日記を書く

今日は論理学入門という本を読んだ。が、まったく身になっていない。だろう。おそらくは。いくつか面白い指摘(確率的な真偽の強度を考えたとき、それが100%の場合を扱うのが普通の論理学である、とか「べき」という価値判断と論理学の関係とかなんとか)があったものの、もうあの本は開きたくない。もう十分だろう。なんというか、こういう本を読むたびに自らの人間としての底の浅さというか、まあいろいろ想起させられるので、得てして気分が落ち込む。根本的に、私は学ぶということに向いていないのではなかろうか、とすら思う。ところで、最近私が気になる女性の部位は太ももの裏の筋肉なのだが、あれはなんと言う名前なんだろうか。今調べた。大腿二頭筋、ならびに半腱様筋だろう。おそらく。その部分がペダルを漕ぐ動作の中で緊張し、皮膚の下から主張している様が自転車通学途中たまに拝めるのだが、なかなか興味深い。気になる。気になるが、なんということはない。そして、太ももの太さというものが、どうにも上半身の肉のつき具合と関連がなさ過ぎるように思えてならない。そして、あんなものは個人の努力ではどうにもならないんじゃないか、ということもよく思う。個人差、というやつである。個人差。私には、論理学より大腿二頭筋のほうが相性がよいようだ。

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どうもこの世の中にはでべでべ節、というものがあるらしい。おそらく、私を4つに割ってから加工(おそらく、茹でたあとに乾燥)した食品なんだろう。あるいは、およそ半月ぐらいのでべでべした期間なのかもしれない。とにかく、毒にも薬にもならないものである。しかし、よく考えれば大腿の、大腿ではない、大体の食品は毒にも薬にもならないものばかりである。であるからして、適当に死なない程度に食べればそれでよい。納豆しかり、ココアしかり、である。眠い。なんか眠気に効く食べ物あらへん?

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自分には文章力がないなぁ、といつも通りぼんやり考えていた。しかし、文章力っていったいなんだろう?文章で何をする力なのか、まったく字面に出てきていないがゆえに、非常にあいまいな解釈が可能になっている。文章で概念を人に理解させる力なのか、文章で人を殺傷する力なのか、文章をひたすら量産する力なのか、文章で収入を得る力なのか、文章でおっぱいを大きくする力なのか、そこには明示されていない。まあ少なくとも最後の力は私には無いんだけれども、例えるなら、手先の器用さも、指先の素早さも、握力も、手首のスナップも、ピアノを弾ける能力もタイピング速度の速さもすべて「手力」と表しているようなものである。のか。「てか」ではない。しかし、そのままでは手で100円玉にタバコを通すような力を表してしまいそうではある。例えるなら、早く走る力も、長く走る力も、高く跳ぶ力も、遠くへ跳ぶ力も、蹴る力も、踏む力も、太ももによって、ふくらはぎによって、足首によって、男を魅了する力も、すべて「脚力」と表すようなものである。のか。「あしか」ではない。あぁ、太ももは主に裏側で。そもそも、自分には文章に何かをさせようという気がないように見える。「と思う」「に見える」「と考えてみた」「まぁ、〜」どれも文章を弱体化させるファクターである。慎重に慎重にトゲを抜いた文しか作れないというのは、どこか寂しい。これでは、私の文を見た人に、何か強い感情を惹起させることなど、出来るわけがない。物を考えさせることなど、出来るわけが無い。人間は考える脚である。考えなければ、ただの脚である。大腿二頭筋、ならびに半腱様筋である。