蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- このページをアンテナに追加 RSSフィード

2006-07-07

[]日本は一次観察と二次観察とが乖離した不毛な空間

「サードオーダー」問題に関連する文章を書きました http://www.miyadai.com/index.php?itemid=365に関連させて…。分かりやすく言えば、一次(ファーストオーダー)の観察とは現実への観察であり、二次(セカンドオーダー)の観察とはその観察の仕方への観察である*1。例えば、マスコミが行なう事件の報道そのものは一次観察であるが、それに対してマスコミ報道する事件は偏っていると批判をするのが二次観察である。科学世界で言えば、実証研究は一次観察であり、理論研究は二次観察である*2。普通は一次観察と二次観察とがお互いに依拠しあうことによって進展する。

正確には、日本には一次観察と二次観察もろくな形では存在しない。例えば、経験主義の英米系は実証研究による一次観察が盛んで、理性主義の大陸系では理論研究による二次観察が盛んだ。しかしどちらにせよ一次観察と二次観察、つまり実証研究と理論研究とはお互いに関連しあっている。それに対して日本では実証研究と理論研究はすっかり全く別々のものだ。特に日本の学問システムは、実証研究と理論研究とが別々に無関連にあって共存することで成り立っている。これなら他人の批判もしないで済むが自分への批判もなくて済む。日本の実証研究は外国から形式だけを厳密に借りてきて行うことも多い。それに対して理論研究は外国の文献や用語を(日本の)現実とは無関連に参照し続けることが多い。理論研究とは本来は二次観察(実証研究への観察)であるべきだが、実際には外国の文献や用語への一次観察に過ぎないのが実情だ。じゃあ実証研究がましかと言われれば微妙である。だいたい日本の実証研究の良さは職人的な現場主義にあるのだが、しかしそれは同時に二次観察のろくにないことによる効率の悪さをも引き起こしている。日本にあるのはベタベタな一次観察か、現実に基づかない言葉による二次観察もどきしか存在しない*3

別の形に変奏させよう。日本には意識レベルにおいて無自覚型と自意識型がいる(宮台真司が言うところの内在系と超越系の言い換えだと思ってもいい)。無自覚型はともかく根っから懐疑心に欠けており、自分の価値観または一般的に受け入れられている価値観を疑うことがない、一言で言うと想像力がない(日本のネオリベはその典型)。自意識型は説明するまでもなく日本の古典的な文学青年タイプだ。あれかもしれないこれかもしれないと悩み続ける(日本の文系学者や評論家に多いタイプかな)*4。無自覚型と自意識型の対立は一次観察と二次観察の対立にそのままつながる。自分のあり方への根本的な反省に欠けたつまり決まりきった一次観察しか存在しない無自覚型と、現実とは無関連に自分のあり方への反省ばかりするつまり現実に基づかない二次観察ばかりする自意識型と。無自覚型と自意識型をつなげる、つまり一次観察と二次観察をつなげる超越論的レベルは日本には存在しないと言っても過言ではない。

一次観察と二次観察とは互いにつながりを持つことで調整弁の働きをする。しかし、日本にはそれはない。だから日本ではちょっと条件が悪くなると(無自覚型と自意識型とに関わらず)超越論的な外部を外側に探す人が増えてくる。かといって、日本の中にいると個人で超越論的内部を持ち続けることは困難だ。それは日本社会の構造自体に超越論的レベルを持たないことに起因する(つまり一次観察と二次観察とにつながりがない)。日本では誰もが無自覚型か自意識型かでいるしかない*5でもやっぱり日本では個人で超越論的内部(サードオーダー)を求めることしか道がないのかもしれない。しかし、宮台真司が言うところの免疫を獲得したコミットメントをしようにも、そもそもどこで免疫を獲得・保持すればいいのか分からない。日本ではコミットメントして入り込んじゃうと免疫は失われる。日本には意識を文化的コミュニケーションに逃がす手もあるが、それははたしてコミットメントと呼べるのやらなんやら。

ところで、宮台さんの文章にあるアリストテレスの「観照(テオリア)」はハイデガーによる言及と関係させないと理解されないんじゃないの?アリストテレスは初期ギリシアではないし、観照(テオリア)も単なる客観的観察と区別出来る人はほとんどいないと思う。

