身体化論をテーマ別に分類してみる

私は身体化論に厳しいと書いたが、それは私が身体化論が嫌いな訳ではなく、むしろ元々は身体化論には好意的だったので一通りの知識は持っている。ただ翻訳されたノエ「知覚のなかの行為」を読んだ辺りから疑問を感じ始め、その後ネットで哲学者による身体化*1の論文をよく見かけて読むようになって、その不毛さにゲンナリするようになった覚えがある。2008年段階で心理学者Barsalouが「Grouned cognition」ですべての認知活動に身体が必要だとする考え方を無理があるとして批判しているが、まさに最近の身体化論はそうした極端さ(radical)を自称しており、その認知科学に対する革命家気取りの哲学者にはウンザリしかしてこない。
そういう事情もあって身体化論について書くことには躊躇があった。その中にあって「Dynamical systema and embedded cogniton」はドレイファスからノエに至る古典的な身体化論に一通り触れて概観している論文として気に入っている*2。この論文では身体化論をsituated action , embodiment , dynamicsの3つのアプローチに分けて説明しているのだが、embodiment(身体化)は全体をまとめ上げる上位概念として残した上で分類した方がいいのでは…と考え始めたのだが、それを記事としてまとめればいいんじゃないかと思うようになった。どうせ最近の価値の感じられない哲学的な身体化論なんて勉強する気も書こうとする気もどうせ起きないんだから、そんなのは無視しても問題なかろう。あえて言えばアンディ・クラークの身体化された予測符号化は一部の科学者に注目されているが、私にはどうもピンとこないし、どっちにせよ評価は定まってないのだからそれは脇においても構わないだろう*3。古典的な身体化論の分類だけでも、現在への影響を考えても十分に意義のあることだと思うようになった。

身体化論とは何か?

身体化論ってのは正確に定義しようとするとよく分からない(というか論者によって違う)のだが、大雑把に言って認知(心的活動)には身体が大事であるとする考え方ぐらいで構わないだろう。元々は古典的認知科学への批判として別々に出てきた様々な関連したアプローチがあって、後からそれらが身体化としてまとめられるようになった。そうなるようになった最大のきっかけはやはりヴァレラら「身体化された心」である。これが翻訳された当時、私は噂では知っていたが内容を知らないでいたのがやっと読めるようになって大喜びだったのだが、これが読んでみるとすっかり夢中になってしまった。その理由の一つとしては、この本の最初には(おそらく主にヴァレラ自身によって)この本が出版された当時の認知科学の一通りのアプローチが整理されていたことがある。今に至る私の認知科学理解の基盤はここにあったと言っても過言ではない。正直、具体的な理論としてはそれほど見るところはないが、その見事な整理と議論は舌を巻くしかない。最近の身体化論が駄目なのはヴァレラ程の認知科学への理解と整理力がないせいだろう。という訳で、ヴァレラらの本はこれから述べる下位分類ではなく、身体化全体を象徴するものとする方がいいだろう。

生態学的・状況的アプローチ〜環境の重視

身体化論の先駆者としてまっさきに思いつく学者の一人にJ.J.ギブソンがいる。ギブソンの成果をきちんと説明するのは大変だし、そのすべてを今でも(科学的に)受け入れられるのかも疑問だが、やはり生態学的(ecological)アプローチの提唱はその後に大きな影響を与えた。それとは別に主に人類学者(LaveやHutchins)によって認知活動にとっての文化的の環境の重要性を主張した状況的(situated)アプローチもあり、環境の重要性を強調する点で生態学的アプローチと共通点がある。心の哲学的には延長された心(ClarkとChalmers)が心が頭の外に広がる環境にまで広がっている事を論証している。こうした環境を重視するアプローチは身体化論者に好まれがちだが、科学的な位置づけは必ずしもはっきりしない。

イメージとシュミレーション

認知科学において早くから身体化を提唱した人物としてレイコフがいる。レイコフは言語におけるメタファーの重要性を主張し、空間のような具体的なイメージがより抽象的な概念的考え方へと適用の拡張が行われるとした。ここで重要なのは感覚-運動的なイメージが中心に置かれ始めたことである。
身体化論者が好む典型的な成果の一つにミラーニューロン(システム)がある。このテーマについては科学的に論ずべき点はたくさんあるのだが、(詳しくは省略するが)模倣研究や心の理論研究などへと研究的に広がりを持っている。特に心の理論研究では(理論説と対照的な)シュミレーション説を支持する理由としてミラーニューロン(システム)がよく挙げられる。心の中での身体イメージのシュミレーションが注目されているが、Barsalouは概念の理解に感覚-運動的イメージのシミュレーションが働いているとした。レイコフの理論においてはまだ概念同士の関係に留まっていたが、Barsalouにおいてはより具体的なイメージが働いているとした。そこには認知科学におけるイメージの位置づけの変化が現れている。
認知科学には昔からイメージ-命題論争というのがあって、人が実際に具体的なイメージを働かせているのかどうかが議論されていた。それが脳イメージング研究の進展により、知覚する時とイメージする時とで同じ脳部位が働いていることが発見された。そのことにより命題派に対するイメージ派の優位性が明確になった。これは直接的なイメージの研究だけれど、心の理論や概念理解のようにイメージ(シミュレーション)の潜在的な役割へと研究が拡大していっている。

