蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- このページをアンテナに追加 RSSフィード

1010-10-10

[]心の哲学に関する説明(改訂版)

心の哲学とは、心に関する様々な根底的疑問に答えようとする哲学の分野である。

心の哲学での主要な問題として心身問題が挙げられる。心身問題では心と身体とがお互いにどのような関係にあるかを問う(最近では身体の代わりに脳を持ってくることが多い)。心身問題に対する考え方には大きく分類して一元論と二元論とがある。心身二元論はフランス哲学者デカルトが支持した説として有名であり、心は身体とは互いに独立して存在しているとする考え方である。それに対する心身一元論にはスピノザの説がある。スピノザは心を決定論的な機械論で説明できるとし、意志や意識も身体の運動も同じ事柄の異なる表れだとした。心身関係には他にもいろいろな説があるが、切りがないので省略(これについてはウィキペディア「心の哲学」の項を参照)。他にも、自由意志論や他我問題などもあるが、これらも基本は心身の一元論と二元論との間の調停が中心問題であることに変わりはない。そして、現代における心の哲学は二元論から脱する試みから始まる。

現代における心の哲学の展開1(理論構築篇)

二つの行動主義

行動主義には二つの考え方があり、方法論的行動主義(または心理学的行動主義)と論理的行動主義(または哲学的行動主義)とがある。共通する基本的な考え方は、心の内側を無理に想定せずに観察できる行動だけに注目することだ。しかしこの先は違う。ワトソンスキナーらによる方法論的行動主義*1では、それまでの心理学で重視されてきた内観はあいまいだと否定して、観察できる事実から分かる条件付けによって心を解明できることが出来るとした(隠れ連合主義?)。このような考え方に対するチョムスキーの批判、そうした既存からの学習だけでは新しい事柄は出来ない、は有名である。

これに対して、ライルら日常言語学派に代表される論理的行動主義では、心に関する記述は(観察可能な)行動に関する記述に関連づけてのみ意味を持つとする。「心がある」と「身体がある」では、「ある」の意味が全く違っているとする。心が身体と同じようにあるわけではない。例えば「某は哲学に興味がある」とは「某は哲学の本を読んでいる」や「某は哲学の授業を受けている」と言った観察可能な命題と関連付けて初めて意味を持つとする。論理的行動主義の問題は、痛みや視覚のような内的とされる出来事まで外的行動に還元するので、自分で自分の行動を観察することは出来ないために、極端に言えば自分が痛みを持っているかを自分で知ることが出来ないといったパラドクスに陥ってしまうことだ。(行動の傾向性なら想定する)論理的行動主義が認知科学に影響を与えたのに比較して、入出力間の介在を一切許さない方法論的行動主義に対して認知科学は敵対的な立場を取ったことに注意しよう。ちなみに、論理的行動主義には後の機能主義に対する心的状態の分析不可能性による批判が含まれているとする人もいる(心の文脈依存性による批判)。

(心脳)同一説

論理的行動主義による内的出来事への説明の困難から、プレイスやスマートによって(心脳)同一説が提唱された。これは心の状態と脳の状態とにはきちんとした対応関係があるとする考え方だ。(心脳)同一説にも二つの考え方があり、タイプ同一説とトークン同一説とがある。タイプ同一説とは例えば痛み一般や赤さ一般のような一般化された心の状態に対して対応する脳の状態があるとする説である。トークン同一説とは、あの痛みやこの痛みなどの個々の心の状態に対して対応する脳の状態があるとする説だ。タイプ同一説に対しては、痛み一般に対して対応する脳の状態は(主に種の違いによって)複数ありうるとする批判があり、そこから機能主義が現われた。ちなみに、トークン同一説を支持するデイヴィットソンによる非法則的一元論もある。心的出来事と物的出来事とに対応関係(トークン同一性)が成り立っているとしても、物的出来事では因果的法則が成り立っているからといって心的出来事(または行動自体が心ではないなら心的-物的法則)においても因果的法則が成立するとは限らないという話だ。また、キムによる意識は脳状態に付随するという説も同一説の一種だ。

