喜多川泰『「手紙屋」〜僕の就職活動を変えた十通の手紙〜』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2007-1)

 私は、希望される方と“手紙のやりとり”をすることを仕事としています。(p.22)

『君と会えたから…… The Goddess of Victory』と同じく、これも小説形式の自己啓発本だ。で、今度は「手紙屋」だって。

確かに、手紙形式なら、自己啓発の方法や考え方は伝えやすい。でも設定としてはどうかなあ、と思わなくはなかったが、これもミステリー仕立て(予想はついてしまうが)になっているから、まあ、ありってことで……。

内容は、副題に「就職活動」とあるように、やはり若い人向けだ。もちろん私のようなじいさんが読んでも教えられることは多かった。

 もしあなたが、欲しいものを手に入れる方法として“買う”という方法以外思いつかない人ならば、あなたが持っているものの中で相手が欲しがるものが“お金”だけであるということを無意識のうちに認める生き方をしているということなのです。(p.39)

著者は「欲しいものを手に入れる方法の基本は、『物々交換』」(p.37)というのだが、これは『君と会えたから…… The Goddess of Victory』にあった「お金を儲けるということは、〈ありがとう〉を集めるということ」というのにも繋がる話だ。

まあ、自己啓発本なので、似てしまうのは否めないが、実のところ、考え方は同じながらちゃんと違う本になっている(ただ、言葉の選び方の気になるところがいくつかあった)。

相手にこうなってほしいという『称号』を与えてしまうのです。(p.60)

この話もなかなか考えさせられた。というか、実践してみる価値はあるだろう。自分だけでなく相手も変えてしまうのだから。


アズマカナコ『捨てない贅沢 東京の里山発 暮らしレシピ』★★★(けやき出版、2011-1)

「捨てない」のに、過剰なものが一つもない(暮らしはそうなんだろうけど、この本にも)。それは「暮らしレシピ」だからなのだろうか。

このつましさ(「贅沢」と題名に付けているのだから「つましさ」だと正反対になってしまうが)は何ともかわいらしくて、人生をやり直すとするなら、こういう生活+本(これははずせないので)も有力な選択肢になるよな、と思ってしまうのだった。

とうもろこしの芯の利用法


とうもろこしの芯からはおいしいダシが取れる。我が家はご飯やみそ汁、スープにして利用している。すぐに使わない分は、干しておけば保存できる。(p.51)

私も捨てないことにかけては簡単には負けないと自負しているが、例えば、私のが生ゴミはすべて土に返すという単純ものなのに対し、アズマカナコは、それこそ皮も芯も種も、利用出来るものは全部利用し尽くして、そののち土に返すのだから、ああ、これは比較することがそもそも間違っていたと、それはもちろん技術も知識もなのだが、生活するという基本から違うのだと「本書の使い方」(p.4)で即降参、ははーと平伏するしかなかったのである(なにしろ、料理しないしね、私)。

この本を読んで、あーそうか、七味唐辛子も豆腐もきな粉もこんにゃくもみそも、何でもやろうと思えば作れちゃうのだという、至極当然なことを改めて教えてもらっちゃったのでした(料理をしない人間はこんなことも知らないのだ=えばってないよ)。


喜多川泰『君と会えたから…… The Goddess of Victory』★★☆(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2006/2007-7)

青春小説仕立ての自己啓発本。無理矢理自己啓発部分を押し込んでいるので、ぎくしゃくではあるのだが、高校生の恋にミステリー的要素も絡めて悪くないつくりだ。若い人がとっつきやすいように、と考慮してのことだろう。

適当に書きだしてしまうと説明不足は否めない。あっという間に読めてしまうので、目を通しておいて損はない(と、じいさんでも思った次第)。

人間は未来のことを考えるときに、
うまくいったらこうなるということ以外に、うまくいかなかったらどうしよう、
それどころか、どうせうまくいくはずがないといったこともいっしょに考えてから、
自分のやるべきことを決めてしまう。
大きな夢を抱けば抱くほど、そうだ。
そうしてうまくいく確率のほうが低いと決めつけ、夢に向けて行動を続けることを、
宝くじと同等の非常に確率の低いものに投資する行為と見なしてしまう。
そして結局、夢へ向けての行動をとろうとしない。