*1:言っておくが私はルーマンに詳しくわけではない。便利だからルーマンの用語を用いているだけだ。そういう点からこの論考を突っ込まないように

*2:実際には理論研究も文献への観察という点では一次観察といえる。その観察が一次か二次かは相対的に決まる。先走ってしまうと、本当は三次観察(サードオーダー)は現実的にも理論的にもありえない。この三次観察の概念そのものをアイロニーで理解すべきだろう、たぶん

*3日本の政治や行政があまりまともに科学的成果を参照しないのも典型例か。たとえ参照しても自分の偏見を保つのに都合のいい科学的成果だけを持ってくる。そこでは科学における反証可能性の原理が理解されることはない

*4:大人になればそんな極端なあり方からは回復するが、無自覚型の傲慢なあり方に比べればいつまで経っても社会への馴染めない感が続く。一生を(多かれ少なかれ)モンモンとして暮らすのがオチか

*5:後は文化に走る道が日本には昔からあるが、これで問題は解決しない。ちなみに私自身はこっち。

hyhy 2007/03/10 06:43 今日本の産業界のふんずまっている状況をどうにか打開する道を考えていますが、そのときよく分からずにルーマンと社会システムとエンゲルバートのABCを繫げることで皆に分かるパラダイム転換モデルが出来ないかと(現場から)考えています;
http://home.m04.itscom.net/hhomey/abc_luhman.html
http://home.m04.itscom.net/hhomey/engelbart2.html

そのとき1次観察と2次観察の概念がとても重要と感じていたのにもかかわらず、そのところがはっきりしませんでしたが、この論文を読ませていただいて大変すっきりしました。それと今僕の持っている問題に照らしてこの論文は極めてピッタリきます。つまりここに書かれていることは極めて現実問題として理解される必要があり、是非現実の行動へとベクトルをとっていただきたく語期待申し上げます。

hyhy 2007/03/12 22:33 http://home.m04.itscom.net/hhomey/memo070312.html
こういう図ができました。ありがとうございました。

deepbluedragondeepbluedragon 2007/03/13 02:05 図だけだと意味が分からないので、なんか文章も書いてくれるといいですね(正直コメントのしようがない)。さらにもう一つの参考になる文献としてグレゴリー・ベイトソンの著作もあります(これは宮台真司も薦めている著作です)。あと個人的な意見では、あっちこっちに手を出すよりも、本当に価値のある文献をきっちりと理解する方が得られるものが大きいと思います(未知の分野のときはあっちこっちの入門書を読む手もありますが)。これからのご健闘をお祈りします。

hyhy 2007/03/23 21:23 ありがとうございます。僕の方は情報産業を通して産業界のパラダイム転換をどう現実的に行動に移すかを考えていて、そのためには経営を認識論的に捉える必要がある、と認識論も良く知らずに感じています。そこに哲学的なステートメントの裏打ちが必要になっていて、勝手な解釈でいろいろつまみ食いをしています。上の話はまさに問題の実感そのもので利用させていただきました。ベイトソンや特に小室直樹は勝手な解釈で参考にしていますが、こちらの論文にも期待します。そちらのお役には何も立てなくてすみませんがよろしくお願いします。

hyhy 2008/05/06 10:53 哲学や社会学の専門家が現場へ向けた発言を渇望して、蒼龍さんのいろいろなご意見は何かしらつながりそうだ、との感触を持つのですが、こちらからの接続は能力不足です、そこで、反対に、ここでの観察を一歩進めて、なぜ日本人は1次観察と2次観察に繋がりを持たないことになっているのか、日本で個人が超越論的内部(サードオーダー)をもつようになると、なぜそれがつながりを持つようになるのか、それにはなにをどうせねばならないのか、その辺は蒼龍さんのご興味の対象外なのでしょうか、あるいはどこかでご意見を述べられているのでしょうか。僕にはそれは先天的な日本人種の持つ特徴ではなく、戦後の産業体制の欧米後追いの社会システムにあると思われていて、それをどうにかするには現場をどうにかするではだめで、哲学的社会学的見地からのトップダウンが必要だと感じているためのご質問です。

deepbluedragondeepbluedragon 2008/05/07 01:05 お久しぶりです。

日本人なんて自然種は存在しないって話は置いといて、(状況が変化したのに)日本の戦後体制が継続していることに問題があるという意見には共感します。でも正直なところ、ここ(ネット)でいくら大層な意見を言っても、それこそ現実には何の影響もないと思います。興味がないのではなく、ネットでのおしゃべりに巻き込まれるのにうんざりなんです。私はご神託を受けられるわけではないですから、自分でじっくり考えるしかないのです。