機能主義いろいろ

認知科学がとる典型的な立場はむしろ機能主義である(他分野の機能主義とは意味が違うので区別すること)。機能主義とは、心には外界との関係において何かが起こっておりその結果何かしらの行動が表出されたりすると考えることだ。入力と出力だけを見てその中身は何でもいい。つまり、心には機能を果たすために何かしらが介在しているとしているが、それを脳や身体と直接に同一視するのはとりあえずやめておく。関係があることは認めるが、ハードウェアソフトウェアでは記述のレベルが違う。言い方を変えると、ハードウェア・レベルにおける多重実現性、つまり材料がたんぱく質で出来ていようが半導体で出来ていようが何でも構わないこと、を認める。

機能主義が想定する心の内的状態に命題的態度がある。一般の人が日常的に用いる心に関する理論は素朴心理学(または民間心理学)と呼ばれ、その基本は命題的態度を認めることにある、心的状態としての「…を欲する」とか「…と信じる」といった「…」という命題への態度が命題的態度である*2。一般的に、機能主義では心的状態と脳状態に対応関係(例えばある命題的態度に対応する脳状態)があると考える。ただし、心的状態と脳状態との対応関係が実際に存在するかは疑問視もされており、これはそのまま認知科学と脳科学との大きな溝をも意味している(内在主義批判も参照)。

機能主義は大きく二つに分けることが可能だ。機械機能主義と因果機能主義だ(注:機能主義に種類があるのは確かだが、標準的な分類法があるわけではないので、用語も一定しない)。大雑把に言えば、これは順に強い人工知能と弱い人工知能とに関連している。強い人工知能とは機械で人間の知能を実現することを文字通り可能だと考えることだ。パトナムによって提起された機械機能主義とは、心は外界からの入出力によって計算を行なっているとする考え方だ。機械機能主義では命題的態度は計算の要素として扱われる。こうした計算の代表例として出されるのがチューリング・マシンである。フォーダーは思考などの心的活動を思考の言語を用いた心的な論理計算を行なっていると理解しており、この立場は古典的計算主義(または心理機能主義)と呼ばれる。計算を行なわれるうえで、心内で言語や視覚ごとに計算を行なうまとまり(モジュール)があるとされる(異種間モジュールの統合問題あり)。機械機能主義の問題点は、様々な状況で適切な判断が出来るアルゴリズムは不可能ではないのかというフレーム問題がある。。

他方で、デヴィッド・ルイスなどによって提出されたのが因果機能主義(または分析的機能主義)である。心的状態を外界との入出力によって因果的に定めると考えるが、その心的状態はその時の脳状態と同じであると考える(アームストロング)。計算による理論がそのまま心に当てはまると考える機械機能主義と違って、因果機能主義では心に関する理論(素人の理論であれ科学者の理論であれ)による心のモデルが因果的に成立している心的状態であるとする。その心的状態の理論モデルの代表が命題的態度である。しかし、素朴心理学を含む(心理学的)理論は日常概念に依拠せざるをえないが、そもそも日常概念によって様々な異なる経験を経ている現実の人の心を一般的に表わせることが可能かはあやしい。例えば、人の心には文化的な違いがあり、異文化間の人の心的状態に同じ命題的態度を当てはめることには無理がある。だからといって、文化ごとに(心理学的)理論を用意しても、文化内でも個人によって経験の差異があるので、その理論が文化内の全ての人の心的状態を表わすのに相応しいわけではない。ましてや、複数の文化を生きる人の心を表わすなんて無理だ。そこで、ある個人が素朴心理学を取得する過程を問題にしたり(セラーズ)、日常概念に依拠した理論を諦めて脳状態を参照にした理論を一から作り直したり(消去主義)、といった様々な対処法が考えられている。

現代における心の哲学の展開2(理論批判篇)

認知科学では表象主義的な第一波に対する批判があり(ドレイファスなどによる現象学方面からの批判はここでは省略)、その後は認知科学に第二波(自然化)が訪れる。心の哲学にも平行して同じ動きがあり、そこでの代表的な批判が、機能主義批判・古典的計算主義批判・内在主義批判である。