しかし、それは間違っている。
もし、すべてがうまくいくとしたら、
絶対に欲しいものが手に入ると約束されているとしたら、
あなたは、何を目標とし、それに向けて何をしますか?
あなたは、知っていますか? あなたにはそれが約束されていることを。
すべてがうまくいくとしたら、絶対に欲しいものが手に入るとしたら、
と考えたときに出てくるものこそが、
あなたの本当にしたいことであり、必ず達成できるゴールだ。
むろん夢を抱くだけでは、どんなに強く思っていても達成などできない。
大切なのは行動だ。
もちろん、とてつもなく大きな夢を三日で達成するのは難しいだろう。
大きな夢なら、それを達成するために必要な時間もまたおおくなる。
しかし、手に入らないものではない。


私たちの未来の夢は、絶対に手に入ると狂おしいほどに信じて、
それに向けて情熱を絶やさず行動を繰り返す限り、
それがどんなに大きい夢であっても、
必ず達成されることが約束されている約束の地であり、
それを確率の低いものにかえてしまっているのは、
冷静な分析と称して行動することもなく、
頭の中で繰り返される消極的な発想にほかならない。(p.31)

成功したとはいいがたい人生を送ってしまった私だが、ここに書いてあるようにしていたら、と思えてしまうのが不思議だ。目標を設定してやってきたのだったら、無計画なわが人生を後悔半分で振り替えざるを得ないからなのだろう。

と同時に、これからの心配(老後の生活ってやつでさ)がどうしても付いてまわる今のこの自分は、そうはいっても、自分が願ったところにかろうじてぶら下がっていると思うからでもある。

金はなくとも映画と本、他にも好きなことに囲まれて生きているわけで、きっとそういう方向に行くようなことには多少なりとも努力してきたのだろう、と思い当たるのである。両方共、自分が蒔いた種なのだ。

まあね。それと、この本を若い人向け、と決めつけることだってもちろんないわけで……。

「二枚目のライフリストには、自分の人生の中で他の人たちにやってあげたいことを書いていくの。これを作ってからパパは一枚目の内容を徐々に実現していくことができるようになったって言ってたわ。
 この二枚はね、関係ないように見えて、実は表裏一体。合わせて一つのものなのよ」(p.66)

一枚目は「人生において達成したいと思えることをすべて書きだしてみる」のだったが、それは「『できたらいいなリスト』ではなくて『できることが決まっているリスト』」(p.56)なのだと。

って、こんな説明だと混乱するだけか。

「そう。二枚目のリストに書いた今日できることは、本当に今日やらなければいけないの。そのために一日一回は自分でリストを見てチェックするの。『今日できるのはどれかな』って。
 毎日見ているだけじゃなく、内容を増やしたり、書き変えたり、修正したりと、手を加えてどんどん新しいものに変えていくことも大切。でも何よりも大切なのは、リストがどう変わっていこうとも、今日できることをちゃんとやるということなの」
「そっか! じゃあ僕が二枚目のリストを書くときには、今日できる、人にしてあげたいことと、将来的に人にしてあげたいことに分けて書いてみることにするよ」(p.72)

あー、これだな、私の一番駄目なところは。頑張っているのに、何かの拍子にそれを先送りしてしまうところがあるからなぁ(今や、これ以上先送りすると私の場合、そこは墓場だったりもするのだろうけど)。

『お金を儲けるということは、〈ありがとう〉を集めるということだ』(p.90)

 ところがこの日を境に、僕の考え方は大きく変わった。儲ける方法ではなく、『ありがとう』をもらう方法を考えるようになったのだ。
 儲ける方法を考えていた頃には、そんな都合がいいものが頭に浮かぶことなどなかったのだが、人から『ありがとう』をもらう方法となると、いろいろな案が浮かんでくるのも新鮮な驚きだった。(p.94)

資本主義は機能しなくなってきているし、もっと身近なことで考えてみても、何もかもお金に換算するというのは便利このうえないが、やりきれないものがあるのは誰もが思っていることだ。「〈ありがとう〉を集める」ことで本当に解決できるのかといえば、やはりものすごく難しいのだけれど、考えてみる、いや、やってみなくてはいけない、ことだと思うのである。