日本の近世からの歴史とかシステム論の問題とか、いろいろと書こうとしましたが、(途中まで書いてから)書き終わるのに時間がかかりそうなことに気づいたので、とりあえず省略します。それなりにまとまったら出します(まとまらなくても何とか適当に切り上げるつもりです)。

一つだけ言えることは、実際にその現場にいない人が現場へ向けて何を言っても余計なお世話にしかならない(日本の上司?)。もしサードオーダーを持つと言う言葉に意味があるなら、現場にいながらにして現場に埋もれないで思考できることでしかないだろう。残念ながら、私自身でそれができているとはとても言えない(ただし、それをできている人がいるからってその人がそれをうまく言葉にできるかは別の話だが。言うことと行なうことは別の能力だ)。

hyhy 2008/05/07 17:42 >言うことと行なうことは別の能力だ。
 一年前の蒼龍さんのこの評論は、僕ら情報技術関係者(の少数派)がいろいろこの20年を経験し、観察してきて、考えて、問題の焦点となってきた部分を、きちんと社会学的な言葉でまとめてくれていた、ということです。僕らはここで問題にされていることについて、どう説明すれば「現場」が動くのか試行錯誤中ですが、この評論のような現場感覚を持ったプロのまとめは、頭脳の延長となったITシステム分野の「現場」には蒼龍さんが考えられている以上のニーズが出てきていると思います(今のところはまだ少数ですが徐々に根を下ろしてきています)。飢えた市場を前に、誰でもほしがることが分かっているものを高品質低価格で出すことが国家的な運営フレームとなっていた時代には考えられなかったことで、この古いフレームワークにおける「現場」こそ、2次観察、そして2次観察者のプロを排除してきたのではないかと思います。

>現場にいながらにして現場に埋もれないで思考できることでしかないだろう
 あまりの「現場」のひどさに、思考とまで行かなくても、ある種の感性を持つ人々が現場をゲリラ的に暴いているのが今の日本の「現場」ではないでしょうか。しかしそのような「現場」をもう一度秩序ある形でまとめるにはそれこそプロの言葉が大事です。現場感覚をもった2次観察の復活、そして一次観察と2次観察の連携を取り戻すことの一つのきっかけは、2次観察をアマチュアとして持つ現場とプロの2次観察者の言葉によるまとめがあって初めて社会的なパラダイム転換へ向けた運動になると思います。「現場」だけではとても無理です。

>日本の近世からの歴史とかシステム論の問題とか、いろいろと書こう
>としましたが、(途中まで書いてから)書き終わるのに時間がかかり
>そうなことに気づいたので、とりあえず省略します。それなりにまと
>まったら出します(まとまらなくても何とか適当に切り上げるつもり
>です)
 僕らの方はシステム論でこの評論で言われているところが問題となります。インターネット以前の世界ではコミュニケーションを物理的に集まってとっていたために、「人」が中心になって国家をはじめとした組織化が行わていたために、人によるハイアラキーが全体統治の軸となっていました。ところがインターネット時代には人の考えがリアルタイムで物理的なフレームを超えて、自由に飛び交います。新しい世界では好むと好まざるとにかかわらず、多様な考えに秩序を持つ必要があります。その時には思考上のハイアラキーが必要で、そのコネクションこそをシステムと考える必要性がると情報の「現場」からは考えています。そのような新しいシステムにおいては哲学者や社会学者も住んでいる世界の抽象度は違っても、各役割において「現場」となるはずに思えます。その時に必要な現場感覚は逆説的ですが、「実際にその現場にいない人が現場へ向けて何を言っても余計なお世話にしかならない」ということですが、そのような感覚を持った方にこそ、「現場」に降りてきていただけると、僕らはそれを利用できて助かるという現状です(われわれの方が、現場を伝える努力をまったくしてこなかったつけが回ってきていることは確かなのですが)。ご無理のない程度に、断片的にでも何かお書きになる事を期待します。

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