機能主義への批判

機能主義に対する批判は大きく二つに分けることが出来る。志向性による批判とクオリアによる批判である。

志向性による批判は、サールやブロックによって(主に機械機能主義に対して)なされた批判である。心には志向性がある、つまり心は何かに向けられているはずだが、機械にはそれがないという批判だ。例えば、心を持った主体が言葉を発した場合はその言葉は何かを意味するようになされているはずだが、たとえ機械が言葉を発したとしてもそれが何かを意味してなされているのではないとする批判だ(人間は本来的志向性を持っているが、人間に設計された機械は派生的志向性しか持たない)。サールによる中国語の部屋やブロックの中国の脳が有名な批判であり、ホムンクルス問題とも関連できる。つまり、脳の中の小人たちとその脳を持った主体とを想定したとき、脳の中の小人の持つ志向性とその脳の持ち主が持つ志向性とは別物であるということだ。

ネーゲルやジャクソンによるクオリアによる批判は、機能主義では心が感じる感覚質は説明できないとする批判だ。クオリアとは、自分だけが接近できる感覚の主観的・現象的な質感(例えば赤さや甘さ)のことだ。例えば、色がどう見えるかに関する科学知識を持っていたしても、実際にどのように見えるかを知ることは出来ないとする批判(知識論法)だ。他にも、全てのクオリアが逆転しても対応関係だけはあるので外面的な行動は変わらないとする批判(逆転スペクトル)やクオリアを持たないけれど外面的な行動だけは同じゾンビが想像可能だとする批判などがある。

ただし機能主義の立場から言えば、志向性やクオリアの存在にはあやしさが付きまとうことは指摘しておこう。解釈主義をとるデネットは、志向性があると妥当する限りにおいてそこには心があると解釈する志向的態度を提示している。これは機能主義の一変種として理解できる(または全体的行動主義と呼ばれることもある)。

古典的計算主義への批判

規則による計算と言う考え方をする古典的計算主義を批判する源がコネクショニズムである。古典的計算主義の例として、思考の言語が頭の中にある記号として理解され、その観念的な記号が計算的に処理されるとされる。コネクショニズムでは規則による計算が否定され、神経ネットワーク内で分散されて計算が行なわれているとする(コネクショニズムも広い意味では計算だ)。コネクショニズムとは、入力された情報が(モジュール内での)規則による計算ではなく、学習によって全体が刻々と変化するネットワークによって処理されているという考え方だ。コネクショニズムと古典的計算主義との大きな違いはデータの記憶と処理を分けないことだろう。

そこからさらに進んだ説として消去主義の考え方(消去的唯物論とも呼ぶ)も生ずる。これは私たちが日常で用いる心に関する考え方(つまり素朴心理学)は間違っており、脳について正しい知識を持つことでそうした間違った素朴心理学は廃棄されるべきだとする考え方だ。信念や欲求に関する命題的態度(「彼には恋人がいると信じる」や「彼女とデートすることを欲する」など)は素朴心理学の誤りの代表例である。こういった心に関する日常的な思考法は間違っているとしたのがチャーチランド夫妻などによる消去主義である。素朴心理学に変わる新たな(心理学的)理論は脳科学の成果を参照にして作るべきだとしている。ただし、その新たな理論がどんな理論になるかは今のところあまり見えてきているとはいえない*3

内在主義への批判

それまでは心の内部で起こっていること(例えば計算)に注目されていたのだが、今度は外部の環境にも注目されるようになった。意味は頭の中だけで作られるとする内在主義に対して、外界との関係によって意味は生じるのだとする考え方が現われた。そこで出てきたのが外在主義や目的論的機能である。極端に入出力しか見ない表象的機能主義に見られる内在主義を批判した。外在主義を提唱したパトナムは、言葉の意味は自然的世界を参照しなければ分からないとした(双子地球論)。その後、バージは文化的世界への参照の重要性を指摘した(外界を参照する広い内容と心的状態だけを見る狭い内容を分ける議論もある)。さらに、ドレツキやミリカンは意味は進化上の過程において生物が生存するための目的に依存していると考える目的論的機能を提唱した(ドレツキによる表象の因果説には誤表象問題(選言問題)による批判があり、ミリカンは表象の消費説をとることでそれを乗り越えたが説明できる表象が狭くなったという副作用も伴っている)。どちらも意味は進化上の過程や文化内の経験に依存していると考える点で、外的環境を重視している。ちなみに、過去の環境しか参照しないパトナム・バージ流の「消極的外在主義」に対して現在の環境を重視する「能動的外在主義」(力学系アプローチとも関連)は知覚の表象説批判(つまり知覚とは外界の写しであるとする考え方)とも関わりを持っている(知覚問題は心の哲学のネックでもある)。