資本主義に代わるシステムが何かはもう何年も宿題のようになっているが(といったって学者でも政治屋でもないから、これは妄想みたいなもの)、「〈ありがとう〉を集める」はその補完になってくれそうだ。

ただ、やはり年をとってきたせいか「〈ありがとう〉を集める」は、やはり若者用かなあ。すでに人間関係などの社会的位置が確立されてしまっていると、そう簡単にはありがとうも機能しそうもないからで、でもこれを若者がやったなら、案外大きな可能性が開けそうではないか。


渡辺京二『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』★★★★☆(洋泉社、2010-1)

刊行されて二年以上も経っているというのに買った本はまだ「初版」だった。こんな素晴らしい本(ただし索引がないのはいただけない)がと思うが、やはり小説ほどには売れないのだろう(って、私とて手を伸ばすのは三文小説ばかりだからなぁ)。

 翻って考えれば、江戸期の日本国家は蝦夷地の征服をなぜこの時期まで延引していたのだろうか。幕府成立の初期に蝦夷地の管理を、わずかに渡島半島の先端に地歩を築くのみの松前藩にゆだねたのは、日本の近世国家が当初北方領域に領土を拡大するような関心も利害も有しなかったことを意味する。蝦夷地は鷹・鷲羽・毛皮を産出し、それはいずれも徳川武家社会の武威を示す必需品である。だが、それは松前藩アイヌ交易で入手できる。あえて蝦夷地を征服せねばならぬ理由にはならない。一方、松前藩蝦夷地をアイヌにゆだねているからこそ交易の利をあげることができた。アイヌとの交易こそこの藩の生命線である以上、蝦夷地を全面的に征服することなど愚の骨頂である。蝦夷地を征服して藩領化しても、統治のコストを考えれば勘定が合わない。それにより蝦夷地を異国として固定し、アイヌ交易の利をむさぼる方が利口というものだった。だから、幕府がこの時期に蝦夷地の藩領化に踏み切ったのは、経済的利潤を目当てにした植民地獲得の一般則に従った行為ではない。それはロシアの南進という悪魔に脅かされた防衛本能の発動であり、日本近世ナショナリズムの最初の血の騒ぎだったのである。(p.204)

p.109にも、版図拡大という衝動が欠けていたのは当時の西洋諸国や清帝国に較べ驚くべきことだという記述がある。

 だが、国際社会に対応するにはあまりに弱体な日本近世国家のあり方を嘲笑したり悲憤したりするのは、果たして二一世紀のあるべき文明の姿を模索する私たちにふさわしい態度だろうか。徳川国家は初めは強大な軍事力を有する武士集団が支配する兵営国家として出発しながら、一九世紀初頭には、武力紛争をできるだけ回避し、平和な談合による解決を重んじる心性が上下ともに浸透する社会を作り出していた。これが恥ずべき事実であるはずはない。ただ、虎狼の論理がまかり通る国際社会の中では、その心性は通用すべくもなかったのである。(p.268)

 江戸という時代は、人間とその文化に対する広闊でゆとりのあるユーモアのセンスを育てた時代だったのだ。源七のロシア語に対する荒尾奉行以下の笑いも、彼らが自分自身を含めて人間というものを客観化しうる寛容なユーモアのセンスの持ち主だったことの証とみるべきだろう。(p.301)

これは『逝きし世の面影』や『江戸という幻景』に通じる部分。

渡辺京二が多数の資料を駆使して紡ぎ出した「ロシア・アイヌ・日本の三国志」は滅法面白く、私にはその文章も心地よいものだった。

第三種接近遭遇後のやりとりなども興味深いものがある。このところ俄にきな臭くなって先行きの懸念される領土問題を考える上でも、初歩の初歩として読んでおきたい本だと思うのだが、ま、私のような知識の薄い者が解説をしてもはじまらないのでここいらでやめておく。

 何のことはない。林蔵もゴローヴニンも揺籃期の民族国家を代表するナショナリストという点では似た者同士だったのだ。ゴローヴニンは彼は「日本の兵法を自慢し、われわれを威嚇した最初の日本人だった」と言っている。荒尾但馬守ら幕臣儒学で培われた普遍主義的感覚のゆえに、また奉行所の下吏や民衆は共同体的な人情のせいで、ゴローヴニンらとの間に人間的共感の橋を架け渡すことができた。だが、常陸国筑波郡の農民の子として育ち、強烈な上昇志向に促されて北方問題のスペシャリストとなった林蔵は、過激なナショナリストたることに自己の存在証明を求めるほかなかった。近代ナショナリズムはつねに、貴族と民衆の中間に位置する新興知識分子の属性である。(p.309)

