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三門優祐のつれづれ社畜読書日記(悪化)

ジャック・ケッチャム&ラッキー・マッキー『わたしはサムじゃない』

書くのは楽しい新刊レビュー、第二回は鬼畜大帝ジャック・ケッチャムとその愛弟子(?)ラッキー・マッキー『わたしはサムじゃない』をお届けします。この本には表題作とその後日談「リリーってだれ?」、そして単発短編「イカレ頭のシャーリー」の三作品が収録されています。


「願いごとをするときは、兄弟、気をつけたほうがいい(p.34)」

とりあえず表題作のあらすじをドン。

アメコミ作家のパトリックと法病理学医のサムの夫妻は結婚後8年が経とうというのに未だにアツアツのラブラブ。子どもはいないけれど、老いぼれ猫のゾーイと一緒に、お互いの仕事を尊重し合いながら暮らしてきた。ところがある日の真夜中、サムは「変わってしまった」。彼女は見た目はそのままにその心だけ6歳児のものになってしまったのだ。リリーと名乗る彼女を世話しつつ、サムを元に戻すためにパトリックは奮闘するが……

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』若島正新訳で読んだ時も思ったんですが、やっぱり子どもってどんなに可愛くても散らかすし汚いしうるさいし面倒くさいんですよ、天使のような子どもなどいない(子育て経験絶無の語り)。たとえば……ちゃんとお尻拭けてないんですね、下着にうんちついてたりするんだなあ。それをそのまま30代半ばの女性でやると見えてくる醜さ、えげつなさがこの作品の最大の魅力と言えます(しかし、子育て経験ないはずのパトリックもよくやってるなあと今さら感心したりして)。

問題は、この「幼児還り」がサムにとって意識的なものなのかという点です。余りにも自然すぎる振る舞いから、コレは演技ではなく、何らかの理由でサムが自我をブロックしリリーという女の子に切り替わっているようだ、と医師は説明しますが、その理由が分からない。どうやったら元に戻ってくれるのか、分からないままにリリーの我儘を聞き続けるパトリック。通販で買ったおさるのジョージパジャマとかね。ホントママ向けのがあって良かったですよ。

この状況はパトリックの仕事にも問題を与えていきます。彼が書いていた「殺されたサマンサ(奥さんの名前使うなよ趣味悪いな)が異常な科学者の手によって甦る」コミックは、少しずつ構図がずれていき、しまいには全部書き直しになってしまいます。この重ね合わせは上手いですね。

困窮したパトリックは、二人の結婚式のビデオを見せることでリリーをサムに揺り戻そうとするが……というところでこの物語は終わっています。そしてその翌朝から始まるのが続編「リリーってだれ?」です。まあ、この作品については、一切の予断なく読むべきだと思うので、何も書かないでおきましょう。

ただし、ケッチャムが前文で書いた内容だけは(ちょっと長いですが)転記しておきます。このお願いを守って、健やかなケッチャムライフを送られますことを、私としては祈ってやみません。

ラッキーとわたしにはあなたにお願いがある。余計なお世話だと思われないといいのだが。わたしたちがお願いをするのは、そうしたほうがあなたの読書体験がより豊かになっていっそう楽しめるはずだし、わたしたちもあなたがそのとおりにしてくれると考えるとうれしいからにほかならない。
もしもあなたが「わたしはサムじゃない」を気に入ったなら、そのまま続けて「リリーってだれ?」を読みたくなるだろう。続いている物語のたんなる一章であるかのように。たがいに溶け込んでいるかのように。フィクションではなく、ほとんど実人生であるかのように。そんなふうには考えないでほしいというのがわたしたちのお願いだ。
わたしたちはあなたにペースをゆるめてほしいのだ。発端と結末をじっくり味わってほしいのだ。
しばしのあいだ「サム」をおちつかせてほしいのだ。
数分のあいだ。あるいは二時間。場合によっては一日。長さは問わない。
最初の物語の静寂に少しのあいだ耳を傾けてから、第二の物語の幕を開けてほしいのだ。それぞれまったく別の曲を奏でていることは保証する。
地獄へ堕ちろ、とわたしたちを遠慮なく罵ってくれてかまわない。
金を出したのはあなただ。あなたにはそうする権利がある。
だが、そう、わたしたちはここでささやかな音楽を奏でようとしているのだ
耳を傾けてもいいのではなかろうか。(pp.13-14)

その通りだ地獄へ堕ちろ、JK&LM。

評価は★★★☆☆です。