最近の展開

近頃は意識に関する議論が盛んで様々な説が行き交うが、これは心身問題を直接に扱っている点で形而上学的だ。しかし、そのような形而上学的議論そのものへの懐疑もあり、そうした形而上学的問題は誤った言語の使用による錯覚とされる。また最近では、心の哲学に対して自然主義や常識主義をとる哲学者もいる。しかし、それらは他の説を取れないことによって消極的に支持されていることが多く、積極的な支持説の展開を見ることはまれだ。だが、その立場も突然に採られたものではなく、過去の説の発展から生じた結果である。

  • 各種の原典について知りたい方はこちらを参照

チャーマーズによる心の哲学アンソロジーの目次(英語)

*1:正確にはスキナーワトソンの提唱した方法論的行動主義を批判して徹底的行動主義を提案していたのだが、英語圏の哲学ではスキナーワトソンも方法論的行動主義と一括することがあるのでとりあえずこのままにしておきます(コメント欄でのblupyさんのコメントも参照)。心理学的行動主義という呼称も同じ意味ですが、個人的にはこちらの方が害がより少ない言い方だと思います

*2:ちなみに、素朴心理学を理論としてみるのが他者の理解に関する理論説であるのに対して、他者の理解は他者を心に思い描くかのように可能だとするシュミレーションによる批判もある

*3:比喩的に言えば、消去主義が目指すのはハードウェアのレベルの記述である還元主義ではなく、(素朴心理学のような)高級プログラミング言語での記述に満足せずに、(コネクショニズムのように)より低級なプログラミング言語による記述を目指せ、というところだろう

blupyblupy 2008/12/14 00:18  最近発見して参考にさせてもらってます。
この項目においては瑣末なことですが、行動主義に関して間違いがあるので指摘を。
 まずワトソンは、方法論的行動主義でいいのですが、それは客観的科学としての心理学を打ち立てるため、操作可能な環境事象と観察可能な行動事象を重視する立場です。さらに、トルーマンやハルらはパブロフのS-R図式に対し、仲介数Oを導入してS-O-Rの方法論的行動主義に拡張します(ふつうはこの立場が方法論的行動主義)。
 一方、スキナーはそうした操作主義や論理実証主義に対して、皮膚の下の行動としての私的事象(private event)の取扱いを提案します。この私的事象はややっこしいんですが、感情、意識、記憶といった心的概念とは異なり、個人が感じることで一般化できないことです。つまり、頭の中で思ったことも、皮膚外の反応同様、行動の原因(もしくは媒介変数)ではなく、環境的要因により左右される行動として扱うべきだとしました。(たとえば「怖い」は「逃げる」同様に、「クマの出現」にっよって起こる)
スキナーが説いたこれが徹底的行動主義で行動分析の立場です。

 したがって、ふつう「入出力間の介在を一切許さない」のは方法論的行動主義じゃなくて、徹底的行動主義です。
 頭ん中の出来事について、整理すると、一切認めないのはワトソンで、トルーマンらは媒介変数(O)として、スキナーは私的事象という行動(R)として認めています。

deepbluedragondeepbluedragon 2008/12/15 02:29 コメントありがとうございます。大変参考になります(特に私的事象が参考になりました


とはいえ、これが心理学の説明なら問題がありますが、これは哲学の説明なのであまりそうでもないと思います。例えばサール「Mind」を参照してください。哲学の行動主義と対比させる意味で心理学の行動主義を軽く紹介しているだけです。それに(古典的またはオペラントの違いはあれ)条件付けという方法が用いられる点は共通です。また、トールマンはむしろ認知革命に影響を与えたのですが、そこまで触れるとややこしいので触れていません。あくまで大雑把な図式的説明として捉えてください。正確さは求めると切りがないです。