 アイヌ民族に衰亡を免れる途は存在したのだろうか。その唯一の方途がアイヌ民族国家の樹立であったことは明白である。一七世紀初頭、特産品ももって漢民族と交易して力を蓄えた満州族は、大清国を樹立して漢民族から自立した。アイヌにその途が閉ざされていたとは理屈からすればいうことができない。しかし、アイヌはウタレを率いる有力者以上の上部権力を生み出さなかった。ましてや全コタンを統一する国家権力など、夢想だにしなかった。また、仮にアイヌに民族国家樹立の機会があったとしても、それは一九世紀初頭の幕府の直轄によって永遠に失われt。幕吏はたしかに商人資本の手からアイヌを保護しようとしたが、それは同時にアイヌを日本臣民化し、二級の国民として徳川国家に包摂することにほかならなかった。幕府の慈恵を受け入れることで、アイヌは自立の途を完全に失ったのである。
 しかし、民族国家には明暗が伴う。アイヌには国家形成の能力がなかったのではなく、その意思がなかったのだ。この点において、アイヌは今日なお類いない光芒を放つ。忘れてはならぬが、初めてアイヌ社会を実見した本土の日本人たちは、国家をもたぬアイヌのありかたに羨望と郷愁を覚えた。(略)(p.349)

 クルーゼンシュテルンアイヌの「これらの真に希有なる性質」が、何らかの文化的洗練のせいではなくて、「全く単に彼等の自然のままの性格の刻印」であるように感じた。そして「アイノ人を以て予が今まで知ったすべての民族中最良のものであると考えるに至った」。家族成員の平等と和合、物欲の薄さ等々、見るところは日本人幕吏と一致する。その徳目はまさにアイヌがまだ国家という人間の組織形態を知らぬところから生じた。そして、彼等はまたそのためにこそ衰亡の運命をたどらねばならなかった。だが、衰亡というのも国家の枠組からそう見えるだけのことかもしれない。藤村久和によると、どうもアイヌは日本国民の顔をしながら、あくまでアイヌとしていまでも生き続けているようなのである。(p.350)


有川浩『ヒア・カムズ・ザ・サン』★☆(新潮社、2011-1)

『ヒア・カムズ・ザ・サン』★★と『ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel』★の二篇収録。

自分からではないにしろ有川浩本とはほとんどつき合ってきたが、この本は駄目だった。特に二つめの『ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel』は。

 人生で特別に大事な場所にいる人たちを救うことができないなら、僕が人の秘密を暴いてしまう力を持って生まれてきた意味なんて何一つないじゃないか。(p.168)

生まれてきたことに、実は(この「実は」は変だけど)意味なんてないし、もちろん、特別の力を持っているかどうかなんてことは、これっぽっちも関係のないことだ。

言いっ放しにしてしまうと誤解されてしまうかもしれないが、ま、そう。意味づけするのは勝手だし、悪いことではないのだけど、でもこう書かれてしまうと反発したくなってしまうのだな。

「お前の気持ちも分かるし、古川の気持ちも分かる」
 岩沼はケチャップライスをかき込みながらそう答えた。
「なかなか困った親父さんみたいだから、嫌気がさしてるお前の気持ちも分かる。けど、許せるもんなら許してやったほうがいいって古川の気持ちもわかる」
「どうして許したほうがいいんですか」
「許してやれないままいつか死なれたら、お前が自分を責めるからだよ」
 閉じていた目をふと開かされた気分になった。
 今まで、晴男の肩を持つ真也に苛立っていた。半ば裏切られたような気持ちでいた。
「そんだけ食い下がるのは親父さんのためじゃない。お前のためだ」
 でも、と力なく反駁が漏れる。
「今すぐ許すなんてできない」
「お前みたいな小娘にはまだまだ無理だろうな」(p.175)「反駁」に「はんばく」のルビ

