後は母の出身地チューク島に戻り、集落の長(おさ)に就任。地域の「酋長会議」議長も務めたという。

訃報:相沢進さん75歳=元毎日オリオンズ選手−訃報:MSN毎日インタラクティブ

この4月にホークス―マリーンズ戦で始球式を務めています。寺原が勝った試合だ!

「ボールを投げるのは25年ぶり」と、マウンドから5歩前に出たものの投球はワンバウンド。ホームから中堅フェンスまで届いたという強肩は影を潜めたが「やっぱり野球が好き」と青春時代の情熱は変わらぬままだった。

スポニチ Sponichi Annex ニュース 野球

関連サイトなど

こちらのサイトに略歴とお写真がありました。

1930年6月9日、トラック諸島トール島の酋長の娘・リサと同島に移住した日本人・相沢庄太郎との間に生まれる1945年の終戦で日本に強制送還ののち、1950年の毎日オリオンズ創立に参加。(略)

引退後、母の住む故郷・トラック諸島に帰り、スーパーマーケットを経営するかたわら、36人いるトラック諸島酋長の酋長会議議長を務めていたという。相沢を取材した江藤慎一によれば、トラック諸島はもともと野球が盛んな所で、地域に100近い野球チームがあるらしい。その中のエリートといえるかも。

新迷怪野球事典・あ行

スカイパーフェクTVの「旅」チャンネルでちょうどいま特集番組が放送されていますね。

当時、相沢投手のチームメイトには西本幸雄、佐々木信也、山内和弘、そしてあのスタルヒンなどがいた。

ミクロネシア連邦共和国チューク州、かつての日本海軍の基地であったチューク島を訪ねるのはロッテにも在籍していた内藤尚行。

蘇る記憶・酋長になった野球選手を訪ねて

おお、スタルヒン。つかギャオス内藤ってロッテにもいたんだ?

関連作品

小説のネタに使われているそうです!

大森
辻原登の『枯葉の中の青い炎』。スタルヒンが300勝目を飾れたのは南の島の呪いのおかげだったというすごい話で。当時、トンボ・ユニオンズに在籍していた相沢進っていうピッチャーが――その後、生まれ故郷のトラック諸島に戻って酋長にまでなってるんですが――スタルヒンのためにベンチで禁断の呪術を使い、その瞬間、スタルヒンの球が旋回しながら青い炎をあげてキャッチャーミットにおさまったという……。プロ野球史を知らない人は全部ウソだと思うでしょうけど、8割ぐらいはホントの話で、どこからががウソなのかよくわからない(笑)。

大森望×豊崎由美 2人あわせて、約2,000冊!『そんなに読んで、どうするの?』 - エキサイト : ブックス

読みたい!!

枯葉の中の青い炎

枯葉の中の青い炎

 
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