あとコメントの最後の部分、一切認めないのはワトソンなのかスキナー(徹底的行動主義)なのか分かりにくい書き方ですね(私は両方だと思いますが。私的事象は媒介じゃないんですよね)。それから、理論としての行動分析と方法としての条件付けは分けた考えた方がいいと思いますが、この話は面倒なのでしません。

blupyblupy 2008/12/16 23:25 >これが心理学の説明なら問題がありますが、これは哲学の説明なのであまりそうでもないと思います。
 だったら「心理学の行動主義」程度でいいと思います。方法論的行動主義を出すなら、対概念の徹底的行動主義に触れないのはおかしいし、触れなくても混同するのはあまり生産的ではないはずです。

>あとコメントの最後の部分、一切認めないのはワトソンなのかスキナー(徹底的行動主義)なのか分かりにくい書き方ですね(私は両方だと思いますが。私的事象は媒介じゃないんですよね)。
 わかりづらい書き方ですいません。媒介変数としても、研究対象としても一切認めないのはワトソンだけです。スキナーは、研究対象としては認めています。私的事象(私的出来事と訳すほうが主流みたいです)は心的概念、媒介変数でないけれど、行動として制御できるからです。
 たしかに、スキナーはワトソン同様媒介、構成概念としての心は認めません。私的事象は、個人が感じたり、思ったりしていることで、観察不可能で一般化できるものではないとされました。個人では自分のなかに起きていることが分かる場合もありますが、それは他人からはわからない。もちろんそれをもとに言語を発することはできますが、それをきいても他人は、もとの自分が感じてた通りものはわからないわけです。
 しかし、私的事象は、先に書いたように認知系の人たちのように原因、媒介変数としてではなく、「皮膚の下の行動」としてなら制御される対象であはありえるとスキナーは考えました。つまり目に見える行動と同様、目に見えない行動も環境を変数として制御可能だとした。たとえば「眼飛ばされ⇒むかついたから⇒殴った」のではなく、「眼を飛ばされ⇒ムカついた、眼を飛ばされ⇒殴った」と考えれば、眼を飛ばさないことで、むかつき行動も殴る行動もなくせるわけです。徹底的行動主義は行動の概念を皮膚の内側まで徹底したという意味です。

deepbluedragondeepbluedragon 2008/12/17 01:00 >だったら「心理学の行動主義」程度でいいと思います。
しつこいようですが、サール「Mind」を参照してください。個人的にはblupyさんの意見は正しいと思いますが、別に私だけの特別な意見としては書いていません。サールは(混同は不当かもしれないことを認めた上で)教科書的な説明だと言っています。

あと、徹底的行動主義も介在を認めないのだから、どっちも媒介は認めないとはっきり言ってください。ただ、ワトソンよりもスキナーの方が行動と認める範囲が広いということですよね。blupyさんの書き方はまだ混乱してます。おそらく私的事象として神経活動を扱っているのが行動神経科学ですよね。ただし、認知系と違って神経活動を計算的には考えないとは思いますが。でも、脳の細胞記録(例えば方向検出器)は認知系の研究として初期から認められているので、境界がどこかにあるのかは私にもよく分かりません。

というか、ここまで書いた上でコメントを再びよく読むと、目に見えない行動(観察不可能で一般化できるものではない)が研究対象になると言っているように思える。これじゃまるで私的事象はクオリアとそっくりじゃないか!すいません、ますます訳が分かりません。この説明からでは徹底的行動主義が科学なのか疑わしく思えてしまう。どうか前節で書いた私の説明(私的事象=神経活動)が正しいと言ってください。でないと、私は徹底的行動主義への批判者にならないといけなくなってしまいます(できれば、そういう面倒はしたくないです)

deepbluedragondeepbluedragon 2008/12/18 00:27 補足です。

http://philosophy.uwaterloo.ca/MindDict/behaviorism.html
まず、心理学的行動主義(psychological behaviorism)と方法論的行動主義(Methodological behaviorism)をほぼ同一視して説明しているサイトにリンクしておきます。ある教育機関のサイトの署名つき記事なので信用できると思います。実は私自身は前者の言い方を好みますが、少なくとも二つの呼称の混同が英語圏でされているものであることは分かってもらえると思います。