ダイナミカル・アプローチ

必ずしも広く知られているわけではないが、身体化論としてダイナミカル・アプローチが挙げられることもある。有名なのはThelenとSmithのdyanamical systems approachである。一言で説明すると、心的活動の発達過程は直線的なものではなく、局所解にはまらないように一時的に退くこともあるようなダイナミックな動きをとりうる、という考え方をする。同様に、心的過程のダイナミズムに注目した哲学者としてvan Gelderがいる。
身体化論としてダイナミカル・アプローチが取り上げられることはよくあるが、実際にダイナミカルな例としてよく取り上げられるのはコネクショニズム(ニューラルネットワークに基づく考え)である。明らかにそれを元に言語習得に当てはめて議論したのがElmanらである。ニューラルネットワークへの注目という点ではEdelmanも含めていいかもしれない。ダイナミカル・アプローチはたしかに重要だが、身体との関係は否定はできない(むしろ相性は良い)がそれをどこまで全体化してよいかは実はよく分からない。コネクショニズムの身体化との結びつきは重要かもしれないが、必然的とはまだ言い難い。

具体的な世界の中での行為

具体的な世界の中での行為(action)を重視しているのは、最も初期の古典的人工知能への批判で有名な哲学者ドレイファスである。実際の状況の中で動くロボット研究を提唱したブルックスやブライテンバークの成果も、古典的人工知能への批判という点で共通している。前者は熟達者研究へ、後者は近年のロボティクス研究へとつながりを持っている。ただ熟達者研究は自分が認知科学を勉強し始めた頃に本や論文で読んだ覚えがあって懐かしい感があるし、ブルックスのアイデアは虫の知性を超えないと批判されていたりする。しかし、(代表的な科学的成果を問われると困るが)近年になってこうした方向性のロボティクス研究が盛んなことだけは確かだ。

補足;感情と身体

最近の身体化論ではあまり言及されなくなったが、ダマシオはその本来の議論を考えると身体化論に入れてもおかしくないはずだ。しかしなぜかそうした文脈ではダマシオの名を見かけることはまずない。これは身体化論について多くを語る哲学者の勉強不足やご都合主義もあるかもしれないが、別の理由も思いつく。つまり、ダマシオは感情については泣くから悲しいと称されるジェイムズ=ランゲ説に立っており、それが身体と感情を結びつける基盤となっている。しかし、ダマシオの説にはそれとは別に現代の二重過程説につながる先駆的な成果という要素もある。二重過程説は近年は学問的なブームともなってもいるが、そこに身体化論は伴っていない。ジェイムズ=ランゲ説と二重過程説は別々の説であって、前者を前提にしなくとも後者を研究することはできる。つまり身体化論にとって残るのはジェイムズ=ランゲ説になってしまうが、それは必ずしも証拠によって支持しきれる訳ではない。要するに、ダマシオの説から意識を扱うややこしい感情(feeling)説が取り除かれて(脳を含む)反応だけ調べれば済む情動(emotion)論的な二重過程説だけが学問的に生き残ったと言える。身体化論について多くを語る哲学者がこうした事情に気づいているかはよく分からないが、扱いが面倒そうなことだけは確かだ。

おまけ;インターフェイス

これを一通り書いてみてから重要な文献を挙げていないことを思い出したと同時に困ってしまった。それはWinogradとFlores「コンピューターと認知を理解する」だ。ウィノグラードは元々有名な(古典的な)人工知能の研究者だったのが批判的立場に転向した人間だ。一応ハイデガーの影響などが言われてはいるがその実ドレイファスの説とはいまいち似ていない。エンゲルバートのIA(知能増幅器)と関連付ける人もいるが、ウィノグラードらが支援しようとしたのは会話であって知能ではない。何より最も困ったのが後への影響を感じさせるものがうまく見当たらないことだ。だからといってウィノグラードらのアイデアが無視していいどうでもいいものとも思えない。
これを理解するにはおそらくエンゲルバートとの比較が分かりやすいだろう。エンゲルバートの場合は個人の知的活動を支援するという点で個人の頭の中を扱う古典的認知科学の立場に近い*4が、ウィノグラードの場合は現実の世界でコミュニケーションをとる人々を支援すると考える点で確かに身体化に近づいている。そのアイデアの元になったのが「言語によって行為する」というオースティンの言語行為論のアイデアだ。エンゲルバートにおいては言語情報は真偽や論議といった直接的意味に関わるが、ウィノグラードにおいては言語情報は行為を起こすためのきっかけであってその本来の意味は二の次だ。こうした考え方は現代のアプリ開発とかにも応用が効きそうだが、それはもはやここでしたい話とは離れてしまっている。

おわり

心的活動における身体の重要性は認めるが、最近の(哲学的な)ブームでは極端に強調され過ぎなところはある。その中には科学的成果をあまり真面目に尊重せずにもっともらしいだけの思弁に走るものもあって、正直迷惑な部分もある(「The poverty of embodied cognition」も参照)。それに実際にはそれぞれのアプローチは様々に異なるのに、曖昧に身体だけが注目されすぎることでその多様性が見えなくなるのはもったいない。

*1:最近は関連した概念の頭文字を取って4e認知と呼ばれることが多い

*2:この記事のこれからの本文で触れる説のほとんどの原典がこの論文の文献表に載っている

*3:本文でアンディ・クラークに触れてないのは単に時期によってアプローチが違うからでしかない。知ってる範囲でもコネクショニズム、古典的人工知能批判、認知的ニッチ構築、予測符号化といろいろある。クラークのフォロワーにはうんざりしがちだが、クラーク本人の目ざとさは感心するしかない

*4:マウスのアイデアなどを考えるとエンゲルバートを素朴に古典的認知科学の側に分類するのが正しいかは疑問だが、ここでは議論の流れ上、彼らの目的に注目する