2009-06-28
■樫村晴香「ドゥルーズのどこが間違っているか?」の私的要約
分裂病(強度)と神経症(抑圧)が善と悪の戦いに重ねあわされるグノーシス的世界観(ニーチェをプラトンに対置し闘わせる)。ドゥルーズは新たな世界観(幻想)を提示してしまっている点でニーチェとは異なる。ニーチェの哲学者への態度は憐憫だが、ドゥルーズは批判に留まる。ニーチェが自己に魅惑されているのに対して、ドゥルーズはニーチェの観念に魅惑されている。永劫回帰を抑圧なき幻想とすることは、ニーチェのハイデガー化でしかない(想像が象徴化される)。ニーチェは体験する人だが、ドゥルーズは読む人である(哲学書を小説のように読む)。実在的層と潜在的層の間を循環する対象=xという構成は現実界と象徴界に関するラカン(およびベルクソンの純粋過去)に由来する。「世界の外から来る」ものとしての不吉な反復はあらかじめ意味づけられた「謎」として提示される(倒錯!)。これこそがドゥルーズの哲学的統一を可能にしている方法論である(異なる哲学説を無理やり結び付けている)。むしろ小説の言葉相互に生じるズレ(微分)への感覚こそがドゥルーズの真骨頂であり、よって患者の苦痛によりも捧げられた苦痛へと関心が向かう(苦痛は読み取られる)。ドゥルーズの理論は小説世界の再演であり、それが神経症的な現実と同格に論じられると誇大妄想に近くなる。身体‐運動野(他者への叫び)と言語野(意味)の離接関係はまだ十分に探られていない。
- 参照したサイト
樫村晴香「ドゥルーズのどこが間違っているか?」(http://www.k-hosaka.com/kashimura/jiru.html)
■de dict様相とde re様相の中世哲学的起源
結合的意味と分離的意味の差異はpossibile est album esse nigrumにおいても、これが「白いものが黒いことは可能である」と「白いものは黒いことが可能である」の二様に解されるというように、まったく同様に成り立つ。結合的意味ににおいては「白いものは黒い」と記述される事態の成立が可能であるということになり、これは偽である。しかし、分離的意味においては現に「白い」と記述されているものについて、「黒いことが可能だ」と言っていることになり、これは真である。現に白い人も、日に焼ければ黒くなるかも知れないからである。
このように結合的意味と分離的意味は、一般的に様相命題の論理構造に関して、様相の掛かり方をどう解するかについての二通りの解釈として提示され得るのであって、この区別が中世論理学に由来するde dict様相とde re様相の源泉となる。結合的意味は「白いものが黒いこと」(album esse nigrum)という言語表現(dictum)全体に様相が掛かっていると解し、分離的意味で「白い」と言われるものに(de re)様相が掛かっていると解するものにほかならないからである。
清水哲郎 「オッカムの言語哲学」(ISBN:4326100850)p.171-2より
神の予定に関する命題「予定されている人が(は)滅びる」に関する議論もあるのだが、それは省略。(形式意味論の前提ともなる)可能世界意味論にも関連して。とはいえ、形式意味論についてはマニアックすぎてここで何か書けるか分からない。
- 参考サイト
クリプキの「信念のパズル」
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/tokusyu/2003ss/2003ss08Kripke.htm
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/tokusyu/2003ss/2003ss09Kripke.htm