http://en.wikipedia.org/wiki/Radical_behaviorism
徹底的行動主義については、初めは日本のウィキペディアを見ましたがあまり参考にならなかったので、英語のウィキペディアにつないでおきます。私的事象は本当に思考や感情のことらしい。ただし、ワトソンと違って存在を認めるとはあるが、どうやって私的事象を研究対象にできるのかは相変わらず謎のままだ。でもどうやら(とりあえず行動分析学を脇に避ければ)厳密な科学であるという行動主義に対する私のイメージは変えなくてもよさそうだ

blupyblupy 2008/12/23 10:43 >あと、徹底的行動主義も介在を認めないのだから、どっちも媒介は認めないとはっきり言ってください。ただ、ワトソンよりもスキナーの方が行動と認める範囲が広いということですよね。
 そのとおりです。どっとも媒介は認めないという意味で書きました。
>目に見えない行動(観察不可能で一般化できるものではない)が研究対象になると言っているように思える。これじゃまるで私的事象はクオリアとそっくりじゃないか!
やはりそうですよね。私も実はかなり近いと思ってます。ただスキナーの場合は、観察できない内部のことはすべて私的事象としてる点が話をややこしくしてます。思考とか感情とか機能主義みたいに一般化できる部分をそもそも認めないので、目にみえない内部としてはクオリアしか認めないということになります。自分自身において感じたり、考えたりしている現象が確かにあるが、感情とか思考とか他人にも当てはまる一般化されたものはないという立場です。紛らわしいが「考える行動」はあるが、「思考」という名詞はないのです。(だから上のwikipediaは間違い。参照:スキナー「科学と人間行動」)

上のワシントン大学?のやつは、スキナーがワトソンの弟子になってたりしておもしろいですね。
行動主義の理解については、日本の心理学史の教科書(正確だったのは大山正氏のくらいか)はほとんど間違ってるし、欧米の相当有名な認知科学者でも誤解してたりしますね。行動系の人で認知の勉強もしている人が結構いるのに残念な状況です。

blupyblupy 2008/12/23 11:01 私的事象を研究対象とすると科学でない、というのはまさにそのとおりだと思います。
スキナー自身は、自分自身をつかって自分にしか当てはまらいこと研究することを提案していることからわかるように、学問としてがちで研究対象としてるわけではないです。私的対象はその存在を指摘できるが、それが一般にどうゆうものか研究できる性質のものではないですから。
 彼自身は、研究対象を観察可能な行動に限定した実験的行動分析を創始し、これが現在行動分析の主流です。上の、内部を研究対象とするというのと矛盾するようですが、私がいいたかったのはスキナーの主義・理論には私的事象として内部のことも組み込まれているということです。

deepbluedragondeepbluedragon 2008/12/24 02:02 blupyさん、またまたありがとうございます。大変参考になりました。

blupyさんが、私的事象がクオリアとそっくりであることを認めてくれてホッとしています。もしかしたらblupyさんは行動主義狂いじゃないかと疑ってもいましたが、思っていた以上にblupyさんが冷静な人であるのを知って安心しました、私は心理学出身なので授業を通して行動主義のことは知っていましたが、それさえ間違った理解かもしれないことは驚きです。

ただ、科学としての認知科学にとって調べられえないクオリアがどうでもいいように(クオリアで騒ぐのはほとんど哲学者です)、科学としての行動主義にとっては私的事象は単なるスキナーの主義であって別にそれがなくても特に困るわけではないですよね。認知系の人にとってクオリアを信じるかどうかは個人的信念の問題に過ぎないのと同じような気がします。

あとそれから、行動分析学には科学としての側面と心理療法としての側面が混ざっている感じがして私には受け入れにくいところがあります。この辺りについてblupyさんにお聞きしてみたい気もしますが、お忙しいでしょうから無理にはしようとなさらなくても大丈夫です。ただちょっと以前から疑問に思っていただけです。
ぜひ、また気が向いたときにでも何か書き込んでくださればうれしく思います。
では、メリークリスマス!

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