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幾時代かがありまして 引用誤用盗用当用日記 RSSフィード

2012-08-13

[]小栗左多里『プチ修行』★★☆(幻冬舎文庫、H19/H22-3)

 修行の途中、座禅を組みに行ったお寺で気がついたことがある。お寺にいる人が誰一人、幸せそうな顔なんてしていないのだ。長年修行している人も、幸せどころか世界中の不幸をしょって立っているみたいな感じである。どう考えてもその辺で犬を散歩させている人の方が幸せそうだ。

 しかしその犬が死んだ時、飼い主は多いに嘆き悲しむだろうけど、修行者は「命はいつか終わる」と冷静に受け止められるかもしれない。修行をしていくと、そうやって「心の波」が振れなくなっていくのだろうと思う。

 それは、幸せなのか。

 私は修行をしていくうちに、ある言葉を思い出した。

「幸せとは、心の強さのことである」

 これこそが、真実なのかもしれない。貧乏だったり辛い状況であっても「幸せだ」と笑っていられる人もいれば、お金持ちでも満たされないまま生涯を過ごす人もいる。

 結局、「幸せ」とは条件ではなく、どのような場所にいてもそれを「幸せだと思えるかどうか」だけにかかっている。

「幸せだと思えるか」は言い換えれば「感謝できるか」だと思う。「感謝する心」、つまりそれが実は「強い心」であり「足りない何か」なのではないかなあと。私は思ったのでした。(p.252)

まだ続くのだけれど……。

「たぶん、幸せじゃないと感じる瞬間があるから」修行をするのだと、小栗左多里は「はじめに」に書いている。え、そんなことが修行に結びつくかなぁ? というか、修行は私、きっとしないと思う。何かの練習ならするだろうけど(修行の練習ならする?)。

だったらこんな本は読まないでしょ(読むのは修行の練習だったり?)。ま、そうなのだけど、ブックオフの105円本だったので、つい他の本の中に紛れ込ませていたのだった。

とはいえ、ねぇ。……修行じゃなくてプチ修行だったからかなぁ。自分には絶対関係ないことがお手軽体験できるとでも思ったのかしら(すでにその時の心境すら謎)。

というわけで、内容に関係ないコメントで、ごめん。だいたい私って幸せについてこんなに沢山考えられないんだもの。それだけで何だか感心してしまったんである。

ただし−−結局、「幸せ」とは条件ではなく、どのような場所にいてもそれを「幸せだと思えるかどうか」だけにかかっている−−と言われてしまうと、そうかなと思う半面、幸せがえらくつまらないものに見えてしまったのだった。きらきらした輝きが消えちゃたみたいでさ。


2012-07-22

[]大沼紀子『真夜中のパン屋さん 午前0時のレシピ』(ポプラ文庫2011-10)★★☆

期待しつつ前半を読み進むが、後半に失速、というか、あくまで私の好みの問題なのだが、この手の話はどうも、なのだった。

托卵娘?の高校生である希美の宿(托卵先)となったパン屋の二人と、そこにやってくる人物たちが織りなす現代版人情話みたいなものが展開していく。

話は練られているし、文章もわかりやすくまとめられているのだが(これはというような表記もあったが)、真夜中のパン屋に風変わりな登場人物たちというあたり、まんまテレビドラマにでもなりそうだ。

文庫カバー袖の作者紹介に「脚本家として活躍」とあるけど、そういうことか……。そしてまさに覗きが趣味の脚本家も登場させて強引に話を進めてしまったりもするのだけれど、彼にはこんなことを言わせている。

「それはどうかな? これは、シナリオのセオリーなんだけどさ。言葉っていうのは、あんがい嘘をつくものなんだよね」(p.190)

このあとの引用はページ順……。

 消印を確認すると、半年ほど前の日付が記されていた。つまり母は半年も前に、この女性とこのやり取りを済ませていたということだ。半年も前から、托卵先の準備をしていたということだ。これはもう托卵の集大成だなと、希美は呆れつつも感心してしまった。人間の母親としてはどうかと思うが、カッコウの母としては徹底している。娘を他人に預けるためなら、地道に計画も立てるし貯金もするし大嘘もつく。大したものだ。(p.25)