あらら、私、小娘にされちゃったかな。

「謝ってほしいだけなんです。嘘を吐いていたことを。−−一言でも謝ってくれたら……」
「こうしてくれたら許せるのに、こうだったら許せるのにってのは子供の側からは正当な言い分だよな。だけど、親のほうがガキだったら仕方ねえだろ。だから丸ごと諦めるんだよ。諦めりゃそのうち『まあいいや』ってなる。『まあいいや』って許せるタイミングが来る」(p.176)

あー、これも駄目だ。このあとのp.187あたりにある真也の妹の必死の嘘の場面も、私には受け入れがたいのだった。

気を取り直して、カオルの父親がそんなにはひどくない(こっちには影の父親?まで出てくるのだけど、まあ、これならいいか)『ヒア・カムズ・ザ・サン』からでも……と思ったが、目が曇ってしまうとどれももうどうでもいいかという気分になっている……。

「すごいよねぇ、珠子の地雷踏んじゃった新米を執り成せるんだから」(p.15)

こういうちょっとした機微をまとめてしまう力は有川浩ならではなのだけど、今回は三ヶ月前まで真也の担当だった作家がごねた最初の場面から、えーっと思ってしまったのだった。ま、しゃあないよね。


姫野カオルコ『ハルカ・エイティ』★★★(文藝春秋、2005-1)

好きな小説か、と問われれば答えに躊躇してしまうかもしれない。が、あまりにも多くのまっとうなことが書かれていて、とても無碍にできない。目下の、私の姫野カオルコ様、であるし……。

なのだけれど、引用となると考え込んでしまうんである。で、場違いかもしれないやつを。ま、『ハルカ・エイティ』は姫野カオルコの昭和史的側面もあるので、こんなのでもいいか、と。

 B29の腹からぽとんと落ちた190kgは、その腹からまたぽとぽとと39個平均で子爆弾を出す。それらに火がついて落ちる。
 B29は190kg爆弾を24個積んでいるから、B29一機につき、936個が落ちる。
 十月の九州には93600個、十一月の東京には183456個の爆弾が、ごくふつうの人の頭に、ぽとぽとふったのである。(p.174)

 数日前、334穖のB29が東京を空襲していた。312624個の爆弾は80000人以上を殺した。(p.183)

ウィキペディアでは、「325機の出撃機のうち279機が第一目標である東京市街地への爆撃に成功」「制御投下弾量は38万1300発、1783トン」とある。

爆弾の数に、よりこだわったことで「ぽとぽと」度が実感できる。

ただ312624個で80000人以上というのは、爆弾という悪魔的で破壊的なイメージからすると案外非効率的(と書くと非難されそうだが)なもののように感じてしまう。焼夷弾だったからなのか。が、火災により被害が拡大したというのは通説だし、ウィキペディアにもそのことは詳細に記載されている。って、完全に話をそらしちゃってますね、私。


姫野カオルコ『ドールハウス』★★★☆(角川文庫10415、H9-1)

『人形の家』なのだから主人公の理加子は最後に家を出るのである。そこは同じだが、理加子の家出は夫から自由になるのではなく、さらに根源的である両親の呪縛からの逃避だ。

 私には理加子を、決して奇異な、特別な少女として描いたつもりはない。おそらく現代にあっても、いや、現代であるからこそ、彼女のような「ふつう」の少女(少年)が大勢、現代という時代が表層的に作った「ふつう」の名の陰で沈黙しているのではないかと描いたのである。あまたのsilence cryを想った。(p.240)「表層的に」に傍点ルビ

一体全体こんな家庭があるやなしや、と思うのが普通の感覚だが、姫野カオルコは自ら『文庫版あとがき(解説にかえて)』で上記のように記す。私の「普通」はいとも簡単に「ふつう」ではなくなってしまう。いや、「現代という時代が表層的に作った」ほうの「ふつう」になるのか。

ところで、これは今書いていて気づいたことなのだが、『もう私のことはわからないのだけれど』もこの作品と同列にあるのだってこと。ふつうにしてたらふつうは見逃しちゃうのだな。