 他人の巣に産み付けられたカッコウのひなは、孤立無援だ。親鳥がひなを大切にするのは、それが自分の子供であるからなのに、その前提がない巣の中で彼らは孵化してしまうのだ。周りにいるのは騙すべき親鳥と、競争相手の邪魔なひなだけ。そんな中で、ずるいもひどいもあったもんじゃない。ただ生き抜くためだけに、カッコウたちは生きるのだ。(p.34)

 学校は雑多な品種のひなたちが、乱暴に放り込まれた大きな巣だ。その中で世間知らずのひなたちは、群れたり遊んだり学んだりしながら、ちゃんと誰かを押しのけ踏みつけ、わけもわからずさえずっている。時には同じ病に染まり、時には異端を見つけて攻撃し、そして時には、仲間のひなを執拗なほどにつついてなぶって、遊び半分で殺してしまう。

 あるいはと、希美は思いはじめてもいる。あるいはもしかしたら、世界そのものが、大きな何かの巣なのかもしれない。巣の中では、えさの取り合い、場所の取り合い。それが育つということで、育つことに疲れたり辟易したら、それで負けなのかもしれない。

 しかし、まあ大丈夫だろうと、希美は両手で頬を軽く叩き、気合いを入れる。

 長年あちこちの巣の中で、どうにかやってきたんだから。あの巣ごときに、負けるつもりはない。私はカッコウの娘なのだ。生き抜くために生きられる、カッコウなのだ。(p.43)「執拗」に「しつよう」、「辟易」に「へきえき」のルビ

こだまの進化型はひかりで、そのまた進化型はのぞみっていうの。私はその希美だから、こだまを守る義務があるんだよ。わかる? だから、困ったことがあったら、ちゃんと私を頼りなさい。いい?」

 俺やひかりの進化型が、こんな姉ちゃんだったとは、まったく思いもよらなかったと、こだまは心底うなってしまう。進化ってすげー、なんかつえー。(p.124)

 しかし弘基と言い合いながらも、希美は内心思っていた。たぶん私は斑目を、理解したくないのだろう。もちろん彼が変態だからというのもあるが、それ以上に、彼の心を知りたくない、わかりたくない。好きという感情で走る彼が,腹立たしいのだ。

 それがなぜかも、大体のところわかっていた。おそらく恋というものを、弘基は自分のものとして捉えている。たぶん暮林もそうだろう。でも私は違う。男に恋して、自分を托卵してしまう母。私の基準はいつだって、その母の恋なのだ。私を見捨てる、恋という情熱なのだ。(p.158)

 俺の運命の人、暮林の妻をして、弘基は当然のようにそんな表現を用いる。初めて会った時からそうで、当面あるいは永遠に、その表現が変わることはないようにすら感じられる。人の妻を運命とは、乱暴なことを言う青年だと、最初こそ思ったが今は納得している。そもそも人の思いなどというものは乱暴なのだ。乱暴で横暴で、身勝手なのだ。(p.262)

 だから今の暮林は、暗い夜の闇の中、美和子が残していったものだけを守るべく暮らしている。彼女が開店させるはずだったパン屋と、彼女がかわいがっていた弘基。

 美和子の妹だと名乗り現れた希美も、その中に含まれている。どういういきさつなのかは見当もつかないが、美和子は彼女を腹違いの妹と認め、何かあったら力になると確かに手紙に書き置いていた。二十年前に死んだ美和子の父親が、十七歳の希美の父親であるわけがないが、それでも美和子が力になると言っていたのだから、自分はその意思を引き継ぐべきだと心に決めている。(p.281)


2010-03-16

[]恩田陸『蒲公英草紙 常野物語』(集英社、2005年)

 子供の頃に読んだお気に入りのSFに、ゼナ・ヘンダースンの「ピープル」シリーズというのがあった。宇宙旅行中に地球に漂着し、高度な知性と能力を隠してひっそり田舎に暮らす人々を、そこに赴任してきた女性教師の目から描くという短編連作で、穏やかな品のいいタッチが印象に残っていた。

 ああいう話を書こうと気軽な気持ちでこのシリーズを始めたのだが、その都度違うキャラクターでという浅はかな思い付きを実行したために、手持ちのカードを使いまくる総力戦になってしまった。今にしてみれば「大きな引き出し」の春田一家の連作にしてもよかったなあ、と少々後悔している。

「オセロ・ゲーム」や「光の帝国」はもともと独立した長編で考えていたものだし、「達磨山への道」は、四人の少女の神隠しの話のプロローグとなるエピソードとして予定していたものだった。少女達が神隠しにあうまでの話や、拝島暎子が夫を取り戻す話は、また別の機会に書いてみたい。もちろん、光紀や亜希子が大きな仕事をやりとげる話も。

 そして、この拙い世界を読んでいただいた皆様に、「常野」より果てしない愛をこめて、お礼を申し上げたい。 

上の引用は、『光の帝国』にあった恩田陸の「あとがき」からで、これを読んでいたら誰もが「常野物語」という同じ副題のある『蒲公英草紙』には、上記のどれかが書かれているのだろうと思うのだが、恩田陸はまた違う手法を使ってきた。まったく、才能がありすぎるっていうのも考え物じゃないかなぁ。って、いきなり文句を書いてしまったのは、この作品が私の趣味ではなかったからなのだけど。

「なんということでしょう。自分の作った仏が誰かを殺める理由になるとは。そのとたん、わたくしは自分の周りからそれまで感じていた存在が消え去っていることに気付きました。自分が今まで感じていたものはまやかしに過ぎなかったと。単に自己満足の手段として、誰かに褒められることを期待して仏を感じているふりをしていたにすぎなかったのだと」(p.168)「殺」に「あや」のルビ

 置いていかれてしまう。彼らは私を見捨てるのだ。

 知らず知らずのうちにぽろりと尋ねていました。

「あなたたちは、だれ?」

 光比古さんはきょとんと私の顔を見ました。私の質問の意味が分からないのでしょう。実際、わたしにもなぜそんなことをきいたのか分かりませんでした。

 が、光比古さんは小さく頷き、にこっと笑いました。

「僕たちは、峰子さんさ」

「え?」

 今度は私が面食らう番でした。光比古さんは言葉を続けます。

「というか、みんななんだ。僕たちは、みんなの一部なんだよ。みんなの一部が僕たちなんだ。みんなが持ってる部分部分を集めたのが僕たちなんだって」

 その言葉から、それが葉太郎様の言葉の受け売りなのだと分かりました。葉太郎様は、いつもそう彼らに話しているのでしょう。(p.247)

 そして、彼らは旅立ちました。

 来た時のように淡々と。少ない荷物をこぢんまりとまとめて、当たり前の顔をして去ってゆきました。

 みんなの心をそっと撫でて。私の幸せな少女時代を連れて。(p.248)

『光の帝国』とは装いを異なる物語にしたということは、この続篇もまだ考えているのかしら。これを読んでも「常野一族」についての知識はほとんど増えなかったので、ぜひ続篇を!


2010-03-08

[]恩田陸『光の帝国 常野物語』(集英社文庫、2000年)

『大きな引き出し』『二つの茶碗』『達磨山への道』『オセロ・ゲーム』『手紙』『光の帝国』『歴史の時間』『草取り』『黒い塔』『国道を降りて…』の十篇からなる「常野一族」を扱った連作。

常野という言葉が示すように、彼ら「常野一族」は特殊な能力を持ちながら「権力を持たず、また権力に仕えることもなく」、「常に在野」であらねばならぬ掟のようなものがあるらしい。そして何かと戦ってもいるのだが、全貌が明らかになるわけではない。けれど、まあ、それは読んでのお楽しみってことで。

 「だからって、学校で平家物語を暗誦してみせるってのはやめてよね。あのねぇ、ニッポンはミンシュシュギの国なの。ミンシュシュギということは、つまりぃ、他の人よりも余計なものは持ってちゃいけないってことなの。分かる?」(p.12)「暗誦」に「あんしょう」のルビ

ファンタージー的要素が多いのは私の苦手とするところ。が、なかなかどうして構成は凝っているし、いきなり上のような会話が飛び出してきてどきっとさせられた。で、それは違うでしょ、と言いかけて、でもどう反論したらいいのかわからなくなった。単純な物言いだが、そんな感じもしてしまうからだ。