 他者を受容するためには自己がまず確立されていなければならない。「個」を殺したまま存在を認めようとさえしなかった理加子は弱く、だから未熟である。
 恋愛は「個」と「個」の格闘であるのだから、よって理加子は恋愛できるはずがない。処女であっても当然といえば当然である。めぐり合ってしまった(?)江木もまた(むしろ理加子以上に)未熟である。
 世に「恋愛小説」は多く、幸運にも成熟をとげた者たちは、強い共感を抱きつつ、そうした作品群を堪能できるのかもしれぬ。それら作品群に描写される「痛み」や「嘆き」や「悦楽」に。
 だが、恋愛それ自体に到達できぬ未熟な、さらにいえば未熟でいなければならぬことを余儀なくされる環境にある人間も生息はしているのである。
 年齢的に「少年」「少女」であれば、「社会はわかってくれない」と幼い反抗に出られるのかもしれないが、己の年齢を熟知すれば幼いふるまいはできないし、年齢とはべつに性格的に慎みを身につけていれば、できない。その結果、未熟をひた隠しにし、ひたすら「個」を撲殺しつづける。これはネガティブである。破壊に向かうしかない不運である。このような層に、このような層に属していた者として、このような層を掬いたかった。それが『ドールハウス』を書いた動機といえるだろう。(p.241)「掬」に「すく」のルビ

いきなり「文庫版あとがき(解説にかえて)」からの引用を続けてしまったが、姫野カオルコもそのことは承知しているので、まあ、見逃してもらうことにする。

それに、上の引用で私が気になったのは「このような層に属していた者として」という箇所なのである。なにしろ、姫野カオルコ本人のことが最近の私の一番知りたいことなのだった(笑)。

「モテそうな人ね、なんて、江木さんってすてきな人ね、って宣言してるのと同じだよ」
「客観的事実と主観的事実はちがうんじゃないの?」
「またー、すぐ理加子はそういう理屈っぽいことを言う」
「そんなことないよ。理屈にはいらないわよ、こんなこと」
「だってモテそうって理加子は江木さんのことを言うけど、あの人、車持ってないんだよ。車持ってなくて高卒でフリーターで、顔は面皰面だよ。見事なまでに三高障害じゃない?」
 美枝の言い方にはいやみなニュアンスはなかった。それこそ客観的事実としての現代の女性の嗜好をとらえた視点でしゃべっているにすぎないことが、つまり、美枝がなにも男は三高でなくてはならないと思っているわけではないことが、すぐにわかった。
「その三高障害の人をモテそうな人っていうのは、手放しでほめているようなもんだよ」
「モテそうな人だと思うからそう言っただけよ。無愛想で図々しいから。無愛想で図々しい男性は、西洋でも東洋でも昔からモテてきてるじゃないの」
「それ、ほめてるの?」
「ほめてるわ。ただ、臭いけど」
「臭い? なにかキザなこと言ったの?」
「ちがうわ。ほんとに臭いのよ。腋臭だわ、あの人」
「いやだ、気がつかなかった」
「鼻が悪いんじゃないの? 風邪ひいた? 横に並ぶとツンとにおうわ」
「そんな、かわいそうな……。そんなこと言ってるくせにモテそうなんて」
「だから、客観的事実としてそうだって言っただけよ。自分が月を太陽だと言ったら女にも月を太陽だと認めさせようとする。自分は月は月だとわかってても、女が月を太陽だと認めるかどうかに賭けるタイプはモテるのよ昔から」
 理加子は、美枝に言うというより、書いている途中の応募シナリオのことを考えていた。
 シナリオを書くにあたって何か戯曲を読むべきだと考え、正統的にシェークスピアを読んだ。
「『じゃじゃ馬ならし』のペトルーキオがこのタイプよ」
「理加子ったら……」
 美枝がぶつぶつひとりごちている理加子の肩をゆすぶる。
「理加子ったら、そんなふうに達観していると疲れない?」
「達観? 達観なんかしてないわ、わたしは。シェークスピアがしていただけよ」
「自分じゃなくてシェークスピアが達観していただけだ、と分析するところがもう達観してるのよ」
「それなら……」
 理加子は美枝に言った。
「分析しているわたしが達観していると分析する美枝も達観してるわ」(p.86)「面」に「づら」、「嗜好」に「しこう」、「腋臭」に「わきが」、「賭」に「か」のルビ

ああ、何事にも達観してらっしゃる姫野カオルコ様!