でも、まあ、こんなところで躓いていても仕方ないので、ちょっと別のところからの引用を。

 時子はとまどったような、不安げな表情を見せるが、まだ本当にはわかっていない。その度に激しい焦燥を感じて、夫も裏返される前はこんなふうに自分を見ていたのだろうか、と激しい後悔の念に襲われる。娘はまだ『あれ』を見ていない。ときどき気配は感じているようだが、まだ裏返したことはないらしい。できれば見せたくないし、一生見なければいいと思うが、何も教えずにいきなり裏返されてしまっては元も子もない。(p.90)

私はある部分でひどく鈍感なところがあって、本を読んで恐怖感を味わうことなどほとんどないのだが、この『オセロ・ゲーム』は怖かった。もっともこの「裏返される」正体が何かはわからない。わからない怖さという納得では、怖さの価値は半減すると言いたくなるが、うまいものである。

(略)しかし、結局は皆同じ月を眺めているのだという思いが日に日に強くなる。いつも、昼も夜も同じ一つの月が空にあって、われわれはいろいろな場所でその月を見上げている。君とは全然違う場所ではあるが、やはり同じ月を見ているのだなあと、当たり前の事をつらつらと考えるようになったのは老人の兆候か。(略)(p.111)

こんなところが印象に残っているのは、老人化の兆候ってやつで……。けど、私よりはずっと若い恩田陸にそう思わされてしまうっていうのもなぁ。

って、あっち飛びこっち飛びのどうでもバラバラ感想になってしまっているけれど、私にはそんな本だったのだ。なんで、まだ他にも引用したいところがあるが、これでお終いとする。

 

2010-03-02

[][] 太田光、中沢新一『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書、2006年)

太田 先ほど中沢さんが、日常のささやかなコミュニケーションも誤解だらけだと言いましたが、そこにはもう一つ大事なことがあると思うんです。僕が何か話しても、受け止める相手には必ず誤解がある。その誤解をなくそうとやりとりをするのがコミュニケーションです。しかし、一方では「誤解をする」ことは、大切なことでもあるんですね。その誤解にこそ、人の個性があると僕は思っているんです。

 少し前に僕は、テリー・ギリアムという映画監督と対談をしました。ギリアムの『フィッシャー・キング』という作品が好きで、あるシーンについて、「あれはこういう意味ですよね」と彼に聞いた。すると「それは違うよ。おまえの解釈は間違ってるよ」と言われたんです。そこで僕は彼にこう言った。「いや、あなたのほうこそ間違ってる。僕が解釈したことに、あなたがとやかく言う筋合いはないよ」と(笑)。

中沢 やりますね(笑)。

太田 ギリアムにとっては、僕の解釈は誤解かもしれない。でも、その誤解こそが僕の個性なんだし、もっと言えば誤解にこそ意味があると思うんです。芸術作品を見たときに、感動するのは、そこに誤解というギャップがあるからでしょう。作者の意図とは違うところで感動が生まれることはいくらでもあるし、むしろその幅が作品の力であると思う。

 僕の中に、誤解をなくしたいと思う一方で、誤解を大事に思う気持ちもあるから、すごく問題が難しくなってきます。(p.28)

本当に引用しなければならないのはもっと他の部分なのだろうが、それについてはうまくまとめる自信がないので、自分用のノートに書き留めてお茶を濁しておくことにした。

が、それじゃあんまりなんで、もう一つだけ引用。

 つまり、憲法九条に謳われた思想は、現実においては女性の生む能力がしめす生命の「思想」と、表現においては近代的思考に先立つ神話の思考に表明されてきた深エコロジー的「思想」と、同じ構造でできあがっていることになる。どこの国の憲法も、近代的な政治思想にもとづいて書かれたものであるから、とうぜんのことながら、そこには生命を生むものの原理も、世界の非対称性をのり越えようとする神話の思考なども、混入する余地を残していない。ところが、わが憲法のみが、その心臓部にほかのどの憲法にも見いだされない、尋常ならざる原理をセットしているのだ。(p.168 中沢新一『濃密な時間のあとで』から)「謳」に「うた」のルビ

だ、そうだ。この説明が聞きたい人は本書をご購読あれ。私なんかはこんなふうに説明されてしまうと、まるめこまれた気分になってしまうのだけれど、といって的確な反論はできないんで……(あー、情けなや)。